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佐伯物語

お断り

この「佐伯物語」は作者の言葉によれば、事実を基にしてはおりますが、そこに多くの創作や作者の分析もしくは推測を加えた、あくまでも小説である。

なにわ会HPに掲載したが、小説であることを理解の上お読み頂きたい。

以下は筆者山本昭彦様の断りである。

「佐伯物語の内容には、K氏のお言葉を借りるなら「メイキング」がたっぷり含まれており、いささか極端な書き方ですが、拙作の中で海軍関係者様の行動や会話について、「記録によれば」と記してあること以外はすべて私の創作もしくは推測の域を出ないと断じていただくべきだと考えます。

私はこの作品を、このあとの世代の人々に、あの時代を伝え残すという想いで書いて参りましたが、若い読者にもできるだけ興味を持ってもらおうと思い、私の判断でこのような執筆方法をとらせていただきました。

「メイキング」とは逆に、「一般に通用している話だが、それは事実と違う」ことが確認できることがらについては、あえてそれらを訂正するがごとき記述もしてまいりました。(第8章御蔵と第33号海防艦について 第10章102哨がハーダーを撃沈したこと、第11章伊藤叡中尉のご最期、など)

しかしながら、今度は私がおこなった「メイキング」が歴史の事実として後世に残るならば、それは意図したとせざるにかかわらず私の罪と申せます。

この点を考慮いたしまして、現在インターネット上で「電子書籍」として有料公開しております「佐伯物語」には、その「あとがき」において、次のように「事実とフィクション」に関する断りを述べております。

少し長いですが必要と思われる部分を引用いたします。

あとがき 事実と真実

 私はこの物語を、事実を下敷きにしつつ、多くの創作を加えて書きました。事実を書き並べるだけでは伝えきれない真実を伝え残したかった、そのためです。

 こう書くと、なんだか言葉遊びのようでもありますので、いっそのこと具体的な例を挙げておきます。

 第六章で井尻中尉が無念の最後を遂げられたさい、その場に居合わせたのは竹崎中尉だったことになっています。しかし「竹崎中尉だった」の部分は、実は私の創作です。

 次に、このエピソードの基となった事実を紹介します。

「近くにいた駆逐艇が機体にローブを掛け、なんとか引っ張りきろうとしたが、激しい海流に抗し切れず、海に放すしかなかったという。この艇長が同期の方で、あの機が井尻と分かっていればと絶句された」

 これは井尻中尉のご遺族が書き残されている「準」事実です。

(注・なにわ会HP岡野武弘様ご寄稿)

 さて、いささか推理ゲームのようで申しわけないのですが、この「同期生」が、本当は誰であったのかを検証してみます。

 まず、ご遺族の記憶にある「駆逐艇《※》」という艦種は日本海軍には存在しません。

 そこでこれを「駆潜《※》艇」の誤解だと仮定します。

 この当時、呉防備戦隊には「駆潜艇」は配属されていませんから、これは「駆潜特務艇」か「特設駆潜艇」ということになります。しかし呉防備戦隊隷下の佐伯防備隊に配属されていたそれらのふねの艇長で、この時中尉の階級だった者は、一名を除いて全員予備役であり、その一名も七十二期ではないことが確認できます。

 「駆逐艦《※》」に至っては、呉防戦には一隻も配属されていませんし、中尉が駆逐艦長を務めることはありえません。

 従ってご記憶の「駆逐艇」そのものが誤りで、おそらくは何か小型の特務艇のことをそのように記憶されたのであろうと推測できます。

 であれば、もっとも可能性が高いのが飛行機救難艇です。

 本文でも書きましたが、救難艇は飛行機が海上に不時着もしくは墜落した際にこれを助けるのが仕事です。水偵の降爆訓練の水域に待機していて当然といいますか、待機していなければならないふねです。

 佐伯航空隊の飛行機救難艇1536号の艇長の姓名は確認できていませんが、しかし飛行機救難艇に、井尻中尉の同期生が艇長として配置されることは考えられません。兵学校出身者は兵科士官つまり戦闘指揮に任ずる立場であって、この種の任務につけられるとは思えません。従ってその「同期生」はご遺族の記憶にある「艇長」ではなく、何らかの理由で同乗していたのではないかと推測されます。

 この時点で佐伯基地にいた七十二期の士官は、竹崎中尉、和田中尉、矢尾中尉、樋口中尉、藤井中尉の五名です。このうち樋口氏はご健在で、該当の「同期生」ではないことがはっきりしています。また藤井中尉は潜水艦の乗り組みでしたから除外していいでしょう。

 私に推理できたのはここまでです。これ以上は該当者を絞り込むための事実を見つけることができませんでした。

 従って、この「同期生」がどなたであったかを確定する根拠を私は有しておりません。ですから、これを竹崎中尉であったとする佐伯物語の記述は、事実でないとは断言できないにせよ、事実だということもできないわけです。

 私が伝え残したかった真実は別にあります。

 江田島で青春を共有し、ほとんど死を前提とする戦場へ出て行く覚悟を友情で支えあってきた同期生が、雄志も半ばに無念の死を遂げた。その場に立ち会うことになったしまった巡り合せを、その「同期生」はまさしく断腸の想いで受け止めたでしょう。

 なせ貴様がここで死なねばならん。

 よりによってなぜ機体の不良で死なねばならん。

 敵に撃たれるなら仕方がない。いいや違う。貴様、台湾じゃ撃墜されたくせして、それでもしぶとく生き残ったじゃないか。それがどうしてこんな訓練であっけなく死ぬのだ。

 なぜ俺はあのとき飛び込まなかったのか。貴様だと判っていれば、艇長を殴り倒しても俺は助けに行くべきだった。

 あの高さから海面に激突したのだ。生きていたわけがない。そうかもしれん。だがそれが何だというのだ。せめて遺体を、いや髪の毛一本でもいい、水から揚げてやれていれば。

 貴様の面をもう一度見るだけも良かったのだ。

「この馬鹿野郎」と言ってやるだけでもよかったのだ。

 私は本文で、想いは言葉にならず、涙だけが出た。とだけ記述いたしました。

 これまた、いささか言葉遊びのようですが、その涙こそが真実であって、いま私が右に書いた、そう、いかにもその場で見ていたかのように書いた「想い」らしきものこそ、事実でもなく、いわんや真実を伝え残すものではないと思えたからです。

 話を「同期生」に戻しますと、この人物が、竹崎中尉、矢尾中尉、和田中尉のどなたであろうとも、同じように真実の涙を流されたことでしょう。

 だから、この真実を伝え残すための登場人物は、三人の同期生のどなたであっても良かったのです。

 こう書けば、そこには少しく創作者の傲慢が存在することを認めざるを得ませんが、あえて申し開きをするなら、誰でもいいから、その真実を伝えることのできるどなたかに、必ずいていただかなければならなかった、ということになります。

 そしてそのどなたかは、どうあっても三人のうちのひとりでなければなりませんでした。「同期生の何某」ではそこにいたことにならない。顔の見えない人の涙を描写できるほど私の筆力は確かでも豊かでもないのです。

 真実を語るということは、事実をそのまま述べることではない。

 これは漫画家の「みなもと太郎」さんが、名作「風雲児たち」の中で喝破なさっていることです。

 佐伯物語を書くにあたって、私の、執筆机の座右の銘というようなものがあったとしたら、この言葉がもっともそれに相応しいと思います。

 しかし、それなら何をどう書いても許されるというわけにはいきません。客観的事実として認められていないことがらについては、これをできるだけ整理し分析して外堀を埋める作業をするしかありません。

 たとえば清田少将が伊藤大佐と交わす会話などもすべて創作ですが、おふたりのご関係や、掃討作戦の実施要領などから推測して、海軍調で申せば「かくあらざるべからず」と確信した上で書きました。

 しかしそれでもなお、それらの創作の中には、誤った推測を事実として後世に残してしまう危険を含んでいるものが、あるいは存在するかもしれません。

 第八章の主人公のひとりとして登場する樋口中尉、樋口直様には、ここに書ききれぬほどのご助言やご教示を頂戴しましたが、その中で何よりの訓戒として肝に銘じましたのは「活字になると事実になってしまうからね」ということでした。

 最終章に書いた吉田満さんの「戦艦大和ノ最期・初版」に記された、伊藤叡中尉戦死の事情などはそのもっとも象徴的な例と言えます。「帝国軍艦スチュワート」も同様です。

 (中略)

 こんなこともありました。

 インターネットのウィキペディアに樋口様のお名前の項目があるのですが、私が最初にアクセスした時には事実とまったく違うことがそこに書かれておりました。

 別にご本人の名誉を損なうような内容ではないのですが、たとえば「終戦時には伊号四〇一潜水艦に乗組んで、ウルシー環礁への特攻作戦に向かっていた」などと書かれている。

 私は樋口様に初めてお会いする前、予備知識を仕入れておくのが礼儀だと思い、その作戦について詳しく書かれた「幻の潜水空母」をアマゾンでようやく見つけ、二度も通読するという似合わぬ努力をいたしました。

 ところが実際にお会いしてみると、

「伊四〇一? それは僕じゃないよ。ははは、誰が書いたんだ、それ」などとおっしゃる。

「おう僕も見たよ。あの経歴は矢田君のことだと思うがなあ」

 伊藤正敬様がそう言って笑う。私ひとり「幻の潜水空母」を手にして阿呆みたいです。

 まあ世の中がこのように寛容な方ばかりならいいのですが、現実はそうではないはずです。一見事実に思える情報も十分に吟味しなければならないのだと、これもまた大きな戒めとして私の中に残っています。 

 くだんのウィキのページでは、すでに伊四〇一云々の記述は削除されていますが、私はその後遺症でウィキを信頼できなくなり、それからは調べものの手間が増えて困りました。

 さてしかし、そのような誤ちを、佐伯物語はいっさい犯していないと断言できるほど、私の分析や考察が優れているわけがありません。

 幸いなことに電子書籍は公開後も書き直しができるので、初版(?)公開後もちょくちょく筆を入れてまいりましたが、今回有料設定でダウンロードしていただくものについては、これから一人歩きするわけですから、もう修正はできません。 

 それだから、私はここで明らかにしておかねばならないのです。

 私はこの物語を、事実を下敷きにしつつ多くの創作を加えて書きました。事実を書き並べるだけでは伝えきれない真実を伝え残したかった、そのためです。従いまして、この作品の中の記述ひとつひとつについて、事実か創作かを判別できる根拠を読者様が有しておられない限り、佐伯物語には客観的な歴史史料としての価値はまったくないと明言いたします。

 重ねて書きますがこの物語は事実に基づいています。しかし完璧ではないのです。私自身を含めてすべての歴史を学ぶ者語る者は、必ずその検証を個人の責任において行わねばならない。

 この作品を十年かけてようやく書き終えた私の、これは結論のひとつです。(佐伯物語あとがきからの引用ここまで)

重ねて申し上げますが、拙作を皆様にお読みいただけることは私にとってまことに望外の幸福ではございますが、以上の点お含みおきいただき、筆の未熟なところをお許しいただいて、ご批評ご教授をお願いする次第でございます。

長文失礼致しました。なにわ会様の精神永遠なれと願い、終わらせていただきます。」

目次

第一章 文太郎の時代
第二章 頬垂れ
第三章 泣かぬ谷
第四章 無敵海軍
第五章 下駄履き
第六章 蜜柑一枝
第七章 フトン舟
第八章 豊後水道海戦
第九章 三男太郎
十章 第一〇二号哨戒艇
第十一章 父と子と

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