TOPへ 

90号

平成15年度なにわ会年末クラス会

豊廣  稔

 

平成十五年はなにわ会会員の平均年齢が八十代に突入した年である。これを傘寿と言うらしい。喜寿の人の記念写真を以前見たが、その人の八十台の写真と比較するとまだ若い。なんと人間としての生気を感じられる。ところが八十代になると爺さんそのものである。さすがに仙人と肩を並べられるぐらいになると若さなどは、薬にしたくもない。私は残念なことだと長嘆息する。近々、三、四年前のことであるが、私が所属している戦友会「震洋会」の最高顧問であつた海兵69期のMさんと兵予2期のYさんが共に八十一歳で亡くなられた。

その時は他の震洋会員はほとんどが七十代後半であつて、八十代はまだ他人事のよぅに考えていたころで「八十の坂は曰く越えがたし」などと軽い調子で嘆いていたものであったが・・。それから月日流れて夢のようである。

さて、平成十五年年末クラス会は恒例により十一月二十八日(金)一二〇〇よりグランドヒル市ヶ谷において開催された。出席者は後記参加者名簿のとおりである。当初の予定は七十七名であつたが、直前になって身体的理由や他のやむをえない理由により欠席するとの連絡が四名あり、逆に直接受付に飛び込んできた人が二名あり、結局柳田教官にもお入り頂いて総勢七十五名(うち二名は同伴の夫人)の参加となった。(内訳は教官一名、兵五十二名、機十名、経九名、会友三名)ちなみに、昨年 平成十四年は八十四名の出席であつた。

会は佐丸幹事の司会のもと、まず戦没者および戦後物故者に対する黙祷で始まり、まず豊廣年度代表幹事の次の挨拶及び報告があつた。

 

このたび、年末クラス会の開催案内の返信葉書を役目柄、一足先に読ませていただき、何回も読み返して大変感銘を受けた。

クラスメイトにぜひとも知っていてもらいたいこと、自分の健康状態とかライフワークともいえる仕事に根限りの情熱を捧げていることとかそれぞれの日常生活のあり様に至るまで、実にてきばきと心の底から真実を吐露して記入されているのが分かる。やはりそこにはなにわ会会員としての「絆」の強さを感じ取ることが出来る。

ネービー時代は自己の肉親より強い絆で結ばれていると言われた関係式が今も続いているように思われる。このなにわ会のよさがますます良い状態で次年度に移って行くよう祈るものである。

つぎに六月の靖囲神社参拝クラス会を大切に思って毎年欠かさず出席されているご遺族が沢山おられる。私たち生存クラスメイトの言葉や物腰、風貌に戦死した兄や弟や叔父の姿を投影して見ることが出来るからだとも言われている。もう少し時間を掛けてお話出来ることが出来れば何かが生まれるように思えてならない。

 

つぎに来年度の年度幹事について、兵科が今までより一名増えている。これは年齢、住居地等の客観情勢から判断してそうしたじ次第である。

ついで、次年度幹事の紹介ならびに若松年度代表幹事の挨拶があつた。平成十六年度幹事は次のとおりである、

(代表) (兵)若松 禄郎

 (兵)和田恭三 林 藤太 豊廣 稔

 (機)村山 隆  (経)槙原秀夫

 

終わって一二三〇開宴となつた。

 開宴にあたり柳田教官に乾杯の音頭をとって頂く。恒例の教官訓示と思いきや、今日はちょっと色合いが違い、自らの体験談を披露して下さった。すなわち、教官は今までの旧宅(小田急沿線大和市)を売却、ご自分の最晩年に向けて新しいお住まいに引越しされたのであるが、老年になってからの引越しのいかに大変なものであつたかをお話くださった。私も将来に向けて同じことを考えているので大変参考になった。教官有り難うございました。その後あと開宴乾杯。

ついで次の会員から話があつた。

都竹卓郎君  連合クラス会と日本海海戦百周年記念行事(平成十七年)について

林 藤太君  故小黒孝也君の知られざる逝去について

杉田政一君  新しい自作の漢詩について

泉 五郎君 近く発刊予定のなにわ会名簿原稿のチェックについて

 

 ついで懇談に移り、方々で話題に花が咲き賑やかなクラス会となつた。宴は何時果てるかも分からぬまま、予定時間が瞬くまにきて、いつものように軍歌を斉唱して一五〇〇再会を誓って散会した。