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パインなにわ会三題噺

後藤  脩

平成四年四月四日、桜吹雪の散る散る港 横須賀パインに於いて、前年に続いての左近允尚敏、中村元一両兄を幹事とするミニなにわ会が開催され、19名が集まった。

(氏名掲載略)

一七〇〇開宴、両幹事の誘導よろしきを得て大いに飲み、食い、語り、唄うこと約三時間、なお名残尽きないままの散会となった。この席上、なにわ会全員に周知させるに値すると思量される事が三つあった。

その一は泉 五郎と山田 穣とが隣り合いで何やら話あっているうち、皆で聞いてやれの山田の蛮声が飛び、公開されるに至った泉の秘話。戦地・航海手当をたっぷり懐にして上陸し、パインで豪遊した。というあたりまでは単なる古戦場懐旧談だが、続いて人は見かけによらん、と言われるかも知らんがと前置きして出て来たのが、俺は戦争の終るまでバージンであったという告白。理由はなんだという問いには結婚するまでバージンでいたかったと言う答えである。西鶴作の浮世草子「世間胸算用」の群像にも重なりあうかのようなこの五郎の顔をマジマジと見直すことであったが、人は見かけによらんと本人が言うのだからウソはない。丹波篠山の故郷から江田島へ出て来た頃は純朴そのものであった五郎についての遠い昔の記憶がやがて浮かび上がり、結局納得した次第であり、かかる奇特ななにわ会会員が他にもいて、これを機に名乗り出て呉れれば、長生きも退屈するに及ばないと言う事になりそうだが、如何であろう。

その二は直立不動の野崎貞雄から達示のあった極めて真面目な提案である。趣旨は、参拝クラス会に於いて英霊のご両親の参加を見る事が難しくなったが、親御さんたちが既に九十の坂にあっては無理からぬことであり、よって、そうした機会に親御さんに記念品のようなものをお贈りしたらどうかというもの。席上、その具体化についての発言も若干あったが、年度幹事を中心に検討が進められる事を期待したい。

その三は宴たけなわに軍港小唄も横須賀、呉、佐世保、舞鶴へと一回りしてから、やおら加藤孝二が立ちあがった。これはヘルソングではないとの再三にわたる年押し上、唄いあげたのが次なる星影のワルツの替え歌。これは本人の説明によると、題名未定ながら、参拝クラス会の終った後、何となく風呂場で口ずさむもので、以来、一杯やると風呂場で独りよがりで唄っているというものであるから、五郎の秘話初公開の向うを張っての本邦初公開という事になる。

1 先に逝くのはつらいけど  俺のつとめよ国の為

  こらえ下さいお母さん  たぎる血潮の梓弓

  父さん母さんお達者で

2 戦い敗れて生き残り  倅を捧げた父母は

  うしろめたさの五十年 澄んだ瞳の亡き期友と

  心で語った五十年

3 せめてあの世で会うた時  貴様と俺の語らいが

  出来るようにと生きて行く 互いに眼線を外さずに

  お粗末話を語ろうよ

席上、小生が左近允幹事に本日は傑作あり、なにわ会会報に載せたらどうだと口を滑らせ、貴様書けと逆襲される羽目となったので、以上をもってその責めを果たすこととしたい。

まことに、口は禍の門である。