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003号
66年前の元旦
斎藤 義衛
(2010年元旦に記す)
新年を迎える毎に、昭和19年(1944年)の元旦を鮮明に思いだす。
天佑のような幸運が無ければ、昭和19年の元旦は確実に我が19歳の命日となっていた。
その前年の秋に機関学校を卒業した我々はトラック島への実務訓練の後、それぞれ各艦への配属が発令され、私は第二水雷戦隊旗艦巡洋艦能代乗組となり、再び艦隊主力が集結するトラック島に赴いた。
戦況は既に米軍の反攻作戦が開始されていたが、トラック島はまだ平穏な日々であった。暮も押し迫って大淀・能代及び駆逐艦数隻によるニューブリテン島カビエン(ラバウルの北)への陸軍部隊・軍需資材の揚陸作戦が下令された。30日にトラックを出撃した作戦部隊は19年の元旦にカビエンに到着、早朝から沖合に漂泊し、各艦大発をもって揚陸を開始無事完了。そして引き上げんとする時刻に「対空戦闘配置につけ」の号令。
南の水平線の彼方を見ると群がった虻のような敵機の一団が遠望された。敵機動部隊よりの百数十機の奇襲である。
私は直ちに戦闘配置である缶室の指揮所に駆け降りた。艦は「最大戦速」に増速中で、300度30気圧のボイラーはまるで咆哮するがごとく。
私に取っては初陣、初めての実戦。恐怖以前の無我の状態であった。
これは後で兵科の連中から聞いたことであるが、能代は旗艦で先頭を走っていた為か一番激しく攻撃されたらしい。そして敵機は先ず雷撃機が3機位ずつ魚雷発射するも、これは難無く回避出来たらしい。続いて急降下爆撃が始まる。
缶室では外界の状況は想像する他は無い。最初に間隔を置いて主砲(15サンチ)がダンダンと艦を震わせる。いよいよかなぁと体に力が入る。暫くすると高角砲(8サンチ)がダンダンダンと連続的に打ち上げが始まる。艦は右へ左へと揺れる。そして間もなく機銃が豆を炒るように一斉に騒ぎ出す。さらに覚悟を新たにする。暫くして激震を感じ、艦全体が下から突き上げられるような激動。至近弾だろうか、そんな状況が数回続く。しかし缶室の灯も消えず、蒸気の噴出も無く、無事安泰。
戦いは数十分で終わり、能代は艦も前部破口より浸水の為、前傾となり艦首を水面に突っ込みつつ戦い終わり、灰皿を見ると一口か二口しか吸ってない煙草が山のように積まれていたのを妙に覚えている。
無事2日夜半トラック島に帰投し、翌日には古賀連合艦隊司令長官が来艦された。この戦いで生還した私は一人前の海軍士官になれりという自負があった。この戦いで10名が戦死し、その中に缶部の兵隊1名が含まれていた。しかし被害は慄然たるものがあった。
戦闘中の最大の衝撃は、敵機の250キロ爆弾が一番砲塔と二番砲塔の中間に命中、直径5メートルの孔を空け、中・下甲板を貫き舷側大破口をあけた時であったと判った。然しそれが盲弾であったのだ。正常に爆発していたら。
至近に弾薬庫があり瞬時にして能代は轟沈していたであろう。開戦当初は米軍の魚雷には不発があったようだが、開戦3年を経過して投下爆弾が不発貫通とは天佑としか言いようがない。
我が命日は昭和19年元旦なりと冒頭に述べた所以である。
我がクラスの戦死者57名の第一号は1月11日に対潜水艦戦闘中戦死した球磨乗組の石井勝信であるが、私が第一号になっていたかも。
被害修理の為能代は応急処置後1月18日横須賀軍港に向けてトラック島を後にした。2月に入るとトラック島は敵機動部隊の大空襲を受け壊滅した。
【参考】: 能代(二等洋艦)の行動・要目など
建造所 |
横須賀工廠 |
― |
起工、 |
昭16. 9. 4 |
― |
進水 |
昭和17. 7.19 |
― |
竣工 |
昭和18. 6.30 |
― |
行動 |
昭和19. 1. 1 |
カビエンで米空母機の爆撃を受け損傷、 |
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昭和19.2.1 |
横須賀工廠で修理開始 |
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昭和19.3.19 |
横須賀工廠で修理完了 |
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昭和19.5 |
渾作戦参加 |
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昭和19.6 |
マリアナ沖海戦参加 |
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昭和19.10 |
比島沖海戦参加 |
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昭和19.10.26 |
ミンドロ島南方で米空母機の雷撃を受け沈没。 |
要目 |
排水量 |
7,710t |
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長 さ |
162m |
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幅 |
15.2m |
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吃 水 |
5.63m |
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速 力 |
35knot |
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乗 員 |
約720人 |