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87号

第四十一期艦爆会

伊佐 弘道

正式に言うと「第四十一期艦上爆撃機操縦専修飛行学生」と称し、昭和十九年三月一日、勝沼軍医大尉(後東大医学部長)を含む三十六名(兵三十二名、機三名)が霞空の中練教程を終了し、百里空の艦上爆撃機の実用機教程に入った骨太の連中の集まりを言います。

そして、彼等は時たま集まっては「艦爆会」と称し、天下無敵を誇り、唯我独尊を信条としている剛の者達です。

 その「艦爆会」も永らく開催する口実が見つからず、ご無沙汰していましたが、今回会員中の「ピカイチ」坂元教授が平成十三年十一月三日(元明治節)に叙勲(勲二等瑞宝章)の栄に浴しましたので、その栄をたたえて、平成十四年三月十六日に開催することになりました。開催場所は、「水交会」、時間は会員皆が老年だから昼間ということで、各人に通報したところ、永らく「待っていました」とばかり、全員(七名)参加で、特別参加の矢板康二氏(69期)のご出席を得て総勢八名となりました。前述しましたように百里空に入隊しました時は三十五名でしたが、今次大戦に勇戦奮闘しました二十二名が戦乱に倒れ、戦後五名が疾病で没しましたので現存者は八名ですが、(石坂美男は連絡不能のため)実質的には七名です。

 その様子は亡き押本が百里祭で次のように詠んでいます。

  かつて、この地に 不敵の面構(つらがま)

  三十五名の若者たち

  ヘルダイバーの修行を終る

     第四十一期 艦爆飛行学生

  いくさは終った

  二十二名が再びこの地には還(かえ)れない

    五十八年の歳月

  この地は航空自衛隊の基地となり

最新鋭のジェット戦闘機が          

(するど)く破裂音をとどろかせている

百里ヶ原海軍航空隊     

あゝ、わが青春の白昼

 

今回の艦爆会出席者は、坂元正一、山田良彦、中川好成、東條重道、多胡光雄、谷内能孝、伊佐弘道(順不同)と特別参加者として平野 晃氏、矢板康二氏を招聘致しましたが、平野氏はエンジン不調とのことで飛行出来ず、矢板氏一機のみの参加となりました。

六十九期 平野 晃

(昭和十九年百里空第一分隊長)

六十九期 矢板康二

(昭和二十年百里空第一飛行隊長)

「風は粛々として易水寒く壮士一度

征ってまた還(かえ)らず」

 

壮烈空に散ったあの友この友を偲ぶとともに戦後病没された戦友に黙祷を捧げ、献杯をして各位のご冥福を祈り、艦爆会を開始しました。

会を開催しました水交会の奥の部屋には昔の海軍兵学校の第二生徒舘(通称 赤煉瓦)の絵画が壁に飾られていまして、昔を偲ぶ最適の雰囲気でした。今までの艦爆会は、酒をガブ飲みして、放歌高吟するのを常としていましたが、さすがに諸兄も老年になったせいかその艦爆会の良き?伝統は残しつつも大人(たいじん)の風格ありといったところでしょうか。

しかし、皆の意見を総合すると、

「わが生涯で最も充実し、最も愉快で、最も気楽な六ヶ月が艦爆飛行学生の時であった」ということになりました。

(いき)で元気で、スマートで、ハートナイスで、純情で、真白きマフラーをなびかせて、ニッコリ笑ってヘルダイブするのが艦爆兄(あん)ちゃんなのです。

そして昭和十九年七月二十九日、各人は帝國艦爆隊の正統を受け継ぐ自負心と責任感に燃え、内に蔵する攻撃精神とともにハチキレンばかりの若さをみなぎらせて第一線へと赴任して行きました。

しかし、狂瀾(きょうらん)を既倒に廻(めぐ)らす能はず、戦いすんで日が暮れて孤影悄然(しょうぜん)として帰郷した戦後のことは、ここに坂元の懐古談を代弁として掲げます。

坂元正一談

「伊佐君の提案で私の叙勲祝いを兼ねて艦爆会をやろうという計画が、私の日程の都合で大変遅くなって申し訳ない。いまさら、勲章をもらって喜ぶ年齢でもないが、お気持ちに対して心から感謝したい。あるクラスメイトの葉書に『どうせもらうなら裕仁さんからもらいたかったナ』とあった。実感がこもっている気がする。

たまたま東大に滑り込んで、今日に及んでいるが、生かして頂いての第二の人生は、余生との思いがしてならない。その頃の東大は共産党系の学生が多く、入学直後(昭和二十一年)二十五番教室に軍出身者集れとのことで、行ってみたところ(随分ネビーがいるなということを知った。)、我々に対する「イビリ」で「思想も哲学もないお前らが国を滅ぼした、ここはお前らが来るところじゃない」という学生のお達示である。

煮えくりかえるような思いを誰もが抱いたと思うが、先輩の渡辺さんが突然立ち上がって自分の立場を述べ、「海軍と言えばそれなりの人物がここに多くいるが、妻も子もあり、多くの部下を率いて、批判は批判として、国や国民達、貴様等もその中に入るが、を守るために生命をかけて尽くしてきた。たまたま、生き残り思うことは多いが、そうして身体で体得した哲学と、逃げ回って秀才面している君達の口頭禅的空疎な思想、哲学と、どちらがホンモノか考えろ」と主張し、真直ぐ退場された。黙する彼等、静寂の中で誰もいなくなった。サイレント ネービーの反応はよくおわかりだと思う。卒業時、いろんな学部でネービーは優秀な成績をあげていたと伝え聞いたことがある。医学部は異なった世界で若干の難しい面があったが、海軍に身を投じた軍医の人々は暖かかった。特別に何かをしたというわけではないが、その世界に溶け込んで、実力で評価される以外に生きられない所だけに、なにわ会に出る暇は無くなってしまった。専門領域に入リ、講師から四人の助教授を飛び越えて教授に抜擢されたのは、大学紛争下の偶然であったと思うし、国際的に産婦人科に関係する四大学会会長の全部を務めたのは、世界を通じて私一人しかいないのは海軍のお陰だと思う。そういう所に出る役員は、これまで全部ネービー出身者だったからだ。宮内庁御用係として皇后様はじめ宮家のお産など四十年に及ぶご奉仕が出来たことで少しは皇室のお役にたてたかと思っている。陛下が皇太子時代、東宮侍従達が全部ネービー出身だったこともお伝えしておこう。

多くの役職から離れられず、土、日もほとんどつぶれ、クラス会に出る暇がなく、艦爆会も十分には出られなかった残念の思いは長く続いている。医療関係のことで出来る限りのお世話をしたことでお許し願えると思うのは、私の自分に対するエックスキューズかもしれない。それだけに今日の会は本当に嬉しい。可能な限り会いたい。よろしく。」

坂元の永い懐古談も終り各人の名演説も下火になったので、最後に元気よく、矢板康二氏作曲になる『艦爆隊の歌』を合唱し、艦爆会を終了しました。

老いてますます盛んな各位の艦爆魂が久しぶりに甦(よみがえ)って貴重な愉快な会でした。

    

艦爆隊の歌

(よう)雲低く乱れ飛び  狂風飄々(ひょうひょう)吹き荒ぶ

嵐の空に雄々しくも 降魔の翼羽ばたける

あゝ猛(たけ)きかな艦爆隊

 

 伊佐弘道君は平成十四年六月二十七日不帰の客となり、これが最後の投稿となった。

謹んでお悔やみ申しあげる。    (編集子)