平成八年秋関西なにわ会 京都集会 報告記
桂 理平
今回の例会については京都に住んでいる山本、小西、桂が昨年の経験を生かして再び京都での半日の清遊をしてもらいたいと企画した。重要文化財(旧国宝)の二条城を中心に
してその近所にあって、著名な観光ルートには外れているが内容の豊富な史跡を選んだ積もりである。案内状を関西居住者の他にも来てくれそうな人に出したところ、昨年の行事
が面白かったとのロコミもあったのか夫人六名を入れて総勢三〇名になった。昨年の二二名よりも増えて共に楽しむことができて、喜びかつ感謝している次第である。
一、 日 時 集合時間 十一月十五日一三四五
二、 場 所 「掘川御地」交差点南西角の消防署前
(京都市バスの堀川御地バス停下車すぐ)
三、 交通機関 省略
四、 会 費 会員も夫人も同伴者も一律に九千円
尚、二条城見学科五百円、二条陣屋見学料一千円は各自で支払う。
五、 見学の予定時間と順路
1 一四〇〇より 二条陣屋を見学約五〇分
2 一五〇〇より 二条城を見学約四〇分
3 一六〇〇より 神泉苑を鳥越住職に案内して頂く、同師は宇野俊夫の親戚であり、山本省吾の中学同級生である上に学徒出陣した陸軍特攻隊(飛行機)の生き残りの勇士です。 約五〇分
4 一七〇〇より 境内の一隅にある「平八茶屋」で総会、食事、懇親会を行う
5 一九三〇乃至二〇〇〇頃終了、解散
6 見学コースを割愛される方は一六〇〇までに神泉苑に集まって下さい、神泉苑はJR山陰本線二条駅を下車して、東へ徒歩十分です
六、参加者 30名 氏名掲載略
七、欠席者の消息
河口 浩 脳梗塞後遺症等のためベッドから離れられない、諸兄によろしく
堆野 広 博多の機校九州地区の会合に行く
山本省吾、渡辺望、同夫人以上三〇名
(あいうえお順)ただし昨
浦本 生 東京の代表幹事に敬意を表したが、皆様によろしくと返事あり
大山裕正 体詞はまず良好、法事のため九州に行く
鈴木 彊 十一月上旬、心筋梗塞のため入院したと夫人から電話あり
楢村明聖 農繁期なので取り入れや雑務に追われている、浜田兄よりも電話を貰ったが欠席する。
西尾 豊 急に法事で鳥羽に行かねばならなくなった
藤尾圭司 家内が七月より入院中で一進一退、手が放せない
松田 清 行きたいが最近目的地に着くとダウンしてしまい、皆に迷惑を掛ける状態なので欠席する。
三好文彦 急に十一日の故河野兄のお別れ会に出席することになったので欠席する
八、二条陣屋について説明
この屋敷は徳川幕府の京都での根拠地であった二条城から南西に歩いて十五分位の場所にあって、旧名を「小川家住宅」という。中興の祖である小川佐平次祐忠は秀吉に仕えて
賤が岳の合戦で、柴田勝家の影武者毛受勝介(めんじゅしょうすけ)を討ち取って手柄を立てて大名に取り立てられたが、後に家康に咎められて領地を没収された。その子が商人になりこの地に居を構えた。参勤交代の行き帰りに京都に立ち寄る大名の宿舎として使われた。昭和十九年国宝に指定されたとき「二条」と改名した。
茶人好みの数奇屋風の建築だが大名を泊めるようになりその安全を保証するために、逃げ口としてのからくり構造を取り入れ更に火災に強い防火構造になっており、見学者を楽しませる面白い建物である。見学には往復葉書か電話で予約する必要がある。
九、神泉苑について説明
二条城と二条陣屋の中間にある真言宗東寺派の寺院である。千二百年の昔、平安京建設の時、大内裏の南に接して現在の数倍の規模で建てられた苑庭が起源である。この地は昔の平安京のあった湿地帯の東北隅に位置していて、東方や北方の花崗岩質の山々の底を通って地下水がこの地で湧き出て神泉と称せられ大きな池を造っていたのである。
桓武天皇の行幸もあったが、特に弘法大使の祈願の法要で有名になり、小野小町や静御前もこの行事に参加している。
時代は降って慶長七年、家康が二条城を築いた時神泉に着目して城内に取りこみ、その水で内堀、外堀を満たすことにした。このため神泉苑は特徴を失い荒廃に瀕した。築城を担当した初代京都所司代板倉勝重等は寺領取上げの罪滅ぼしも考慮に入れてか堂宇や池畔の整備に力を入れて現状の基礎が出来たという。
その後幾多の変遷を獲て現在にいたり、全域約二千坪が平安初期から貴重な史跡として重要文化財の指定を受けている。京都の隠れた名所として一見の要ありと考える。
なお、二条城については有名な観光名所であり皆さんよく知って居られると思うので説明しません。
ここでお詫びするのは大手門裏側でとった記念撮影が筆者の操作ミスでパになりました。お許し下さい。
十 懇親会での所感
クラス会にしても戦友会にしても、先ず亡き戦死者と戦後の物故者に対して黙祷をするのが通例で、本日も一分間目を閉じて彼らの冥福を祈ったが、特別の感慨を催した次第だった。
関西なにわ会員で出席百%であった河野俊通が、十月八日早朝に死去し、九日自宅で密葬があった後、つい先日の十一月十一日に、故人の意志で社葬でなく『お別れの集い』が大阪中之島のロイヤルホテルで盛大に行われた。関西なにわ会会員を始めとして全国からクラスの有志約二十五名が参加した。
彼は六月末の本会の召集令状に対してただ一回の欠席通知として「肺癌で入院中、闘病の大変さがわかった」と便りをくれていた。突然に起こった彼の葬儀の直後のクラス会であるので、亡きクラスの人々を鮮明に思い出したのである。
2 関東の川越から久し振りに参加してくれた東條重道が
が先ず発言してくれた。
「一期一会」を大切にしよう」とは先輩の教えであるが、最近になって実感をもって理解できるようになったと思う。
お互いに七十才の坂を越した今、再び関西の皆さんとお会い出来て嬉しい。関東に引っ越して以来なので懐かしさで一杯である。今日の喜びを素直に味わって明日の活力につなぐことにする。
しかし、今回の河野のこともある。我々は何時どんなことがあっても不思議でない年令になっているのだ。自分の寿命の続くかぎり元気で過ごすことにしようではないか。
筆者が考えるに、河野が、東條が、毎日を大切に生きよと教えてくれていると思う。
3 東京から何時も来てくれる溝井と共に千葉から藤田 昇が参加して呉れた。小西とは大阪今宮中学の同級生であり、河野とは飛行学生(戦闘機)が一緒で第一線に出てから歴戦の零戦部隊二〇一空に共に所属したこともあるようだ。あらかじめ藤田には空戦体験を話して欲しいと頼んでおいたのである。
昭和二十年一月六日リンガエン湾上陸の米軍に対しクラーク基地から海軍航空隊の最後の攻撃隊員として参加した。特攻機の直援戦闘機を操縦して出撃し、護衛と戦果確認が任務であった。二十数機でリンガエン湾に向かった。
敵はレーダーによって我が方の行動を熟知していて我等の上空の有利な位置で待ち構えていた。海面の敵艦隊を発見したが、同時に数倍と思われる多数のF6F戦闘機が迫ってきた。特攻隊は突っ込んでいったが敵艦までは達しなかった と思われる。クラスの太田正一も零戦に乗って参加しており、状況からみて彼の飛行機らしいのが被弾墜落したのを一瞬のうちに見たように思う。私へはF6F数機が鶴翼の陣と称する横一線に並んで機銃を発射して来た。低高度のため一瞬の
後に右垂直旋回して地上二十メートル程にて敵弾を避けた。敵は急な変針ができずそのまま通り過ぎていった。空中戦は僅かな時間に終わってしまった。然しその前後は実に何の
異常もなく平穏な飛行なのである。厳しい現実であった。
この戦闘で比島における海軍航空隊の組織的戦闘は終わりを告げた。あとはルソン島北部のツゲガラオヘの陸路の逃避行が待っていた。
筆者はこの話を聞いて昭和十九年六月のマリアナ沖海戦でわが機動艦隊の空中攻撃隊がF6F戦闘機にやられた状況と全く変わっていないのを知った。あれから半年の後にも戦
訓生かし切れず旧態依然とした戦闘を続けた責任は一体どこにあるのかと問いたい。あたら多くの若い人達が命を落としたと思えてならない。それが敗戦の日まで続いている。
これは上級指揮官の怠慢であると現在の冷静な感覚からは思うのである。
4 山陰松江から浜田秋朗が昨年に引続きて出席して次のような話をしてくれた。
諸君、Fleet in being(残存艦隊と訳す)という言葉を知っているか。これは欧米人の考え方であるが、戦争に敗れても有力な艦隊を残しておけば、有利な条件で講和条約を結ぶ
ことが出来るという考えである。戦艦大和を中心とした沖縄特攻はこのような思想の嫌いな連合艦隊参謀の計画だったといわれている。
残存艦隊の比較で講和を有利に運ぶとは、戦争をゲームのように安易に見るものでよくないとの意見もあろうが、所詮、戦争は武力の衝突で民族を滅亡させるまでやるものではないと割り切る必要があろうと思うが、皆さんはどうですか。
これに関連して筆者が思うのだが、昭和十六年太平洋戦争直前に、陸軍が制定した戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と教え、人事を尽くした敢闘の後にやむなく描虜になった者をも非難したので、必要以上の悲劇が生まれた。All or nothing では世界の孤児になる。古代から明治時代まで日本人は捕虜になった人に、もっとおおらかであったのは史実の示すところである。この人達が負い目を感じないように私達は配慮する必要がある。
六人の夫人は健康の面からして主人の様子を見ておく必要があってのご出席かも知れない。そして知らぬは亭主のみかも。
さて、暗くなった宴会場の平八茶屋から見る神泉苑の大池や樹木はライトアップによって風情を増していた。晩秋の紅葉が光りに映えて大変美しく京都の夜が更けていった。名
残は尽きないが遠来の人もあるので八時頃に解散した。来年、も一度京都でやりますからと申し上げて了解を得た。他地域の諸兄も気軽に参加してください。待っています。
この原稿を十二月十一日に概ね仕上げてから押本に発送するのをモタモタしていたところ、十六日に突然河口 浩の逝去の報が入った。長く闘病中とは承知していたが、まさか
今日の悲報を聞くとは思ってもいなかった。あわてて各方面に知らせると共に、有志のクラスと共に十八日の告別式に参列して最後の別れを告げた次第である。前夜の通夜に出席
したクラスもいた。
関西地区では十月の河野に続いて十二月に河口が逝くという、二人もの不幸があるのは稀有のことであり感慨無量であった。「一期一会」と京都集会で東条がいったが改めて胸
にずしりとのしかかってきた。ここに改めて河口のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。
以上の通り取り急ぎ報告致します。
(平成八年十二月二十日記す)