100号
帝国海軍と父
春日美智子(春日仁の次女)
いつかは、と思っておりましたが、父と永久のお別れをして1年が過ぎました。 亡くなってからは、父の人生が、走馬灯のように思い出されます。
父は中学生の頃から、とにかく軍艦が好きで、軍艦の絵ばかり描いていたと言います。白波を立てて進む艦の姿ほど美しいものはなく、男のロマンだそうです。生涯の仕事に海軍を選んだのは、当時は軍隊のない国はなく、失業することがないと思ったからとか。戦争がなければ、予備役少将であがりだったかなと、申しておりました。戦争が始まった時は、ショックだったと言います。
父の父親は、銀行員で自分が旧制高校を出ていたので、息子にも旧制高校に進学して欲しい希望があったようですが、兵学校への進学は「それはいいだろう」と即、賛成してくれたそうです。 父は、父親の転勤で大阪の豊中中学から東京府立第四中学に転校しました。転校した日は、2.26事件の日だったそうです。当時は、国民には何が起こったのかは知らされず、父は交通規制があって通学が大変だったという記憶しかないといいます。
中学4年の時には、海軍に行きたいという希望がすでにあり、受験後、憲兵が身元調査にきたので、これは合格かと期待したがその年は不合格で、中学5年の時に、再度受験し、海兵に進学しました。兵学校の面接で、「兵学校に落ちたらどうするか」と聞かれ、「とにかく海軍関係の仕事に就きたい」と答えたそうです。
当時の海軍は、みんなの憧れの的だったそうで、父が駅から降り立ったら、少年達が家まで行列を作ってゾロゾロ付いてきたというのが父の母親の自慢でした。白い軍服は、眩しいくらいにカッコよかったことでしょう。 父の祖父は兵学校に入ったことを「誰でも入学できる学校ではない」と大変喜んでくれたそうです。
父は母親から「男は豪放磊落でいるべし」と躾けられたようですが、本当はどうだったでしょうか。
憧れて入った兵学校でしたが、同期の方々のレベルが高く、心身ともについていくのが大変だったそうです。
父は、戦艦「伊勢」、巡洋艦「五十鈴」、巡洋艦「摩耶」、伊365潜水艦に乗り組み、潜水学校、波201潜水艦で終戦(22歳)を迎えます。
潜水艦は、一度出撃したら二分の一の艦は還ってこられなかったそうで、父は8回の出撃だったので、生存率は2の8乗分の1で、限りなく零に近いと言っていました。
クラスメイトの半数が戦死されました。家には、弾を浴びて穴だらけの軍服が手元に残っており、日々死と隣り合わせだったことがわかります。潜水艦で生死を共にした波201の乗組員の方々とは、戦後もつい最近まで仲良く交流がありました。
8月15日の終戦になっても「我々、波201は、最後の一人になっても戦おう」「オー」と戦友と固く手を握り合ったと言います。潜水艦乗組員たちが言うには「先任将校は、張り切りボーイだった」とか。
終戦の日、父は、呉の海軍病院に、青酸カリを貰いに行くよう言われ、病院に取りに行きました。軍医は、黙って人数分の青酸カリを渡してくれたそうです。しかし、当時大学生くらいの年齢の若い将校に「自決目的」とわかっていて、簡単に青酸カリを渡すだろうか、というのが疑問だったようです。けれども、当時は「これは青酸カリの偽物かもしれない」とは言い出せず。軍医は、将校たちが自決目的に青酸カリを所望するのを見越して、偽の青酸カリを用意していたのかもしれない。この件は、とうとう青酸カリをのむ事にはならなかったので、真相はわかりません。
父は、終戦後、半年は、実家に帰る気にもなれず、実家に連絡もしなかったので、家族は「仁は、戦死したのだろう」と思って田舎に疎開していたそうです。
終戦当時は、米軍の指示で潜水艦を引き渡すべく、米国まで潜水艦に乗っていくという話も出ていたそうですが、結局は五島列島沖に潜水艦は沈められることになり、その時は感慨無量で涙を禁じえなかったと言います。
私は、終戦ですぐに家に帰れたと思っていたのですが、充員召集解除が昭和21年4月で、それまでは任務があったと言います。ですから、終戦の翌々年にやっと大学入学(24歳)。当時は、占領下にあり旧軍人には入学制限があったそうです。
父より少し若い世代は、学徒動員で勉強どころではなかったそうですから、受験の点数で入学を決めれば、軍人ばかりになる恐れがあり、若い軍人が再度集まって勢力になれば困るということだったのでしょうか。
進学先は、工学部の建築(京大)か迷い、銀行員の父親に相談したところ「日本は焼け野原。建築はどうかな」と言われ、工場を建てるといっても木造2階建しか思い浮かばない時代で、迷っているうちに、受験直前の2月に父親を虫垂炎で亡くしてしまい、遺言でもなかったが阪大工学部発酵工学科に入学しました。その頃、医学部に進学された海兵出身者は300名程おられたと思います。医学の指導的立場を担われた元将校には、坂元正一先生他、大勢いらっしゃいます。大学では、父が年上ということもあり、寮長をさせられたそうですが、主に、食料調達係だったようです。
そこで無理がたたり卒業直前に体調を崩してしまうのですが、大学の同級生からみれば、父はさすが将校だった人で、広い背中に厚い胸板の健康そのものというイメージしかないそうです。
卒業前の27歳の時に、郷里で母とお見合いをし、婚約をしました。
卒業後、体慣らしのために、しばらく郷里の京都府立峰山高校の教壇に立ちました。その時の教え子の中に、現在、楽天の野球監督の野村克也さんがいます。
野村さんは父の婚約者であった母の家に幼い頃から、よく遊びに来ていたそうです。母がケーキを作って、野村さんに父に届けてもらったりしたと聞きました。その後、母と結婚し、私と妹が生まれました。
大戦で焼け野原になった日本でしたが、戦後は繁栄し世界一の長寿国にもなりました。今こうしていられるのも、当時日本を支えて下さった方々のお陰と感謝しています。
また、なにわ会ニュースの最終号に、家族が寄稿させて頂くことができ、有り難うございました。