TOPへ  戦記目次

平成22年4月15日 校正すみ


レイテ海戦以後のフィリピン方面海上作戦

 

「捷一号作戦」の発動により、日本海軍は連合艦隊を中心として、総力戦に臨むことになった。これはレイテに対する連合軍の上陸部隊を撃滅し、その意図を砕こうという ものであったが、結果は惨敗で、連合艦隊は崩壊してしまった。

 

 レイテ決戦が御破算となっても、レイテには第35軍の数万の兵が入っており、また、レイテ を取られると南方とのシーレーンが崩壊することになる。艦隊戦はもはや不可能とはいえ、 航空攻撃と陸軍への支援によって、海軍はレイテ維持に望みを繋いだ。

 この方面の作戦指揮はマニラに司令部を置いた南西方面艦隊であった。 元々、ペナンにあった、南西方面全般の作戦指揮にあたる戦略級の司令部なのであったが、ニューギニア戦 に対応するために、19年2月に司令部をスラバヤに移し、さらに、比島決戦のために、19年7月に マニラへと移動した。南西方面艦隊はレイテ決戦に対する各種作戦指導を行っていたが、情報量の不足と硬直化した作戦指導によって、後手後手にまわり、あたら損害を出していった。もっとも、これはこの時期の日本海軍全体に言えることなのであるが。

 

 レイテ海戦後は、フィリピン方面はさながら落ち武者狩りの様相を呈してきた。そのいい例が11月 5日にあったマニラ空襲である。第38任務群の空母機がマニラに殺到、重巡「那智」 が撃沈、駆逐艦「曙」 が大破された。
この時、兵科の武井敏薦と冨井宗忠(那智)が戦死した。
これによって第五艦隊(司令官、志摩清英中将)は その主力を失って無力化されてしまった。

 戦場の主導権を完全に失っていても、レイテの戦局を再び取り戻す為、第14方面軍はレイテ決戦へ邁進 していく。しかし、決戦はルソン本島から増援を送らなければ成立しない。そうして、陸海軍が残存 海上兵力を掻き集めて、レイテ輸送作戦を強行することになった。

 

 海軍側の作戦名称は「多号作戦」。南西方面艦隊の下に、付近の艦隊を結集 して、レイテのオルモック湾に強行輸送する作戦で、第九次まで実施された。また、陸軍は独自に船舶部隊を用いて、数次の輸送作戦を実施していた。

 多号作戦の発令は10月29日、南西方面艦隊司令長官、三川軍一中将によって出されている(この直後、三川中将は健康を害していたために、司令長官は大河原伝七中将に変わっている)。 この時点では第二次と第三次に当たる船団が発令され(第一次は多号前に発令されていた)、また、 その間にも小船団の編成が下令されている(NSB電令第三十号より)。

以下にその作戦の流れを列記する。

 

第一次多号作戦

期日  10月24日〜26日、

兵力  16戦隊の軽巡「鬼怒」、駆逐艦「浦波」、 輸送艦「第6号」「第9号」「第10号」

成果  輸送自体は成功

被害  帰路に 16戦隊の2隻が空襲で撃沈された。(10/26)

    救援に来た 駆逐艦「不知火」が、撃沈された。

    輸送艦「第102号」消息を断つ

    輸送艦「第101号」揚陸後に撃沈された。(10/28)。

 

第二次多号作戦

期日  10月31日〜11月1日、

兵力  一水戦の 駆逐艦「霞」(旗艦)、「曙」「初春」「初霜」「沖波」 海防艦「沖縄」「占守」「第11号」「第13号」「金華丸」「香椎丸」「能登丸」「高津丸」

成果  「能登丸」1隻の喪失のみで、90%以上の作戦成功

被害   能登丸

 

第二次〜第三次間の小規模輸送

輸送艦「第9号」は何度もオルモックに突入し、35軍 の司令部を始めとして、多くの部隊を運んでいる。

輸送艦「第6号」「第10号」等も、 第1師団の残りや第26師団先遣隊を輸送している。

陸軍の準備した機帆船部隊も輸送作戦に従事している。

 

 

第四次多号作戦

期日  11月8日〜9

兵力  「香椎丸」「金華丸」「高津丸」一水戦 の「霞」「潮」、二水戦の「朝霜」「秋霜」「長波」「若月」 海防艦「沖縄」「占守」「第11号」「第13号」

成功  人員のみ揚陸、重装備は全く陸揚げ出来ず。

被害  「高津丸」「香椎丸」「第11号」撃沈され、「秋霜」が大破。

第三次多号作戦 

期日  11月9日〜10

兵力  「せれべす丸」「西豊丸」「泰山丸」「天昭丸」「三笠丸」 第二水雷戦隊の駆逐艦「島風」(旗艦) 浜波、長波、朝霜、若月、掃海艇「第30号」、 駆潜艇「第46号」

成功  なし

被害  島風始め全艦 搭乗していた陸軍部隊も壊滅し、輸送作戦は完全な失敗

主計科の恵美純吉(若月)坂巻和一(島風)戦死

備考  指揮官第二水雷戦隊司令官 、早川幹夫少将以下、船団幹部は、直援機のない突入は成功の見込みなしとして、オルモック 突入に反対しったが、暴風に隠れていけば大丈夫だと、強硬な南西方面艦隊司令部に押し切られ出撃した。

なお、第三次船団は準備のために第四次船団よりも1日遅れの出撃となった。

 

第五次多号作戦

1梯団

期日  11月23日〜24日

兵力  二等輸送艦「第111号」「 141号」「160号」、駆潜艇「第46号」

成功  失敗 

被害  全滅

 

第2梯団

期日  11月24日〜25日

兵力  輸送艦「第6号」「第9号」「第10号」、駆逐艦「竹」

成功  失敗

被害 「第6号」「第10号」が撃沈、「第9号」、「竹」は被害を受け、マニラへ帰投した。

第六次多号作戦

期日  11月27日~28

兵力  「神祥丸」「神悦丸」、駆潜艇「第45号」「第53号」、哨戒艇「第105号」

成功  揚陸に成功

被害  揚陸後に全艦撃沈された。

 

第七次多号作戦

第1梯団

兵力  陸軍のSS艇  「第5号』「第11号」「第12号」、駆潜艇「 20号」

成功  5号艇以外揚陸成功

 

第2梯団

兵力  SS艇「第10号」「第14号」成果  なし

被害  両艇撃沈

 

第3梯団

兵力  輸送艦「第9号」「第140号」「第159号」 第31戦隊・43駆逐隊の駆逐艦「桑」「竹」

成果  「竹」が魚雷3本を発射して、1本を「クーパー」に命中させ、 撃沈

被害  「桑」は大破炎上沈没 「竹」も大破

「オルモック夜戦」といわれる。

兵科の鈴木 敏旦、主計科の岩佐肇(桑)戦死

 

第八次多号作戦

期日  12月5日〜12月7日

兵力  赤城山丸」「白馬丸」「第五真盛丸」「日洋丸」、輸送艦「第11号」第43駆逐隊の「梅」「桃」「杉」と、 駆潜艇「第18号」「第38号」

成功  兵員の揚陸は成功、重兵器は揚陸できず

被害  「梅」「杉」中破

兵科の宮林 久夫(杉)戦死

第九次多号作戦

 期日  12月9日〜13日

兵力  「美濃丸」「空知丸」「たすまにや丸」、輸送艦「第140号」「第159号」「第9号」第30駆逐隊の駆逐艦「卯月」「夕月」「桐」、駆潜艇「第17号」「第37号」

成功  「空知丸」は揚陸成功

被害  「たすまにや丸」「美濃丸」撃沈 「夕月」撃沈 卯月」轟沈

兵科の前田政夫(卵月)戦死

 

「礼号作戦」

期日  12月24日~

兵力   二水戦の「霞」(旗艦)、 第2駆逐隊の「清霜」「朝霜」、第43駆逐隊の 「榧」「杉」「樫」と、重巡「足柄」、軽巡「大淀」 

成功     日本艦隊が最後に成功させた作戦  

被害    「清霜」大破沈没


その後の作戦

20年1月7日  檜  撃沈された。

 

パトリナオ輸送作戦

期日  20年1月31日

兵力  第43駆逐隊の「梅」「楓」「汐風

成功  失敗

被害  梅は大破自沈 楓被弾

TOPへ  戦記目次