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100号

加藤孝二・押本直正両君の生き態と「なにわ会」ニュース

樋口 直

 

「オイ樋口!一寸コレ見てみろよ」と、加藤君が取り出したのは一葉のスナップ写真だった。写っていたのは当時鹿島組横浜支店に勤めていた安藤直正君のギコチない姿と1米ばかり横に離れてフックラした丸顔の美しい令嬢とであった。 
「次はこれ」二枚目は同じ二人が今度は間隔を50糎程に詰めて写っている。そして最後に見せられたのはスッカリ寛いで笑顔でピッタリ寄り添っている二人の写真だった。こうして「アンチユーさん」こと安藤中尉は押本組の社稜(しゃしょく)を継ぐことになった。
 間もなく、加藤、郡重夫君等と共に、私もご両人の結婚披露宴の末席に連なることになったのである。
 聞けば彼は戦時中、百里原で操縦教官だった頃、海軍体操の講習を受けに横須賀砲術学校に1ヵ月ばかりいた事があり、其の時に砲校にいた郡君の紹介で、湘南大津に在った土井輝章君のお宅に下宿させて貰ったことがあったそうだ。その時ので戦後も、マニラで戦死した輝章君の身代りのように母上には可愛がられ、そのお世話で当時大津小町として名を馳せていた押本家の一人娘寿子さんと結ばれることになったと言う。
 加藤君は復員後、百姓仕事の真似事をしたり、叔父の仕事を手伝ったりした後、家業の薬屋の店が在った横浜の伊勢佐木町でカメラ店を開いていた。安藤君は寿子さんとのデートの都度撮っていたフィルムをこの店に持ち込んでは現像・焼付を頼んでいたものとみえる。
 終戦直後から始まった復員船の受入れ港の一つに横須賀の浦賀があり、その運営機関の管船部に郡重夫、池田武邦、左近允尚敏君達がいたが、クラスの誰彼が引揚げて来る度に、東京、湘南近辺の有志が出迎えに集まっては、歓迎と激励の集いを持った。飲みしろと肴は郡君の手腕によった。ささやか乍ら、これが関東における戦後のクラス会の「はしり」であったかも知れない。その席上で何時も加藤君の発する熱い言葉は、戦死者の事、遺族の事であり、聞くもの一同に深い感銘を与えたものである。
 この頃、押本君は操縦桿を慣れない舵輪に変え、日本西方海面で掃海作業に従事していたはずである。
 敗戦と同時に兵学校第72期会はケシ飛んでしまっていたが、戦時中、青春時代を通じて結ばれた奇しき因縁の絆だけは残したいという思いから、何はともあれ、名簿作成が急務と手を付けたものの、終戦時の混乱から級友の生死の別も定かならず、農村は兎も角、都会在住者は戦災、疎開、避難等による移動が甚だしく、旧住所からの追跡も困難な有様で、折角の兵学校卒業前の生徒全員名簿も残念ながら殆ど役立たずであった。
 そのうちに占領軍の旧正規軍人に対する制約政策が次々に打ち出された。
 曰く、私信の開封検閲、集会の禁止、公職追放、大学進学者の制限、そして戦犯容疑者の逮捕令等。この為、名簿の整備は一層困難となった上にCID(CIAの前身)と之に協力する日本警察のガサ入れにより緒についていた原資料は散逸してしまった。
 そうこうするうちに、朝鮮動乱が始まり、過酷だった占領政策も急速に緩和されるようになって戦争を放棄したはずの日本にも国家安全保障の為の機関が認められ自衛隊の発足となる。
 この再軍備の準備段階に参加する級友も徐々に其の数を殖やし、この面での名簿の確認は、各地で細々と開かれていたクラス会での地域的な連絡網と相まってどうやらクラス会名簿らしい体裁を整えることが出来るようになっていった。
 昭和27年は日本の講和条約締結の年である。と同時に戦没者の7回忌に当る。世相は変わりつつあるとは言え、未だ逆風の吹く中、何としても戦死者の慰霊を行なおうという声が、加藤孝二、大谷友之、泉 五郎、府瀬川清蔵、小島末喜、松元金一、渋谷信也君等々の諸兄から上がり、不完全な連絡名簿を基に先立てるものの準備も無いままに第1回の慰霊祭が國神社で行われた。この時、押本君は新婚後、日も浅く、生まれた長男も未だ幼いのに、胸の病に(たお)れ、入院手術を余儀なくされた為、この行事には参加していない。 寿子夫人の悲嘆と絶望は思い半ばに過ぎるものがある。この年は、また、加藤君が熱烈な恋愛の末好子さんとの結婚を果した年でもあった。
 この時の爾後反省会には前記発起人のほか、澤本倫生、宮田 實、山田 良、佐藤秀一君が加わり、今後の方針として、慰霊祭は引き続き、昭和30年に10年祭、昭和33年に13回忌、昭和41年にレイテ海戦23回忌と折り目、折り目に行われていったが、参加ご遺族も最初の176名(会誌1号では190名)から、逐次246名、298名と増加し、名簿の整備充実の歩みが窺える。
 この慰霊祭の盛事に出席することが出来なかったご遺族や不参加の生存者にも其の終始を是非とも共有して頂きたいとの大谷君の動議が連絡紙(会誌)発刊の端緒となり、直ちに之に応じた泉 五郎、飯沢 治君が大谷君と一緒に其の任に当たったのである。
 この会誌は残念乍ら第3号で継続不能となり、其の後10年間はブランクとなる。ブランクの時期に予てからの懸案であった「卒業記念写真アルバム」の複刻版が完成し、希望者に配布された。
 終戦時のドサクサで、折角出来上がって横須賀航空隊迄送られて来た「アルバム」も全部焼却処分に遭ったものを辛うじて残ったオリジナルから複刊できたのはたまたま新聞社の写真部長をしていた白根行男君の兄君の尽力による。
 この間にも加藤君の執念は遺族との連絡、文通を絶やさず、密かに其の心情に触れるにつれ、彼の思い入れは、一層深まって行ったと思われる。そして、昭和39年、奇しくも「東京オリンピック」の年、加藤君の熱心な提唱で連絡誌復活の狼火(のろし)が掲げられ「荒野の七人衆」のアピールで「バイパスニュース」として再び日の目を見ることとなった。
 兵科のみの会は、昭和30年の10年祭のとき、発展的に解消し、兵科、機関科、主計科を合同した「なにわ会」として新生していたが、之も加藤君が遺族と深く交流するうちに、遺族にとっては戦死した我が息子、兄、弟が絶対の存在であり、海軍時代の同期生の観念にはなじみが薄く、中学時代の校友だった友が兵、機、経の区別無く一視同仁の戦友であるとの認識が強いことを痛感させられた為でもある。
 其の後も、相変わらず会の維持費は徴収せず、行事の都度、実費予算額のみを集め、「バイパスニュース」の発行費用も必要経費分だけを希望者から集め、配布は全員に行って、お互いの消息を交換する場を作ることに専念することになっていた。このシステムは一見、合理的に見えて実は大変な労力を加藤君に()いることになっていた。行き懸り上、購読料の収支の整理記帳、連絡、督促、決算等会計処理作業が、本来の仕事である投稿依頼、原稿用紙への書き写し、編集、印刷、校正、発送等の作業の上に重なることとなったからである。この時期の品川 弘、眞鍋正人、市瀬文人、大谷友之君そして其の後の名村英俊、山田良彦、北村卓也、安藤 満、高杉敏夫君等の献身的な協力無かりせば如何に熱意と実行力の固まりである加藤君を以てしても如何とも仕難かったであろう。
 間もなく、5年余りの闘病生活を終え、手術の結果失った右肺と肋骨の無い体で挑んだ大学3年の修学を終えて、伴正一君の紹介で外務省外郭団体の国際協力事業団に勤めた押本君も「なにわ会」に復帰し、この 「ニュース」発行に参画することとなった。
 当初は、現在の「ニュース」の体裁を創作し、編集の基礎を作り上げた実質的編集者だった品川君のやり方を見習い、校正だけに専心していたが、昭和48年「ニュース」29号の頃から押本君が自ら進んで編集まで手伝うようになった。品川君が体調の不振を訴え、遂には胃癌に倒れたからであった。彼は本来、文筆の才があり、また、自信も有ったのか、人並みのサラリーマン生活の出来ない身体的条件から、この方面で身をたてたいと考えていた節がある。仕事である海外移住業務に関連し、移住者の出身県、機関とのから、其の海外活動のドキュメンタリー、成功者の伝記等を執筆したり、海外旅行の紀行文を神奈川新聞に掲載したりする等、文筆家らしき事にも手を染めていたようである。「ニュース」の編集もこの目的に外れるものでは無かったのかも知れない。とは言っても奥さんも腎臓病に罷り、夫婦揃って半人前の身で、そこ迄引き受けるのは、五体健全の者とは違って並大抵の決心ではなかったのも事実であろう。
 事実上の編集責任者だった品川君の死去と共に、到来した押本編集長の時代はそれから彼が精魂つき果て、自ら交代を申し出た平成13年、第84号まで実に26年の長きに亙る。この間、毎年春秋2回の定期発行は一度の遅れも無く、一号の欠番も無い。昭和61年には胃癌を患い、其の大半を切除する手術を受けたことに思いを致せば正に驚異的な実績である。
 「バイパスニュース」は其の後「なにわ会ニュース」と名称を替え、今日に至っているが、之がどうやら軌道に乗ったと見るや、加藤君はすかさず期友の戦時中の活躍と足跡をクラスの歴史として取り纏め、戦死者の状況追求と併せて遺族に対するせめてもの(はなむけ)とし、また、生存者の記録とするよう各自の所謂「戦時記録」を徴集するアピールを行った。なかなか反応の無いのに業を煮やし、紙面をかりて再三、再四督促の(げき)を飛ばしたものの、結局は不発に終わってしまった。この動きとは別に、関西の「スーパーマン」菅井 超君が個人的興味からクラスの戦中経験等について具体的な記録を誰彼なしに執拗(しつよう)に求めていた。この求めに応じた級友は相当数に上ると思われながら、これらの資料は彼の手元に残ってはいるはずであり、然るべき目的を以て整理をすれば、何がしかの成果が得られるのではないかとも考えられるものの、その彼も今や()い。
 同様な意見は其の後、時を経て、遺族訪問に熱心だった杉田繁春君からも提唱が有ったが、残念乍ら之も具体化に至らなかった。もし、押本君をして健全な身体を持たせ、時間を与えしめたなら、彼の几帳面さと、粘り、そして積極性と興味を以てすれば、必ずやこのアイデアは生かされ、戦没諸兄鎮魂の書として金字塔を打ち立てる事になったであろう。 惜しみても余りある悔いの一つである。

 加藤君は編集の実務を押本君に譲ってからも、購読料の集金、会計処理と言う地味な縁の下の仕事は続けていた。彼らしい半面と言えよう。

 押本君の代になってからは、それ迄の合議制の編集会議は無くなり、紙面の変化もさることながら、手間も大分省かれるようになって、編集以外の印刷、発送等の雑務は全部印刷屋任せとなった。従って、新たに佐丸幹男君が加わり増強された協力者達の分担は校正のみとなり、必然的にコストも上がり、購読料の値上げを見ることになった。
 一方、名簿の方は昭和40年前後に、海幕調査部に来た水野行夫君の手で調査を進行し、どうやら名簿らしき体裁となったところで、折しも東京本社に帰任した大谷君に後事を託すことになった。それからの同君の不明者の追跡調査、新規掘り起こし、前後クラスとの移動確認、誤記録訂正等完成に向けての奮闘は目覚ましく、昭和52年頃迄に略完璧と言える迄に整備を完了して、市瀬文人君に引き継がれた。 
 この間の努力が崇って大谷君は社長にはなれなかったが、今に至るもクラスの「生き字引」として皆の信頼を(ほしいまま)にしている。
 この名簿係は単に名簿作製に止まらず必然的に個々との連絡、質問等も含まれる中々の激務である。そしてこれからの20年間はこの重責は市瀬君が負うこととなったのである。名簿は「ニュース」等の発送には絶対欠かすことの出来ない基礎資料であることは論を()たない。名簿係はやがて鈴木 脩君の手に移り、その下でコンピューター化が進むことになる。名簿記載者には全員背番号が与えられ、必要と思われる区分別に仕訳されて「ニュース」連絡事項の宛名印刷も自動的に行われるようになってスッカリ省力化、合理化されて今日に至っている。併せて、緊急時の連絡網も泉 五郎、藤井伸之、鬼山茂樹君等の手を経て完成した。
 押本君が「ニュース」発行に加わるようになって間もなく、「なにわ会」の運営にも大きな変化が到来した。それまで、金庫番として渋谷信也君が一貫して会計係を勤めて呉れた外は定まった幹事役は居らず、行事の都度、発起人の誰彼が渋谷君の店に集まってはワイワイガヤガヤと世話役を決めて体制を整え、イベントを行っていたものを、昭和43年から初代幹事を澤本倫生、大谷友之君として、毎年交替で責任幹事を指名し、全権を委任することにしたことである。会の維持基金こそ集めなかったものの、慰霊祭の都度御遺族から頂いたお志が無視出来ぬ額まで積み立てられ、この管理運用が必要になって来たことと、意志決定と責任を明確にし、対内的・対外的な顔をハッキリさせる為であった。交替制にしたのは、名簿、連絡紙等のインフラの整備が交替を容易にしたことと一人でも多くの会員が世話役を経験することで、「なにわ会」への関心を深め所期の目的を達成する為であった。この制度は現在でも続行されているが、未だ幹事役を担ったことのない者も数十人を残し、次の候補者には事欠かぬとはいえ、寄る年波は夫々の気力、体力の衰えを呼び、前任者の呼び掛けにも応じられない者も殖えてきている。幹事になり手が居なくなった時が「なにわ会」の終焉の時でもあろうか。
 とまれ、「なにわ会」が機能して来る為の血液となり潤滑油ともなった役割を果たしてきた加藤、押本両君の功績と貢献は絶大である。

思えば、加藤君は開港地横浜の商家の出身、情に厚く涙に脆(もろ)い寂しがり屋、七人兄弟妹の次兄ともなれば何事も妥協、妥協のコーディネーターが本領である。一方、押本君は大分生まれの九州男児、頑固一徹のワンマン育ち。「ニュース」の編集方針も一方は遺族中心の温情一辺倒、他方は門戸を拡げた機関紙色、全く対照的な御両所であった。

 加藤君はカメラ店の経営と「ニュース」発行の多忙の合間を縫って自らドライブして近県の遺族巡りを欠かさず、私もかり出される事しばしばであったし、「なにわ会」の旅行でも必ず行く先々で戦死者の墓参を予定することを主張した。得意芸の一つは「佐久間艇長の歌」の軍歌高吟であり、之を歌い出すと自ら陶酔して止まるところを知らず、たいして飲めもしないのに、度を過ごす事も枚挙に暇無しの有様。子煩悩は人一倍、欲しかった自分の子が出来ぬと覚るやキッパリ諦めて、愛情は専ら甥姪やクラスの子供達に向けられた。今でもカトーの小父ちゃんを慕うクラスの子弟達は多い。
 浦賀での引揚者歓迎に始まったクラス会の芽生えは引き続き加藤家における正月九日誕生日の集いとなり、その流れの一つが高橋ドクターのお陰で盛会な湘南新春クラス会となり、傍流が加藤家の「女正月」の集いである。之はクラス会には珍しく夫人連中中心の会で、亭主連中はツケタリの催しとなって久しい。参加する夫人連中のうち、未亡人の数も増えたが、遠来の石井 晃、相澤善三郎、後藤俊夫等の諸兄の秘芸開陳の場ともなっている、之も加藤君のみならず加藤夫人のオオラカで人を反らさぬ人柄が預かって力があると言えよう。

 一方、押本君は文筆家らしい個性丸出しの性格で二度の大病にも屈することを知らず、彼の落ち込んだ姿を見た事はない。遂には病を包み込んで友とするまでになり、同じく欠陥人間の寿子夫人とも相携えて旅することも屡々。好きなゴルフにあっては一ラウンドのコンペが終わるや、「アト ハーフ」。一・五ラウンドコンペが終わるや、日がある限り「モウ ハーフ」と延長を主張すること再三ならず。キヤデーには嫌われるは、パートナーからは呆れられるは。成程これなら半病人同志の夫婦の間で、「何時の間にか男子ばかり次から次へと三人も」とクラスの間で「七不思議」の一つに数えられていた謎も解けようというもの。聞けば、子供達は父親と一緒に風呂に入った記憶は無く、海の近くに住みながら海水浴に連れて行って貰ったことも無いと言う。傷ついた身体を家族といえどもその前に晒したくないとの押本流美学か。  
 団体旅行でも、同行者の迷惑などお構いなし、気が向くままに単独行動で行方不知となることもあり、其の天衣無縫の天動説人間振りは今や天晴れと言う外はない。その彼にもタツタ一つのアキレス腱があった。艦爆仲間の山田良彦君である。強引で我が儘な押本編集長をしてその冠に『名』の字を付けられるに至らしめた迷伯楽としてその名が高い。
 加藤君の様子がおかしいと気付いたのは、ゴルフの申告スコアが合わなくなった頃かと思い出される。間もなく電話番号の掛け違い、会合の日時のカン違いと続き、遂に数字の加減が出来なくなってきた。本人も自覚したらしく、「ニュース」購読料の徴収、会計処理を恒川君に手渡した。その頃からか何でも思い通りにいかないといらいらして癇癪(かんしゃく)を起こし、奥さんに暴力を振うこともあったらしい。 そのうちに排個が始まり、後を追う奥さんも大変だったと思われる。時には外に出たまま、帰路が判らなくなり、警察や消防署の厄介になることとなったが、送り届けて呉れる消防署員達から「面白くて為になる話をして呉れる小父さん」として中々の人気者だった由。原因は頻発性脳梗塞と言われるが、若い頃の交通事故で受けた頚椎(けいつい)打撲による頚動脈変形が脳血流を阻害していた為とも考えられる。
 殆ど寝たきりになってからも、癌手術を受け半病人の好子夫人は自宅療養に固執して自ら最後まで看護を続けたのである。意識の明瞭なうちに、身辺整理を済ませ、夫人の行く末も手配し、「なにわ会」関係の仕事も恒川君を介して、今まで渋谷君のしていた仕事も含め、窪添君と辻岡君に任せ、遺族との文通で()まった膨大な量の来簡も、亡き御両親の思い出として夫々の遺族の子弟に送り返し、すべて後顧の憂いには始末をつけてあった。 そして、最後は愛する家族に看取られ、主治医に手を()られ、感謝、感謝を示しつつ眠るがごとく消え去ったのである。

 押本君は自らも病を伴侶(はんりょ)とし、病弱の夫人を(いたわ)り乍ら、編集長を続けて来たが、昨春いよいよ自ら気力体力の衰えを感じ、編集長番替えを申し出た。見るからにやせ細って衰弱しているのが痛々しい程だった。そこ迄彼をコキ使って来た我々にも大いに反省すべき点はあるが、一面この仕事は彼の「生き甲斐」で取り上げたらガツクリ行くのではなかろうかとの配慮も有ったのである。有志数名が鎌倉に会同し、善後策を講じたが、結局今迄に各種の資料分析を行い、統計的にまとめて呉れた実績があり、且つ、元気印の権化を以て任ずる伊藤正敬君に後事を託することになった。押本君にしてみれば深い感慨と一抹の寂しさが有ったであろうことは否めない。体力の限界は感じていたろうが、5月になって心の支えと認めていた伴 正一君の訃報に接するや一層の気落ちと無常感に襲われたようである。それからは、急坂を下るように弱り出し、秋口には予断を許さぬ状態となり、今は懐しい旧横須賀海軍病院に入院することになった。
 入院当初の症状は重く、面会もままならぬ状態だったが、徐々に持ち直し、夫々が見舞に訪ねた頃には意識も言動もハッキリして来た。一時は年末を越せるかと危ぶんだのが、この分なら来春迄は大丈夫、ヒヨットしたら正月は外泊が許されるのではなかろうかと言う迄に快復していたのである。原因は血液癌による造血機能低下との事であった。機を一にして新日鉄に勤める長男も腎臓に腫瘍が発見され、同じ病院で手術を受けることになった。この間、山根君の心配りはまことに行き届いたもので、同じクラスメートとは言いながら、其の友情には全く頭の下がる思いがする。
 とまれ、長男の予後も順調に経過し、他の二児とも立派に育って幸せな家庭を営んで居り、孫も夫々二人ずつ、六人に恵まれ、家庭的な後顧の憂いは無いものと思われる。病弱な愛妻の健康を除いては。
 更に孫、子への思い出のよすがとして、自ら書き下ろした自分史とも言うべき『自叙伝』も残してあった。病床に在っても相変わらずの天動論具現者で、幼少の頃親しんだ故郷の駄菓子や漬物を取り寄せろとか、お下の処理をして呉れる看護婦のやり方が納得ゆかぬと文句タラタラであった。かくして小康を保っている様を家族に示し、安心して枕元を去らせた深夜、誰にも看取られることなく、(かん)()として独り幽明の境を踏み越えたのである。

 最後まで対称的な御両所ではあった。これをしもハマッ子アンチャンの純情と九州は熊襲(くまそ)の後(えい)の反骨との違いと言うべきか、将又スマートな偵察将校のナイーブさとヤクザなヘルダイバーパイロット気質との差と見るべきか? 二人に共通するのは、家族を愛し、友を慕い、「なにわ会」に尽くし、そして海軍士官の誇りと衿持を最後まで貫き通したことであろう。
 げに羨ましくも見事なまでに纏まりの良い生涯ではなかったか

 

(編集部)

これは、押本君が逝去されたとき、加藤、押本両編集長を偲んで会員に投稿を求めた時の樋口君の投稿である。

単に両君のことだけでなく、なにわ会の歴史がよく分る記事であるので、ここに掲載することにした。