海軍兵学校出身英霊銘牌再建記念式典に参列して
. 樋 口 直
この日、昭和四十一年四月十日の朝まだき呉の港一杯にこだまして鳴り渡るラッパに送られ.海上自衛隊旗(旧軍艦旗と同じ旭日旗)がスルスルと艦尾マストに上る。
間もなく″出港用意〃 ″舫離せ″
自衛艦七隻が次々に呉総監部繋留桟橋より解芟ォ出港する。今日の盛儀に参列する遺族千八百名、生存者九百名を江田内まで送り届けるために。
昨日一日降り続いたドシャ降りの雨が綺麗に晴れた文字通りの五月晴の中を海上一時間余りで江田内湾口に差しかかる。
洋久茂山を左手にその中腹に品覚寺を望んで津久茂水道を入ると真青な空を背景に古鷹山がグッキリと浮んでいる。
その下には第一生徒館が見える。
練兵場の松並木も砲術講堂も長門の砲塔も見えて来た。近づくにつれてグビット(短艇を吊す装置)の列も浮んで来る。
今日こそ兵学校出身四千余柱の英霊が母校の銘牌の許に還って来る日である。
顧みれば今を去る二十六年前、われわれ六六七名は希望に胸ふくらませて兵学校の裏門を潜った。第七十二期海軍生徒としての第一歩を踏み出したのである。
校門からの道は、くの字なりに海に向って延び、右手に御影石造りの大講堂を見て俗称赤煉瓦という旧生徒館を過ぎるとその先に新生徒館がある。そこから先は海である。
海岸線に沿って一列に並ぶダビットを左右に従え真中に本校の正門である表桟橋があった。生徒館の正面一帯は練兵場で芝生が綺麗に刈り込まれこの周りを亭々たる松並木が取り囲んでいた。南西隅にある砲術講堂と隣合せて戦艦長門の砲塔が海に向って四十糎の砲門を開いていた。
そして赤煉瓦の生徒館の裏手に真白な石造りの教育参考館が建っていた。館の周囲には日清。日露戦役の戦利品を配し内部には支那事変で初めて敵機と体当りしてフロートを大破した岩城少佐の愛機を始め諸先輩の遺品、教育資料が陳列されてあった。
正面に東郷元帥の遺髪室を配した二階の一画に特別神聖な場所が設けられていた。その所が名牌の掲げられていた場所である。
入校と同時に始められた激しい入校教育に明け暮れた最初の日曜日、われわれは朝食後第一種軍装(冬の軍服)に改め分隊毎に第六十九期一号生徒の分隊伍長に導かれ初めて名牌参拝を行なった。
参考館前の石段で靴を脱いで館内に入り「ネルソン」の遺髪を収めたガラスケースをすぎ正面階段を上り詰めて東郷元帥遺髪室より右に折れ資料室を廻ると名牌の前に出る。
′壁面一杯に嵌め込まれた大理石の板に本校卒業戦(傷病)死者の姓名が日付順に位階とともに彫ってあった。そしてその文字は聖徳太子のご真筆と伝えられる法華経義疏の中から祈りを籠めて拾われたものという。
遠くは日清の役の昔より近くは支那事変の今日までズラリと並んだ数百柱の名牌の前に一列横隊で向き合ったわれわれは今こそ帝国海軍の伝統と明治の昔よりえいえいとと流れる先輩の血に身近に触れる思いであった。
この戦死者の名牌と背中合せの位置に三枚に分けた大理石が嵌め込まれ、この処には殉職、公務死者の名牌があった。
やがて二号生徒となった時大東亜戦争が渤発し、戦局の進展につれてこの壁面を埋める先輩の名は日を逐って数を増していった。
三年の生徒館生活も瞬く間に過ぎて間もなく卒業を控えた頃、折に触れこの名牌の前に頭を垂れるとき、此処こそ何れはわが魂の落着き場所と覚悟を定めてみれば、何か心の安らぎすら覚えるのであった。
そして参戦ニカ年/ 卒業時六二五名のわが戦友は二八九名をもって終戦を迎えた。三三六名名の期友を失ったのである。
この敗戦の結果、帝国海軍発祥の地である江田島は当然進駐軍の蹂躙に委されるものと予想され、この教育参考館の建物は彼等の将校集会所かダンスホールにでもされるものと
思われた。
当時の管理責任者(姉崎教授、糸曾事務官、加藤兵曹等)にとって、貴重な遺品や文献の散逸に加えて、この聖域を侵されることは何とも我慢がならないことであった。
早々の間に膨大な資料を整理し、大部分は焼却されたが、特に掛替えのない者は厳島神社と大三島神社に急きょ献納の手続きが取られたのである。
最後に残された名牌は醜敵の辱めを受けることなく梢抹消された。
(後に破壊の上、海中に投棄されたと聞く。
かくしてこの名牌には我が期の戦没者名は遂に刻まれることなく永久に消え去ってしまったかと思われた。
国破れて山河あり。古鷹の名峰はその後も変わることなく、江田島の移り変わりを静かに見守って来た。敗戦の断末魔に続いて人気のない校舎を襲った枕崎台風の惨状から英濠軍の占領時代を経て海上自衛隊の幹部候補生学校・第1術科学校として更生する姿も。
第73期総会の席上、深田秀名・阿部三郎君等の提案で名牌再建の議が建てられたのは終戦後18年を経た歳の秋のことであった。
そして、ここに投ぜられた一石が「兵学校出身英霊銘牌設立準備委員会」として発足するまで更に一年の日子を要したのである。
昭和三十九年十二月八日発足した準備委員会は第三十二期から第七十七期までの生徒出身者及び選修学生出身者を網羅し、各級毎に募金と名簿の整理に没頭した。その後一年経って愈々完成の目途もつき、昔同様の大理石板を発注して、寺岡謹平元中将(我々入校時の監事長・機五十三期恭平の父君)の筆により記名がなされることになった。幸い江田島の幹部候補生学校・第T術科学校が全責任をもってお守りする旨の快諾が得られたので、大方の記念碑の如く路傍に枯れることもなく、この銘牌が永遠に我らの打ち建てた金字塔の証として残る時、戦没諸兄の英霊も安んじてその魂魄を此処にとどめる事であろう。
こうして全国より募金約四百六十万円(七十二期より二十七万円)と全級会生存会員の努力の上に、英霊四千十一柱(七十二期は三百三十六柱)を刻銘「された銘牌は再建されたのである。
除幕の式典に当たっては、一万二千通の案内が発せられ、三千名が参列されることになり、現地の呉海上自衛隊の全面的協力の下に宿泊、受付、案内、交通の計画が樹てられた。
こうして今日の参列者は自衛艦によって呉から江田島まで送り届けられたのである。
懐かしの江田島に入った自衛艦は次々に投錨し、更に上陸用舟艇に乗り換えた我々は校域の北の外れにある滑りに上陸する。ここは、かつて、夏休みの直前に行われた十マイル遠泳を終えてフラフラになりながらいき着いた所。(あの時のアメ湯と葛湯の何と旨かったことか)
今は春四月、爛漫たる桜に迎えられて潜水講堂、定員分隊跡を過ぎ、通信講堂横より新生徒館裏に出る。御殿山や将校集会所辺りの桜は今が見ごろで芝生も青かった。
式典の始まるまでの一時間余りを各級別に訳用意された休憩所で待つことにする。
我々七十二期の参列者はご遺族二百三十三名(百十八柱)生存者三十三名の多数に上り、新生徒館食堂が割り当てられた。
午前十時三十分 広島より海上自衛隊の魚雷艇で高松宮ご夫妻が表桟橋にお着き。(殿下は五十二期)
午前十一時 教育参考館内 銘牌前で除幕式。
この式場は非常に狭い為、各級より代表を選んで百三名が参列。七十二期からは最高齢の泉本脩君のご尊父と杉坂善男君ご母堂に参列を願った。
高松宮ご入室を待っていよいよ除幕が始まった。
海上自衛隊音楽隊の奏楽につれて、除幕者山本祐義君、栗山みつ子さん、杵淵はる子さんの三人の手で幕が引かれ大理石三面の銘牌が現れた。
右から級別に一期から五十九期まで、六十期から七十期まで、七十一期から七十七期までと選脩学生出身者の順である。各面十四列に英霊名を堀込まれた銘牌は何一つ飾り気の無い一面に、天井ドームからの光を受けて荘かに鎮まったのである。
殿下の献花を以って除幕式は終了し引き続き舞台は大講堂に移された。
一方除幕式に直接列席出来なかった大部分の参列者は同時刻迄に大講堂に参集し、式場より放送される除幕式の有様をテレビ四台で参観した。
午前十一時四十五分 大講堂に於いて慰霊祭、記念式典を挙行。
音楽隊の国の鎮め奏楽裡に高松宮を始め実行委員、遺族、生存者代表の玉串奉奠が行われた。
この後、実行委員高田利種元少将より銘牌設立の由来と経過について報告があり、続いて広島県知事(二年現役の海軍主計科士官)、防衛庁長官より祝辞が述べられた。
終ってこの銘牌は防衛庁に贈呈され、今後の維持、管理は防衛庁の手に委ねられることになった。
以上を以って式典を終了したが、古くは三十二期の老先輩や千八百名にもおよぶご遺族が大講堂の石畳の上に二時間もの間起立した儘参列されたのであった。
式を終えて大講堂前の広場に集まった我々七十二期はご遺族2,30名ごとに数名の生存者が付き添って銘牌の参拝と校内見学に出発した。今日の世話役の目印である小型の軍艦旗がアチコチにはためく中を昔ながらの小砂利を踏んで大勢の列が赤煉瓦の前を通過する。北側の空地に特殊潜航艇蛟竜と海竜を並べ、入口正面に四六糎砲弾の実物模型を立てた参考館の内外には昔の戦利品や戦勝記念品は姿を消し、代わって今次大戦関係の遺品が目立つ。
終戦時厳島神社や大三島神社へ献納の形で隠匿された重要資料も返還を受け、広瀬中佐、佐久間低調、坂元艦長等の遺品は昔のままに揃っていた。東郷元帥の遺髪は昔の儘に納められているが、その等身大の見事な肖像画は、今はない。
二階正面のかつての戦死者銘牌のあった一画は特攻室として整備され、特潜、神風、回天、神雷、震洋隊戦死者の銘牌と遺品が陳列されている。
終って参考館前で一同記念写真を撮影した。26年前我々入校前に、未だ娑婆の中学生服の儘記念写真を写したあの場所である。
終って昼食をとったのは午後の一時を過ぎていた。大食堂のたたずまいは少しも変わっていなかったが、食卓の並べは横平行になり、食事のラッパとともに一斉になだれ込んだ三方の扉の中庭側の大半は閉鎖されている。当直監事の食卓のあった辺りに売店やコーヒー・ジュースの自動販売機が置いてあるのも今昔の感に堪えない。
食後、今日参列のご遺族に記念品として銘牌と同じ大理石で作った灰皿と銘牌写真をお渡しし、七十四期より差し入れのペオウシコ0ラで喉を潤して頂く。
午後二時、生存者全員で行う軍歌演習に参加するため雨天体操場をえて正面玄関より校庭に向かう。老若八百が二重になって喉も裂けようと歌う艦船勤務や軍艦マーチに、四千の英霊も声を和して古鷹に木霊するのであった。
高松宮をお送りして一切の行事を終えたのは午後四時になっていた。
再び自衛艦に便乗して呉或いは宮島へ向かう時、岸壁には大勢の見送り人が帽子を振り、ロングサインが送られてきた。
再びこの地に見えるのは何時の日か。の感慨゙をこめて見送る中に古鷹山がくっきりと浮かんでいた。