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平成22年4月15日 校正すみ

比島沖海戦における小沢艦隊(囮部隊)の戦闘

当時 空母瑞鳳 見張士 桂 理平

1 初めに


 私は平成1110月に「空母瑞鳳の生涯」と題して自費出版しているが、その中で小沢艦隊((おとり)部隊)についても記述している。今回なにわ会誌に簡略化して小沢艦隊の戦闘の報告をするのが私の責務であると考え、やや重複になることは承知の上で報告することにした。

 今回の執筆の時点である平成20年4月に思うことは、広大な海域で生起したこの海戦が、我が方の準備不十分のまま開始され、戦況が相互に十分通報出来ず各艦隊の長官は敵味方の情報が不十分なままに決断を迫られ、苦悩した後判断決心して行動したことが歴然と読み取れるのである。この辺の事情も少し掘り下げてみたいと思う。

2 米軍 レイテ島に上陸



 昭和191017日、フィリピン諸島の中部にあるレイテ島付近の天候は台風並みに風雨が強く雨雲が低く垂れ込めていた。湾口にある小島スルアン島にある海軍見張所から特別緊急電報が飛び込んできた。
 
「戦艦を含む敵艦隊 見ゆ」の第1報の後、2,3時間過ぎてから 「敵がわが見張所に上陸を始めた」の電報を最後に連絡が絶えた。

 18日、荒天が続いているにも拘らずレイテ湾内に朝早くから敵の掃海艇が奥深くまで侵入してきて、わが軍が敷設した機雷の除去作業を強行した。先日からの波浪と強風のために固定索が切れて、機雷が流れていて敵艦に損害を与えなかったようである。

続いて敵艦艇多数がレイテ湾内に侵入して奥深くまで進み、レイテ島東北端の町タクロバンと中部のドラッグに対して激しく艦砲射撃を加えた。守備についていた陸軍第16師団(京都編成)では始めは天候不良を避ける為の緊急避難と思ったが、艦砲射撃を受けるに至って敵の上陸企図を知ったという恐ろしく緩慢な対応であった。

19日、1日中、タクロバンとドラッグは間断ない激しい艦砲射撃と猛烈な爆撃を受けた。第16師団はドラッグを中心に防御陣地を築いていたが、最奥地のタクロバンには手が回らず、兵力、陣地共に手薄であった。敵の上陸作戦は間近いと懸念された。

 20日、早朝から昨日にも増した敵の攻撃が続いた。10時過ぎ、上陸部隊約4個師団が二手に分かれて、タクロバンとドラッグに同時に上陸を開始した。わが軍の抵抗が少なかったタクロバン地区では容易に占領を完了された。

 ドラッグ地区では戦闘を交えたが、優勢な上陸部隊の攻撃に対して後退を余儀なくされ、後方のジャングル地帯に退き、その上陸を許した。

 マッカサー上陸軍総司令官は夕方には自らも上陸をして、比島国民にラジオを通じて次のように宿願の第1声を放送した。

 「フィリッピンの皆さん、約束した通りに私は帰って来ました。」


3 小沢艦隊が囮部隊として出撃

(1) わが連合艦隊の作戦の概要

 6月1920日のマリアナ沖海戦に敗退して引き揚げた連合艦隊は次のように別れて戦力を再建していた。

@ 栗田艦隊(水上艦艇の集団)

燃料の心配のないシンガポール沖のリンガ泊地で集合、訓練中
 
A 小沢艦隊 空母と護衛艦集団と653航空隊(空母用飛行機の航空隊)

瀬戸内海伊予灘と大分で訓練中

B 第1航空艦隊(基地航空部隊)

比島中部、北部の基地で警備と訓練中

C 第2航空艦隊(同右)  

日本内地の航空基地で訓練中

D 志摩艦隊(重巡を主とした艦艇の集団)

北方領土を警備中、南方に移動を命ぜられる。

 敵の今後の侵攻として最も考えられるのは内地と南方資源地帯の中間にある比島、台湾、沖縄を有力な機動部隊で大空襲したのち、随伴する大輸送船団を近付けて乗っている陸上部隊を上陸させて、日本の生命線を絶つ方策に出ることが予想された。

 連合艦隊は今や正面切っての海戦は望むべくもない劣勢であるので、敵の上陸作戦をわが連合艦隊を犠牲にしてでも絶対に撃退することを目的とした。具体的には各隊に次の任務を命令した。

@ まず、太平洋上で索敵機により敵輸送船団を発見し、洋上か上陸地点で栗田艦隊が攻撃を実施して、その企図を(くじ)く事を命じた。然し、敵には有力な空母部隊がいるので、栗田艦隊を空襲するのは必至である。

A 小沢艦隊は内地を出撃して、全滅を賭して敵機動部隊を北方に誘致して戦い、栗田艦隊への敵の空襲の程度を軽減させる任務を命じた。
B 第1、第2航空艦隊は敵空母部隊の発見、撃退の任務を命じた。


 (2)小沢艦隊の出撃

  私は小沢艦隊第3航空戦隊(小沢長官直率)の2番艦瑞鳳に乗組んで参戦した。従って瑞鳳の戦闘を主体とし、空母4隻の戦闘経過と協同作戦を行った栗田艦隊との情報交換の実際を残っている資料により報告したいと思う。

  1017日 連合艦隊司令部は早朝のスルアン島見張所の報告で、敵上陸部隊の接近を感じ取って、直ちに小沢艦隊に次のように命令した。

「栗田艦隊の作戦に協力するためにルソン島東方海面に進出する準備をせよ」

 同時にリンガ泊地にいる栗田艦隊にも次の命令を発した。

「直ちに出撃して、ブルネイに進出すべし」

 1010日から14日午前までに、沖縄諸島や台湾が強力な敵機動部隊から大空襲を受けた時、連合艦隊は攻撃された基地航空部隊の勢力を補充し反撃するために、小沢長官直率の第653航空隊、第634航空隊の飛行機に島つたいの出撃を命じた。

 従って17日現在では小沢艦隊の空母には積むべき飛行機は殆んど無かった。然し、栗田艦隊のレイテ湾突入はどうしてもやらねばならぬとの連合艦隊の方針によって、前項の命令が出たのである。その参謀は残りの飛行機をかき集めて空母に搭載することには協力すると約束したのである。

 

小沢艦隊の陣容は次の通りである。

 総指揮官 小沢冶三郎中将(海兵37期)

  第3航空戦隊 小沢長官直率 

    瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田(空母)

  第4航空戦隊 

   司令官 松田千秋少将(海兵44期)

     日向、伊勢(航空戦艦)

 第31戦隊 

   司令官 江戸兵太郎少将(海兵40期)

    大淀、(軽巡)

     41駆逐隊

    霜月(防空駆逐艦)

 第61駆逐隊

  初月、秋月、若月、(防空駆逐艦)

 第43駆逐隊            

   桑、槙、杉、桐(駆逐艦)

 五十鈴、多摩(軽巡)

 

 18日、瀬戸内海での訓練を中止し大分沖に投錨して、出動準備にかかった小沢艦隊の第1番の仕事は飛行機とその搭乗員を集めることだった。長官及び参謀は連合艦隊の協力を得て全力を挙げてその仕事に没頭した。

 第653航空隊の残りの搭乗員全部と未完成の第601航空隊の空母勤務可能の隊員を集めて、飛行機と共に4隻の空母に搭載することになった。

 第634航空隊の飛行機は既に全機が出撃しており、日向、伊勢に積むべき飛行機は無かった。

 我々青年士官には戦局の細部まで判る筈もなかったが、自分の戦闘配置で全力を尽くして戦うことを誓ったのである。

緊張の中にあっても旗艦瑞鶴から、次のような人間味のある信号が出たのを記憶している。

「出撃するに当たり、各人の不要な私物(個人の荷物)は19日正午までになるべく陸揚げし、水交社に預けて故郷に送る手続きをすべし」という内容であった。

急にいわれても若い私達にはその気にはなれなかった。同期生4人で相談したが無視することにした。1度でも乗艦の沈没を経験しておればその必要を納得したであろうが、この時は不思議な感じを抱いたものだった。

 19日、朝から終日、大分基地から大量の器材、弾薬、食料品、飲料水などが運び込まれた。また夜になって大勢の整備員が慌ただしく乗艦してきた。

その中にはマリアナ沖海戦の時に乗艦していた653空の副長川村中佐や整備分隊長品川大尉の姿があり懐かしかった。変わったところでは竹内宏一報道班員が混じっていた。旗艦瑞鶴には出撃時に報道班員が何時も乗っていると聞いていたが、今回は我々にとっては初めての受け入れであった。30歳前後のニュース映画のカメラマンである。もちろん士官待遇で、小沢艦隊の実情をカメラで撮り、国民に報告するのが任務である。

20日、曇り空の大分沖に停泊していた4隻の空母は午前8時に一斉に錨を揚げて行動を開始した。伊予灘に出て飛行機を収容するために、風に立つ針路を取って準備を整えた。大分基地から飛んできた飛行機が艦尾から近づいて、飛行甲板に着艦した。瑞鳳にはマリアナ海戦の時に乗組んだ零戦飛行隊長中川大尉(兵67期)他の搭乗員が着艦した。4空母に積んだ飛行機は約100機で、その内訳は次の通りであった。

瑞鶴には653空関係から34機、601空関係から27機を収容した。瑞鳳には16機を、千歳には14機を、千代田には16機を収容出来た。  

出撃準備を完了した小沢艦隊は午後になって対潜警戒航行序列を組んで、粛々として豊後水道を南下して行った。1730頃、四国の西南端沖にある沖ノ島の傍を通過して太平洋に乗り出した。夕闇の迫った、薄くなった四国の山々の姿が次第に遠くなる。今や決戦場への出発である。

 

(3) 日本海軍最後の空母機隊発進す(21日〜24日)

1021日、対潜警戒を厳重にして南下した。索敵機を発進させて敵潜水艦を警戒したが、何も無かった。

22日、朝5時頃、瑞鳳の右前方に魚雷の航跡を発見したとの見張員の報告があって、緊急回避を行った。直ちに総員が戦闘配置に就いたが航跡や潜水艦は確認出来なかった、明るくなってから元に戻した。その後、対潜哨戒機2機を発進させて前路警戒を厳重にして進んだ。

瑞鳳は午後になって軽巡多摩に燃料を補給し、夕方には駆逐艦桐にも行った。敵情が未だ入らないので、艦内は静かだが待機中の搭乗員や乗組員の闘魂は心の中で熱く燃えていた。

23日、朝6時の艦位は早くも台湾の東方にあった。風が生暖かくなってきた。決戦海面と予想するルソン島沖に近くなっている。

命令により瑞鳳から、6時に索敵機2機が発進した。また飛行機を飛行甲板に並べて攻撃準備を行ったが、敵飛行機の発見の報告は無かった。

10時頃、栗田艦隊は敵上陸地点のレイテ湾突入のために、今朝未明にパラワン島と新南群島の間の長い水道を通過していたが、突然敵潜水艦に攻撃されて苦戦中との緊急電報が入電した。続いて旗艦愛宕と高雄が大破し摩耶が沈没したという。これは思っても見なかった大損害である。

我々は深刻にこの情報を受け止めた。最精鋭で訓練を十分積んだ重巡洋艦にして、このようなことが起きるのかと理解に苦しむと共に、大きく失望、落胆した。

瑞鳳はこの二の舞を絶対に踏んではならない。私は部下の見張員、電探員、水測員に厳しく命令をした。

「潜望鏡や魚雷の航跡や水中のスクリュー音を絶対に見逃すな」と。

既に栗田艦隊はその行動を敵に知られた。明日はシブヤン海に進むので待ち構えている敵機動部隊の空襲に直面するであろう。先に見つけて欲しいわが小沢艦隊は、まだ敵に発見されていない模様である。

夕方、小沢長官は全艦隊に対して明朝6時に到達する予定位置を無線で放送した。味方に自分の行動を知らせると共に、敵に傍受して貰いたいとの願いを込めての電報であった。

明日は決戦必至と思われるので、万端の準備を完了せよと杉浦瑞鳳艦長(海兵47期)は重ねて命令した。乗組員はいよいよ敵との決戦の日が来たと決意を新たにした。

24日、出撃以来曇りや雨の天候が続いていたが、次第に回復して今日は少々雲があるが晴天となった。朝6時の位置はルソン島北東端エンガノ岬の北東約250マイルにあった。まさに決戦場に入っている。

9時に、10機の索敵機を南西方に発進させた。続いて「攻撃隊用意」が命ぜられて飛行機が飛行甲板に並び、エンジンの試運転が始まった。索敵機からの敵発見の報告はまだ入ってこない。じりじりした思いで待っていたところ、遂に11時過ぎ待望の電報が入った。

「敵部隊見ゆ 空母4隻、戦艦2隻、その他多数 地点フシ二カ。【海域を示す海軍独自の符号である、具体的にはマニラの70190マイルの地点】北に進む、1105」 

今や先制攻撃の時がきたので、小沢長官の攻撃命令が発せられた。その末尾には長官の思いやりとして次の指示が入っていた。

「攻撃隊は天候などの状況により母艦に帰還困難と考えたならば、比島の陸上基地に着陸して宜しい。着陸後、直ちにその旨報告せよ」

1145、瑞鶴のメーンマストにZ旗が揚がった。「皇国の興廃、この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」との伝統の信号である。

各空母の攻撃隊が発進を始めた。瑞鳳では川村中佐の出発の合図に従い、零戦飛行隊長中川大尉を先頭に出発した。零戦8機、戦爆機4機であった。整備員は帽子を振り成功を祈って見送った。艦隊としては合計58機であった。

何時ものように艦隊の上空を一回りして編隊を整え、上下に翼を振って別れを告げ南の空に消えて行った。これが真珠湾攻撃以来太平洋を駆け巡った、わが空母部隊の攻撃隊が出撃した最後の姿であった。

発艦した後に、エンジンその他の故障の為に引き返した飛行機もあった。瑞鳳、千歳、千代田から出た約30機(653空のかき集めた飛行機)は中川大尉に率いられて進撃した。然し、攻撃予定地点の手前で敵戦闘機に遭遇して空戦となり、敵空母を攻撃することが出来ず、3機がわが空母に帰還し、残余は比島の基地に着陸した模様であった。

瑞鶴から発進した20数機(601空のかき集めた飛行機)は1350頃正式空母2隻を主力とする敵部隊を発見した。戦闘機の攻撃や空母の対空砲火をくぐり抜けて急降下爆撃を加えた。数発の爆弾が至近弾となり僅かな損害を与えたが、攻撃をしたという報告は母艦に届かなかった。帰還した飛行機は無くて、撃墜されたか、比島の基地に行ったかもしれなかった。

小沢長官は攻撃隊の報告を鶴首して待ったが、音沙汰なしである、大打撃を受けたためと思う外は無い。敵空母の撃破の成果は判らないし、敵の空襲を自分の隊への誘致も成功していない。然も午後になってシブヤン海の栗田艦隊の苦戦の報告が続々と入ってくる。その上、明日25日は栗田艦隊がレイテ湾に突入する日と決まっている。

今にして小沢艦隊が敵機動部隊の空襲を引き受けないと、この作戦は失敗することは確実だ。長官は決意した。飛行機を失った空母艦隊ではあるが、捨て身で前進あるのみだ、とにかく敵と出会わねばならぬ。1440、次の命令を発した。

「前衛部隊(松田隊)を編成する。松田隊(日向、伊勢、月型駆逐艦4隻)は直ちに南方に進出し、好機を捕らえて敵を攻撃せよ。本隊は16時まで西に進み、飛行機を収容した後、北東に向かい明朝戦いを続行する予定」

1515、松田隊は速力を増して南方に進出した。

その頃、瑞鳳から小さい飛行機1機が水平線を出没するのが見えた。決して近寄らない。正に敵の索敵機が接触中なのである。やっと敵は我々を発見してくれたのである。これによって明日は敵の空襲があって、猛烈な対空戦闘を展開することになると我々は確信した。

戦後になっての米軍資料によると、この時の日本空母部隊の発見報告によって、攻撃精神旺盛な敵将ハルゼイ大将は指揮下の機動部隊の全力を率いて、自身が先頭に立って、真珠湾以来の宿敵日本空母艦隊の息の根を止めるのだと決意して、北上を始めた。彼のあだ名である牡牛をつけた「牡牛の暴走(ブルズ・ラン)」を始めたのである。

この為に夜のサンベルナルジノ海峡には米国艦隊が皆無となり、栗田艦隊は無傷で通過することが出来たのだ。これほど完璧に囮作戦が成功しようとは流石の小沢長官も想像することが出来なかった。

 

日暮れに、駆逐艦桐と杉は上空直衛に当たっていた零戦が着艦に失敗して海上に不時着したので搭乗員の救助を命じられ、捜索している間に艦隊が先に行ってしまい、救助して暗くなってから追いかけたが、見失って合同出来なかった。翌日の海戦に参加できなかったのは気の毒である。

南方に進出した松田隊は敵艦隊と遭遇しなかったので、2230、命令により北方に反転し、翌朝6時に本隊に合同するよう行動せよと指示が出た。

 

(4) 1025日の戦闘

(エンガノ岬沖海戦)

 @ 1回目の空襲

 25日は快晴で雲は僅かであって微風の吹いている素晴らしい天候であった。本隊と松田隊の合同は予定の時間よりも1時間遅れたが7時にはほぼ完了した。然し、この時既に敵の触接機は我々の頭上にあった。残存していた飛行機29機のうち零戦約20機を艦隊の直衛のため上空で待機させ、残りは索敵機として敵情を探らせて、任務を終えたなら比島の陸上基地に向かうようにと指示した。

次いで「対空戦闘航行序列に占位せよ」との命令によって、瑞鶴、瑞鳳を中心とする第1群と千歳、千代田を中心とする第2群に別れ、戦艦と軽巡と駆逐艦が空母を囲んで輪型陣を作り、両群は約10キロの間隔を保ちつつ、針路を0度とした。


 第1群の陣形は瑞鶴を基準にして左正横2キロに瑞鳳が並び、両艦の距離を底辺とする前方の正三角形の頂点の位置に軽巡大淀が先頭艦として先行し、戦艦伊勢が後方の正三角形の頂点に占位した。瑞鶴の右50度と110度 1.5キロに初月と若月が居り、瑞鳳の左50度と110度 1.5キロに秋月と桑が護衛についた。

第2群も千歳を基準にして千代田が左の正横に並び、日向、五十鈴、多摩、霜月、槇が第1群と同じような位置について輪型陣を作った。

0730、小沢長官は栗田長官を始めとする各指揮官に次のような待望の電報を打った。「われ、敵艦上機の触接を受けつつありヘンホ41,0715

0740、瑞鶴と伊勢の電探が220度、140キロに飛行機の大群を探知したと報告して来た。直ちに、瑞鳳では「対空戦闘、配置につけ」と艦内スピーカーが放送する。朝食を済ませていた乗組員は自分の配置に急いだ。

私は戦闘配置である右舷の戦闘艦橋に、渡辺見張分隊長(海兵70期)と共に就いた。

「今日こそは日頃の訓練の実力を発揮して、死力を尽くして頑張れ」という分隊長の言葉を、右舷伝令の友水兵長と左舷伝令の若杉上等水兵を通じて部下全員に伝え、その奮闘を促した。

杉浦艦長が雷爆撃を回避する号令を掛けるために、私達のいる戦闘艦橋に現れた。そこは天井のない見晴らしの良い場所で、視界が絶好なところである。紺碧(こんぺき)な空の下、近づく敵機を見逃すまいと決心する。敵の空襲を前にして暫くの静寂の時間が流れた。私は首に7倍率の双眼鏡をぶら下げ、太陽光線の遮(へい)用に色つき眼鏡をかけた。

大型望遠鏡についている見張り下士官の張り切った大きな声の報告が入った。「右80度、飛行機の大編隊が近づく」と。一団となった芥子(からし)の種をばら()いたような飛行機の集団が、私の双眼鏡にもはっきりと見えた。敵機は一直線に接近してきた。上空の防(ぎょ)用零戦は僅かに20機だが勇敢に戦いを挑んでいった。然し、多勢に無勢の悲しさ、あっという間に突破されてしまった。

敵機は第1群と第2群を同時に攻撃した。伊勢と日向は主砲36センチ砲各8門を敵機の集団に向けて待ち構えている。やってきた敵機はF6F戦闘機、SB2C急降下爆撃機、TBF雷撃機の大群である。距離2万メートルで主砲が発砲した。この大きな砲声は戦闘開始の合図となって、新式の3式弾(対空弾)を発射した。打ち上げ花火のように空中でもう一度破裂して散弾が飛び散ったから、飛行機の編隊が明らかに乱れた。

わが3式弾射撃をくぐり抜けて先ず突っ込んできたのは急降下爆撃機だった。両翼の根元の部分が少し曲がっているので、SB2Cと判る。太陽を背にして艦尾の方向から勇敢に突っ込んでくる。護衛艦の対空射撃を突破した敵機が遂にわが瑞鳳にも突進してきた。

杉浦艦長が「打ち方始め」と命令し、小林砲術長が選定した目標に12.7センチ高角砲が発砲した。更に近寄った敵機に対して25ミリ機銃が火を噴いた。少し遅れてTBF雷撃機が海面すれすれを飛んで突っ込んできた。

0815、小沢長官は栗田長官に次のような電報を打電し、敵機動部隊の誘致に成功したことを知らせた。

 

「戦闘概報 

敵艦上機約80機来襲。われこれと交戦中、地点ヘンニ13、0815

今、我々見張員は訓練してきた全てを動員して、艦長の雷爆撃回避運動を補佐すべき正念場である。先ず、艦尾方向から3機が急降下してきた。至近の距離になって1機の胴体から2個の爆弾が投下されたのが見えた。艦長へ言葉と共に指差して報告した。直ちに「取り舵一杯」と号令されたので、瑞鳳は急速に左に旋回した。敵弾は至近弾となって海面で爆発し水柱が高く上がった。その後すぐに雷撃機が右後方から近づいた。高角砲、機銃が集中射撃して反撃した。うまく回避出来た。

0850頃、急降下機が爆弾を投下した。ガーンという激しい爆発音と共に瑞鳳が上下にゆれた。直撃弾が後部リフトに当たり、貫通して格納庫で爆発したのだ。このために飛行甲板が内側からの爆風によって、中央部から後部リフトまで吹き上げられて高さ約2メートルの屋根状に突起した。

この被害で飛行機の発着艦は不可能になった。更に格納庫では火災が発生して黒煙や炎が起きた。応急隊員が消火ホースを何本も甲板に引いて消火に努めた。幸いに効果がすぐに現れて黒煙は白煙に変わり鎮火させることが出来た。

この間にも敵の攻撃は続いた。至近弾は増えたが艦長の巧みな回避運動によって更なる被害は無かった。速力は変化が無くて、瑞鶴と共に24ノットで北上を続けた。

竹内カメラマンの待機場所は我々のいる戦闘艦橋の艦尾よりの発着艦指揮所で、川村副長の傍である。迫真の戦闘場面を撮ろうと気合を入れていた。始めての経験のようであったが、敵機の両翼の機銃の銃口から発する火焔が見えても体を乗り出して撮影を続けた。近くの者が危険だから引っ込めと制止したが止めなかった。最後に副長に止めろと怒鳴られてやっと中止した。

0910頃、潮が引くように敵は引き揚げていった。この第1回の空襲によるわが方の損害は概ね次の通りであった。

第1群では瑞鶴が左舷に魚雷1本を受けて傾斜した。また、命中弾によって無線の送信機とアンテナが破壊されたので、大淀に発信を依頼せざるを得なかった。

0900前に、瑞鳳の左前方を直衛していた秋月が突然大爆発を起こして轟沈した。2キロしか離れていない近距離で大音響と大水柱が起こりその水柱が消えた時、秋月の姿が殆んど見えなかった。私はこの光景を見て愕然とした。

その原因は敵弾が魚雷発射管に当たり装填してあった魚雷の爆薬または燃料用の酸素に引火して誘爆したと思われる。不運の一語に尽きる。

第2群の損害は更に大きかった。

千歳は集中攻撃を受けて多くの命中弾、至近弾を受け艦内に海水が侵入して、遂に致命傷になり、0937早くも沈没した

千代田は損害を受けたが、軽微で速力は落ちなかった。

多摩には魚雷1本が命中して速力が落ち、落伍した。駆逐艦槇が付き添った。

敵機の去った後は射撃の後始末や損傷箇所の応急修理や死傷者の処理及び手当てなどでどの艦も忙しく、また、次の空襲が当然予想されるので対空戦闘の準備に忙殺されていた。

A 2回目の空襲

 我々は次の空襲を予期して急いで戦闘準備を立て直した。1000過ぎ、2回目の敵機約40機がやってきた。第1群と第2群の双方に来襲したが、第1群では旗艦瑞鶴に集中した。瑞鳳からはその対空戦闘全部を望見することが出来た。

 急降下する敵機は勇敢であった。打ち上げる対空砲火を問題にせずに突っ込んでくる。瑞鶴の周辺で至近弾による水柱が上がっているが命中弾は無いようである。先刻の空襲で艦体は左に傾いたままで、平らな大きな飛行甲板が斜めに見えた。

 第2群では残った千代田に敵の攻撃が集中した。1018、遂に被爆して火災が生じた。立ち往生となり戦列より落伍した。五十鈴が曳航と救助の為に接近した。約20分の空襲で敵機は引き揚げたが、瑞鶴は無線送信機とアンテナが破壊されたので、旗艦としての通信が出来なくなった。

 司令部の参謀は作戦遂行上やむなく小沢長官に通信設備が強力で被害を受けていない大淀に移乗をお願いしたが、瑞鶴と運命を共にしたいと拒絶された。然し、重ねて御願いすると共に、貝塚艦長から

 「後は任せて下さい、長官は戦局の指導を御願いします」と切なる希望を申し上げて、やっと承知して頂いた。

 この空襲がすんだ後、長官と参謀たちは瑞鶴を短艇で離れて大淀に移り、中将旗をそのマストに掲げた。1107、連合艦隊長官、栗田長官を始めとして全軍の指揮官に次の電報を発信した。

 「大淀に移乗して、作戦を続行す、1107

 この時点では第1群の2隻の空母は、被害は受けているが、速力は相変わらずの24ノットで敵を北方に誘うために針路を北にとって突っ走っていた。

 瑞鳳では艦内の整理、整頓が進み、次の戦闘の準備が出来つつあった。正午に近くなったので早めに昼食を戦闘配置でとった。「腹が減っては戦さは出来ぬ」とは昔からの格言である。握り飯を腹一杯に食べた。こんな非常な時でも十分な食欲があるのは喜ぶべきことだと思った。

 味方の電探はまだ新しい敵機の発見を報告していない。再び、敵機が来るまで2時間30分あったので、乗組員はかなり元気を取戻していた。

 然し、わが艦隊の上空には1機の味方機もいない、敵は追撃の手を緩めないだろうから、空襲はこれからが本格化するのだと覚悟を決めた。

B 3回目の空襲 

(瑞鶴、瑞鳳の最後の戦闘)

 1250、伊勢の電探が飛行機の大群を発見し、旗信号で各艦に報告、通報した。

 「150度方向に飛行機の大群を発見す、距離 150キロ」

 我々はいよいよ決戦だと待ち構えた。約10分の後、水平線に芥子粒をまいたような沢山な小さな黒点を見た。小さい敵影は忽ち大きくなり、全速力で接近する。その数はなんと約200機と推定された。

 多数の敵機が四周から一斉に空母2隻を目指して突撃してくる。その積極果敢な行動は敵ながら見事であった。瑞鳳を襲った敵機は午前の時に較べて2倍以上と思った。4周から一時に突っ込んできたので、艦長に順序をつけて報告が出来なかった。対空砲火が死にもの狂いで発砲しているが、四方からの同時攻撃なのでまばらな応戦になり、命中の効果は少なかった。

新しく設置した噴進砲は左舷の比沢中尉(海兵72期)と右舷の吉田少尉(予備学生出身)の指揮によって活躍した。両舷に3基ずつ設置して、1基につき28発のロケット弾を装備していた。有効射撃距離が3キロ以内なので、25ミリ機銃と同様に、敵機を引き付けての発砲である。小型の3式弾といえた。

 高角砲や機銃はよく頑張ったが、なかなか命中して敵機を落とすことが出来なかった。これは空母が回避運動を優先して行ったので、照準が定まらず命中精度が落ちた結果である。多数の敵機に対しては待ち伏せ射撃のほうが有効との結論が出た。

 敵の雷爆撃に対して艦長は面舵、取り舵で回避したが、遂に1317に右舷後部に最も警戒していた魚雷1本が命中した。瑞鳳は大きく振動した後、次第に速力が落ち、その破口から海水が浸入したので、右に約7度の傾斜をした。続いて爆弾2発が飛行甲板に当たり下甲板で爆発した。機械室、汽缶室、舵取り機室に被害が出た。

 左舷の機銃分隊長小森大尉(海兵70期)の配置のそばに起倒式のメーンマストがあり、戦闘旗(大きな軍艦旗)を揚げていた。このマストの近くには左舷の見張員の配置があって三宅見張長以下が頑張っていた。敵機はこのマストを目標にして爆撃、銃撃してきた。

 速力が落ちてからは戦闘機(F6F)までが機銃掃射をしながら突っ込んでくる。

その銃口の発する火炎の方向がわれわれの真正面に向いたように見えた。危ないと叫んで皆身体を伏せた。飛行甲板を叩く敵弾の音がバリバリと聞こえた瞬間に、私から約2メートル離れただけの甲板上で、単装機銃の臨時射手をしていた整備員が弾丸に当たり、もんどりうって倒れ鮮血が甲板を染めた。生死の境は運命としか言いようのない一瞬の出来事であった。

 敵機の攻撃にも緩急がある、ほっと一息ついた時、瑞鶴はどうしているかと眺めると、被害は増大していて左舷への傾斜が大きくなり、航行不能となっていた。それでも右舷の対空砲火は発砲を続けていたが、とうとう最後の時が来た。開戦以来の歴戦の武勲艦も1414、海中に姿を没した。貝塚艦長は艦と運命を共にされたと聞いた。この状況を見た我々は瑞鳳もすぐに同じ運命になると覚悟した。

 敵の空襲が一時途絶えて戦場は静かになったが、艦内は弾薬の整理や死傷者の処置を行うので、乗組員は休む暇が無く疲労の色が濃くなった。また艦内への浸水がふえて傾斜が増し速力が落ちて6ノットとなり、舵の効きが益々悪くなってきた。

 1430頃、雷撃機数機が右前方から超低空で忍び寄り1機ずつの単縦陣で突撃して来た。戦い慣れた様子で発射点について魚雷を発射した後、瑞鳳の上を飛び越えていった。

 海面に白い航跡を残して魚雷が進んできた。その中の1本が命中する角度になった。艦長はすぐに「面舵」と号令したが、もうゆっくりとしか動かない。航海艦橋の真横に当たる角度になった次の瞬間、上下、左右の大振動を感じた。腹の底から揺さぶられる大振動であった。

 水中聴音機室と准士官室に命中した。部下の水測員は艦橋にいた伝令の外は全滅である。瑞鳳は致命傷を負い右舷の傾斜を20度に増して、飛行甲板の右端が海面に浸かるまでになり立ち往生となった。敵はもう沈没は近いと見たのか攻撃の手を緩め状況を見守っているようである。

 先任航海士である山根中尉(海兵72期)と信号員長の大東上等兵曹は艦長附(づき)であるので、最後まで艦長の傍で働いた。同中尉は、次のような思い出を寄せてくれている。

 2本目の魚雷が命中して瑞鳳が航行不能になった1500前、負傷して血まみれになった首藤内務長(応急指揮官)が艦橋に来て、

 「艦内を全部見回りましたが、滅茶苦茶に破壊されています、もう駄目です。」

 と苦しそうな様子で報告されたのを聞いている。どんな事があっても艦を守りたいという杉浦艦長の希望に対する返事であった。

 「そうか、もう本当に駄目か」

 肩を落としてしばし(めい)目された後、総員(全員)退去を決意されたようである。正直に実情を告げた首藤大尉の顔が半世紀以上たった今でも忘れられない。負傷した身体で艦内をくまなく点検して回り、これ以上の犠牲を出さないために、暗に総員退去を具申された武勇は、士官、下士官、兵員を問わず、瑞鳳の乗組員の心意気であった。

 艦長は「総員、飛行甲板に上がれ」、と命令して、大東兵曹に艦内全員に伝えるようにと指示した。各自の戦闘配置から離れて傾斜した飛行甲板には乗組員が集まってきた。

 艦長は部下の前に進み出て、最後の訓示を始めた。

「皆の奮戦も空しく、本艦は間もなく沈没する。本来ならば艦と運命を共にするのが武人の常とされてきたが、今は長期戦となり人的資源こそが必要である。各員はくれぐれも命を大切にして生きながらえて、次の作戦に備えて欲しいのが、艦長の願いである。では只今より軍艦旗を降ろす」と 白鉢巻姿の信号員のラッパ「君が代」に合わせてメーンマストの軍艦旗をゆっくりと降ろした。全員が挙手の礼をして注目する。幾多の思い出が走馬灯のように頭の中を走った。終わって、艦長は皆に対して、

 「総員、退去」と命令された。簡単だが忘れることの出来ない最後の命令であった。短時間だが各所で励ましあい、別れを惜しむ声が起こった。そして分隊毎に散っていった。

 山根航海士は「御真影」即ち昭和天皇と皇后陛下の御写真を荷作りして背負い、竹内報道班員や重傷者と共に重要書類を持って、左舷のカッターに乗って海面に降りようとしたが、吊っていたロープが切れて着水の前に投げ出されてしまった。小沢艦隊の奮戦を撮った貴重なフイルムが失われたかと思った。

 然し、運よく無事に持ち帰って1911月9日のニュース映画で公開されたことが判った。

さて、見張員は泳ぎの補助にするために、艦内にある木材などの浮力がある物を海中に投げ込んだ後、見張分隊長渡辺大尉が「見張員は俺に続け」と言って右舷から海中に飛び込んだので、分隊員一同はこれに続いた。

 黙々として腕を組んでいた江口副長(海兵51期)は艦橋から艦内に戻って行かれた。後から首藤内務長が付いていったのを大東兵曹が見ていた。2人とも戦死されたがこの時が最後の姿であった。

 艦長は左舷見張り所から部下の退去の状況をじっと見ていた。瑞鳳は徐々に後部から沈んでゆき、艦上には人影が見えなくなった時、突然パリパリという大きな音を出して中央部が折れて艦首が空中に立ち上がり、艦尾が急速に沈み始めた。艦長は

「大東兵曹、もういいだろう、飛び込もう」と言われた。艦長に続いて海中へ飛び込んだ。然し、この後艦長とは離れ離れになった。

 海上に浮かんだ私の頭上を(かす)めるように瑞鳳は後退しながら、艦首の鮮やかな菊の御紋章を最後に、僅か20メートル位離れた海中に姿を消した。

 実に厳粛な光景であった。沈没した時間は1526であったと記録されている。

 すぐに付近に渦巻きが起こり、下半身からぐいぐい吸い込まれる。だんだん辺りがうす暗くなり息苦しくなり、もうこれまでと観念したが、無意識に手足をばたばたさせているうちに、周辺が明るくなり海面に浮上していた。

悪夢のような一瞬の出来事であった。

 皆と一緒に漂流を始めたが、伊勢や大淀の戦闘は続いていた。夕方になって敵機が引き揚げた後に、駆逐艦桑が救助に来て助け上げられた。

 桂見張士は渡辺分隊長と行動を共にした。浮力のある品物を海上に投げ出した後、服装はそのままで靴やゲートルを着けたままで右舷から分隊長に続いて飛び込んだ。艦から近いと沈む時に起きる渦巻きに巻き込まれる恐れがあると聞いていたので、懸命に泳いで艦から離れるように努力した。海面は流出した重油が漂い黒色の海であった。

 約50メートル離れた時、瑞鳳は中央部で二つに折れて艦首を空中に立てた後、右後方に引き込まれてゆっくりと滑るように海中に姿が消えた。周囲では渦は起きなかった。敬虔(けいけん)な気持ちでその最後を見送ることが出来た。

 周辺を見渡すと、戦闘は終わっていない。敵機は伊勢と大淀を襲っている。特に伊勢を重点的に攻撃していた。その対空砲火は強力で勇ましく頼もしく感じた。

一時、敵機が減って戦場に暫くの静けさが戻った。沈没した瑞鶴の乗員に対しては初月と若月が、瑞鳳の乗員には桑が救助に当たった。救助艦は舷梯や縄梯子や命綱やロープ付きブイを舷側から降ろし漂泊して、近くの海面に浮かんでいる人員から収容を始めた。

 予期しないことだったが、戦艦伊勢が速力を落として近寄り救助作業を始めた。浮かんでいる我々の約2キロ位までに来た。その高い舷側から降ろした縄梯子を登っている人の姿が良く見えた。伊勢の大胆にして友情深い行為に感動した。

 然し、我々の集団は2キロも離れている上に高い舷側を上りきれない者もいると判断し、あちらには行くな、そのうち救助の駆逐艦が最も近くに来た時に泳ぎ着くのだと注意した。

 暫くすると、伊勢は敵機群の来襲を探知したらしく、救助を打ち切って速力を出して離れていった。結果として98名の瑞鳳乗員が救助されたと記録に残っている。戦艦の救助というのは前代未聞のことで中瀬艦長(海兵45期)の決断は勇気があったと思う。

 海上の我々は浮遊物を持って出来るだけ体力を消耗しないように浮いていた。海面には重油が流出しているので、首筋や手首にべっとりと付着した。もう少し沈むと口や鼻や耳や目に入る。その上に熱帯の太陽が遠慮なく直射するので、頭や顔や身体が熱くなり危険な状態で救助を待っていた。

 約2時間の後やっと駆逐艦桑が近寄ってきた。泳いで辿りつけると思われる距離になったので、各自で桑に行くようにと指示した。私は分隊長に挨拶をして単独で泳いで、桑の舷側に垂れている命綱にたどり着いた。

 この時、またまた敵機がやってきたらしく、桑の艦橋で戦闘ラッパが鳴り、艦が動きだした。命綱にすがっている者にとっては力の負担が急増して手を離しそうになった。ここが生死の境目だと思った。手を離せば一巻の終わりである。必死にしがみついたが、それで精一杯であった。

 幸いにも先に救助されていた分隊員等が甲板から命綱を引っ張り揚げてくれたので、やっとの思いで桑の甲板に上がることが出来た。後での反省であるが命綱を身体に巻きつけたなら、もっと楽に引き上げて貰えたと思う。

 この時以後、渡辺分隊長は残念ながら消息が絶えてしまった。体力の極限まで頑張られたと思うが、再びお会いすることが出来なかった。ああ残念。

 

 太平洋戦争開戦以来、勇戦奮闘した空母瑞鳳は多くの海戦で幾多の戦功を挙げたが、戦局の赴くままに、日本機動部隊の壊滅の日に、最後の奮闘をした後華々しい戦死を遂げた。

 永久に鎮座している場所はルソン島エンガノ岬の東北東約280マイルの海底である。歴代の飛行機隊員と乗組員に、記憶に残る活躍の場を与えてくれて、心から感謝を捧げる次第である。

 
4 1025日の小沢艦隊と栗田艦隊交信状況とその行動

(1) 小沢長官が発信した電報

   @ 0730に旗艦瑞鶴から発信した。

     「われ、敵艦上機の触接を受けつつあり、ヘンホ41,0715

   A 0815同じく瑞鶴から

    「戦闘概報  敵艦上機80機来襲、われ、これと交戦中、地点ヘンニ13、0815

  B 大淀に移乗した直後の1107

    大淀から 

     「大淀に移乗し、作戦を続行す、1107」  以後は電報なし。

 

(2) 栗田長官が発信した電報

  @ 0650、大和の前部マストのトップにいた見張員が突然敵艦のマストを発見し、次いでそれが空母であると報告した。空母6隻、巡洋艦、駆逐艦多数を伴う空母部隊だった。直ちに砲撃を開始した。その戦果の第1報を1000に大和から発信した。

   「戦闘速報 

     @、今までに判明した戦果

      撃沈確実 空母2、(うち大型空母1)重巡1、駆逐艦2、

      命中弾確実なもの 空母1又は2、

      敵機動部隊(空母6隻基幹)はスコール及び煙幕を利用して南東方に避退せり。

    被害大なるもの 鳥海、熊野、筑摩 その他調査中

    A われはとりあえず北進中

A 1100過ぎ、栗田艦隊はレイテ湾突入の陣形をつくり、針路180度とし前進を開始した。南西方面艦隊が発信したという次の電報を、栗田長官が知っていたことが1230発信の栗田艦隊戦闘詳報で判る。   

 「0945、スルアン島灯台(レイテ湾口の小島)の5度113マイルに敵機動部隊を発見す」

B このままレイテ湾に突入するか、新たに知った近距離の機動部隊に対して決戦を挑むか岐路に立った。

 1230発信の戦闘詳報は次の通りで状況判断と決心処置を述べている。

 「正午に至るまで累次の敵の空襲を冒しつつも予定通りレイテ突入を企図せしが、敵の通信によれば敵第7艦隊(上陸軍の護衛艦隊)はレイテ南東300マイルに集結を下令せり。

 敵はタクロバン基地に艦上機兵力を集中すると共に、わがレイテ泊地突入を予期し洋上機動部隊を以って邀撃配備がまったきものの如く、また、なおレイテ泊地の状況不明にして西村艦隊並びに志摩艦隊の戦闘経過にも鑑み、わが突入はいたずらに敵の好餌となるおそれ、なしとせず。

 むしろ敵の意表を衝き、0945出現のスルアン島灯台の5度113マイルの敵機動部隊を求めて、反転北上するのを爾後の作戦上有利と認め北上するに決す」

 続いて1236

 「栗田艦隊はレイテ泊地突入を止めサマール島東岸を北上し、敵機動部隊を求め決戦、爾後サンベルナルジノ水道を突破せんとす」と連合艦隊長官始め全ての艦隊に電報した。

 これによってレイテ湾の直近までに迫りながら、180度の反転を行ったのである。

 然し、求めた敵艦隊はいなかった。重大な誤りである。この情報を受信した筈の大和の受信室には入電の記録が無いという。不思議な話である。色々な理由があったと思うが、戦後になっても栗田長官及びその参謀の確かな説明が無いので、永久の謎になってしまった。

 レイテ島は日本守備隊の必死の防戦にも拘らず占領されて、この戦いは日本の敗北に終わった。

 

4 小沢艦隊で参戦した海兵72期生(当時は海軍中尉)の乗艦区分

  (1)空母関係

艦名 状況 戦死者 生存者
瑞鶴 沈没 都野 隆司 足立 喜次・伊達 利夫・辻 滿壽夫
瑞鳳 沈没 なし 石上  亨・桂  理平・比沢  勝・山根眞樹生
千歳 沈没 柄澤 節夫・末岡 信彦 川嶋  清・岩松 重裕
千代田 沈没 甲賀 公夫・稲葉  博・西  尚男 なし

  (2)戦艦関係

艦名 状況 戦死者 生存者
日向 なし 星野 政コ
伊勢 なし 間中 十二・藤井 武弘

(3)軽巡、駆逐艦関係

艦名 状況 戦死者 生存者
大淀 なし 足立 之義・及川 久夫
多摩 沈没 搏c 弘 なし
五十鈴 なし 旭  輝雄
初月 沈没 島本紀久一
秋月 沈没 なし 八淵 龍二
若月 なし 西山 興作
霜月 なし なし
なし 鈴木 敏旦
なし 後藤英一郎
なし 中村 元一
なし 宮林 久夫

但し、桑の鈴木は12月2日、レイテ島西岸オルモック方面の輸送作戦に参加し、その乗艦の沈没の際、艦と運命を共にし、杉の宮林は同輸送作戦中12月7日敵弾を受けて戦死した事を付け加える。


機動部隊本隊の行動(10月24日)

エンガノ岬沖海戦(10月25日)

(なにわ会ニュース99号 平成20年9月掲載)

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