100号
岩松 重裕 |
終末が目の前に迫ったわけではないが、80歳を越えると、この年まで生き続けたわが生涯に二度生命の危機があったことを思わずにはいられない。一つは3ヶ月に及ぶ呉海軍病院での闘病であり、もう一つは軽空母千歳の沈没である。記憶を追って記しておきたい。
昭和17年8月某日 月曜日 腹痛に耐えられず海軍兵学校の医務室で診察を受けた。若い軍医中尉は「昨日倶楽部で食べ過ぎたんだろう」と胃の薬を出し、「医務室で休んでおれ」と。しかし、腹痛はいっこうに治まらず、とうとうその週の金曜日になった。金曜日は呉海軍病院から来る軍医少佐の診察を受けた。診断は盲腸(虫様突起に異物が入り炎症を起こす)の破裂による腹膜炎。直ちに呉海軍病院へ移送、その日のうちに開腹手術をした。盲腸のうみはポンプで吸出しフラスコビンに一杯となった。しかし腸の間に残っているうみは大型ガーゼ二枚で毎日取り替えて採るほかないと、開いた腹はそのままとされた。
それから3ヶ月、毎日ガーゼを取り替える。ピンセット2つでガーゼを抓(つま)んで引っ張り上げる。その痛さは例えようもない。ちょっと頭をもたげて私は自分の腹の中を見た。開腹をいつまでも縫合しないので聞いてみると自然に肉が盛り上がってくるのを待つのだという。したがって私は3ヵ月間寝台で上を向いたまま点滴と流動食で命をつないだ。
普通、盲腸は24時間以内に手術をしないと命は危ないという。それが一週間放置されたわけだがよく生き延びたと思う。わが生命力の強さか。12月に退院したが、学年末の試験を受けていないので73期におとされた。
もう一つは軽空母千歳沈没、生き残ったこと。昭和19年10月25日、千歳はルソン島北端エンガノ岬東方太平洋上で沈没した。午前9時半頃であった。
瑞鶴を旗艦とし4隻の空母を中心とする機動艦隊は10月20日豊後水道を抜けて南下した。その任務はレイテ沖の敵主力艦隊に突入撃破を目的とした大和・武蔵の艦隊を援護すべく、敵空母群を北へ引き付けようとした陽動作戦であったことは諸兄のよく知られるところである。陽動作戦は成功したにも拘らず大和以下の艦隊がレイテに突入しなかった「謎の反転」については、ここでは多くを語らない。
24日から敵艦隊に接触されていたが、わが方は自艦隊護衛の戦闘機を残して殆どの搭載機は発進させていた。25日午前7時半頃敵機来襲の報が出た。旗艦瑞鶴のマストに掲げられたZ旗を見て一瞬身の引き締まるのを覚えた。敵機は数十機の群で文字通り波状的にくり返し襲いかかってきた。詳しい経過は省略する。千歳は第一波の攻撃で後部に直撃弾、左舷の多くに至近弾を受けた。至近弾は遅動信管で水中に入ってから爆発し艦の水面下に穴を開けられ艦は左に傾き後部から沈み始めた。岸良行艦長は「総員上へ」と号令し、艦内の乗組みは甲板へ出てきたが間もなく傾斜が激しくなり、海へ放り出される者、飛び込む者が多くなった。艦長附として戦闘中艦長の側を離れなかった私は最後まで艦長と行動を共にしようと決心していた。艦長は艦の傾斜に伴って鞫(つか)まれるものを掴んで直立しはじめた艦の上の方に登っていかれる。私もその後についていた。そしてアッという間に艦は後部から沈み艦長と私はその渦に巻き込まれた。
5分か10分か、身体がぐるぐると水中で廻っていたが、弾かれるように海面に出た。艦長の姿は近くに見えなかった。詳しい事は省略するが半時間余り泳ぐうち私は軽巡五十鈴に救助され生き残ったのである。
千歳沈没の大渦からどうして弾き出されたのか。どうして渦と一緒に海底に引き込まれなかったのか。私の天運としか言いようが無い。
以上二つの危機は殆ど九分九厘命を落としていてもおかしくない経験である。そして多くの同期を亡くして私は戦後を生き今年は87歳を迎える。
三度目の正直がいつ来るのか、