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平成22年4月22日 校正すみ

「無名の碑 清水武」を読んで所感

桂 理平

 これは実弟の昭さんが兄武氏の海軍生活と戦死の状況を全力で調査して、昭和49年に完成された追悼文であって、読んで感激しています。実によく調査してあり、その立派な戦歴は素晴らしく満腔(まんこう)の敬意を表します。

彼とは兵学校の二号生徒の時に第4分隊で1年間寝食を共にした仲間であるので、改めて当時を思い起して懐旧の念に包まれています。

付け加えると、同じく戦闘機乗りになり、昭和20年1月上旬ルソン島リンガエン湾の敵の上陸作戦に際して敵艦に体当たり攻撃をし、戦死したと言われる太田正一君は、同分隊で私と寝台が隣同士の親友でした。

 清水君は運動神経が抜群であって、特に体操と水泳を得意とし共に特級と認定され、訓練用白帽子には黒線2本が入っていた。太田君は勉強を良くして、純情、誠実、真面目で、あの闘志が何処に潜んでいるのかと思わせる好青年であった。

 第4分隊の二号生徒は水上艦艇に進んだ真崎(以下敬称を略す)、鈴木()、桂を始めとして、航空畑に進んだ清水、太田、本間、難波()、木村(G)、藤田()、伊吹の外、潜水艦には亀井が行った。更に在校中に短艇競技で準優勝した時、全力櫂漕(とうそう)して悲壮な殉職を遂げた田村誠治がいた。合計12名であった。

 昭和18年9月に兵学校を卒業して後、真崎が19年6月にタウイタウイ島の機動部隊泊地の外側の海域で駆逐艦谷風が敵潜に撃沈されて戦死したのを始めとして、厳しい戦闘を戦って戦死者が多く出て、終戦時に生き残ったは鈴木、伊吹、桂の3名のみであった。

 当時の第4分隊の伍長(一号生徒の最先任者)は1年先輩の二階堂春水さんであった。この人は率先(きゅう)行を実践する武人の典型であったので、私が心から尊敬をしている先輩の一人である。

昭和52年秋に、終戦後約33年にして、その世話によって、第4分隊の戦死者の慰霊祭が、京都東山の名刹(めいさつ)南禅寺山内の専門道場で行われた。藤平宗徹管長が戦争末期に海軍航空隊で二階堂さんの部下であったご縁によるものである。

 管長が専門道場の修行僧約30人を引率して式を臨み、その読経の声は重厚に朗々と山内に木霊し、その光景は立会いの遺族、生存者の心に深く刻まれた。その時、伍長が朗読された自作の「哀悼の辞」を記録に残しているので、次に引用する。戦死者を悼む切々たる真情が文中に溢れている。その伍長も先年他界をされ、寂寥(せきりょう)の感が大である。そして現在(平成1810)では二号としては桂が唯1人残っている次第である。

 

“昭和17年海軍兵学校第4分隊 散華の英霊に捧げる哀悼の辞”

 壮烈、無残な太平洋戦争終結後 30有余年を経て、生き残った者達及び遺族の有志、ここに相集い、名刹南禅寺の御仏の前に、33回忌の法要を営むに当たり、 青春の蕾のままに悠久の大義に殉じ、散華された英霊に対し謹んで哀悼の辞を捧げる。

 

 太平洋戦争勃発の寸前の昭和1611月編成された第4分隊に所属する者

一号生徒  第71期生  11

 二号生徒  第72期生  12

 三号生徒  第73期生  17

 総勢              40

相次ぐ花花しい大本営発表に、先輩達の活躍を偲び、明日は俺達の出番と日夜学業、訓練にいそしむ毎日であった。

 忘れもしない、昭和17年5月、恒例のカッター短距離競技に備え猛訓練に励んでいた頃、他の分隊に何度練習試合を挑戦しても一度も勝てない口惜しさに歯(ぎし)りした日々「4分隊がいる限り絶対ビリにならない」との定評であった。

 予選第1戦のスタートラインに着いた時、私は思わず舵を手離し12名のクルーに向かって叫んだ。

 「負けて帰ると絶対思うな、命を()けて漕げ」

 号砲を合図に一斉のスタート。1,600メーターを全力の力漕。ゴールに飛び込んでみると夢にも思わなかった一着の栄冠。

(かい)立て」の号令に12本のオールが勝ち誇るように一斉に立ったが、次の瞬間2番のオールがゆっくりと弧を描いて倒れた。

「田村っ どうした」 艇尾から転げるように駆け寄って抱き上げた私の胸の中で、二号生徒田村誠治君は心臓麻痺で絶命していた。懸命の人工呼吸も空しく帰らぬ人となったのである。

 それからの第2戦、第3戦。4分隊のクルーが乗るカッターには常に田村生徒の遺影があった。スタートの度に舵を左手に、 右手には田村君の遺影を高く掲げ、私は12名のクルーに呼びかけた。

「江田島広しといえども、13名で漕ぐのは4分隊だけだぞ」また漕ぐ間中、「田村に負けるな、田村に負けるな」 と私は無我夢中で叫び続けていた。

 田村生徒の霊がカッターを後押ししているかのように、江田島一弱かった我々のクルーは、勝ちに勝ち、あれよ、あれよという間に準優勝の栄譽に輝いていたのである。

 遺影を振りかざして、奇跡のように突進する4分隊のクルーの活躍を目のあたりにした全校生徒は、どれほど大きな衝撃と感銘を受けたことであろう。

 樺太の真岡から急を聞いて駆けつけて来られたご両親を待って行われた兵学校葬において、全校生徒の前で読む私の弔辞が悔恨の涙の為に途切れがちであった事を、つい昨日のことのように想い起こされるのである。

 田村生徒の殉職が卒業後の壮烈な戦いの幕開けでもあったかのように、戦い終わった日に、4分隊二号生徒12名のうち生き残れる者、僅かに3名であろうとは!

  太平洋戦線の全域に展開していった4分隊40名の面々。

そして散華していった英霊の各位

一号生徒 

八島 準二大尉 偵3飛     191012 南西諸島空域

渡辺 朋彦大尉 山雲乗組    191025 比島スリガオ海峡

竹林 正治大尉 戦701空    191113  比島ルソン島空域

立入 仁大尉 霜月乗組     191125 ボルネオ西方海域

若命 宗雄少佐 呉竹乗組    191230  バシー海峡海域

二号生徒 

 

田村誠治生徒 殉職       17・5・17 兵学校

真崎 三郎中尉 谷風乗組    19・6・10 タウイタウイ島海域

木村 G大尉  戦254      191111比島オルモック湾空域

難波 経弘大尉 643空     1912・7  比島パナイ島空域

本間 倫夫大尉 攻5空          1912 15 比島パナイ島空域

太田 正一大尉 戦 308         20 ・1・6  比島リンガエン湾空域

藤田春男少佐 神風菊水隊(二階級進級)

                20・3・19 九州南方空域

清水 武少佐 神風大義隊(二階級進級)

 20・4・1 宮古島南方空域

亀井 寿大尉 潜水艦ロ46    20・5・2 沖縄方面海域

 

三号生徒

藤田 豊少尉 空母大鷹乗組   19・8・18 ルソン北西海面

島田陽一中尉 敷波乗組     19・9・12 南支那海海域

奥田 聡中尉 武蔵乗組     191024  比島シブヤン海域

注 (戦死の時期によって階級は異なる)、

貴兄達の一人一人が、或いは花花しく或いはひっそりとその散り際は異なっていても心は一つ、(かん)()として悠久の大義に殉ずる若武者の心意気であったでしょう。

 飛行機にやってくれと、散々駄々をこね命令に従わぬ大馬鹿者と叱責され、最激戦地ソロモン群島に追放されたこの私が不思議に命ながらえて、田村生徒の時と同じように、今日再び南禅寺法要の席で貴兄たちに対する弔いの辞を捧げようとは!

 「散るも桜 残る桜も散る桜」

 同期の桜の歌を口ずさむ度に、この身もまた、同じく国に捧げたものとの気概は今も昔もいささかも変っておりません。30有余年の歳月は焦土と化した祖国を平和で豊かな日本に(よみがえ)らせております。30年という年月も天地悠久の前には、ほんの瞬きにも過ぎなかったことでしょう。

2600年の日本の歴史の中で最も凄まじい大東亜戦争に青春の全てを()けるという稀有(けう)の体験を与えられた私達は日本人として最も戦運に恵まれた世代であり、然も常に指揮官としての栄誉を与えられた私達は、最も選ばれた若者であったのでしょう。戦後を戦い抜いた私達もやがて近い将来、先に逝った貴兄達と再会出来る日が来る事と思います。

「貴様と俺とは同期の桜 

離れ離れに散ろうとも 

春の都の國神社 

花の(こずえ)に咲いて逢おう」

 散華された英霊たちよ。今こそ安らかに眠られんことを祈る。

     昭和521119

             参列者代表 伍長  二階堂春水

生 存 者

一号生徒 二階堂春水 中山達二郎 清水 文郎 清瀬 一弘 

 太田黒義男 小野 蘭二

二号生徒 桂  理平 伊吹 明夫 鈴木 哲郎

三号生徒 中尾 大三 岩田 友男 大島 和夫 小笠 嘉典

藤澤 保雄 田尻 正司 有村 政男 田島 司夫 

篠原 真人 足立 守正  山口裕一郎 島  忠雄

原 芳雄  萩原 公人  

合計 40名               以上

閑話休題、戦後も平成の時代になって、クラスの生き残りの戦闘機乗りの諸君に、彼等が飛行機の教育教程を終り更に戦闘訓練実習を終了して、初めて第一線に配属された昭和19年9月頃から同20年4月の敵の沖縄戦開始までの間、比島、台湾方面でのクラスの戦闘機乗りの活躍状況を聞いたが、長い間確たる反応はなかった。

平成8年になって、たまたま関西なにわ会に千葉から来て出席した藤田昇君に出会った。彼はあの頃清水にも太田にも比島の航空基地で会い、僅かな時間だったが、お互いに頑張ろうと激励し合って別れたと語ってくれた。部隊が違っていたので、その後の事は良く分からないといった。

出会ったクラスの戦闘機乗りの様子は別のレポートに知っている限りを書いているので読んでくれともいった。

私はそのレポートを読んで、ルソン島撤退作戦の航空戦や陸上戦での負け戦さの中で、清水や太田と共に多数の戦友が次々に散華されたのを知った。 残念だが、これが当時の戦場の実態であると思う。更に詳しく聞きたいと思っていた矢先に、不幸にも藤田君は平成10年2月病気で急逝してしまった。

なにわ会誌第95号に、遅くはなったが「無名の碑 清水 武」が発表されて、私は始めて彼の奮闘振りを知った。戦闘機乗りとして自他共に最適任と評された清水の活躍は、その能力から見て当然であろうし、二階級進級の評価もまた適切と考える。

永く将来の国民に語り継ぐべき責任を生き残った我々は強く感じなければならない。弟の昭君と会って語りたいと思ったが、既に昭和59年5月に亡くなられている(広島での原爆の後遺症による)とは残念の極みであり、その寿命が短過ぎるのを天に恨むものである。

それにしても敗戦後の混乱のためとは言え、この物語を現在になって私が知ったのは遅きに失した感がある。南禅寺慰霊祭の時点では第4分隊の者が清水昭君との接触が出来ていなかった。当事者の一人である私は残念無念と痛切に思い知らされている次第だ。

ここに改めて清水兄弟を始めとして第4分隊の戦死者及び戦後の物故者の御冥福を心から祈り、これ等の物語を後世に広く申し継ぎたいと念願するものである。

(なにわ会ニュース96号42頁 平成19年3月掲載)

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