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松之山温泉物語


高田 俊彦

日本三大薬湯の一つに松之山温泉があるのを知ったのは、幸田君から旅行企画を貰った時である。新潟県松之山町にある温泉は草津、有馬と共に有名な薬湯だという。しかも日本の温泉の形成としては珍しい「ジオブレッシャー型の温泉」(化石海水とでも言えば分り易いだろうか)で、一二〇〇万年前の海水がマグマの力によって、断層の裂け目から湧出している。古代の海水なので塩辛く、熱く、高張泉なので湯冷めしにくい食塩泉とのこと。飲んでみたが、かなり塩辛かった。効能書きを読むと、神経痛のほか万病に効くようだ。

美人林にて
立っている者 左から深尾、小松崎、草野、中井各夫人、
  幸田、深尾、上野

屈んでいる者 中井、浦本 
その他 草野(休憩中)、高田(撮影者)

 歩こう会一行十一名(三夫妻、五単身)は、五月十三日朝九時東京駅で上越新幹線に乗車、越後湯沢から「ほくほく線」に乗換え、六日町、十日町経由、昼前に松代着。旅館の迎え便に乗り、「美人林」へ行く。この「びじんばやし」は樹齢七十年のブナ林で、葉と葉の間から差し込む光、鳥の声、新緑の美しさ、素晴らしい空間だった。

なるほど女性の姿を思わせるような美しいブナ林だ。しばし森林浴を楽しむ。美人林の隣に、森の学校「キョロロ」がある。地域の活性化を目指し建設された自然科学博物館だ。長さ一六〇米の建物は、厚さ六粍のコールテン鋼に身を包み、冬季四米程の積雪に耐える強度を持っているそうだ。キョロロとは近隣に棲息するアカショウビンという野鳥の泣き声からとった名前だという。館内の展示品を見た後、一同持参の弁当で昼食。午後二時旅館迎えのバスで「凌雲閣」へ。 

木造三階建ての建物は、昭和十三年に、一部屋一人の大工が、技術と感性で創り上げたそうで、各部屋がそれぞれ異なった顔を持つ。古色蒼然としているが重みがある。 

名物の薬湯に身を沈めると、塩辛いが何となく肌がすべすべする。夕食ともなると、四代目の女将島田美智子さんがご挨拶、食膳は板長自ら山へ分け入り、山菜、きのこなどの食材を調達、新鮮な野の幸山の幸を微妙に織り込んだ料理が出てきた。いろいろ山菜の名前の説明があったが、今は殆ど記憶にない。 

夜は例により、昔話や日本の現状の議論に時のたつのも忘れ、松之山温泉の夜は更けていった。 

翌日は生憎小雨がバラついたが、女将の提案により宿の車で大厳寺(だいごんじ)高原へとドライブする。天水山の中腹に広がる高原で、標高八〇〇米、野鳥の宝庫でブナ林もある。雪を積み上げカバーが掛けてあったが、これは八月十五日に「真夏の雪祭り」のイベントに使うらしい。五月中旬なのにまだあちこち雪が残っていた。小雨が降るので早々に引揚げ、温泉街を散策する。源泉が湧出するのを見て、小正月行事の「むこ投げ」で有名な薬師堂に参詣、また同じ日に「炭塗り」の奇祭もあるという。 

漸く雨が上がったお昼頃、再び宿の車で駅まで送って貰う。松之山温泉に別れを告げ、「ほくほく線」「飯田線」と乗り継ぎ、長岡へ。 

市内在住のクラス太刀川兄の出迎えを受ける。兄の案内で名物の「へぎ蕎麦」を食べながら歓談。やや遅い昼食の後、山本元帥記念館へと向かう。記念公園には元帥の生家が復元され、中央にはブロンズ胸像があった。記念館は元帥の「人となり」が中心で、戦争物としては墜落した陸攻の左翼の破片が展示されていた。 

駅まで歩き、太刀川兄に謝意を表し、新幹線の人となったのは、夕方五時頃であった。

 今回は「歩こう会」というよりも、「新緑の自然に浸り、薬湯を楽しむ会」となった。