平成22年5月2日 校正すみ
足立 康君を偲ぶ
來島 照彦
去る5月20日、足立 康君が逝った。
かつて、冒がんと闘い、永い間病気に悩んでいたが、分隊会で毎年旧交を温める時には、元気だった。高血圧だったのか、服薬の故か、低血圧となり、再び高血圧となり、最後の病名は脳梗塞だった。呉の済生会綜合病院に入院してからは、ほとんど無口となったが、かねての「誰にも知らせるな」との日常の指示により、海軍その他への通知を止め、病院近くの玉泉院で近親のみによる葬儀を実施した。
以上は、夫人から聞かせて頂いたものであり、友人の一人として何も出来ず申し訳なく思っている。
海軍兵学校卒業後は.「伊勢」・「龍鳳」などで各地を転戦、戦後は「黒神」・「片島」・「80号」・「102号に乗船、掃海・航路啓開などで戦後処理に従事したうえで、福山の民間工場で親戚の手伝いをした後、昭和31年8月に海上自衛隊に入隊した。入隊が意外と後年になっていたことを知り、私は驚いたが、鋳物工場における器用さを生かした働きが、会社の引き止めになったのではないかと想像した。
海自においては.同じ海上職域であったが.近くで勤務したことが無かったので、海幕の人事記録を調査した。
護衛艦「あけぼの」・「かえで」の艦長のほか、掃海関係の配置が多く、「としま」艇長、第4掃海隊及び第27掃海隊の司令を歴任後、江田島の第一術科学校の教官をして、後進の育成に当たり。昭和46年2月に退官している。
1号生徒の時の係りは、休操係、水泳係で、それらの運動帽には黒い線が多く、うらやましく思ったものである。
運動神経は天性のものを持っていた。舞鶴に在泊した頃、街のダンス教室に通うことにした。しかし、月謝が必要となる。そこには弟子かいて、弟予は月謝不要であることに彼は着目した。そこで、「弟子入り」を申し込んだ。先生はしばらく考えてから、「そこを歩いてみる」ように言った。彼は言われたまま、そこを歩く。先牛は「よろしい」と入門を許可した。やはり想像のつかない踊りに恵まれた資質というものが世の中にはあるらしい。 その踊り、つまり日本舞踊・ダンスの指導で、後半生、生き甲斐のある毎日があったのであろう。
これは、分隊会の際の雑談で聞いていたこと、平野律朗君が知らせてくれたものである。
これは当然、夫人からお聞きした彼の思い出の中心となっており、住居近くの人達に頼まれてダンスを教える為、広い教場を造った由、しかし完成した頃から身体に異常が起き、結局ダンスの為の広いフロアーだけが残った。さぞや心残りであったろうヒ思う。
歌(カラオケ)も好きで.各地の大会に出て2位・3位の楯も多くもらったが、優勝はついに無かったとのお話を聞く。腕前いや実力は相当なものであったらしい。
今年度の43分隊会が、6月22日、東京台場のホテルで行われ、(渋谷信也、平野律朗、来島照彦出席)冒頭私から以上のような彼の卦報と思い出を述べ、参会者一同で黙祷を撞けた。「安立1号生徒は実に分隊会に熱心で.その熱意のおかげで分隊会が今日まで盛大に継続できた」とは、74期3号生徒を代表する形で森 重良君が寄せてくれた言葉であった。寡黙な彼が、分隊会の席上では、笑顔でよく歌い、フォークダンスのようなもので全員をリートするのか例となっていた。この会では、戦死、病死などで、会員自身他界している家の夫人や娘さんも多く出席してくれる伝統があるが、これらの女性人気の中心が彼であり、「分隊会に出るのか一番楽しい」と言っていた彼の笑顔が忘れられない。
一昨年の分隊会では、日程半ばに突然夫人と共に帰路についた。理由を質問しても無言。後日、夫人から聞いたところでは、突然体調が悪くなって、皆さんにご心配とご迷惑をかけたく無かったのですとのこと。
「他人に迷惑をかけない」
「見られたくない姿は見せない」
そうして、出来る時には
「周囲の人達を楽しませる」
現在の我が国の若者の活模範とも言うべき、寡黙な武人が逝ってしまった。
どうか安らかに眠り、日本の前途を見守ってください。
(なにわ会ニュース85号14頁 平成13年9月掲載)