TOPへ 

飛行学生戦闘機専修者の会

飯野 伴七

兵七二期、機五三期の四一期飛行学生一四五名は戦闘機専修者として霞ケ清の中練教程を終えて昭和一九年二月より同年七月迄の五ヶ月間鹿島神宮に近い新設の神池海軍航空隊で零戦により実用機教程の教育訓練を受けた。
卒業迄に三名の殉職者を出し、一四六名が七月二九日卒業各任地へ赴任した。
 その後の活躍は実施部隊の分隊士として後には分隊長で各地各戦線で奮闘したが、昭和一九年一一月一二日達川猪和夫が神風特攻出撃したほか、戦死者、戦後病死者一〇九名が没し、現在三七名が生存して各地で活躍して居る。
 数年前より元気なうちに戦闘機会を開こうとの意向があり準備を進め今回の会合となった。集合地は神池に近い水漁り潮来に設定、日取りは一一月一五・六日の二日間と決めた。
 当日、出席予定者二〇名が集合時刻一六〇〇の一〇分前に総員会場の潮来ホテルに参集した。
 ロビー及び各自部屋で挨拶、卒業以来の再会を懐しみ、健康を慶び合いかつての青年士官の面影を偲ぶに頭髪の薄き又は白きは関係なかった。
 一八〇〇広間に集合。先に提出して貰った資料について打合せ、他機種より戦闘機に転科した者にも今後参加を呼びかけることとし、一年1回集る事を提案、了承され宴会場に移った。

宴会開始前、戦死者病没者の冥福を祈り黙祷し終って打方始め。潮来ホテル(前社長が海軍奉職歴あり今回便宜を受けた)の川魚料理に地酒も旨く堪能した。各自想出の話の交換
も進むうち、石井晃の歌唱先導よろしく忽ち会場は賑やかに盛り上り、一人一曲総員一巡と相成った。けだし、ガンルーム士官に戻った気分ならん。二一〇〇閉会。二次会へ引揚げとなり時間の短さを嘆じた次第である。
 二次会では更に各人の戦歴等話合も期待した処、メーターの上りし一同はやはり健康談議、精力増強等秘伝の披露もあり時間の過ぎるのを知らず二三〇〇消灯就寝。
 翌一六日ゆっくり朝食。一〇〇〇ホテル出発鹿島神宮へ。快晴に恵まれ順調に進む。一〇二〇〜一〇四〇参拝。森林浴の看板もある自然林の参道を進み本殿に参拝。本殿は徳川二代将軍秀忠寄進の権現造り美麗を極め国宝である。武の神様で往古より防人達が訪れて任地へ立ち振舞(鹿島立ち)した御社である。
 一〇分程、車を走らせて我等が訓練に汗を流した神池航空隊跡へ向う。但し一帯は鹿島工業団地に開発され、産業道路が一本走りかつての広大な飛行場又滑走路は偲ぶよすがもない。漸く道路端に半壊の飛行場掩隊壕が一基残るのを発見、五年前のなにわ巡航クラス会の時は二基あったが、その後更に開発が進み、一基 半分残るのを見たが本年中には平担に整地されてしまう由。その道路反対側に神雷部隊訓練の地の碑があり、神雷部隊で訓練して居った新庄から説明があった。住友金属工業の入口際に当り貨物車の出入が頻繁であった。
 一一〇〇コンビナート入口の港公園着。展望台に登り、かつての神池空の跡地に建設された住友金属を始めとする鹿島コンビナート工場群と鹿島港を望観、丁度港内船舶の火災の防災訓練を眼下に見、遥か南の方に神他の一部が残った湖面を望見した。澄み切った青い空、紺の海面、一部に防風林の松林も見え、丁度高さも五〇米余の展望台、着陸態勢に入る第四旋回点に居る様な往時の気分になった。
 見物を終えコンビナートを通過して一〇分程、一一四〇神栖町役場裏にある神栖湖上公園に到着。まるかった神他の南端約1/6が埋め立てより残り三ケ月型の湖として残り静かにさざなみの立つ湖上公園に暫し見入った。神栖町に資料館建設の計画あり、神池空・神雷空の資料も入れて貰う様町当局へ申入れた由。(新庄談)
 一二〇〇鹿島グランドホテル着昼食。時間は十分余裕があるので飲み乍ら歓談食事を楽しんだ。
 ホテル前より東京駅へ直行、高速バスあり数名がこれに乗車、帽振れで別れ主力は再び潮来ホテルヘ戻り少憩の後潮来駅より一五四八発、特急あやめ号乗車、東京着後解散した。
 (世話人)眞鍋正人、新庄浩、恒川愛二郎、飯野伴七

(出席者)二十名、氏名略
(欠席者)川越、伊吹、小黒、鏡、茂木、渡辺光、花田、村瀬、高木、岡本、坂元、
(療養中)吉江、松山、清水、島田、竹内茂
(不明)三宅、計一七名。