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伊藤義一の聖戦日記

父 伊藤義一は海軍兵学校42期で海軍大佐で昭和17年10月予備役に編入され、即日応召、11月特務艦(油輸送艦)艦長を命ぜられ、以後19年6月まで1年8月の長い間、東はラボールから西はシンガポールまで、速力9ノットの艦で敵潜から雷撃を受ける危険のある海面を行動し、無事その任を果たした。その鶴見は父退艦1ヶ月後の19年7月敵潜の雷撃を受け沈没している。
この1年8ケ月の日記が聖戦日記と名づけて残っていた。あの戦争が聖戦であったかどうか、戦後62年経過した今日では異論が多いと思うが、当時父は聖戦と思って奉公していたと考えるのでそのまま聖戦日記という言葉を使用することにした。


離現役から応召まで

伊藤 義一

父が昭和十七年十月 海軍大佐で予備液に編入されて応召され特務艦鶴見艦長として赴任するまでの日記を清書したものである。

将官となれなかった悔しさがにじみでている日記である。

また、応召されて出征するとき死を覚悟しているのが日記によくあらわれて いる。

 十月五日

 技研で精密技術分科研究会があった。この日は廠長代理当直のため四時着の電車で航海実験部に帰った。十六時十五分総務部長から電話で十日附横須賀鎮守府付の内報あり。行き先不明とのこと。急用の件あまたあるためこれをすまし、ちょつとほっとしたとき、これは来たるべきものが来た。予備役間違いなしと考えた。七年前の出来事が頭の中に往来した。工務主任、係官に転勤の旨通知すると共に申継ぎ事項を話し、多分止めると思うとつけ加えた。十七時十五分総務部長に会った。 廠長は出張不在。総務部長が人事部長に尋ねてくれたが分からないという。多分止めると思って話をしても修養不足のため気にかかる。今夜は『時局に処する道』という本を読んでみたが数カ所思い当たるところがある。去るものは去らしめよ。一輪の花。花は散るころが実を結ぶ。
 今夜十時にベッドに入ったがなかなか寝つかれぬ。

 十月六日

 八時二十分人事部一課長土井大佐を訪ね様子を聞いたが不明。鎮守府付の人が多いという。大方止めると思った人なり。横鎮下の人が鎮守府付どなるのは九分九厘まで止めると考えて至当と思い、いよいよ離現役の決心がついた。それにつけても七年前の不徳不才、一本調子の所が自分の最大の欠点なり。今夜帰宅、恵子に話した。信用せざるも少しも乱れたるところなきは嬉しい。
 寝についたが色々のことが往来しなかなか寝られず。

十月七日

 工員殉職。技術研究会の予定であったが、八日に延期す。葬儀はお寺で行う。

十月八日

 技術研究会 最初にして最後の研究会。九時より十五時三十分まで。この日総務部長より鎮付で予備となる人には内報ありしも君のみはその中に入っていなかった旨話あり。多分土井君の関係と考えられる。
 

十月九日 

 航海本部に行き退職挨拶を行う。皆知らざるものの如く首席部員に聞いても不明。 

十月十日 

 本日付横鎮付。八時十五分人事一課長より電話あり。来てくれと言う。九時頃行ったら君は十六日応召と言う。配慮を謝し、廠長に挨拶、各部長にもその旨伝えるとともに礼を述べる。生徒となってから三十一年間の現役を去ると思うと寂しい。これも自分の至らない結果、誰を恨むこともなし。自分のごときものが止め、それに伴い他の士官の士気が向上し戦力向上に資さなければならない。一殺多生、公平に見ればこれなるも修養の足らないためであろう。嘆く。帰宅後恵子に告げしも平然なり。

十月十一日 

 田島、村山、土井、秋吉、本山、有賀宅へ挨拶に行く。

 十月十二日 

 土井高大佐着任
 

十月十三日 

 退任。 鎮守府に挨拶して帰宅する。

十月十四日 

 村山、田中その他六部関係の人々に手紙を出す。

 十月十五日 

 庭をいじくる。

 十月十六日 

 九時過横須賀鈴木宅を訪ね挨拶。十時人事部に至り召集令状、離現役の書類を受領、手続きを行う。応召するは十名あまり。十一時頃長官に挨拶して帰る。本日にて完全に予備液となる。皆元気よくスッとして不平がましき言をなすものなし。

十月十七日 

 十時三十分発の急行で一人帰郷。汽車なかなか込む。十七時三十分四日市者

 十月十八日 

 委女墓参り。姉とともに八幡様に参拝。村役場に立ち寄ったが辻村長不在。小ヤプで汽車を待ち合わせ中興三郎さんが会いに来てくださった。年は八十九才という。なかなか元気なり。耳は聞こえないがツヤツヤしている。午後二時過寛太郎さんを、三時本宅を訪問。別荘で寛さん、岡本さんとともに夕食を戴き、六時半頃叔母さんとともに西川原の竹内良吉母堂の喪を弔い、九時四日市に帰る。三郎さん、もとえさんも来ている。

 十月十九日 

 早朝桑名竹内叔母さんを訪ねたところ千葉の修平さんが見えていた。赤ちゃんも大きくなっている。十時半四日市で兄と三郎さんとともに湯の山行き。日曜ではないが電車なかなか込む。行楽等たまに英気を養う人多い。旅館で昼食をし午後アチコチを散歩。五時半四日市に帰る。てるおばさんも来ている。かず子さんもいる。四日市の本家もなかなか賑やかなり。

 十月二十日 

 八時 かず子さんと赤ん坊とともに東上。十八時三十分帰宅。

十月二十一日 

 休養
十月二十二日 

 休養

 十月二十三日 

 原町田にかぞえさんを訪ね夕刻帰宅。土井君来宅。

 十月二十四日 

 家事

 十月二十五日 

 午前田島来訪。午後鎌倉に美濃郡君を訪ねる。


鶴見艦長発令からラバウルで着任するまで

 十月二十六日

横須賀鎮守府人事部へ。鈴木、崎山にもよる。つるみ特務艦長とか。 GFか。

 十月二十六日

 恵子と最後の熱海行き。常盤館に一泊。団体休養客多い。風邪気味なりしも湯に入る。一流旅館とて居心地さほど良いとは思えず。お隣の別室には潜水艦乗艦の兵曹さんが夫人同伴宿泊していた。

十月二十八日
 正午過横浜着。竹の丸に平田宅を訪ね別れの挨拶を行う。夕刻帰宅。

十月二十九日

風邪を直すつもりにて休養。村山夫人令嬢を伴い来られる。

恵子と市岡少将宅を訪問、仲人を依頼す。横領賀近藤夫人も来る。また横須賀鈴木君の来訪あり。
十月三十日 

 休養 

十月三十一日 

 午前中より横頴賀崎山未亡人、令嬢来訪あり。数刻話して帰られる。夕刻航海実験郡池沢中尉、井上工員来たり航海実験部職員より見事な記念品を贈られる。午後四時より正装及び軍装の写真をとる。女中の『とし』を入れてとる。

十一月一日 

 午後一時過、雨の中を横浜オヒチ様来訪。午後六時より瀬戸、丸山、北河、小摘、小出、竹内、直井金一、直井源也、永久保会長九名を招待、出征中の留守を頼む。方々より進物もあり御馳走時節柄少なからず。皆さんに満足して貰って十時過散会。よい思い出なり。

十一月二日 

 横須賀行。風邪も大分良くなったが昨夜の煙草のためか急に喉を悪くした。人事部、長官、経理部に至り所要と退庁の挨拶を行い六日横領賀発の航空便と決定す。往返とも鈴木宅に立寄り四日市へ出発の打電頼む。帰路雁野宅に立寄り恵子も五日の婚礼に欠席の旨依頼して来る。夕刻平田佐義君来訪。右の旨伝えたところ五日同家の世話になることとする。

 十一月三日

 明治節。電話にて別宮氏を訪ねようとしたが都合悪く先方より午後来訪するとのこと。午前中明治神宮に参拝す。参拝する人幾十万なるかを知らず。帰路五反田にてカバンと本を求めて帰る。午後別宮夫妻の来訪あり。土井君午後来訪。同夜の夕食は恵子と昭嘉と三名なり。うち同士なり。

十一月四臼 

 理髪に行き毛を仏壇の引出しに収める。午前庭の掃除等を行う。枯れた葉を焼き壊れた瀬戸物、ガラスを埋め蔦の根を切り、穴を掘って枯葉の埋めるところとする。午食後東京中学校長、教頭を訪ね昭嘉を依頼し、帰途奥田、長谷川、田島宅を訪ね三時頃帰宅。さらに庭の木を切っているとき四日市兄夫妻重い荷物を提げて来る。涙の出る程嬉しい。その荷物はお米、牛肉、野菜等多い。夕方久し振りにて牛肉のすき焼きを食べる。秋平さんも来る。七時頃雁野君来る。ちょっと一杯の夕食を供し終った頃有賀君も来る。其の後兄夫妻と語り十一時過寝る。

十一月五日

 前三日ぐらい、荷物をまとめておったところ午前中荷ごしらえを終る。姉さんにも色々と手伝って貰う。午後三時半『とし』一人のみを残し隣に挨拶を行い恵子、昭嘉、兄夫妻とともに横浜に向かう。昭嘉と二人で蔦屋支店に荷物を託し平田宅に落ち着く。富田の叔母さんも見える。大賑わいのふるまいを受け写真も撮り同夜は恵子、昭嘉と親子三人の最後の夢を結ぶ。

十一月六日 

 午前三時起床。平田宅は、同夜は徹夜の如し。四時十五分恵子、昭嘉、兄夫妻、富田叔母さん、平田夫妻、平田本家子息の見送りを受け飛行場へ向かう。全くの暗夜。四時五十分着。随分急いだが到着した時、客は一人も居らず、漸くにして他の十三名の客も来る。五時二十五分休憩所発、港別れの握手をして乗艇。五時半艇は出発す。飛行艇の出発の別れは汽車、艦等よりあっさりなり。上空に至るに従い寒く靴下を橋本大佐より借用す。同行の大佐伊藤徳尭、成田喜代蔵、橋本道雄、中里隆治の五名なり。皆此の秋離現役の人のみなり。なかなか話もあい面白い旅なるも空と海と雲のみ。時に島のみ見える。午後二時半サイパン者。六根友成少将を訪ね水交社に宿泊。成田君と隣の部屋に入る。夜町まででたが何も買うものなし。

十一月七月

 七時水交社発。飛行場に至る。七時五十分発。十二時三十分トラック者。水交社に至り午後四根司令部に武田中将を訪ね港務部に中村大佐を訪ねて帰る。

十一月八日 

 午前GF司令部に出頭、着任の挨拶を述べ長官に伺候、参謀長に挨拶。警備隊司令、四根司令部に至り明日ラボール行き航空便を依頼し水交社へ。夜は南貿倶楽部に五人集まり一番早い自分の送別会を催してもらう。まことに有難い。同夜通信隊司令木岡−大佐も見えたり。同夜は自分のみ水交社に泊まる。水交社の使用人は全部軍属。道具は全部官品なり。

十一月九日 

五時四十五分水交社発。七時飛行場より中改の軍用機の指揮官席にてラボールに至る。天候良好ならずとの気象なりしも操縦士の高度航路良く恙無く十一時三十分着。和智中佐七同行、金沢中将、草鹿中将を訪問挨拶を述べて、十三時三十分陸発にて鶴見に乗艦。艦長藤田大佐は転勤を予知せず。夕刻電報にて転勤発令あり。同日准士官以上に挨拶す。艦はなかなか暑い。
    (あとは聖戦日記に続く)

 

聖戦日記  目次

聖戦日記その 1    17年11月
聖戦日記その 2
    17年12月
聖戦日記その 3
    18年 1月
聖戦日記その 4
    18年 2月
聖戦日記その 5
    18年 3月
聖戦日記その 6
    18年 4月
聖戦日記その 7
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聖戦日記その 8
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聖戦日記その16
    19年 2月
聖戦日記その17
    19年 3月
聖戦日記その18
    19年 4月
聖戦日記その19
    19年 5月
聖戦日記その20
    19年 6月
聖戦日記その21
    19年 7月

なお、鶴見の行動要約は次のとおりである

聖戦日記その2 

聖戦日記その51    19年 11月
聖戦日記その52
    19年 12月
聖戦日記その53
    20年  1月
聖戦日記その54
    20年  2月
聖戦日記その55
    20年  3月
聖戦日記その56
    20年  4月
聖戦日記その57
    20年  5月
聖戦日記その58
    20年  6月
聖戦日記その59
    20年  7月
聖戦日記その60
    20年  8月

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