平成22年5月14日 校正すみ
クラス会はオアシス
加藤 孝二
昭和二十一年十一月頃? 浦賀の復員局出張所で郡の肝入りでクラス会があった。その夜は復員者用の二段ベッドに寝たが、大方忘却の彼方であるか二種類の発言は覚えている。
クラス会の在り方について
伊藤孝一(復員局勤務)
御遺族の方との絆を中心にしてクラスはまとまって行こう。
富士栄一(菓子屋の親爺)
クラス会は俺のオアシスである。市川くんだりから遥々来たのは、心の安らぎを得る為である。
以上の発言は四十年経過した今も続いている。
昭和二十年四月、再編成の攻撃第五飛行隊と偵察一〇二飛行隊は木更津基地にあった。共に台湾比島方面で消耗し、使用機を慧星から新鋭機、流星、彩雲に人員も各飛行隊から補充訓練中であった。
空襲が激しくなった六月頃? 居住地区を太田山地区に移転した時、どう云う事か飛行隊が異なるのに富士と私は同室になった。同期で共に若手飛行隊士の先任であった故か、兎も角二段ベッドの上段に富士、下段が小生であった。
七月戦勢は日に非、独伊は降伏、我々は恰も奥羽諸藩降伏、薩長土肥軍に囲まれた会津藩士の心境に似た様なものがあった。一〇二が敵発見、K五が攻撃をかける、両隊共に八月十五日午前中迄、戦死者を出していた。
七月二十五日 小生の記憶が間違いなければ、小出中尉(73期)、が初陣で敵機動部隊を発見、グラマンからの避弾運動の為、無線ポールを折って帰投、K五から、ベテラン搭乗員による薄暮夜間降爆攻撃隊が出た。富士の技偶がハワイ、ミッドウェイ以来の搭乗員に劣らぬものであった事をクラスとして誇りに思ったものである。(小出中尉は八月十五日の索敵で未帰還、クラスの門松は15日午後発進予定の特攻隊指揮官であった。)
「俺は考えてみると、そこそこの人生だったが、飛行機の操縦だけは本当に一心不乱にやったよ。ベテランの部下にも教えて貰った。何しろ命がかかつているからナアーフフフ」
と彼はよく誇らしげに述懐した。
宮地は積年の想いかなって二十年三月二日結婚、富士となる。当時はニューマリであった。N談(惚気話)はよく聞かされ、話が興に乗ると落ちはN談で終り、ニヤリとするのが常。
戦後は「もう分った、その先発言停止」とN談聞かされ役のベテランとなったが、当時は壮烈を極めたものである。何しろメ組の喧嘩じゃないが「ジャン」となったらお別れよ!
の毎日である。空襲で母堂と家を失った英子夫人は富士の実家の市川に移り、木更津に近い。度々の面会外泊。後はお手紙。
二段ベッドの上段で読み乍ら「ウフフ、ウフフ」と含み笑がもれる。「おい程々にしろ」と下から蹴り上げたら「オイ見ろよ」と手紙が下りてくる。それをまた忠臣蔵の由良之助の芝居の様に読んだ俺も馬鹿だった。富士の悪筆とは似ても似つかぬ美しい水茎で「カーッ」となったのだけは覚えている。
「貴様はあのKA貰ってよく戦争したな、俺なら脱走したかもよ、その点だけは貴様を尊敬する」・・・「ウフフ、意地だよ」
長男、彰夫君はその頃夫人の母胎に宿った美しい愛の結晶である。彼は40年前の今頃急降下爆撃で敵空母に命中弾を、返えす刀で味方空母に媛降下着艦を試みた。帝国海軍最後の名へルダイバーである。
戦後の社会体質になじみ難い者は期会に憩の場を求める傾向にあるが、彼は特に建設業界で働いた故か、晩年は憧憬とも云える程であり、彼程クラス会を楽しんだ男は少ないだろう。
富士の誤算は自己の体力の過信であった。高橋が驚く程の強靭な体を持ったが故に・・・
「オィ、仏の顔も三度だゾ」と何度云った事か、「一寸飲み過ぎたナア」と述懐した事が入院中一度あったが、やりたい事は皆やったと云う満足感の方が強かったらしい。(その満足感のある部分は夫人の並々ならぬ努力の上にアグラをかいていた感なきにしもあらずであるが…)
7月16日、高橋の電話で相澤、飯野、市瀬、大谷、押本、眞鍋、足立喜次、小生が集った。
最期に飲ましてやりたいと云う共通の想いが、長男、次男と主治医にあって三本のブランデーが用意された。各自が唇に含ませると、眠りから醒め、力を絞って大目をむき、「有り難う」と云った。その眼光は一号のお達示の如く辜煤Xとして澄んでいた。その夜は元気になり親子水入らずで歓談した。
翌朝、連続泊り込みの高橋の部屋に行くと、様子がよいからとのことで病室に行く。
「果物を(加藤に)出せ」「度々どうも有り難う」穏やかな顔である。「この期に及んで泣かせる事を言いやがる」と思っていたら「俺はもう酒止めた」と云った。夫人が「あら、加藤さんの前でお酒止めたって云ったわ」と喜ばれた。「もう遅えや」と思った。と同時に「酒止めた」と云ってくれた彼の餞の言葉に「富士、貴様は何て奴だ」とグッと来た。
茅崎CCでの禁酒禁煙の約束も二ケ月でパーだった我儘で憎めない奴。
胃手術後の麻酔で夢をみて、管が入っているのに起き様とする。周囲の者がおさえたら「馬鹿〃 加藤が其処に悲しそうな顔をして立っている。助けに行くんだ」と喚き、佐久間艇長の歌を歌ったとか、「今度はおでこに三角片をつけて見舞に行くか」と笑い飛ばしたが俺にはいささかショックだった。
二、三秒おいて「俺はもう長くないよ」とつぶやいた。後に夫人が居られたので俺は聞えないふりをし乍らコックリした。「貴様もうすぐ25日が来るぞ、頑張れや、又来るからナ」
以上が彼の意識がある間の最後の会話だった。
20日0730駈けつけた時は、意識はなかった。ただ夫人が枕元で「パパ」と呼んだ時、左の眸がピクツと動いた。
一〇一〇 家族と高橋、山田良彦等10名ものクラスに見守られ乍ら他界。
「やりたい事は全部やった」と云う男の顔であった。
流星の様に、太く、短く光り乍ら飛んで逝った。・・・・・寂寞の念にたえない
(なにわ会ニュース53号40頁 昭和60年9月掲載)