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87号

パインなにわ会に寄せて

中山  皎

三月三十日パインなにわ会が開催された。四月前だというのに暖冬のため、桜はとっくに満開の時期を過ぎている。

出席予定は二十四名(ゲストの應蘭芳さんを含む)とのこと。例年のように応接間で供されたお茶で咽喉を潤し、雑談して開宴を待つ。

そろそろ定刻という頃、二代目女将、山本直江さんが挨拶に来られた。当日が誕生日で、満九十三歳になられたとのこと。左近允が代表してパイン・なにわ会からお祝いの花束を贈呈した。在りし日の海軍ゆかりの料亭・パインでクラスと杯を酌み交わす喜びは当然として、毎年お元気な女将さんに会えるのも楽しみの一つである。更なるご長寿を期待するとともに、いつまでもご壮健のほどを祈る。

初めて女将さんにお会いしたのは昭和十九年八月、今からほぼ五十八年前のことである。第四十一期飛行学生を終え、昭和十九年七月二十九日付で横須賀海軍航空隊附となり、やがてパインとのお付き合いが始まった。搭乗配置で甲板士官兼務のため、往きは巡検終了後京浜急行追浜駅乗車、横須賀中央駅下車でパインに直行、一杯やって同駅最終電車(二三〇五発)で帰隊し、明早朝の総員起こしに備えるというパターンでよく通ったものだ。今でも毎年玄関を入るたびに若かりし往時を懐かしく思い出す。お上さんも若かったなあ。

定刻をすこし過ぎたが全員がそろったので、二階の大広間に移動し、まず、総員で写真撮影。一六三〇左近允の挨拶で開宴、旭の音頭で乾杯、打ち方始め。手際のよいメイドのお酌や、お互いの注しっ注されつ、たちまちほろ酔い気分となり座はたちまち盛り上がる。

毎年のことだが、パイン・なにわ会に出席して杯を手にすると,掘江太郎、畑岩治、若林立夫の三人のことが頭に浮かぶ。堀江とは横空着任が同時であり、パインでは共によく飲んだ。小皿をたたいてお互いに蛮声を張り上げたものだが、彼はしばらくすると転勤で横空を去った。百里原空附兼教官だつた畑とは、ある日パインでばつたり会った。一度だけの出会いであるが、終始落ちついた振る舞いでにこやかに杯を重ねていた彼の飲みっぷりが妙に忘れられない。

若林とは一号が同分隊だった。山雲の入港を知り、この機会にパインで一献傾けたいと逸見上陸場から定期で沖係りの山雲を訪れた。運悪く彼は当直勤務中で、しかも明日出港という。何を話し合ったかまったく記憶にないが、舷門から人懐っこい眼でいつまでも見送ってくれた若林の次第に小さくなつていった姿が今も脳裏に焼き付いている。若林はレイテ湾で山雲と運命をともにし、堀江は偵一〇二の彩雲で犬吠崎東方に偵察に向い消息を絶ち、畑は神風特別攻撃隊皇花隊として嘉手納沖で敵艦に突入し、相次いで散華した。まことに痛恨の極みである。若林と一杯やる機会のなかつたことが残念だ。

四代目女将を紹介する左近允の声で我に返り、賑わいのなかに引き戻された。女将さんが三人揃うとはめでたい事だ。パインのますますの隆盛発展を祈りぐいっと一杯飲み干した。出席者の過去最高は二十五名とのことだが、十二回目の今回は二十四名、まだまだパインなにわ会は健在といえるが常連の顔ぶれがだいぶ変わつてきた。パインは、海軍時代を思い起こしながら熱くクラスを語るには格好の場所だと思う。この会がまだまだ続くことを期待する。

やがて宴たけなわとなり、相沢がブインよいとこで口火を切る。後藤(俊)の山形の民謡、飯野の蘇州夜曲とつづき、山田が飛行学生の歌を歌う。最後に應さんが美声で夜爽香を披露されたあと質問に対して、「男性のスカイダイビング経験者の最高年齢は百九歳です」との話あり。三十歳も若いのに膝の調子が悪くゴルフもままならないわが身がいささか情ないが、「七十九歳まだ若い。老け込んだりするには早すぎる」と思いながら聴いた。

歌が終わりまた飲み始めたが大分ペースが落ちて、なんとなく座も静かになってきた。程なくして一九〇〇頃解散、再会を期して帰途に着く。横須賀中央駅で乗車、横空甲板士官の頃を懐かしく思いだしながら追浜駅を通過して横浜へ向う。今回も楽しかった。左近允・中村に感謝。来年もまたよろしく。

出席者

相澤善三郎、旭  輝雄、足立 喜次、飯野 伴七、市瀬 文人、上田  敦、上野 三郎、大谷 友之、藏元 正浩、後藤  脩、後藤 俊夫、後藤  寛、左近允尚敏、新庄  浩、出口 勝己、中村 元一、中山  皎、名村 英俊、野崎 貞雄、松下 太郎、森園 良巳、山田 良彦、吉峰  徹、応 蘭芳、