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平成22年4月21日 校正すみ

352空奮戦記 (続き)

岡本 俊章

昭和20年3月に入ってからは、マリアナ基地からのB29の来襲は、いよいよ本格的になるとともに、20年4月に米軍は沖縄に上陸し、物量をもって、日本軍陣地を攻撃し、沖縄の命運は、いよいよ最終的段階を迎えた。そして、沖縄本島は勿論、諸島に基地を設け、南九州航空基地への攻撃は、いよいよ激しくなってきた。このような戦局から三五二空は、開隊以来の西部軍の統制を離れ、第五航空艦隊に編入された。五航艦司令部は鹿屋基地にあり、菊水作戦のため、戦闘機隊を南九州に集約し、沖縄航空作戦を発動した。このため4月4日、「可動零戦は笠ノ原基地に進出せよ」との作戦命令により、杉崎隊長亡き後、71期の植松真衛大尉が隊長代理として、上田、田尻、森君搭乗3機を含む、零戦20数機を率い笠ノ原基地へ進出した。この時点で中西は三四三空に転出しており、私は雷電隊のため、不参加、伊吹は体調不良で参加していない。笠ノ原基地には二〇三空(司令・山中龍太郎大佐) の零戦5060機が集結しており、五航艦に属する臨時の連合航空隊が編成され、二〇三空司令・山中龍太郎大佐の指揮下に入った。この隊には先に転出した小林も居た。

(菊水一号作戦)

4月6日菊水一号作戦が発動され、三五二空零戦隊は、植松隊長代理指揮の下に、特攻支援の制空隊として、1100基地を発進した。一面の雲海を高度5000メートルで進攻中、レーダー射撃を受け、編隊が飛ばされたが、約2時間後に沖縄に到達、中城湾上空を約30分間制圧した。その間、敵艦船に特攻機が突入したと見られる黒煙が数度望見されたが、会敵せず、全機帰還した。

この時、第一波で戦闘三一二飛行隊長として出撃した初代三五二空飛行隊長・神崎国雄大尉は、奄美大島上空でF6Fと交戦し、壮烈な戦死を遂げた。

(大和直衛)

四月七日払暁、五航艦長官から沖縄特攻の第二艦隊旗艦大和直衛の命令を受け、植松真衛大尉の率いる零戦16機が、0630基地を発進した。第二艦隊の位置は佐多岬の西27070浬との通報を得たので、硫黄島を経て、黒鳥を確認したが、視界不良で草垣島が見当たらぬまま、雲高500ないし、1000メートルで付近海域を捜索中、ようやく雲の合間に大和を中心にして、輪形陣で西進する艦隊を発見、バンクしながら接近して上空旋回に入った。植松指揮官機は、離陸時に増槽が脱落していたため、約30分間直衛後、指揮を森中尉に託し単機帰投した。他の機は所定の直衛を終了して1130には全機基地に帰投したが、間もなく敵機と交戦中との着信があり、大和の沈没を知り帰還した搭乗員は愕然(がくぜん)とした。大和に対する直衛は三五二空が最後であった。

(菊水二号作戦)

四月十二日、1130第三波として特攻機支援のため発進、途中は視界良好で順調に沖縄に到達、泊地上空制圧中、後上方雲間から攻撃態勢に入った敵機を認めバンクして避退に入ったが、時既に遅く、上田清市中尉と大西隆栄飛長の両機が被弾、自爆した。また植松大尉機も左翼に被弾し、燃料漏れと速度計不作動のため、単機帰路についたが、途中種子島の仮設飛行場に着陸して、燃料補給と応急修理の上、基地に帰投した。

(対グラマン戦)

4月15日、植松大尉の率いる三五二空10機の零戦隊が出撃、大隈半島上空でグラマンと交戦、植松大尉ほか未帰還、不時着5機を出した。植松大尉機は被弾し、高度200メートルで、落下傘で脱出、海上で漁船に救助されたが、重傷のため、霧島、大村両病院で加療の後、舞鶴海軍病院で療養した。

(菊水三号作戦)

翌4月16日は、特攻支援菊水三号作戦で 田尻博男中尉が指揮官となり出撃したが、敵のレーダーに捕捉されたためか、戦果不明のまま、田尻博男中尉、森一義中尉機は未帰還となった。

以上のとおり、笠ノ原基地に進出した三五二空の零戦隊は、4月6日には早速菊水一号作戦で出撃、4月7日には午前中、特攻出撃の二艦隊の上空直衛、4月8日にはB29来襲に対する邀撃、4月11日には喜界ケ島上空でのグラマンとの戦闘、4月12日菊水二号作戦、4月15日には南九州におけるグラマンとの戦闘、4月16日には菊水三号作戦と休む暇もなく、激闘に終始した。この間に、指揮官植松大尉は、重傷により戦線離脱を余儀なくされたほか、田尻、森、上田の三中尉を含む6名が戦死した。他の三〇二空、三三二空から派遣の零戦隊の状況も大同小異であり、連合零戦隊は、一ケ月の間に戦闘可能機20機程度に消耗した。このような状況から、連合航空隊は解散し、5月20日各派遣零戦隊は作戦目的を終わり、それぞれの原隊に復帰した。これよりさき、五航艦司令部から雷電隊の鹿屋基地への進出の命令があり、4月26日雷電分隊長の青木中尉指揮のもとに10機が派遣された。雷電隊は鹿屋基地方面への来襲B29の邀撃が主任務で、三〇二空、三三二空、三五二空、三航空隊の雷電約50機が鹿屋に集結し、対B29邀撃待機が始まった。そして、連日のようにB29の邀撃に努めたが、わが方のレーダーの性能が悪いために、情報が遅く、その上、B29のスピードが驚異的であり、効果的な邀撃は出来なかった。しかし、可動機数の消耗もあり、三航空隊の雷電隊は5月中に原隊復帰となり、三五二空の雷電隊は6月3日大村基地に復帰した。私はこの雷電隊とともに行動したが、特記すべきことはない。

ついで三五二空の雷電隊は、三三二空に編入されることになり、可動全機(十機程度であったと思う)を率いて、6月8日に鳴尾基地に移動した。大村基地を出発にあたり、小松飛行長から岡本だけは二〇三空への転出が内定しているから、必ず帰隊するようにと云われていたので、三三二空司令(八木勝利中佐)に大村への帰投を申し出たところ、「いや、岡本大尉(6月1日付昇任)も三三二空にこのまま配属されることになっている。」と言われ、大村への帰投が許されなかった。困り果てた私は、小松飛行長に電話で事情を報告したところ、折り返し「要務あり、帰投せよ」との入電あり、やっと八木司令の許可も出て、零戦を借用して単機で大村基地に帰投することができた。そして、予定どおり、三五二空の零戦隊主力とともに、6月22日、

二〇三空に赴任し、戦闘三〇九飛行隊に配属され、築城基地で終戦を迎えた。このように、零戦隊、雷電隊の主力が他航空隊に転属した三五二空は、戦闘九〇二飛行隊(月光隊)を編入し、斜銃を装備した少数の彗星、零戦を主体とする夜戦主力の縮小された航空隊となった。そして、月光隊の一部は築城基地に進出して、関門海峡方面に機雷敷設のため来襲するB29の邀撃に当たりながら終戦を迎えた。

以上が三五二空戦記の概要であるが、我々が三五二空に着任の昭和19年8月から、昭和20年8月までの一年間における戦死者及び、殉職者数は33名を数え、小林晃君のように他隊へ転出後の戦死者及び殉職者を含めると、62名の多きに達し保有機数5060機程度の小さな航空隊における僅か1年間の戦死及び殉職者としては、決して少なくはなく、いかに過酷な環境下で奮戦の1年間であったかを物語るものではないかと思う。

この三五二空(別称・草薙部隊)の奮戦に感動された大村基地にほど近い市内にある昊天神社の宮司、故・池田強氏(現宮司は池田剛康氏)は、全くの善意で昊天神社の境内に祖霊社を建て、銘木の板に一名一名克明に英霊名を記し、由緒書きとともに掲げ奉祀されている。

(写真参照 掲載略)

 なお、我々生き残った三五二空の搭乗員及び一部の隊員有志は最後の飛行隊長代理植松真衛元大尉を中心に集まり、思い出の十一月二十一日を期して、昭和五十二年と五十六年に國神社での慰霊祭実施に続き、昭和五十九年以来毎年國神社(一部昊天神社等)に昇殿参拝し、我々の今日あるは、諸英霊の至誠に基づく献身の賜物である事を思い、心からの感謝を捧げるとともに、ご冥福を祈念している次第である。

最近、小泉総理大臣の國神社参拝をめぐり、中国、韓国等が小泉総理大臣の真意を理解しようとせず、サンフランシスコ平和条約十一条に基づき、関係諸国の同意を得て、既に解決済のA級戦犯合祀問題を蒸し返し、日本の一部政財界人、マスコミを操ろうとするのは、日本の内政干渉そのものであり、その尻馬に乗らないよう、充分意を用いるべきであると考える。

(平成十八年九月・記)

(平成18年9月・記)

(なにわ会ニュース9651頁 平成19年9月掲載) 

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