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100号

 

杉田繁春君の慰霊参拝等

編集部

 

 

杉田繁春君は昭和63年から戦没期友の仏(祭)壇拝礼の為、ご遺族宅を訪問していたが、五十回忌が近づいてから墓参を決意、名簿から日帰り可能な範囲の遺族80余名を抽出して、墓地所在地を電話、手紙で照会、可能と判断した73名の墓地参拝を計画実施した。

そして、その結果を墓碑の写真各2枚にまとめ編集部に送ってきた。本人はニュース掲載を希望していたが、戦没者335名のうち73名のみを取り上げるのはどうかとの意見もあり、熟慮のうえ、掲載を断念した。しかし、

@ 60%ものご遺族の方が戦没状況を全く、又は殆どご存じでなかった。

A お話の中に出て来た生存期友の名は35名(生存者数の12%)。

この二つは是非ともなにわ会会員に伝えて欲しいとの強い要望であった。

また、杉田君は本土で亡くなった戦没者で、戦没地が具体的地名で表示されている別紙14名について、その現行地名を各市町村に照会した。戦後60数年経過し、更に大規模な市町村合併が行われた後にも拘わらず、照会に対する回答は予想以上に丁寧で熱意のあるものが多かったと言っている。彼はその結果を遺族に通知するとともに、編集部に送ってきた。それを纏めたのが別紙である。

なお、市町村の回答の中に次の上野典夫君戦没地の墓碑についての記載があった。 

 墓碑所在地 東金市三ヶ尻知先

 墓碑正面 海軍少佐上野典夫戦没の地

   裏面 昭和二十年六月二十三日

 墓碑建立者 東金市と東金市社会福祉協議会

 

次に杉田君が墓参した時、聞いた談話

1、高見隆三君の場合

当時新婚早々の花嫁談

「爆音がするので、戸外に出ると、戦闘機が真直ぐ自分の家の方向に突っ込んでくるので恐怖に震えたが、うまく村落を避けて向いの山林に落ちてくれて助かりました。」

2、渡邊清實君の場合

  戦没地山林の持主談

 「現場へ戦没者の母上を案内したが、平地では跛行しておられたのに、現場の山道にかかると、突如我々男でもついて行けない程の猛スピードで標高599米の山頂近くを目指して登っていかれた姿を見て、子を思う母親の心の強さと深さに村人一同感じいった。」