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平成22年4月17日 校正すみ

戦時体験を語る相澤善三郎君

 編集部

 これは平成2012月に発行の『ジェイ シップス』34号に掲載された相澤善三郎君のインタビュー記事で、最初にA4判1頁全部を使って写真が掲載されている。
なお、相澤君のB29撃墜については、昭和2712月発行の会誌1号となにわ会なにわ会ニュース93号に掲載されている。

-―相澤さんは「零戦単機による「撃墜」という、たいへんめずらしい戦果を上げられた方だとお聞きしました。今日は海軍の中でも、戦闘機のパイロットとして見たあの戦争についてお伺いしたいと考えております。そもそも相澤さんは、なぜ海軍へと進まれたのでしょうか。
 
相澤
 私が軍隊へと進んだのは、父親の意向が大きかったように思います。私の家はもと新潟の出なのですが、日露戦争の頃に東京に移り住みまして、親父は小石川にあった陸軍の砲兵工廠で働いていたようです。ところがその工場が関東大震災で焼けてしまい、九州で再建すると決まったときに、親父は工場を辞め、その退職金を元手として製材所を営むことにしたのだそうです。

やがて昭和になり、「すわ、戦争か」という時代になって、うちは男4人、女1人の5人兄弟でしたから、誰か一人くらい軍隊に入らなければならないだろう、ということになりましてね。そこで三男で年頃の私が兵学校へと進むことにしたんです。一つ上の兄貴なんかは大の兵隊嫌いでしたから、「せっかくおまえは頭の出来が良いのだから軍隊なんかよりも東大へ行け」と言ってくれましたが、親父には軍への「義理立て」みたいなものがあったのでしょう。言ってしまえば「時節柄、世間体を考えた」ということでしょうか。
陸軍ではなく海軍を志したのは、どうせなら見栄えがいいほうがいいと思ったから(笑)。陸軍のゴボウ剣なんかよりも、海軍の短剣のほうが格好よく見えたんです。当時の海軍にはスマートなイメージがありましてねえ。
海軍兵学校に入学したのは昭和15(1940)年。日本とアメリカが戦争を始めるのは、私が2年生のときのことです。昭和18(1943)年の卒業後、霞ヶ浦海軍航空隊に入隊しました。
   
-
 パイロットの道を選ばれたのは、どういう理由でしょうか。


相澤
 これも特別な理由らしい理由はないんですよ。強いて言うならば、私にはなんでも悲観的に考えちゃうクセがありましてね。それに海軍の飛行訓練が行なわれる場所は茨城の霞ヶ浦でしたから、実家が東京にある私にとつては日曜ごとに我が家へ帰れるのも魅力でした。フネのほうに進むと、ひとたび海に出てしまえばしばらくは家へ帰れませんからね。


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 「戦争に負けると思っていた」とおっしゃいましたが、敗戦を経験したことのない当時、なぜそのようにお考えに至ったのでしょうか。


相澤
 昭和14(1939)年のノモンハン事件(満州国国境を巡っての日本とソ連による紛争)以降ずっと、日本は世界中の国々を敵に回しての戦争です。ましてや、アメリカまで敵にしちゃったんですから、勝てるわけがない。

 中学生の頃から私は国際情勢に興味があって、教師たちから話を聞いたり、兵学校でも図書閲覧室に行ってはよく新聞を読み比べたりもしていました。例えばアメリカという国には世界中からデータが集ってきていて、優秀な頭脳だってどんどんアメリカに集っている。ノーベル賞受賞者だって、アメリカは当時でも50名以上も出していたでしょう。そういう事実を一つ知っただけでも、「アメリカというのはすごい国だ」ということは、子供だって分かります。そのアメリカを敵に回すのです から、悲観的にもなりますよ。
 海軍には頭の切れる人たちがたくさんいましたから、まさかアメリカを相手にして戦争なんかしないだろうとタカをくくっていたのですが、どういうわけか戦争することになっちゃった。

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 海軍兵学校在籍中の昭和17(1942)年、ミッドウェイ海戦で日本の空母機動部隊は大打撃を受け、戦況は悪化の一途を辿ります。戦況が思わしくないことについて、兵学校の生徒たちは気付いていたのでしょうか。


相澤
 ミッドウェイ以降も、兵学校の様子はほとんど変わらなかったと思います。教官たちからは昭和18(1943)年に山本五十六長官が戦死されたときは訓示がありましたけれど、戦況については何もお話になりませんでしたし、生徒のほうも「東條英機閣下が必ず勝つとおっしゃっているのだから、負けることなどありえない」なんて言っているばかりでした。

 海軍兵学校ではたくさんのことを教わりましたし、たいへん感謝もしておりますけれども、殴る習慣だけはいただけません。上級生が殴ってばかりいると、殴られる方はそれが嫌で、ただ殴られないことだけを考えて行動する。思考停止状態になっちゃうんですね。それだけが原因ではないとは思いますが、当時生徒たちは戦局なんてひとつも考えずに日々を過ごしていたように感じられました。
 兵学校を卒業した私が最初に所属したのは、岩国基地の第332航空隊という部隊です。昭和19(1944)年の7月のことですから、6月にマリアナ沖海戦で敗れ、ちょうどサイパン島が陥落して、これから米軍による本土爆撃が始まろうとしている頃のこと.私たちは本来なら空母の艦載機に乗るために訓練を続けてきたはずなのですが、すでに主力空母はみんな沈められてしまって、母艦航空隊なんてどこにもありません。海軍なのに、内地の陸上での基地勤務になったのはそうした理由です。
 今思えば、岩国への配属は、私にとって非常に幸運なことでした。というのも、岩国基地では高高度での飛行訓練をみっちりやらせてもらえたんです。その経験が後々のB29迎撃戦で大いに役立つことになりました。
 飛行訓練は燃料に余裕がなければ出来ないものです。ところが、高高度での飛行というのが、またものすごく燃料を食うんですね。岩国の部隊は海軍の重要拠点・呉を守るために配備されていたのですが、燃料廠に近く、他の部隊に比べて燃料が豊富に使えるという事情があったのです。当時日本軍機は高高度に上がれば性能はガタ落ちでしたから、そのためにも十分な訓練が重要でした。
 この時の332航空隊の司令が柴田さんという方で、今でも感謝しているんですが、非常に部下を信頼して訓練も自由にやらせてくれたのが大きかったですね。私は上司にも環境にも恵まれたんです。

-
 高高度での飛行というのは、それほどまでに違うものなのですか。


相澤
 私が乗っていたのは、52型という当時最新鋭の零戦(零式艦上戦闘機)でしたが、それでも8000Mを超えたあたりから、気圧が減っていくのに比例して馬力が出なくなってしまうんです。1万Mの高度では、馬力は地上の五分の一くらい、「飛んでいる」というよりも「空気にぶかぶか浮かんでいる」といった感じです。ちょっとした操作ミスで失速してしまい、あっという間に3000Mくらいすぐに落っこちてしまう。7000M以下とは全く感覚が違います。

 敵である米軍はと言いますと、既に排気タービンエンジンが開発されていましたから、1万Mの高さだろうと、まったくお構いなしです。十分な訓練もなしにいきなり零戦で1万M上空へ飛んでいって米軍機を相手にしろと言われても、それはまず不可能なことだったと思います。

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 B
29を撃ち落したときのことを教えてください。


相澤
 昭和20(1945)年にもなりますと、すでに日本の各地はB-29によって頻繁に攻撃を受けていました。私も332空の主力とともに岩国から兵庫県の鳴尾基地へ進出、関西方面の防空・迎撃に当たっていたのです。

 米軍は編隊による大規模爆撃を行なう前に、必ず、綿密な偵察を行います。私が撃墜したのは、こうした偵察を行う「F-13A」という偵察型のB-29でした.
 あれは昭和20年1月下句旬、晴天の日のことです.その日の朝、中部軍管区から「B-29偵察機が関西方面に向かう」という情報が入り、私はすぐさま零戦に飛び乗って発進しました。高度6000M以上でエンジンが止まる恐れがあると禁止されてはいたのですが、無理を言って高高度用に気化器をいじった機体で、これが大当たり、気持ちよく上昇しましてね。およそ30分後、私が1万1000M上空に到達したことを確認すると、地上の指揮所かち「カラス〈B-29〉はスズメ(私の乗る零戦)の1000北にあり」と知らされました。目標を補足してからは、ひたすらいつもの練習を思い出すよう自分に言い聞かせ、ゆっくりと好射点へ機体を滑らせます。
 やはり反復練習の成果でしょうね、引金は驚くほど落ち着いて引くことができました。主翼の左右に装備されている20mm機銃から曳光弾の光が伸び、B-29の機体に吸い込まれるように飛んでいきます。B-29は数ヵ所から真っ黒い煙を吹いて飛び去って行きました。飛行場に帰投後B-29が潮岬南方海面に墜落したことが分かり、私の撃墜が確認されたのです。

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 F-13は爆撃の必要がないので自由に回避行動をとることができ、1万Mの高度を常に高速で飛ぶので、通常のB-29より撃墜は難しいとされています。相澤さんの単機による撃墜は非常に珍しい戦果と言えるでしょう。その後、相澤さんは零戦から雷電に乗り換えて戦っていますね。


相澤
 雷電はいろいろ扱いづらい機体で、搭乗員が不慣れな間は事故も多くてね。迎撃用の局地戦闘機ですが、高高度で性能が落ちるのは変わらず、むしろ零戦の方が戦闘し易かった覚えがあります。私は一機でも多く敵を落とすのだと、ただひたすら戦争が終わるその日まで本土防空の任務に明け暮れしましたが、B-29はなかなか落ちない飛行機で、戦闘中に撃墜を確認できるのはまれでした。

 もっとも、これは戦争が終わってから分かったことなのですが、アメリ力側の資料によれば、我々が思っていた以上に戦果は上がっていたようです。100機のB-29がやってきたら、そのうちの10機は帰還できなかった。たとえすぐに撃墜が確認できなくても、こちらの弾を受けてサイパンへの帰り道に支障を来たし、墜落する機体も多かったためです。また、サイパンまで帰還できたとしても、全損となる機体もあって、それらを全部含めるとかなりの被害を与えていました。
昭和19年にフィリッピンで戦って生き残った方たちにお話を聞いたりしますと、「あの時戦闘機があったらなあ」というようなことを、皆さんおっしゃいます。戦闘機の価値というのは、敵を撃墜することだけではないのです。敵を威嚇することに大きな価値があるんですね。ただ飛び回っているだけでも、敵は落ち着いて狙(ねら)いを定めることができなくなる。
 ところが、フィリッピンでは航空機がほとんどなかったものですから、敵に好き勝手に銃撃を食らわせられました。戦闘機のあるとないでは、敵の攻撃の精度がまったく違ってくるんです。そこに我々戦闘機乗りの価値がありました。
 当時、日に日に焼け野原になっていく本土を横目に、もしかすると焼け石に水ではないかと虚しく思ったこともある本土防空の任務でしたが、私の戦いが無駄ではなかったのだと思うと嬉しく思います。また、「それぞれの基地ごとに、我々仲間たちも奮戦していたのだ」と誇らしくも感じます。私が単機でB-29を撃墜したのは、たまたま衆人環視の中でのことでしたから、こうしてお話する機会をいただけた、ただそれだけのことなんですよ。
 その後、私は332空鹿屋派遣隊長として鹿屋基地に進出し、雷電で基地に襲来する米軍機を迎え撃ちました。鹿屋基地と言えば、ご存じのように沖縄戦で出撃した特攻隊の基地として有名です。
 
-
相澤さんは特攻についてどのようにお考えになっていたのでしょうか。


相澤
 私はとうとう特攻に参加することなく終戦を迎えましたから、或いはそれを語る立場にはないかもしれません。特攻と聞いて私が思い出すのは、隊員たちの姿です。ある夜、外出してきて話している彼らの話をそれとなく聞いたことがあります。

 彼らの会話を聞くと、実に堂々としておりましてね。「お前はいつだ?」「おれは明後日だ。」「ならば、俺の方が1週間ほど時間があるな」などと。まるでピクニックにでも行くかのように平気な顔をして会話しているんです。当時の私は、「こいつらはすごい豪傑だ」などと感嘆もしましたが、今考えるとどうでしょうか・・・・。自分一人だけでなく、同じ任務を受けた仲間がいたからこそ耐えられたのでしょうし、状況を受け止めることが出来たのでしょう。
 20歳やそこらの若者だった特攻隊員の心情を察すれば、今は非常に忍びないものを感じます。

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 やがて8月15日の玉音放送と終戦を迎えるわけですが、どのようにそれを受け止めたのでしょうか。


相澤
 実にあっけなかった、という印象でしょうか。5月下旬我々は原隊に復帰し、関西地区の防空に従事していました。しかし、8月15日玉音を聞いたその日の日没後、上陸を期して米機動部隊接近中の報を受け、遂に特攻をかけることが決まったのです。虚脱感も吹っ飛んで、出撃に備えて仮眠をとっている間に武装解除の命令が届いたようで「あっいけね。寝過ごした」飛び起きた時には戦争は終わっていたのですよ。(笑)敵機動部隊は漁船の漁火を見間違えた誤報でした。

 戦争が終わって暫くしてからのことです。航空自衛隊に入らないかと何度も誘いをいただきまして、「ならばお世話になろうか」と考えたことがあります。ところが、その話をお袋にいたしましたら、「絶対に行かないでおくれ」と懇願するのですよ。
 兵学校へ進むときには反対の素振りも見せなかったお袋ですが、さすがに実際に息子を戦争にやったのは耐えがたかったのでしょう。相澤家では、戦争と病気で私以外の男すべて亡くしてもいましたから。 結局自衛隊入りは見合わせ、父の製材所を継ぎました。体を震わせて反対するお袋を見た時ばかりは、戦争が終わったこと、そして、運あって命があることに感謝しなければならないと、平和が骨身に沁みました。
 私は悲観論者ですが、苦境に立った時、自分の考えをその環境に適用できるように変える、つまり、腹をくくればそのあとは楽観できるもんですよ。禍福はあざなえる縄のごとし、腹を決めたことが、逆に生きる道につながったのかもしれませんね。 

 (なにわ会ニュース100号39頁 平成21年3月掲載)

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