卒業30周年記念 江田島クラス会記
足立 之義
十年一昔と言われるが、もう30周年かと皆一様におのれの顔のしわや頭の白さを、今更ながら鏡に写したであろう江田島大会が3月24日盛大に実施された。一年前からのクラス会幹事はじめ、関係諸兄の絶大なご尽力によって、江田島に於けるクラス会・慰霊祭並びに宮島への移動と同地に於ける懇親会等、絶好の天気にも恵まれて全くトラブルもなく、極めて順調かつ盛会裡に終了した。流石は72期の面々、この間終始軍記厳正士気旺盛にして、陸上海上を問わず斉々たる行動を取られ、ご遺族に対しても懇篤適切なお世話をなされ、大方のご遺族、ご家族に深い感銘を与えられました。
以下経過概要を、順を追って簡単にご報告致します。
先ず前日の23日には、夕刻から続々と参会者がつめかけ
一術校専用の江田島クラブは勿論学校周辺の旅館もオーバーフロー気味となり、江田島地区甲板士官の池田誠七くんをハラハラさせた。この際、三十年の馬齢を取り戻そうと不埒な元気者も中にあって(加藤夫妻と鬼山隆三君)、古鷹山に登るといってスタイルも凛々しく出発したのはよいが、予定時刻に至るも帰らず、これまたハラハラさせる一幕もありました。その晩は役員当十数名が江田島クラブの会議室に集まって井上一術校長(68期)の差し入れの江田島銘酒に舌を湿しながら深更に至るまで明日の行事の打ち合せをした。その際、最も頭を痛めたのは、正確な顔ぶれと人数が解らないために、宮島の宿泊区分が決め難い宮田實君だったようである。
24日の朝は、役員諸君は張り切って午前7時から受付を開始した。参会者の出足は鈍く、8時頃から順番待ちの列ができた。連日の晴天続きで校門から続く桜並木も大分蕾が膨らんでいたが、まだごく僅か一部の早や咲きを除いて固く衣をまとっていたのは残念でした。
結局受付の集計はご遺族48家族、約85名、遺児5家族8名、生存者94家族、約132名、合計約230名でした。幼児等を含めればなお数名多くなります。
諸行事の時間的経過は次の通りであった。
0800から課業整列及び参考館見学
0930〜1115 クラス会 参考館映写講堂
1120〜1205 慰霊祭 参考館銘牌前
1205〜1220 記念写真撮影
1235〜1315 昼食
1316〜1415 校内見学
1400から 駆潜艇4隻に分乗
1430 4番艇出港
1530 宮島沖着。上陸開始
1630 宮島各旅館に分宿完了
1800〜2000 懇親会
25日0800 解散
クラス会・慰霊祭ともに、司会は地元世話係の一人として小生がやらせて頂きましたが、不慣れの為不手際の多かったことを、紙上を借りてお詫び申し上げます。
今回のクラス会では珍しく五家族の遺児(西山興作・久武博。品山宗次・塚田浩・奥平慶介各君の遺児)が招待されていたので、開会初頭来賓紹介に続いて皆様に紹介されました。司会の行事次第等の説明のあと、樋口輝喜君が地元幹事として挨拶し、続いて来賓代表として井上一術校長及び田中一郎旧教官から極めて感銘深い挨拶をいただきました。
来賓としては他に富所教官、平賀教授及び岡崎教授のご参加を得ていましたが、時間の都合上ご挨拶は割愛させていただきました。
最後に名村英俊君が遠路はるばる運んで来た「勝利の基礎」という七十期が一号時代の兵学校生活をえがたい映画を約四十分間映写しました。十六ミリ用の設備不十分のため、画面が若干暗いのが難点でしたが、往時を偲ばせるに十分で、ご遺族の中には眼がしらを押える人も散見されました。
慰霊祭は毎年靖国神社で実施していますので、できるだけ簡素にというのが当初の計画でしたが、折角思い出の場所で実施するのであるし、各クラスのやった前例との比較もあるので、簡単ながら一応の形式は全部実施しました。慌ただしい中にも老若男女を問わず参加者総員が、琴による「海行かば」の典楽が流れる中を、菊花一輪を献花して銘牌にお参りし得たことは英霊への最大の手向けであったと思います。
祭文は極めて簡単にして幹事樋口 直君が朗読し、最後に遺族代表白井暉彦氏(利徳君の見)の謝辞があつてから、全員遺族代表白井暉彦氏(利徳君の見)の謝辞があってから、全員で「海行かば」を合唱しました。さまざまな感懐をこめて流れる歌詞の一句一句が大理石の柱をゆさぶり銘牌の裏にまでしみ透るような感じでございました。
総員の記念写真といくつかのスナップ写真は、正門前の俵写真屋が写してくれました。別途参加者宛送付いたしました。
昼食は二日後に卒業式を控えた幹部候補生学校の食堂を拝借して、江田島クラブからの仕出し弁当をとっていただきました。さすがに齢五十歳ともなればスペアを欲する人も無かったようで、食数を気にしていた世話人としてもホッとした次第です。
食後約一時間の自由な校内見学の時間があって、それぞれおのが古巣を覗いて憤慨したり、感激したり、鉄拳の古戦場や八方園を散策したりしつつ早めに海岸に移動しました。
この間、参考館映写講堂では田中春雄君持参の海上自衛隊広報映画(遠洋航海)を映写しました。
呉地方隊所属の第二駆潜隊(かもめ・みさご・つばめ・はやぶさの四隻)への分譲も極めて順調に進み、予定の一四三〇には四隻とも官島に向け出港を終りました。桟橋がわりの除籍船「けやき」の上では、井上校長夫妻を始め平賀・岡崎両教授等が最後まで見送られ、各艇甲板上の姿・姿。姿か松ヶ鼻の緑に吸い込まれてしまうまで、いつまでも[帽振れ」を続けておられました。
午後になって多少風が出てきましたが、心配された海上輸送も極めて円滑安全に実施され、また宮田君の努力によって宮島での三軒の旅館への分宿も何等トラブルなく予定どおり一七〇〇ごろまでには完了しました。
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各旅館ごとに一八〇〇から盛大な懇親会が開かれ、大いに懇親の実をあげるとともに、一番大きい錦水館に大挙夜襲をかける部隊もあり、談論風発裡に、他の旅館に泊り込むものまで出る激戦もあったとか仄聞しております。
祝 詞 江田島八幡宮司 掲載略