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海行かば

飛鳥による洋上慰霊祭の旅

名村 英俊

 何かと東京を留守にすることが多かった今年の夏だったので、千葉の泉から、NYKの飛鳥による沖縄・瀬戸内海クルーズに乗船し洋上慰霊祭を行うについては〃参加すること
にしておいたからと言う留守番電話のメッセージを受取ったのは八月十日頃だっただろうか。詳細はよく分らなかったが、とにかく喜んで参加すると返事した。
 あり様は、有志の献身的な努力によって、能登半島周遊以来連綿と続いてきた「なにわ会」親睦旅行の伝統を、一年といえども中断することは誠にけしからぬことではないか。更に言うなら、今年は卒業五十周年とあればその意義はいやが上にも強調されなければならない。されば、去る七月同じ飛鳥船上での大和の慰霊祭に参加して触発された感激(なにわ会ニュース六十九号潜望鏡参照)を再現すること、すなわち洋上慰霊祭こそが最も時宜にかなった企画と言うべきではないか。多分これが、彼が意を決して旗を揚げるに至った理由であろうと推測した
 方針が決まった後の作業は迅速果敢、しかも間然する所の無い程綿密な手続きを踏んで、例年の親睦旅行を「なにわ会」の公式行事にまで持ってきた彼と、彼を補佐した鬼山両君
の情熱と実行力に改めて敬意を表する次第である。
 飛鳥は日本郵船に所属し総トン数二八、七一七トン、収容可能客数五八四名、航海速力二十ノットを誇る純客船である。その計画は本船の次航沖縄・瀬戸内海クルーズに便乗して、太平洋戦争における最後の決戦舞台となった沖縄近海での洋上慰霊祭を行なわんとするものであった。

◎ 慰霊祭参加者および航海スケジュール
 コース別参加者名簿(敬称省略)

A(横浜乗船〜横浜下船)

故岩波欣昭 兄

岩波正幸・静子

故小島丈夫 妹

小島喜久江

故斉藤敏郎 弟

斉藤 健

故山田三郎 兄

山田一夫・八重

妹 吉田とみ子

鬼山茂樹(幹事)

 

B(横浜乗船〜神戸下船)

故加藤敏久 兄 

加藤智一

故品川 弘 妻 

品川蓉子

故富士栄一妻 

富士英子

泉 五郎・才子 

 

加藤孝二・好子

 

藤田直司・昭子

 

名村英俊

 

C(那覇乗船〜神戸下船)

故青田克平妹夫妻 

本山暫太・和子

岩松重裕

 

大槻敏直・みねよ

 

押本直正・寿子

 

椎野 広(機)

 

上田 敦(機)

 

大掘陽一

 

後藤俊夫

 

高崎慎哉・みどり

 

高倉薫・信晴

大槻友人)

樋口 直・三好文彦
山田良彦・山田 良
渡辺 収一・清子
渡辺 望・門地啓史(甥)
広田隆夫(機)


 なお、多数のご遺族より献花料等として、計十五万五千円の寄附を頂戴した外、故人あての手紙類、般若心経写経、ふるさとの銘酒、それに故人ゆかりの心のこもった多くの品じなが託された。


 航海スケジュール
十一月五日 (金)一一〇〇 横浜発
 〃 六日 (土)終日クルージング
 〃 七日 (日)一三三〇 那覇新港着
 〃 八日 (月)一七〇〇 那覇新港発
         一八〇〇一一八三〇 洋上慰霊祭
 〃 九日 (火)終日クルージング
 〃一〇日 (水)一四〇〇 神戸着 一六〇〇神戸発
〃一一日 (木)一六〇〇 東京晴海着

なにわ会 洋上慰霊祭
 平成五年十一月八日一八〇〇
  伊江島の二〇〇度、二五浬 飛鳥船上
      式次第  司会 泉
開会の辞    樋口  直
慰霊の辞(別掲)椎野  廣
献花献酒等
  飛鳥船長  石河 溥史
  船主代表  岩松 重裕
  ご遺族代理 期友ご夫人に委嘱

期友

船客有志
 (この間弔砲十三発、国の鎮め吹奏)
  汽笛長一声
  海行かば斉唱 指揮 高崎慎哉
  黙祷
    以上
 

式は本船が那覇港界を離れた一八〇〇から泉の司会により進められた。本船幹部職員や船内新聞などで事情を知った船客有志の方がたなどを加えて百名になんなんとする参列者がプロムナード・デッキの船尾を埋める盛儀となったのは感激であった。この日、季節風ようやく強く、暮れなずむ空は雲量六、慶良間の島々は既に濠気にその姿を没した。
 先ず樋口が進み出て、克明に数字を挙げて太平洋全戦域の海に空に陸に散華した期友に呼びかけ、今日我らようやく素志を果たして洋上に再会し、慰霊祭を行う旨を告げて開式
の辞とした。次いで、椎野が立って慰霊の辞を朗読。それは、潮騒も烈風も消し得ない血の叫びと言うべきであった。慰霊の辞は別掲する。期友諸君、是非再読、三読をお願いする。
 やがて国の鎮め吹奏と弔砲のとどろきと共に献酒献花の開始、順序に従って男性方には花と酒を、女性方には花と握りご飯、それにご遺族より託された手向けの品じなは、参加した期友の夫人方の手により残らず海に献じて頂いた。
 終わって、汽笛長一声、海行かば斉唱黙祷。幽明墳を異にして既に五十年、我々も馬齢を重ねて古稀に至り将来再び今日の様な機会を得ることは必ずしも容易で
ないことを予見するが故に、万感ひとしお胸に迫るものを覚えながら洋上慰霊祭を閉じた。
 ただ、我々の会場設営や運営の不備故に多数のご参列を頂いた方がたに混乱を強いる結果となったのは申し訳ない次第であった。これもひとえに、事前の図演の我々の判断が甘
かった結果であり、謹んでお詫びすると同時に、臨機の処置を講ずるため、何かと応援を願った乗組員の皆様に厚くお礼を申し上げたい。
「なにわ会」懇親会
 十一月九日一〇三〇からプラザ・デッキのピアノ・バーにおいて、NYK岩松常任顧問の主催により、「なにわ会」懇親会が開かれほぼ総員が出席した。この日は横浜出港以降初めて荒天に見舞われたが、慰霊祭を昨日無事終えた安堵感も漂って和やかな一刻を楽しんだ。ちなみに、岩松(自称三分の二 「なにわ会」会員)はこの計画を知るや急きょ乗船して、陰になり、日向になって援助してくれたのは有難かった。今夏、トップ(日本郵船副会長)の重責から漸く解放されたことでもあるし、これからは「なにわ会」の集いには常連として顔を出して欲しいと思う。
 解散後、船長のきもいりでブリッジを解放し、半世紀前の名航海長どもの縦覧に供して貰った。自衛隊経験者などは別として、我々にとっては、GPSなど往時のそれとは懸絶した性能を持つ航海機器などには興味を引かれた。風雪にさいなまれながら、六分儀片手に星を求めて徽夜した北方部隊での苦労などはまさに夢のまた夢である。(この時本船の位置屋久島の真西二・五浬)

 十一月十日正子豊後水道通過。かつては我々の庭であった内海西部は漆黒の闇に沈んでいた。〇八〇〇瀬戸大橋をくぐり、一四〇〇予定通り神戸ポートアイランド埠頭に着岸し
て、洋上慰霊の旅は実質的に終わった。Aコース選択の数名を残して全てここで下船するからである。思えば戦闘配置こそ違え、等しく軍艦旗の栄光のもとに戦った我々の共通項
であろう。飛鳥の航海を通じて青春の思い出が一杯詰まった輝く海を満喫した。そして、やがてそれは散華した友を抱く鎮魂のに暗転する。押本の来信に言う
「うれしゅうて やがて寂しい飛鳥クルーズ哉・・・」が下船する我々の感慨を言いえて妙であると思う。
 今回の慰霊祭は、極めて短い準備期間であったにも拘らず、幹事の卓抜した采配と本船初め関係各位の協力を得て、予想以上に順調に推移し、深い感銘を残して無事終了したことはご同慶の至りである。ここに、「なにわ会」の名において、この慰霊祭に参加頂いたご遺族、期友諸君、飛鳥乗組及び船客ご有志各位に厚くお礼申しあげる。更に献花料その他英霊ゆかりの品じなを恵贈賜ったご遺族には、御礼とともにみな底深くお届けしたことをご報告申し上げて拙稿を終わる。

 追記・別掲した「慰霊の辞」は泉の心血を注いだ告文であり、若くして散華した期友を思う感動の名文である。これを朗読したのが椎野であり、その真情にあふれた語りロは参列者の胸を打つものであった。彼が同時に文筆の士であることは広く知られているが、それにも拘らず、いったん朗読を快諾するや、一言一句異議を挟むことなく、しかも、暗唱し得るまでに練習を積んだばかりか、更に自ら筆をとってこれを巻紙に謹写した。恐らく何度も書き改めたであろうと推察されるが、読み終わって推野はそれを静かに海に献じた。折から西天の暗雲は茜の残照を遮って波ようやく高く、船尾より白く沸き立つウエーキは巨大な光芭となって南に走る。黒と茜と白の織り成す乾坤は悲愁の気に満ち、飛鳥の高速二十一節は諷々たる海風となっては耳架に迫る。それは恰も鬼神の突くが如き情景のなか、墨痕鮮やかなその巻紙は白く輝く龍神にも似て、一たびは身を翻して中空高く舞い上がり、そして別れを惜しむかのようにゆっくりと暗いわだつみの彼方へ消えていった。思わず熱いものがこみ上げてくるのを禁じ得ない一瞬であった。かくて彼は見事に主役をこなしてくれた。しかも自らの文筆に対する幹持を捨ててのこの協力はなかなか出来る事ではないだけに、起案した泉の感激もさこそと推察し、あえて追記する次第である。
 もう一人紹介したい御仁がいる。彼の名前は伊東宏氏、たまたま夫人介護の旅で同船した七十六期生である。三号の三号と自称し慰霊祭のビデオ撮影その他乗船中を通じて並な
みならぬ奉仕に預かった。謹んで謝意を表したい。ちなみに同氏は関西の海軍関係の集りでも、甲板士官として活躍中の由で、あるいはご存知の向きもあるかもしれない。


   慰霊の辞
風よ雲よ心あらば天にまします

   我らが期友の霊に伝えよ

我ら今兄等を偲びて南海の洋上にありと

眼を閉ずれば彷彿たりその姿

等しく昔日紅顔の美少年

将又颯爽凛乎たる若武者か

決然起って国難に赴くや

雲に散り波を染めて遂に還らず

水漬く屍は武人の誉と

   散りてぞ悔いぬ若櫻

その魂塊は昇りて天に在りと雖も

その現せ身は幾千尋の海の底

文目も分かぬ久遠の闇に

   鉄の裾に岩を抱きて
ただ独り眠る 悲しからずや

   長恨は尽くることなし
言うを止めよ

   兄ら身を捧げたるは

偏に君が御為 国の為

   醜の御楯は男児の本懐なりと

皇御国の武士なればとて

   その身は木石に非ず

生死の関頭 誰か苦悩無からん

   ただ雄々しき君は

日の本の男ゆえ黙して語らず

   自ら防人たらんと志したれば

莞爾として戦いの魁に起つ

   その熱血たぎる青春は
親を思い

   血肉分けたるはらからを思い
幼きものそして又愛しきものへ捧げたるなり

   至純の愛を貫けるなり
然るにその身は南溟の果てに沈み

   将また痺痍の山野に草むすや
無惨言うべからず

   親ならば

花の筵に白絹の衾

   せめて夢なりとも

可憐なる大和撫子 愛しの乙女と

   永久の契りを結ばせ給えと
神に祈り仏にも願はん

   親ならずとも

我らが人生 戦後の来し方を思えば

   兄らが慰むるに千言万語も遂に空しからん

兄らみどりなす黒髪 白妙の柔肌

   流るる血潮の熱きにも触れず

めくるめく青春の陶酔も知らず

   哀れ独り寝の 夢路の果ては何処ぞ

父母おわす故郷は

   はらからと睦みし 懐かしの我が家か

朋友と遊びし山川か

 

或いは出撃を前に

春宵の一刻 紅灯の巷に遊びしこともあらん

秋の夜長をかりそめの

恋に戯れしこともあるべし

されどその儚きや その儚きや

哀しみにこそあれ

人の世の歓びと言うに当たらず

ひたすら修練に明け暮れ

更には特攻を志すや

   ただ死して祖国を守らんが為にのみ

我と我が身を鍛え抜きし兄ら

   可惜二十有余才の春に散る

 人これを散華と言う

   その言の葉は春風に散る花の
風情に譬えて雅なれど

   その実は 凄愴 悲惨 酸鼻の極

手足は飛び散り 肺腑裂け

   血潮の海に息絶えしか

避くるに術なき紅蓮の炎

   身は焼け爛れてぞ果てにけるか

もがけど詮なき大海原に

   艦諸共に呑まれたるや

瞬時に微塵と砕け散るは なお以て瞑すべし

   されど特攻発令より突入まで

無間地獄の苦しみは

   筆舌尽くし難しというも愚かなり

兄ら何を思い、何を祈りしや

   死出の旅路を親にも告げず

なお莞爾として帽を振る

   白きマフラーのその胸のうち

赤き血潮を凍らんに

   眉宇もさやけき祖国愛
鬼も突くべし神も突くべし

   若し我が子なりせば如何にせん

今能く吾人の耐え得るところ非ず



しかも兄らの奮戦遂に空しく

   祖国 降伏のやむなきに到る

而うして兄らの血もて贖いし平和

   その故に祖国は無上の繁栄を手にすれど

今民は暖衣飽食のうたかたの贅に惚け

   治者盗を重ねて腐肉の汚臭を放つ

然るに何ぞ

   兄らを遇するや弊履を見るが如し

靖国社頭に宰相の影を見ざるは

   その一例に過ぎず

外に戦いの惨禍を謝するはまた良し

   然れども内に歴史の真実

殉国の勇気を伝えずんば

   民族の興隆 遂に砂上の楼閣を築くにも似ん

我らまた非力にして為すところ無し

   その無念言うべからず

思えば烏兎忽々の五十年

   暗雲は天に満ち 狂瀾は海を覆いて

戦局正に急を告ぐる昭和十八年 秋九月

   爾来 征戦二年に満たずして

忽ち期友の大半を失う

   惜しみても惜しみても なお余りあり

かの戦いの日々

   共に歌いし同期の桜   

同じ九段の春の梢に咲いて会わんと誓いしに

   我ら荏再馬齢を重ねて古稀に到る

誠に忸怩たり

   許せ兄らよ 兄らよ許せ

露にも似たる人の世なれば

   また会う日とて須臾の間

されば今 有志ここに集い

   ご遺族と共に海に向かいて祈る

兄ら安らかに眠れと

   また願わくば
鳥よ魚や 期友を捜せ

   波よ潮よ 期友に届けよ
我らが献ずる手向けの花 手向けの品々を

   更にまた空に向かいて祈る 
在天の英霊来りうけよ 我らが微衷を

   今十三発の弔砲と

鎮魂の曲 国の鎮めを捧げまつらん   

喇叭 国の鎮め 弔砲