平成22年5月14日 校正すみ
四号生徒「冨士」
畊野 篤郎
富士の海軍生活は、兵学校の第31分隊4号生徒としてスタートした。同分隊の一号は獰猛で、われわれは大分殴られたのであるが、各学年とも、個性の強い人物が結構多かった。富士もその一人だった。
富士は、天性親分的資質に恵まれていた。些事に拘泥せず、いつも胎が坐っていて、一号を一号とも思わぬようなところがあった。
このような図太さというか、物おじしない剛腹さは、彼の大器ぶりを示めすものであるが、私などは、いつも羨やましく思っていたし、また、敬服するところでもあった。
富士は.堂々たる体格に恵まれ、腕力また抜群であった。陸戦訓練では、いつも真先きに三年式重機を担がされたし、宮島遠槽も一緒に漕がされた仲である。また相撲の強さにも定評があった。お蔭で相撲訓練期間中は、一号に殴られることがなかった。それは、富士始め久武や平川八郎の三人が一号よりも、圧倒的に強かったからだ。(ただし後日反動あり)
富士の最期は立派であった。ナニクソ精神を遺憾なく発揮してくれたのだ。私は、猛典先生の許可を得て、7月15日、押本夫妻と共に病室に見舞うことができた。その時は、もはやあと一両日でなかろうかと思われたのだが、彼はさらに5日も生き続けたのである。
そして懐かしの隅田川花火大会の翌日、全家族に見守られつつ、静かに息をひきとったのであった。これは、まさに猛典先生の卓越した処方、そして夫人の献身的看病によるはもちろんであるが、彼の不屈の精神力に基因するものというべく、多彩で光輝ある彼の人生に、まことにふさわしい大往生であった。合掌。
(なにわ会ニュース53号39頁 昭和60年9月掲載)