93号
兵器学生の実態
山本 省吾
1 はじめに
去る五月十日、私たち兵器学生(正式には兵器整備学生)出身者の最後の全国大会を京都で開催した。兵器学生は十八年六月に初めて第一期生(おもに七十一期)が入校し、四期まで(しかも四期の七十四期生は在学中に終戦) の短い期間で、現存者は全員でも約八十名、その内、われら二期生の (兵)七十二期は十八名の入学生のうち、生存者は溝井、樋口輝喜(現在療養中)山本、コレスでは(機)片山、飯塚のみとなった。
当日、二期生は樋口を除く四名全員が出席し、本当に久し振りで旧交を温めたが、クラスの人々でも殆ど知らない兵器学生の実態を残しておこうと、古い記憶を辿りながら筆をとることにした。
他の諸兄のように華々しい戦闘場面に参加することもなく、次世代に備えて地道に黙々と勤務し、また比島山中や南方海域で志半ば、にして散華したクラス・メートのいることを少しでも知ってもらえば幸いである。
2 入校
十八年九月、卒業式後、航空隊組は練習艦隊に参加することなく、直ちに霞ケ浦空に送られ、赤とんぼで発着訓練に明け暮れした。単独飛行が終わった十月下旬、最後の適性検査により次の配属が決められたが、数名の者は「新しく出来た兵器学生として洲崎航空隊に転属」と宣告された。とはいえ、洲崎空といっても、具体的な面では教官もご存じなく、やっと場所は舘山空の裏にあることがわかつた。
ただ、指名を受けた者たちは、大部分のクラスの者が直接、戦闘に参加できる訓練部隊に転出するのに、まだ学生として勉強を続けるように命ぜられなんとなく落ち込みながら着任した。
その後、練習艦隊勤務を終わった艦艇組の諸兄も加わり、11月1日より二期の兵器学生が結成された。
七十二期からは伍長三人を含む十八人、その他、機五十三期五人、七十期一人、七十一期二人、短現技術中尉二人の構成である。
入校の挨拶に当たり、司令・副長より訓示があり、初めてその目的や内容が説明された。
@ 開戦後、戦争の内容は航空機が主体に変わりつつあるが、実際の状況は彼我の航空機の数量もさることながら兵装には大きな格差がある。現在、航空機やそれに搭載する新兵器を開発中であるが、兵器についてはそれらを運用・管理・指導する兵科将校がいない。諸氏がその先駆者となるのである。
A現在の航空隊組織では機銃、爆弾、電波探知機、偵察写真機、爆撃照準機、航空魚雷等、所管部署が異なつているが、航空兵器全般を統括する部署を創設し、急遽、全部隊に拡充していきたい。
との要旨であつた。
ここにおいて、全員は初めてその主旨を知り決意を新たにし学生過程の第一歩を踏み出したのである。
3 教育内容
大別すると座学(普通学・軍事学)実習(実技、訓練)見学(試作、生産現場)である。
一番参ったのは普通学で、電探用の無線理論や配線図、光学機器用の球面三角・微積分、火薬などに関係する化学などであった。
軍事学は現用、試作中のあらゆる航空兵器の種類、性能、用途等多岐に亘って教えられた。更に機銃等の分解、組立から装着、実際に練習機上での機銃発射、偵察写真から爆撃訓練、魚雷調整等々、その合間を縫って横須に出掛けて宿泊し、次々と試作されている航空機やその兵装、能力についての講義を受け、あるいは電探、真空管や機銃、爆弾、写真、照準器等を生産している民間軍需工場の現場状況の見学にもよく出張した。
まさに兵学校同様、「長たる者は、原理は勿論、いざという時には自分が使いこなせなくては駄目だ。」との思想で徹底的に教え込まれた。(今になって思えば、日米の戦局が転換し、厳しい状況下、初級将校が不足している間に、よく十ケ月間も基礎勉強に専念させてもらったことに感謝している。)
4、卒業・配置
慌しくも楽しい十ケ月はあつという間に過ぎ、十九年九月十五日に卒業、恩賜の銀時計は戦死した森山君が頂いたと記憶している。
七十二期の配置先は
◎ 後輩教育の教官及び専修学生 七 名
◎ 実施部隊配属 十一名
であつたが、実施部隊配属のうち六名は戦死し、不帰の客となつた。
五、配置後の雑感
実施部隊配属者は当時まだ少尉であつたにもかかわらず、兵器分隊長の辞令を受け取った。山本は九〇一空に配属されたが、直ちに士官室入り。一番困ったのが航空隊から来たので初級士官教育は全くなく、生徒時代の乗艦実習で二、三回教わつたのみである。
しかも今回は少尉のままで当直将校勤務になり、予備・特務士官の中尉が副直である。また絶えず空襲があるので、適切な命令を出さねばならない。教えてもらうにも佐官以上の大先輩ばかりで話をするのも畏れ多く、見よう見まねで配置についていたが果たしてどうだつたろうか。(他の同期生もきっと苦労していたに違いない。)
次に新しく兵器分隊を設立することになり、従来バラバラに配属されていた分隊士や兵隊さんたちが集められた。分隊士の中にも射爆出身、光学出身、電探出身、兵器の調達・管理専門の掌飛行長とさまざまいることを知り、纏まりをどうするかに頭が痛かつたが、幸いすべての兵隊さんに至るまで、部屋住みの身から自分たちの分隊が出来たことを喜んで融和も早く、しかも殆どが、マーク持ちの若い志願兵だつたので士気も大いに上がっていった。
戦局が厳しくなると送られてくる兵器が少なくなり、その質は低下しつつあつた。爆弾の信管には不発ものが混じっていたり、部品不足のものもあつたり、電探のメイン真空管には不良品が多い。このような武器で戦う仲間たちを思うと、どうしようもなく、若さの至りで副長の承諾を得て、空技廠の教官に実情報告と改善願いに出掛けたこともある。
(幸い901空は館山に派遣隊があつたので)。
「飛行機のない航空隊では兵器分隊が主役?・・・」。
台湾沖航空戦を境にして、所属の飛行機は櫛の歯が抜かれるようにドンドン消耗してゆく反面、敵のほうは、夜間は爆撃機、昼間は艦戦の襲撃が厳しくなってきた。搭乗員は次々と転属し、残りは幹部級の将校数名とあとはいわゆる地上員ばかりに変わっていく。
当初、空襲時は全員退避していたが精神衛生上芳しくない。折角、予備の機銃や弾薬があるのだからと、これも副長の承諾を得て、わが兵器分隊が対空機銃隊を編成することにした。二十粍機銃数門を急造の銃架に載せ土嚢で囲んだ機銃陣地をいくつか造り、その間は壕を作って連絡し、敵戦闘機来襲時には応戦した。敵のほうも結構勇敢で、着陸寸前の所まで突っ込んでくる。こちらも半身乗り出して応戦するが、スピードが速くてなかなか命中しない。一ケ月ほどの間にグラマン一機に命中したのが唯一の成果で、撃墜地が隊外であつたので陸軍のほうで処理をしたらしい。
わが分隊のみが戦っているとの自負のためか他分隊に比べて士気はきわめて旺盛であつた。
二期の兵器学生の多くが比島で戦死しているが、きっと彼等も兵器を駆使できるエキスパート隊の中心になつて戦ったに相違ない。改めて
後列グループ 右より
氏名 | 出身 | 逝去年月日 | 戦死場所 | 死亡又は健在 | 備考 |
山嵜 登 | 機53期 | S20. 6. 7 | 比島タルラック西方山中 | 戦死 | |
小原 正義 | 兵72期 | S20. 3.21 | 沖縄方面 | 戦死 | 神風特攻桜花 |
佐藤英一郎 | 兵72期 | H15.10.16 | 病死 | ||
樋口 輝喜 | 兵72期 | 健在 | 旧姓中野 | ||
森山修一郎 | 兵72期 | S20. 4.10 | 比島ヒナツボ山中 | 戦死 | 敵に斬り込んだ |
宮原 健児 | 兵72期 | S58.10. 2 | 病死 | ||
小林 貞彦 | 兵72期 | H16. 1. 8 | 病死 | ||
猿田 松男 | 兵72期 | H 4. 2. 4 | 病死 | ||
片山 勇 | 機53期 | 健在 | |||
松崎 修 | 兵72期 | H 3. 7.10 | 病死 | ||
白根 行男 | 兵72期 | H14.10. 4 | 病死 | ||
秋山昇三郎 | 機53期 | S60.12.22 | 病死 |
前列グループ 右より
氏名 | 出身 | 逝去年月日 | 戦死場所 | 死亡又は健在 | 備考 |
岡本 時夫 | 兵72期 | S51. 5.28 | 病死 | ||
大野 隆司 | 兵7T期 | 健在 | |||
山本 省吾 | 兵72期 | 健在 | |||
今田 勝治 | 兵72期 | H20. 2.20 | 比島クラーク地区 | 戦死 | |
溝井 清 | 兵72期 | H23. 6. 7 | 病死 | ||
渋谷一隆 | 兵70期 | S19.10.25 | 比島 | 戦死 | 瑞鶴 |
渋江 清 | 兵72期 | H20. 4.20 | 喜界ケ島付近 | 戦死 |
|
村島 保二 | 兵72期 | S19.10.2 | 病死 | ||
菊池 滋 | 機53期 | S20. 9.11 | 比島ルソン島方面 | 戦死 |
|
飯塚正雄 | 機53期 | H19. 9. 5 |
(この他に古川嗣郎がいたが写真に写っていない。
また、後列に芥川義実(七十一期)がいるが確認できない。) (敬称略)