003号
機関科整備期友の死闘(斎藤 義衛)
その1
65年前の昭和20年に入ると水上艦艇組は新型駆逐艦或いは特殊潜航艇整備長要員として内地に帰投しており、整備の期友の多くが比島の基地に進出して、1月9日の米軍リンガエンに侵攻以来陸戦隊として勇戦奮闘しているとは其の詳細を知る由も無かった。以下数回に分けて整備期友の奮闘を偲び、改めて鎮魂の意を捧げたい。整備の期友は12名が戦死したが、9名が比島の戦場で散華した。
2月27日 堀 哲男 (クラーク)
4月24日 増井 吉郎、松山 行輝、青木 光雄(クラーク)
5月27日 国生真三郎(イロイロ)
5月30日 成瀬 秋夫(リンガエン)
6月7日 山崎 登(タルラック)
8月3日 関谷 年男(イスバラ)
9月11日 菊池 滋(テタイ)
比島に於ける整備期友の死闘の模様は、比島に進出し強運のもとに生還した金枝、北村(H10年逝去)両君の戦記に残されている。
なにわ会HPの戦記を是非一読されたい。
金枝君は台湾に於ける新部隊編成の任務を帯び、1月26日の最後便にて高雄に転進、終戦を迎えた。また、北村君は部隊がその頃マニラにあり、敵の侵攻に備え東海岸へ移動し終戦を迎えた。そして捕虜収容所に入るが、11月に復員帰還。所が翌年正月突如として逮捕され、C級戦犯容疑者として巣鴨に収監され、6カ月後に再び比島の法廷に戻されるが無実として23年の秋帰国すると言う得がたい経験を味わった。
その2
比島に散華せる期友は米軍の上陸を迎え、本務ならざる陸戦隊の指揮官としてクラーク防衛海軍部隊に組み込まれ、陣地構築に、又部隊を引率しての比島北部への悲惨な転進行と正に死闘と言うべく、在校中陸戦の教程があり架橋工作或いは野外陸戦演習と思い出は尽きないが、まさか之が現実となった期友の心情は如何ばかりかと思いを馳せる。圧倒的な上陸軍との戦闘、土民ゲリラとの戦い、食料の欠乏、マラリヤその他の疫病の蔓延とさながら生き地獄の様相。
その中で成瀬秋夫君は中隊の元気な若手を選んで夜襲に出たまま帰らぬ人となったという。生徒時代の彼の勇姿が彷彿する。
菊池 滋君(兵器整備)の部隊(830名)は米軍侵攻に備え、マニラより遥か北方のツゲガラオ目指して400`の道を徒歩で、しかもゲリラと疫病と戦いつつ30日かけて転進する。軍律は乱れその惨憺さは想像を絶する。ツゲガラオでは陣地構築、ツゲガラオ海軍防衛部隊として戦う。彼は転進行の中で中隊長として部下の信頼を集め責務を成し遂げたが、不幸にして悪性の疫病に倒れ米軍に投降寸前に輸送中病死した。(9月11日)彼がクラス最後の戦死者となった。
私は菊池君とは4号時同分隊だった。入校初日の分隊での自己申告で栃木訛りの訥々の彼の申告は1号生徒の集中砲火を浴びたが、されどひるまざりし彼の面影は今も忘れない。戦後復員した部下の回顧録を見ると、多くの部下が彼の統率を賞賛し又思慕しているのに感銘。菊池君は我がクラスの誇りである。
兵科の期友
数日にわたって、斎藤義衛君が比島の陸上戦で悲壮な戦死を遂げた期友の鎮魂の言葉を書いてくれたが、兵72期の次の期友も同様不本意な戦死をしている。ここに謹んで哀悼の意を表する。
今田勝治君(兵器 20.02.20 戦死)
熊川 博君(熊野から横鎮付 20.06.10 戦死)
佐藤 宏君(兵器 20.04.28 戦死)
土井輝章君(木曽から31特根 20.02.15戦死)
等も同様であろう。土井君の最期については、なにわ会ニュース48号10頁の記事を再読して頂きたい。(HPにもある。)