五十周年慰霊クラス会
池田 誠七
一、実施経過概要(海軍の型式で記述)
(1)全般
十一月十五日(火)広島ターミナルホテルロビーで受付開始、ルームキー名札お知らせ等所要の物件を渡す。なお当初の予定に長山によるVTR希望者の集金が加わる。
一八〇〇 懇親会が「悠久の間」に於いて、参加者三百六名(うちご遺族百五十六名)で前夜祭的にリラックスして行われる。(詳細は次項目 (2)参照)
二〇〇〇終了後室外に於いて三々五々連立って旧交を温める。翌十六日(水)〇八三〇過ぎバス七台で宇品まで、続いてフェリー「四万十川」に乗換へ江田島「はるかぜ」に横付け。
一方直接参集者の受付は一〇〇〇頃開始。七十三名(うちご遺族三十八名)と合同。一〇三〇頃から各グループ毎に教育参考館の名牌礼拝と施設見学等。なお予めバス単位で定
められた世話人が中心となりグループのとりまとめ、バスフェリー江田島施設見学の誘導案内、ご遺族に対する説明等多彩な業務をこなしたが後藤(俊)、間中、足立(英)、飯野、
多胡、市瀬、府瀬川。また直接参集者に対しては、伊藤(正)、小松崎諸兄の八面六臂の活躍があった。一二〇五慰霊祭が教育参考館映写講堂に於いて、参加者三百九十一名(うちご遺族二百六名)で整々かつ厳粛に実施された。
予定より十五分遅れで一三一五終了。(詳細は次項目三参照)その間逐次食堂に移動、学校側の都合から隊食取止め外食弁当となったのが残念。
一四〇〇以降、現地解散と宇品方面、(四万十川丸)と松山方面、(マリンエース)の三組に別れた。なお船の増速により、多少の遅れをとり戻し概ね予定どおり各目的地着。
人員装備等異常なく全行動を比較的スムーズに終了した。また直会的に行われたオプショナルツアー松山旅行記は四頁のとおり。
(2) 懇親会
定刻、十席の円形テーブル 三十二席の悠久の間で、岩本幹事の司会、開会の辞中山幹事で快調に滑り出す。石隈教官のご挨拶に始まり、ご遺族代表岩波正幸氏(欣昭の令兄)のご挨拶。樋口による乾杯の音頭で懇談となる、豪華な部屋で豪華な食事メニューは各席に配布、最初の刺身は格別の味。後半は素晴らしい長山の献吟「捧ぐ七十二期英霊」(別掲1)。
続いて樋口による銘牌の名前の訂正。また桂より自己出版の戦記本について説明。高崎に代り美声の後藤(俊)の音頭で「江田島健児の歌」を全員で斉唱。最後に池田幹事による
日程説明と閉会の辞により概ね予定どおり終了。
(3) 慰霊祭
定刻より五分程度遅れて、ご遺族前方、生存者後方に着席。白髪低音ピタリはまった岡本幹事の司会。開会の辞佐藤幹事で取り行われた。まず呉音楽隊の「君が代」また「国の
鎮め」の奏楽とともに黙祷。続いて追悼の辞は生存者代表押本(71号30頁既載)、遺族代表小島喜久江氏(丈夫の令妹、別掲2)。
指名献花は石隈教官、第一術科学校長、ご遺族代表として山科進作氏(享の令兄 山形)、入佐俊正氏(隼人の令兄 鹿児島)、嶋津好子氏(義公の令妹 盛岡)、津留シゲ子氏(岩村舒夫の令妹 宮崎)、また生存者代表大谷、渋谷(信)。
ご挨拶は石隈教官及び落合術科学校長、この際伊藤叡と父君伊藤大将にまつわる刀剣の御礼があった。引き続き篠田による献吟「讃江田島」(別掲3)、さすが師範朗々かっ重厚に行なわれた。その後隊長指揮による奏楽があり、特にトランペット独奏「同期の櫻」の際には会場にすすり泣きさえ洩れた。引き続き同じく同期の櫻を全員で斉唱。終って樋口による、江田島と海軍の沿革、七十二期クラス会「なにわ会」説明並びに世話人尽力者、市瀬、大谷、押本、加藤(孝)、渋谷(信)、鈴木(脩)、恒川七人の紹介があった。以後全員が個々壇上にあがり献花、予定より約十五分遅れで終了。なお追記事項としては
1、石隈教官が会場の一偶で、幹事の最後の献花まで見届けられたこと。「この教官にして、この七十二期あり」と感激。
2、丁度来島していた、野崎幹事(機関科)の「さすが兵学校のやることは凄い」という感想。
3、次年度、同様の会合を持つ予定の檜垣保雄氏(七十一期)の偵察参加。
4、術校長の御礼に関連、この刀剣は未登録のため持運び不能であることが直前に判明、
矢田、佐藤幹事、術校長、江田島警察署長の涙ぐましい話し合いが繰返され、やっと実現の運びとなったものである。
二、所見(人間探求の見地で記述)
(1) 「ある人が語ったとおりに書くと即教範になる」とは昔から頭脳明晰な人を称える例とされる。クラス別にもなかなかお目にかかれないが樋口直が居た。しかも公正で清濁合せのむの風格がある。本行動中要所要所に現われ立派にまとめてもらった。しかし彼にも大食いや杖の使用の弱点もある。今後自戒し永くクラスの大看板の一人として続けても
らいたい。なお彼と同じクラスであることに誇りさえ感じるが、同時にクラス一同の今後の健康を祈る次第である。
(2)「此種行事は計画準備が済めば九〇%は終了」と言われる。この意味で佐藤幹事の二ケ年にわたる仕事ぶりは凄まじいものがある。
例えば昨年零から出発時のアンケート調査では、こんなことは出来るかと危惧した。今年幹事に加わり計画の進展に驚いたが一方最終段階で多数の不参加が出るのではと心配も
ぁった。この間の大小複雑多岐な業務については省略するが枚挙に暇がない。しかし以上にも増して特筆すべきは、戦死者等、ご遺族、生存者を思う執念、不惜身命、黒子に徹する彼の生きざまが、成功に導いたのではなかろうか。
(3)異論もあると思うが次の三点について幹事側の見解を述べてみたい。
1、成功の裏には、広島ターミナルホテルの戦略的位置の決定、戦術的には部屋割りの素晴らしさが。なお後者は女性側には好評であったように思う。
2、懇親会の終りに予期した如く「幹事時間延長」と総会屋的勇ましい動議があった。経費増や従業員の労苦を考慮し予定どおり終了させた。その結果が悠久の間の外において
余韻を楽しみつつ、酒料理はなくとも旧交を温めうるという証左ともなった。
3、参考館内での撮影禁止は、その神性を高めるための措置である。かつて00のクラスは特別許可で可能となったと聞く、今回も同じような交渉をしろという声もあった。こ
れに対し遠くから来たとか七十二期だからの理由で戒を破り、また00クラスの不法行為に加担し悪い伝統を残す必要もない。むしろ学校当局の施策を推進するため協力する姿勢
が重要であろう。
(4)受付については毎度のことながら始めチョロチョロ中パッパと混乱する。生徒時代朝食のスペア、アーマーに飛び付いたことを思い出す。齢古稀を過ぎても日本的生活力の
旺盛さに驚くとともに、少し待てばスムーズになるのに稚気を去れというヂレンマを感じた。
(5)四万十川の江田内出港に際し術校側関係者と詩吟師弟篠田、長山の帽振れがあり感激した。なおボストンバック一ケが船と岸壁を往復した。長山が「東京まで持っていけ」とどなるがそのまま。またホテルには忘れ物もあった模様。「自分の荷物(財産)は自分で守る」ことが結局「自分の国は自分達で護る」ことに通ずるのではないかと脳裏をかすめた。
(6)全般を通じ天気もまあまあで人員装備とも異常なく終了したが、海軍との目に見えない郢ォがりに感謝している。
最後に幽明境を異にされたクラスのご加護、参加ご遺族及び生存者のご協力、また石隈教官並びに山下菊二氏(七十四期)、田島明朗氏(特四号生徒)、桧垣保雄氏(七十一期)、第一術科学校、幹部候補生学校、呉音楽隊の関係者、並びに日本通運株式会社、広島ターミナルホテル、広島バス、瀬戸内海汽船のご支援に深甚の謝意を表する次第である。