TOPへ 

平成九年秋関西なにわ会(京都)報告記

 桂  理平

 過去二年間、私達(山本、小西、桂)は日本人の心の故郷と言われる京都を味わって頂く為にお世話するのは、其処に住んでいる者の義務であると考えて、秋の「京都集会」を行ってきました。今秋は三回目になるので盛大に行い、全国から参加して頂けるに足る程の魅力のある内容にすることを目指しました。

 また、最近になってクラスの物故者が急に多くなったので、是非とも全物故者の慰霊追悼をしたいと思うようになった。靖国神社では戦死者のみを祭っており、日本経済発展に献身した戦後の物故者を追悼出来ない。そこで寺院における法要ならこの問題は解決できると考えた次第です。

 ご縁があって、東山鹿ケ谷(ししがたに)にある古刹の法然院で法要を行いましたが、その上に貫主さんの貴重な法話を承る事ができました。次いで「哲学の道」を南に辿り紅葉の名所である永観堂や南禅寺の前を散策した後、蹴上(けあげ)にある都ホテルに着いて、総会と夕食兼懇談会を行いました。

 個人宛の案内状のほか、七月の北海道旅行の際小西幹事に口こみの勧誘お行って貰った。九月のなにわ会誌の私の報告のでも案内して、総員四十四名(内女性十二人を含む)の参加がありました。平成七年が二十二名、八年が三十名の参加であったので、今回の出席者の増加振りは顕著であって幹事としては感謝に堪えません。特に遠方からの出席の方々には誌上を借りて厚くお礼を申し上げます。

一、日  時   十一月十三日(木)一三三〇 集合

二、場  所   東山 鹿ケ谷 法然院 表玄関前

三、交通機関   略

四、会  費   参加者全員一律に一人に付き¥1万円

五、行事内容

  一三四五 本堂に集合して慰霊、追悼の法要を開始

1 貫主及び僧侶  読経

2 幹 事     追悼文朗読

3 貫 主   法話 終わって寺院内を拝観

   一五一五 山門前で記念撮影

   一五三〇 辞去して散策へ出発す

        哲学の道→永観堂→南禅寺→都ホテル

   一七〇〇 都ホテル四階 稔りの間で記念撮影

   一七一五 総会

    1 幹事 開会の挨拶

    2 同  会務 連絡

    3 次期幹事推薦、決定

   一七三〇 夕食及び懇親会

   一九四五 軍歌合唱、閉会の挨拶

   二〇〇〇 解散

六、参加者  合計四十四名  氏名 掲載略

七、欠席者の消息状況の変化ない人は省略する。

菅井  超

 阪神大震災で家が被害を受けて横浜に仮住まいしていたが、十一月に元の住所に戻った。しかし病状は相変わらずとのこと

藤尾俊昭様(故圭司氏のご子息)
 残念ですが欠席します。

藤井 翠・高崎 緑様 
 出席のつもりでしたが都合がつかず欠席します。と連絡があり、お供えのお金を頂いた。こちらで恐縮しています。    T

八、総会と懇親会

 ご存じのように、今秋はJR京都駅ビルが完成して巨大な現代的なビルが出来た。ホテル、映画舘、土産物店、百貨店が入って大変な人気です。又、地下鉄東西線(二条、山科、

醍醐間)も開通し交通網が一新されました。

 都ホテルは蹴上にあるが今回の地下鉄開通でJR京都駅と連絡出来るようになった。この為、知名度の高い同ホテルで総会を開く事にした。私は室内の天井が高く、余裕のある空間があり、大きな窓越しに緑が溢れている環境などが気に入っていた。出席者にも京都ならではの、この雰囲気は好感を持って頂いたと思います。

 さて、次期幹事の選出についてですが、現幹事としては京都の次は奈良を案内してもらうのが宜しいかと思うので、奈良地方に住んでいる方又は最近まで住んでいた方にお願い

したいと提案した。

 関係者が打ち合わせ頂いた結果、西尾 豊、春日 仁、佐藤健三の三君が引き受けてくれることとなり、三君にはご苦労さんですが、宜しくお願い致します。

今回の集会には新しく出席された人達がありますので、紹介させて頂きます。

1 右近恒二

 北海道札幌市より参加してくれた。去る七月、五日間にわたるクラスの北海道観光族行の幹事を勤め上げて戦後五十年の思いを果たした人である。小西や同分隊であった山本の誘いに乗って来てくれた。お互いの再会を喜んだ。今後も

都合をつけて来るよと言ってくれた。

2 三好文彦・花田武彦

 共に九州よりの参加である。今は新幹線があるのでそんなに遠い感じはないが、クラスや京都を懐かしいと思う心がすぐに行動になるらしい。もう一つの好条件は健康に恵まれているからだと推察します。

3 飯野伴七、上野三郎、東条重道、樋口 直

  関東地方からの参加である。この人達は既に何回も出席してくれているが、今回もクラスと京都の秋を楽しもうと来てくれた。おおきに有り難う。

4 木村 靖君

  クラスの故木村 G(きよし)の弟さんで東京から来て頂いた。結果的に戦死妻族の代表となった。兄さんは三、四号の時は大山と同分隊、二号の時は桂と、一号では河野、飯野と同分隊だった。久し振りに慰霊法要をしますからといって参加して頂いた。兄さんを何時までも専敬しておられ、わがクラス会に限り無い親しみを感じたと感想を寄せて下さった。今後も変わらないお付き合いをお願いします。

5 河野恵洋子様、河口敬子様

 平成八年にご主人を亡くされました。共に関西なにわ会の有力なメンバーであったので私達の悲しみは大きかった。亡き藤尾を含めて三人を慰めるために、残った私達の手で慰霊、追悼をしたいと考えていました。本日は元気なお姿を見せて頂き安心しました。今後は健康に気を付けてお子様やお孫様と仲良くお過ごし下さい。クラス会にもご出席下さい。

6 藤尾俊昭様(故圭司氏のご子息)

仕事が忙しくて欠席でした、母上様も父上の一か月前に亡くなられています。ご不幸が続いて大変だと思います。改めてお悔やみを申し上げると共に、将来に向けて力強く前進して下さるように希望致します。


 直前の法要と散策によって心身共に適度にリラックスしたらしく食事、懇親会となって、アルコールとご馳走を口に入れると舌の動きが滑らかになり、遠来の人や久し振りに会った友との会話が弾んでいた。関西風というのか裃を脱いだ和気あいあいの雰囲気が漂っていた。

 宴が酎になると石井軍歌係生徒の司会によって、歌などが飛び出してきて会場を楽しくしてくれた。最後に全員が立ち上がって輪を作って回りながら、軍艦行進曲と海ゆかばを力一杯に歌った。歌声は宴会場にこだました。

 ホテルの従業員が「お年なのにお元気で、団結が強そうですね」とあきれ顔だったのが印象に残りました。

 閉会の挨拶で皆さんの協力を感謝すると共に、この楽しさを心に刻んで健康の維持に努めて、また元気で会いましょうと申し上げて、別れを惜しみながら解散した。

九、法然院での慰霊法要の時、朗読した「追悼文」を次の通り報告してご参考に供します。 

  追悼文

 秋色濃き京都東山山麓にある紅葉の美しい古刹法然院に、関西なにわ会員を始め全国からクラスメートやご遺族が相集まり、太平洋戦争に若くして戦死された方々、また戦後の

再生日本に献身して惜しくも病没された諸君を弔う慰霊法要を営むに当たり、追悼の言葉を申し上げます。

 我々は昭和十五年十二月一日、全国から選ばれて海軍の学校に入りました。厳しい選抜試験に合格しての入学で、家族は勿論国民も「希望の星」として期待してくれました。

 修行三年の後の昭和十八年九月十五日、学校を卒業して第一線に出動して戦い、悪戦苦闘すること二年に及び、二十年八月敗北によって戦争は終わりました。

 元気溌刺とした青年士官として常に先頭に立って戦いましたが、如何せん経験の不足は歴然としており、戦死者の数は次のような多数にのぼりました。

海軍 兵学校第七二期生

  卒業生六二五名のうち 戦死者三三五名

海軍機関学校第五三期生

  卒業生一一一名のうち 戦死者 五七名

海軍経理学校第三三期生

    卒業生 五一名のうち 戦死者 二〇名

計 卒業生七八七名のうち 戦死者四一二名

 戦死率は五ニ・四%に及びました。

 今、静寂な環境の法然院本堂に座って目を閉じて戦死した級友を思い浮かべますと、少年の面影を残した二十一、二歳のお姿であります。戦後は既に五十二年を過ぎていますが、あなた方の姿は何時までも変わりません。

 当時は国のため生命を賭して戦い、戦死も覚悟の上でしたが、それにしても多数の有為な諸兄が散って行ったことを残念に思うのであります。

 戦後に生き残った我々は諸兄の願いであった日本の復興再建に一生懸命に努力しました。半世紀を過ぎた今日では経済は奇跡的な復興発展を遂げましたが、なおいろいろな問題が山積みしています。

 第一に学校教育の偏向と若年層の無気力化は是非とも修正する必要があると思います。

 更に、良くなったと思った経済も今では停滞して成長率が零になろうという状態で、バブルの崩壊や後進国の追い上げなどで不景気風が吹き荒れています。

改めて、日本国の興隆発展を願って国に殉じた諸兄の願いを実現するために、今後も頑張ることを約束します。

 次に戦後の物故者は次のような数字であります。

海軍 兵学校出身者 七四名  これに加えて会友五名がいます。

      会友とは病気のため卒業が遅れた人々です0

海軍機関学校出身者 一六名

海軍経理学校出身者  五名

合計       一〇〇名 となっています。

 我々は戦後になって新しく人生目標を立て直し、その実現の為に、更には生活の為、妻子を養うために色々な職業に従事して項張って参りました。幸いに海軍で鍛えた強い精神と肉体で生き抜いてきましたが、人の寿命というものは天のみが知っているのでしょうか、今日までに病気に倒れた方々が前記のような人数となりました。家庭の大黒柱を失われたご遺族に対しては、心からのお悔やみを申し上げる次第であります。

 また、最近になって痛感していることは、過去一年位の間に関西地区のクラスの中で何故か冥土に急がれる方が続いて、別れを惜しみながらも天命と諦めざるを得ない思いを致しました。しかしながら、後に残った新しいご遺族や我々が元気に楽しく朗らかに生活し、家庭を守り世のため人のために尽くす努力をすれば、彼等もきっと喜んでくれることでありましょう。

 最後に、すべての亡きクラスメートに申し上げます。

 「その内、君たちのいるところに行くから、今は淋しいだろうが我慢して待っていてくれ。再び会って娑婆の時と同じように、賑やかに大いに語り合おうではないか。」

 以上で追悼の言葉を終わります。

 平成九年十一月十三日

   京都東山 法然院本堂にて

      関西なにわ会 幹事 桂 理平