90号
遺髪無く遺骨無く
編集部
左近允尚正海軍中将は明治二十三年六月六日鹿児島県に生まれた。父の尚儀は逓信省の官吏だった。尚正さんは鹿児島一中を経て明治四十二年九月に海兵四十期生として百五十名と共に兵学校に入校した。
海兵四十期は「花の四十期」と称され、後に名を馳せる提督が揃う多彩なクラスであった。おそらく海軍にさほど詳しく無い人でも名は知っているという将官は多い。有名な方を列挙すると、ミッドウェイで有名を馳せた山口多聞、山本五十六連合艦隊司令長官時代の参謀長宇垣纏、古賀連合艦隊司令長官時代の参謀長福留繁、親独派阿部勝雄、貴族の潜水艦乗り醍醐忠重、特攻の創始者大西瀧治郎、終戦時の厚木飛行場の反乱に苦心した寺岡謹平、日本人で最初に航空母艦に着艦した吉良俊一、ビアク島で壮烈な戦死を遂げた文化人千田貞敏、軍務局長多田武雄と開戦時には少将や大佐クラスであり、戦時中は最前線、又は後方にても要職を占めた。
水雷を専攻した左近允さんは軍艦陸奥の通信長、水雷学校教官等の後、第一、第二水雷戦隊参謀、練習艦隊参謀を経て通信学校教官、標的艦摂津艦長、舞鶴鎮守府参謀長、タイ国大使館付武官を勤め開戦を迎える。開戦後は第十六戦隊司令官として南方戦線へ出撃、終戦は支那方面艦隊参謀長だった。以上が左近允さんの略歴であるが、ただ左近允さんの知名度は上記の方とは異なった意味でマイナスイメージが強い。それは左近允さんが第十六戦隊司令官時代だった時に行われた捕虜虐殺事件が大きい。詳細は後に語ることにするが、ともかく其の為に戦後裁判で絞首刑となり刑死することになった。よって現在でもマイナスイメージが強いか、あるいはさほど知る人は多く無い。
左近允さんのことを同期生の寺岡謹平は『豪壮、恬淡、真に薩摩隼人の典型』だと言っている。此処では薩摩隼人の典型と言われた左近允さんが終戦後、逆襲裁判にて刑死の判決を受けた時を描き、「虐待の司令官」という先入観と違った視点からの左近允さんを見てみたい。
(前略)もう一人異色の人物を紹介しよう。 左近允尚敏氏である。氏は海兵七十二期、重巡「熊野」に乗組み、シブヤン湾で沈み、さらに駆逐艦「梨」が終戦直前、瀬戸内海で撃沈されたときに航海長で泳いだ経験を持つ。戦後、海上自衛隊に入り、海将に昇進、統合幕僚会議事務局長を最後に退官、現在は戦史研究家として活躍している。 (中略)
さて、私が感銘を受けたのは、軍人一家、左近允親子の生き様である。
(中略)
中将が二男尚敏氏に書き送った最後の手紙には「死の瞬間まで明朗元気、心身ともに健全」とあった。
ところで、戦史によれば、英国は「ビハール号」事件の最高責任者と直接責任者を処断したかったのである。その点からすれば、当時の南西方面司令長官、高須四郎大将が処刑されるはずであったが、高須大将は終戦時すでに病没していた。左近允中将はいわば身代わりに立って刑死したわけで不運というしかない。しかし、尚敏氏によれば「そもそも太平洋上で戦死していて当然の身であった。敵国の報復裁判で死ぬのも名誉ある戦死と同じ」と言って端然と絞首台に上っていったということである。
中将には二人の子息がいた。二人とも中将自慢の秀才で、長男正章は横須賀中学から二番の成績で海軍兵学校六十九期に入校した。次男尚敏も秀才の誉れ高く、やはり横須賀中学から七十二期生徒として海軍兵学校に入校した。
父中将はかねがね若い後輩に、「俺は海軍兵学校の成績はたいしたことなかったが、二人の息子はそろって秀才であった。これは専ら家内のお陰である。畠が良いと立派な子が生まれる。おれは、この点、家内に感謝している。君も頭の良い女性を選びたまえ」と言ったという。
この正章大尉は昭和十九年十一月初旬、日本海軍がレイテ沖海戦で大敗したあと、レイテ島の日本軍支援作戦に加わり、第二水雷戦隊の旗艦、駆逐艦「島風」の砲術長として奮戦中、レイテ島オルモック沖で戦死した。
結局、父子三人のうち、生き残ったのは次男尚敏大尉だけであった。兄正章大尉に劣らず激戦を潜り抜けて、九死に一生を得た猛者である。(中略)
(七十二期関係のみ)
猪口敏平少将(武蔵艦長・シブヤン海)
伊藤整一中将(二艦隊司令長官・徳之島) 伊藤 叡中尉(72期・伊江島)