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私の海軍 

           和田恭三
 

左から 和田恭三、平野律郎、後藤俊夫」、畊野篤郎

100号の原稿を書くに当って私の座右にある会誌1号から99号までざっと目を通してみたら何と数日を要してしまった。それにしても本当に立派なものを残してくれた初代の編集長以下伊藤兄までの方々の努力、工夫がしみじみと感じて来て感謝の気持ちで一杯になった。
 私の江田島卒業以後の海軍は転勤の電報と共に何か前線から離れていくような感じで、会誌に記されているような臨戦感に乏しいものであった。練習艦隊の後は軍艦金剛の乗組で配置は通信士であった。(金剛は3戦隊の旗艦であったので戦隊司令部の通信士を兼ねていた。)

初陣は19年6月の「あ号」作戦であったが、どういう風の吹き廻しか金剛には一発の弾丸も魚雷も当たらなかったし、航空機の襲来も無く終わってしまった。作戦の後、内地へ帰って機銃の装備強化をやってリンガへ進出、猛訓練をやった。私の配置はこの時点で通信士から高角砲指揮官へと変わった。いざ新しい配置でと張り切っていた折に、水雷学校付に転勤になった。私は同盟通信社の飛行機に便乗させてもらって横須賀に行ったところ、配置は九州だと言われ、川棚の魚雷艇訓練所に着任した。震洋隊の指揮官要員であった。部隊は訓練も終わって部隊長を待つばかりとなっていて即日「第25震洋隊和田部隊」の部隊長となった。
 軍艦金剛は私の退艦後間もなく次の作戦に出動しいろいろの海戦に参加し、内地へ回航の途中潜水艦の攻撃を受け台湾沖で沈没した。この間のことについては艦長付兼甲板士官であった故長山兄の手記によって詳しく述べられている。(会誌9518ページに記載)

大変な苦労があったようだ。
 
 さて、震洋については会誌86号の66ページにその概要が記載されているのが、海軍最後の特攻兵器でベニア製のボートに250キロの爆薬を装着し敵艦に体当たりするもので、我が部隊はその艇50隻の兵力であった。部隊編成は部隊長以下士官50名その他下士官兵200名の所帯であったが独立部隊として行動出来るよう一通りの装備は持っており、食料、燃料等もあり、移動の時は貨車で100輌程の荷物であった。隊の性質上夜間攻撃が必至であり訓練は概ね夜間攻撃の繰り返しであった。
 昭和19年一杯で訓練、整備を終了し、部隊は沖縄に配備の予定で輸送船に積荷したがフィリッピンの戦局急変によってマニラ方面へ出撃することに変更され、昭和20年1月10日佐世保を出航した。ところが出港2日後に電報が入り、マニラの戦局が急変のため間に合わず、馬公特別根拠地隊の指揮に入るようにとの命令があり、1月20日に台湾基隆に入港、部隊は揚陸後列車にて高雄へ、更に駆潜艇に分乗して馬公に移って基地を建設、訓練を続けた。
 ところが6月になって沖縄の戦局が急となったので、またまた当部隊は沖縄に近い基隆への移動を命ぜられ、連日の空襲の中を強行移動したが、この間敵機と交戦中数次に亘り計32名の戦死者を出してしまった。
 そして8月15日終戦、部隊は現地入隊の予科練生を帰省させ、兵器や燃料の大部分を警備隊に引き継いで東海岸に移り、高砂族部落に入って自給体勢を整えたが翌年3月になって急に内地へ帰れることになり、部隊全員をつれて無事帰国することが出来、私はいろいろな人のお蔭で任務を全うすることが出来た。
 今、思い反してみると終戦のラジオを聞いてから翌年の内地帰還までが私の一番難しかった時であった。召集で我が部隊に入って来た百余名の兵達と予科練出の搭乗員の諸君を全員無事で帰国させるのが私のその時点での総ての任務と心得、特に毎日毎夜私の心から離れない問題であり悩みであった。良くもまああれだけの大事業を成し遂げることが出来たものだ。
 以上会誌100号に際し、私の海軍を簡単に述べてみたが、先に書いた通り私の場合はどうもタイミングが合わなかったようだが、人間は生まれた時から運命が決まっていると言われるから唯それに乗っていただけかなと思う。戦後の仕事についてはご承知のように一寸変わった仕事であったが十分世の中には尽くしたつもりでいる。 

日本の(或いは栃木県の)酪農にいささか貢献したと思っている。 仕事以外のこと、ゴルフなどでも一通り優勝とかホールインワンとかいろいろな経験をさせて頂いた。古い会誌を見ていると、ところどころで投稿、掲載もして頂いている。自分史も一応発行した。等々もう終わりに近づいてもよいだろう。これから先、数年せいぜい気楽に生きてゆけることを願って稿を終る。

 (なにわ会ニュース100号80頁 平成21年3月掲載)

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