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平成22年4月18日 校正すみ

局地戦闘機「雷電」と332空

林 藤太

 昭和戦争敗戦の日より80日日の昭和2011月3日、我が愛機「雷電」の操縦桿を握りしめて高度3000、遠州灘上空を東に飛んでいた。占領軍の指令により雷電引き渡しのため横須賀基地まで空輸したのである。愛機共々囚(とら)われの身となり、占領軍に引き渡される屈辱「死して虜囚の辱めを受けず」と、操縦桿を突っ込み、自決を思いながら、左手に見た霊峰富士の姿に自爆を思いとどまった苦い思い出。
(なにわ会ニュース93号に掲載済み)

 昭和19年3月、我々第41期飛行学生は霞空での赤トンボ教育を終え、夫々の専科に従い、実用機練習航空隊に分かれた。戦闘機操縦は、開隊したばかりの神ノ池航空線に転任。主としてゼロ戦による訓練を受けた。同年七月卒業、勇躍夫々の任地に別れていった。

 同期8名の最初の任地は呉海軍航空隊。アレツ?ヒ思った。「呉空は水上機航空隊じゃないか?」 とにかく呉空に赴き着任の挨拶を済ませた所、直ぐ岩国行きを命ぜられた。岩国が呉空麾下の戦闘機隊だったのである。基地にズラリ勢揃いした濃緑色に輝くゼロ戦を見た時、一同感動と武者震いを禁じ得なかった。生粋の戦闘機乗りの大先輩、柴田武雄司令(52期)山下政雄飛行長(60期)のもと新米の戦闘機乗りの勤務が始まった。南方戦線では既に日本の敗色が濃くなっていた時期だが、燃料を節約しながらも飛行訓練に精出した。

 当時、国内の防空は主として陸軍の担当であったが、各鎮守府の防空を主体に海軍の基地航空隊が設置されることとなり、舞鶴を除く横須賀、呉、佐世保に夫々302(厚木)、332(岩国)、352(大村)の3航空隊が開隊したのである。

 我々332空は呉鎮よりも阪神地区の防空が緊急と、昭和191217日、18日雷電、零戦、月光と共に鳴尾基地(川西航空機工場の基地)に進駐した。鳴尾基地を目前にして山本勝雄中尉殉職。何となく不吉な予感が我々の胸を過(よぎ)ったのであった。

 鳴尾基地進出後の332空は302352空と異なり、ゼロ戦隊(甲戦)、 雷電隊 (乙戦)に分けず、乗れるものが可動機に搭乗して迎撃を行っていた。昭和19年暮が明け20年を迎えた頃から名古屋地区、阪神地区へのB29や敵艦載機の空襲が始まり、鳴尾基地にも「即時待機」のZ旗が揚がる日が多くなった。その都度勇躍迎撃に飛び立っていくが、悲しいかな、多勢に無勢、数百機の敵大型機に対し我が方は十数機の雷電での迎撃戦、切歯扼(やく)腕の戦いを余議なくされた。

「基地防空のエース」 「太ッちょのB29キラー」といわれた雷電も、苦しい戦いの日々だった。

 要地防空に必要なのは直らに敵の来襲高度まで駆け揚がれる上昇力と、敵を追撃捕捉(そく)できる速度、更に大型機を一撃で撃墜できる火力の3点だ。この要求を満たすべく登場した「本土防空のヒーロー」と期待きれた雷電だったが油圧漏れやエンジンの不調、脚の上げ下げの不具合、視界の悪さから着陸の難しさなどなど搭乗員に毛嫌いされる戦闘機だ。

 昭和15年 登場したゼロ戦は、自他ともに認める名機であり、正に人機一体ともいえる操縦のしやすさ、空戦性能の素晴らしさ、誰でも絶賛する名機に比し、余りにも不人気な雷電だったのである。

 鳴尾進出の年末から翌年にかけて連日の上空哨戒と迎撃に、時にはゼロ戦、時には雷電に搭乗、無我夢中で戦い続けた。

 

1月14日 

向井中尉 B29 1機撃墜、自機は空中火災で落下傘降下、顔に大火傷不時着。


1月23日 

高見中尉京都上空で戦死、連日激戦が続く。

 

3月10

東京が夜間大空襲を受けてから名古屋、大阪と夜間大爆撃が続く。

4月23日〜25

 

相澤中尉指揮のもとに雷電隊鹿屋進出。連日の邀撃戦の後、5月16日帰隊。生粋の戦闘機乗りの大先輩黒沢少佐(63期)をして「相澤中尉、でかした! あっぱれ! 」と言わしめた。

 

6月1日

 我がクラスは大尉進級。その日の朝食時、渡邊清實大尉が 「今日戦死すれば一躍少佐だな」と笑って言った。その5日後戦死。彼のあの一言が脳裏に焼き付いて離れなかった。その日私は大梯(てい)団の一番機に直上方攻撃をかけ撃墜、降下上昇して後下方攻撃、エンジンから白煙を吐かせたが被弾、空中火災となり落下傘降下 一命をとりとめた。

 その半月後の19日、江崎良則大尉(開隊後赴任)和歌山上空で戦死。かくして鳴尾進出から敗戦までの約8ヵ月、敵大型機の撃墜(不確実を合む)8機、撃破10数機を挙げたが、同期4名、部下数名を失った。

 8月15日正午、終戦の玉音放送。全隊員指揮所前に整列、八木司令からの訓示を聞く。「終戦は大御心にあらず、君側の姦(かん)の然らしめる所。我々は飽くまで戦うのみ・・・云々」 ただ呆(ぼう)然。

 翌16日夜半、緊急電にて「・・・敵大機動部隊四国沖に向かって進撃中、可動全機をもって攻撃せよ・

 

 受信と同時に緊急発進用意! 終戦の真偽を確かめる余裕もなく、無我夢中で発進の指示待ち。明けて17日0300「敵情不明、攻撃見合わせ・・・」 司令の指示により小生と部下(越智上飛曹)と2機の雷電をもって0430索敵攻撃に離陸。未明の四国沖をくまなく探したが、漁船1隻見当たらず。(後で終戦のどさくさで誤報と判明) 帰路の途中、高知沖で越智機不時着水、乗員の無事を確認して鳴尾基地へ向かう。雲低く高度を千米に下げ徳島を左に見た時、エンジ不調停止、左下に由良湾を見て不時着水。12米の海底まで機と共に沈み、辛うじて浮かび上がって失神、漁船に助け上げられた。

 僅か8ケ月の雷電での苦しい戦いであったが、1月に上空哨戒中エンジン不調となり飛行場に不時着、増槽より発火、丸焼けで1機、6月の神戸上空で1機、更に由良港で1機、計3機の愛機を死なせてしまったのに、私一人生きながらえてしまった。慙愧(ざんき)の限りである。

 332空の我々のクラスは開隊の8名の他、途中着任の2名を加えて、計10名のうち山本勝雄、高見隆三、渡邊清實、江崎良則が戦没、向井寿三郎、高木亮司(旧姓松木)が転勤、相澤善三郎、渡邊光允、林 藤太に途中赴任の小田正三(機)を加え4名が生き残った。残存機はゼロ戦40機、雷電23機、月光4機、彗星8機であった。

 思うに兵学枚の「五省」をはじめ、海軍時代に身についた教訓は、各社経営にはもとより年老いた今に至るまで心の支えとなっていることは有り難いと思う。

「スマートで目丸が利いて几帳面負け魂これぞ船乗り」

 懐かしく祈りにふれて口ずさんでいる昨今である。

 (なにわ会ニュース100139頁 平成21年3月掲載)

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