下級生誘導ノ指針
指導官 原田中佐
¶緒言
抑々下級生誘導と部下統率とは其の本質に於て趣を異にするも、下を導く点に於ては一脈相通ずるものあり、而して部下統率は吾等海軍将校の本領にして、如何に個人として優秀なる才能を有するも、部下の統御思ひに任せず、部下をして全能力を発揮せしめ得ざるが如きは、指揮官として資格なきものなり。
軍隊は謂ふまでもなく有事に際し敵に勝つ事を目的とするが故に、其の結合は最も鞏固ならざるべからず。而して其の結合を最も鞏固ならしむるには中心たるべき指揮官に部下をして帰一結合せしむべき能力なかるべからず。此の能力を部下統御といふ。
換言すれば部下統御とは部下をして指揮官に心服せしむる意に外ならず。
即、下級生誘導の極致も亦下級生をして上級生に心服せしめ上級生を中心とし之に帰一結合せしむる事に帰結するを以て、如何にして良く下級生を誘導すべきかを研究体験する
事は軈て光輝ある本校伝統の継承者としてその責務を果たす所以なると共に部下統御研究の一助たるものなり。吾人は最上級性として下級生誘導法に関しては事前に充分なる研究を行なうと共に実施に当りては其の業績に即応し細部に亘り工夫改善に努め当面の責務を完遂すると共に将来の資となす事に心懸けざるべからず。
以下下級生誘導に当り心得ふべき主要事項を列記し参考に資せんとす。
h第一 最上級生徒たるの光栄と責務を感得すべし。
日清、日露両戦役に於ける我海軍の赫々たる戦果は勿論、今次大東亜戦争に於けるハワイ、マレー沖、両海戦を始めとし各海戦に於ける帝国海軍の偉勲は実に我が海軍伝統精神の発露にして、この光輝ある海軍伝統精神の根元は実に我兵学校の伝統にあり。
而して吾人は其の第七十二番目の継承者として、愈々下級生誘導の位置に立たんとす。其の光栄思ふべし。此の光栄は我兵学校最上級生徒たるもののみに与えらるヽ誇なり。
而して吾人は此の七十余年来の輝ける伝統を克く継承すると共に更に之を洗練美化するの責務を有す。漫然として徒に従来の惰性に押さるヽのみにては不可なり。宜敷吾人は理想を有せざるべからず。本校の伝統にも時代に順応して当然改善せらるべきものもあり。吾人はよく検討し助長すべきは更に助長し棄つべきは棄て、常に層一層よりよく之を完成の域に達せしむる事に努めざるべからず。
而して伝統の美化とは畢竟下級生誘導法に関し不適当と認めらるヽ事実を改善し行くを意味するに過ぎず。蓋し適切ならざる誘導法は真に下級生を誤らしむるものなり。
(例、週番生徒室に於ける姓名申告)
¶第二 下級生誘導の目標
下級生誘導の目標は下級生をして克く軍紀に慣熟し軍人精神を体得せしめ戦に強き生徒を練成するにあり。即死して後已む底の至誠に徹せる軍人を作るにあり。
この事に関しては勿論校長始め全教官監事は全力を傾倒し其の衝に当らるゝ所なるも尚上級生は本校の美風として其の分に於て直接之が誘導の任にあるものなり。
而して此処に注意すべきは、我国は今や未曾有の大戦に従事しつつあり。生徒は孰れも卆業の暁は直に戦場に馳せ参じ、部下を率ひ陣頭に立つべき重責を負うるものなり。
平時の如く卆業後更に修練の余裕を有せず。少くも精神的方面に於ては卆業と共に立派にお役に立ち得べきを要求せられつつある事実なり。
戦時下に於ける現在、吾人の下級生誘導の責務も平時に比し実に倍加せるを覚ゆ。生徒に温室の花を作るを以て足れりとすべからず。北海に、南海に極寒の地に酷暑の地に強き風波に抗し撓ゆまざる気力旺盛なる軍人を練成せざるべからざるなり。
h第三 下級生の実情を確認し且自己の身分を知るべし。
「敵を知り己を知れば百戦殆からず」下級生の実情も自己の身分をも深く省察する所なく漫然と下級生誘導の任に当るが如き事あらば、誠に危険至極にして総ての錯誤は之より生ずるものなり。
吾人の誘導せんとする下級生は海兵団に徴集せられたる新兵の如きものにあらず何れも全国より選詮せる苟も将校生徒として入校し来りたる者且己も又将校生徒たるを思わば、之が誘導法は当然将校生徒らしく其の間自ら気品なかるべからず。野卑なる誘導法(例えば弥次的足蹴にするが如き、或は腕組みし威嚇的態度をとるが如き)は採らざる所なり。故に従来斯くの如きものありとせば、速やかに改むべきなり。
次に一年乃至二年の長ある自己を標準として下級生を判断せえざるを要す。特に新入生徒に対する場合然り。自己の頭脳を以て判断すれば容易なりと思考せらるゝ事も下級生には困難なる事あり。又生徒員数の激増せることは兎角示達の徹底を欠くこと多し誘導の懇切と熱を要する所以にして尽くすべきを尽くさずして過早に誠意なしなどと判断し鉄拳を振るうが如きは厳に慎むべきなり。
h第四 下級生は自信を以て誘導すべし。
軍人修養の事は一生涯の事なり僅か兵学校生徒二ヵ年を以て完成し得るものにあらざる事勿論なるも一号生徒は下級生に対し一年或は二年の長を有す須く充分なる自信を以て積極的に下級生の誘導に邁進すべし。
唯戒心すべきは往々にして最上級生徒ともならば最早修養終われりとなし独善主義に陥り稍もすれば監事の指導に服するを潔しとせざるが如き例を見る事あり、誤れるも甚だしきものにて、軍人は常に謙虚ならざるべからず。小成に安んずるが如きは誠に恥ずべきなり。謙虚なるが故に、常に自ら励み、其の真摯なる態度が不知不識の間に下級生を感化誘導するものにして、所謂実践躬行の境地は此処にあり。
h第五 生徒館は最上級生徒の天下なりと独断すべからず。
生徒館生活は生徒の自律の生活にして必ず、必ず監事指導の下にある事は服務綱要に銘記さらるゝ所なり。然るに往々にして生徒館内務に関しては監事の指導を待たずして「期」の裁量により如何様にも取計ひ得らるゝが如き誤解を有するものあり。所謂自治と混同せざるを要す。生徒館の自律とは監事の主旨を体し生徒館軍紀を生徒の間に於て相戒め保持し行くを云うなり。
h第六 最上級生徒に所謂特権と認むものなし。
最上級生徒の特権として最上級生徒は生徒の埒外にあり生徒館軍紀は最上級生徒自ら範を示すにあらずして下級生のみに之を強ひ下級生を専ら叱咤修正するを以て最上級生徒の任となすものであり大いなる誤解にして服務綱要に「上級生は下級生の模範たるべきものなり」と明示しあり。再読するを要す。即ち下級生誘導の根本は実に上級生が下級生に範を示し以て自従実践は最善の誘導法たり。
一つの垂範は百の説法に優る「基本乱れて而未治者は否矣(はあらじ)」即大本乱れて其末治まる理なきなり。
自が犯則行為をなしつゝ下級生に対して之を厳守せよと要求するも実行せらるべきにあらざるなり。上級生徒は先ず自ら責むること最も厳なるべし。
命令者の資格は先ず自ら其の命令に服従するにあり。命令者の要求する最初の服従者は実に命令者夫れ自身なり。命令者にして自ら其の命令に服従せざる範を示すに於て誰が其の命令に服従せんや玩味すべきなり。
h第七 下級生誘導に当り些も弥次気分あるべからず。
苟も将校生徒を誘導すべき重責にあるものは其の態度真摯なるべきは当然なり。
下級生は何れも将来海軍の槓幹たるべきものなり。之が重責を思ふとき豈弥次気分あるを得んや。然るに下級生は最上級生徒に対し絶対服従の地位にあるを幸ひ、往々にして弥次気分を以て旁々最上級生徒の威を示さんとするが如き所作に出ずる者あり。斯の如きは所謂稚気に類するものにして前記第三項にて述べし如く将校生徒らしからざる誘導法なると共に下級生に対する最上級生徒の威信を失墜し誘導の実を掲げ得ざる所なり。銘記するを要す。
h第八 徒に大声叱咤するを以て熱意の発露と誤解する勿れ。
下級生修正に当り事更に大声を発し或は肩を聳し如何にも熱せるが如き態度をなすものあり。斯の如きは将校生徒らしからざる所作にして速かに改むべきなり。下級生に注意を与ふるには、簡単明瞭要を得之を好く了解せしむるを要す。必要以上の大声を発し或は冗長に亘るは修正の本旨を徹底せしむる所以に非ず。
h第九 感情に走る勿れ
「自ら制する能はざる者は他を制する能はず」。自らを制するを得ざるものは下級生誘導の資格なきものなり。即自制力なきものは自己の感情を露骨に現し、理性を失い、判断の正鵠を失し、処置適当ならず。徒に鉄拳を振ふが如き弊に陥るものにして最も戒心を要す。淘謠\
相互に職責を尊重すべし(伍長、週番生徒等)
従来週番生徒が服務細則を充分研究せざる結果越権行為に出ずる者あり。兵学校例規週番生徒の項を再読玩味するを要す。全て軍隊の指揮竝内務遂行に当りては系統を追うべきものにして所謂「ショートサーキット」は厳に慎むべきものとす。唯に軍紀を乱すのみならず、成果を収め得ざる所以なればなり。各分隊は伍長が監事の命を受け分隊の軍紀風紀の維持振作に関しては全責任を以て之に専念ししあるにして、週番生徒が伍長を経由せずして分隊内に立ち入り干渉するがご時は不可なり。
週番生徒は自己の職責上不都合を発見せる時、当該伍長に通報し、之を処理せしむべきなり。次に伍長は週番生徒より通報ありし時は指導の足らざるを恥じ、直に適当なる処置を講じ、徒に自己分隊を弁護し、或は之を看過するが如き狭量なる所為あるべからず。又其の他一般最上級生徒と雖、週番生徒の統率に服すべきは当然にして、最上級生徒なるの故を以てその埒外にあるものにあらず。従来稍もすれば週番生徒対伍長及一般一号生徒間の関係円滑を欠き相互に相手にせざる態度に出で、延いては期として下級生誘導上間隙を生ぜる例多し戒心すべきなり。
相互によく其の職責を尊重し其の統制に服し、期が一致団結し思想を統一して下級生誘導の任に当るは誘導の実を発揚すべき最大の要件なり。同級、同列と雖も克く其の職責を尊重し、之が統制に服し、軍紀を振作しつつあるは、我海軍の伝統的美風なるを銘記するを要す。
¶結言
以上鏤々論述せる所は之を要するに下級生誘導の要諦は一の誠心にあり。私心を棄て熱意を以て誘導にあたる、之なり。軍人勅諭に「一の誠心こそ大切なれ」と訓し給へる大御心は詮ずる所軍人は常に無私の境地に於て事に処すべきを明示し給へるものとはいさつす。世に人として完全無欠なる人格の所有者はあらざるべし、而して誠心は一切の欠点を払拭して人をして明鏡止水の境地に導くものなり誠心のほとばしる所、必ずや下級生の絶対の信頼を受くるに至り、誘導の成果は期して待つべきなり。
即誠心のある所、真に下級生の将来を懸念する熱情となりて現る。上級生も人なれば下級生も人なり。人が人を導くに熱を以てする時、誰か之に感動せざるものあらんや。而して此の熱意は必ずや自ら持するに厳にして垂範躬行、懇切丁寧、克く功を急がず。水かr感情を制して意志の力を以て、下級生を動かす境地に到達し得べきなり。斯の自ら至誠足らずして下級生誘導の何物なるかを弁へず。只従来の惰性に押さるるままに、何等の定見も有せず見様見真似を以て漫然誘導の任に当り最上級生徒の特権を信じ、自ら垂範するにあらずして、徒に叱咤修正するを以て誘導の本体となし、鉄拳を揮って強圧せんとするが如きは下級生誘導の根底を覆すものなり。而して従来実践躬行は下級生誘導の根本成るべきは十二分に認識しつつ実施にあたりては、多く然らずして専ら最上級生徒の威力を以て下に臨み之を強制せんとするに至るを例とす。
上よりの圧力去りて自由の境地に置かれし時人間修練の真実の姿は現はるるものなり。吾人は強圧せらるるが故に軍紀に服するにあらざるは将校生徒として誠に恥ずべきなり。自由の境地に於て尚整然と軍紀に服し所謂実践躬行以て下級生に範を示さんが為には一に吾人の意志の力に埃つ外なし。吾人は将来に於ける地位を思ひ、宜敷く意志の鍛練に努め級友の切磋琢磨と相埃って稍もすれば崩れんとする意志の力を相励まし生徒館の軍紀を厳守し以て下級生に範を示し、誘導の成果を揚ぐる事に努めざるべからず。
また下級生誘導に当り肝要なるは期の一致団結なること、概ね前述の如し。而して従来の期の方針に副わず期の団結に間隙を生ぜしむるは小数の所謂異常性格者とも認むべきもの及超然主義者とも称すべき最上級生徒なり。上よりの圧力皆無をなるを幸、モぱら生徒館生活を享楽せんとするが如き自己本位の思想の本に下級生誘導に対し感心を有せざる者之なり。斯の如き期の一致を破壊するが如き異常性格者は宜敷く期の間にて切磋琢磨、未然に之を防止せよ。また超然主義者は実に本校の伝統に反するものにして将校生徒として誠に恥ずべく下級生に対し、先輩としての資格のなきものなり。以上を要約するに、熱意と期の一致団結は下級生誘導の根本なり。
ー終ー