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メレヨン島と田中歳春君

 五郎

一昨年秋の旅行日光の宿、薄暗い早朝のロビイで矢田と押本の両君が話し込んでいた。いつもの通り早起きしたものの、ほかにすることも無いので、これ幸いと同席してみたら話題は先般亡くなった田中歳春君の事であった。そして貴様も田中君のことについて何か書けといわれる羽目になってしまった。

実のところ田中君とは候補生時代八雲で2カ月同じ釜の飯を食ったほかには、20年5月にメレヨン島でほんの一刻顔を合わせただけである。戦後も賀状のやり取り位で取り立てて親密であった訳ではない。然し、事メレヨン島の話となると、あの悲惨な実情が余りにも知られてないので、これだけは是非とも期友の皆様に伝えなければならないという思いにかられるのである。

それと同時に先般来、クラス会としての戦史編纂(へんさん)物議が相当かしましかったが、今更出来もせんことを議論するより、一人でもよいから戦時中のことを会誌に投稿することの方が大事ではなかろうかと思うのである。この間、見事な自分史を出版した桂君のような正確な記録は、今となっては到底望むべくもないが、せめて思い出話でもよいから自分たちのやってきたことを、それぞれの立場から記録に残しておけば、単なる戦闘記録的なものより血の通ったものになるのではなかろうか。それに我々もそれぞれ自分の配置や経験したこと以外は余りにも知らない。だからお互いどんなことをやってきたかを知らせ合うのも結構面白いものかもしれない。そんな意味で些か趣旨散漫冗長に過ぎるかも知れないが、伊369潜でのメレヨン輸送作戦や、それ以前に同じ作戦に従事したクラスのことも略記したい。

 

主として往路の思いでは会誌2号(昭和29年1月1日発行)の拙稿「腰抜け武勇伝・或る出撃の想い出」に既述したが、当時のことを振り返ると我ながら冷や汗の出ることばかりである。無事帰投出来たのはひとえに名艦長以下精鋭なる我が伊号369潜水艦乗組員のお陰と、ついて回った運のセイである。

この艦長中島万里少佐(66期)も先年なくなった。追悼の意味も込め、復路を含む作戦の概略を一編の詩に綴ってみた。

 

中島艦長追悼歌

 航海長  五郎

 飢えや迫れる 南瞑の

ああ悲惨なり メレヨン島

死を待つ戦友は 数千名

潜艦措いて 策なしと

はらから救えの 命下る

     伊号三百 六十九

 

 排水一千 四百噸

精鋭その数 八十余

一艦統ぶる 艦長の

姓は中島 名は万里

櫻吹雪の 十六夜に

たつや名残の 野島崎

 

 牙を抜かれし 鉄鯨の

無念なるかな その巨腹

命の糧を 詰め込みて

波路遥けき 幾千里

隠密航走 ひたすらに

戦友を救うは 我が任務

 


 トラック諸島 前にして

潜航急げ.敵発見

空に跳梁 敵機影

海に跋扈(ばっこ) 敵艦艇

軸艪銜みて 煌々(こうこう)

我に敵撃つ 術はなし

 

 酸欠高圧 蒸し風呂に

よくぞ耐えたり我がクルー

難関見事 切り抜けて

勇姿に歓呼の 声あがる

しばし憩いの トラック島

さらば針路は 西へ西

 

 敵制圧下の メレヨン島

絶えて久しき 救援の

夢まぼろしか 潜望鏡

忽ち揚がる 望楼に

血潮の色か 軍艦旗

戦友の歓喜 胸をつく

 

 浮上漂泊 島蔭に

引取舟艇 集えども

大和男の子の 無惨なり

幽鬼とまがう その姿

心を鬼にし 励まして

急ぐ作業や 星明かり

 

 開きしに勝る 悲惨さに

別れを告ぐる 言の葉の

言葉にならず 帽を振る

渺たる島に 兵幾千

醜の御楯と  草むすや

戦局非なるを 如何せん

 

 整備点検 いとまなく

試験潜航 危惧まさに

ツリムの狂い 予想外.

ダウン一杯 舵故障

奈落目がけて 三十度

高圧排水 効き目なし

10 沈降止まず 深度計

安全限度 はるか過ぎ

艦内声なく きしむ音

艦長独り 泰然と

後進一杯  両舷機!

至難の操艦 リカバリー

 

11 特攻勇士や 軍属の

四十余乗せての 帰投行

危機幾度か 突破して

士気や揚がれる 三六九

敵軍怒涛は.恐れねど.

鉄鯨腹中 病魔わく

 

12 栄養失調 病人の  

頑是も無しや 盗み食い

アミーバ赤痢の 垂れ流し

避くるに術なき 艦内の

追い打ちかける 熱湿気

哀れ無念の 衰弱死

 

13 毛布にくるみし 亡骸の

軽ろきゃ波間に 沈み得で

とわの恨みを 告ぐるかや

水漬く屍よ 許せかし

バラスト抱きし 次の死者

任務は重し 非情なり

 

14 防疫必死の 軍医長

されど感染 防ぎ得ず

乗員罹病 相次ぎて

疲労困憊 極まれど

ついに黒潮 越えにけり

天佑我に 給いしか

 

15 任務終えたり 懐かしの

房総の峰 月明下

探照灯の.光芒に

傲然たるかな 敵機影

盟邦独逸 既に陥ち

皇謨や空し 我が祖国

 

16 神州敗れ 栄光の

艦旗を焼きぬ 長浦に

落日悲し 葉月末

戦火収まり 五十年

今世は栄え 人富めど

伝えおかばや この日々を

 

17 その名も万里の 波涛越え

沈着冷静 敢然と

数多の戦友の 命をば

救いし勲 誰か知る

中島万里 逝きにけり

中島艦長 今はなし

  メレヨン島と言っても知る人は殆どない。
勿論戦後の教科書程度の地図には載っていない。たまに載っていてもオレアイ環礁とかフララップ島と記載されている。戦後の戦記物には機密保持の目的で、わざと変名で呼称したのではなかろうかなどと書いてあるのもある。然し大正五年測量以来戦時中としては最新の昭和十三年版海図にはメレヨン島(WOLEAI or ANANGAT IS)と表示されている。

 どういう訳でメレヨンと言ったのか分からないが、海図では主島をフララップと表示した下に(メレヨン)と書かれている。また主島のすぐ西にマリヨンという小さな島があるが、どうもそのあたりははっきりしない。

それにしてもまことにちっぽけな島である。丁度トラックとウルシーの中間やや西寄りに位置しているが、ここに昭和19年始めより海軍44警及び216設営隊3200余名、陸軍独立混成50旅団3400余名の大部隊を送り込んだ。陸軍の場合は更に輸送船が途中でやられているし、報告或いは文献により多少の食い違いはあるが、兎に角7000近い人間がこの小さいサンゴ礁の防衛に当たることになったのである。

ガダルの失陥以来防衛線の後退に伴い、急遽この大部隊を送り込んだのである。しかもその直後から米軍の猛爆を受け、輸送物資の大部分を失ってからは、実に敵味方双方から共に価値のない島になってしまった。米軍にとっては兵糧さえ断ってしまえば軍事的基地としての脅威は全然考えられない。主島フララップ島にある1500メートル足らずの飛行場、これは海軍が設営隊を派遣しトラックからウルシー攻撃の中継基地として建設したらしいが、基地としては地形的にも地質的にも誠に貧弱で、米軍猛爆の前にはたちまちその機能を失ったのも当然である。

なにしろ一番大きい主島でさえ一寸した地方空港よりはるかに狭い、標高は最大で3米、環礁の全島を合わせてゴルフコースの一つも無理という位の小ささである。もともと大本営は何を考えていたのか、少なくとも決戦場としては考えていなかったことだけは確かである。どんな馬鹿が考えても米軍の反撃が始まって以来の飛石作戦という彼らのやり方を見れば、吹けば飛ぶようなこんな島に本格的な攻撃を仕掛けるとは思えない。精々飛行場を叩くだけである。然し仮に敵の本格的攻撃にさらされた場合にはどうするつもりであったのか?答えは一つ、捨て石作戦これ以外には考えられない。捨て石でもよい、敵と戦って死ぬのなら武人の本懐と諦めもつく。だが、兵糧攻めでの野垂れ死にでは何ともやり切れない。このあたりの補給や島嶼防衛の戦術的な価値判断について作戦指導者たちの無責任振りには唯々腹が立つのみである。サイパンが落ちたのだから仕方ない。ではガダルでのあの苦い苦い、経験戦訓は何処へ行ったのか。戦局の推移によっては、或いは現地調達自活の道もやむを得ない。然しこのメレヨンについていえば、この島で食糧の補給なしに現地調達で何名の人間が自活出来ると考えていたのか?

冷静に判断すれば、この大部隊ではものの半月と持たない位のことは、作戦担当者には充分判っていた筈である。判っていながら兎に角防衛線の強化の為、まず頭数を揃えるのが先決と言うのが恐らく本音であったろう。この無責任さは開戦決定の経緯と相通じるものがあるように思われるが、とまれメレヨンの陸海軍部隊がさまよった飢餓戦線の悲惨さについては言うべき言葉を知らない。

それについては本誌前号掲載の梓特別攻撃隊誘導機の小森宮機長による特別寄稿でもその一端を窺い知ることが出来ようが、果たして我々がその実状にどこまで迫れるかは大きな疑問である。「一将功成りて万骨枯る」のならまだしも、一将の功も成らずして万骨を枯らしめたその罪は一体誰が負ったのか?

戦争の結果責任から言えば、それは当然のメレヨンに斯くも無責任に膨大な部隊を送りこんだ作戦指導部が負わなければならない。然し不肖にしてそんな話は耳にしていない。

それどころか、現地で惨憺たる苦労を重ねた陸海軍部隊の指揮官は共に戦後自らその命を絶ってその責めを負われたのである。即ち元メレヨン島守備隊長独立混成第五十旅団長北村勝三陸軍少将は終戦2年目の8月15日、海軍の元第44警備隊司令宮田嘉信海軍大佐(50期)は終戦翌年の7月、共に割腹自殺を遂げられたのである。仄聞するに田中君が唯一人の兵学校出の後輩副官として仕えた宮田司令の最後は誠にお気の毒であったらしい。

それは時の文部大臣阿部能成がメレヨン島遺族からの投書をとりあげ、これを雑誌世界で問題にしたのがきっかけとなり、世相に便乗する時のマスコミや共産党のあらぬ誹謗中傷の嵐の中での悲惨な自決であったらしい。

この件については稿を改めてどうしても取り上げなければならないと考えているが、正にこの地獄のようなメレヨンでの1年有余、そしてその肉体的後遺症は勿論、九死に一生を得ての復員後まで、この様な言いようのない精神的十字架を背負っての田中君の戦後は余人の想像を絶するものであったに違いない。

ともあれそのメレヨンには計5隻の潜水艦が輸送作戦に従事し、後述の如くそのいづれにも我がクラスが参加した。ただ最後に行った小生の場合には砲術長ではなく、既に航海長配置だったので入港後も田中君と殆どゆっくり話す暇が無かった。それというのも伊369潜の場合、艦長は環礁内に碇泊して揚陸するのは空襲を受けた時に危険性が高いと判断、そこで環礁北側の外洋でしかも分散している各島へなるべく近い位置に漂泊しながらの夜間作業となったのである。

ところがここメレヨンは丁度西行する南北両太平洋海流が反転合流して赤道反流となり東行に転ずる海域に当たる。当然潮の流れは甚だ複雑で、漂泊する場合は艦位の保持に充分の注意が必要であった。

余談ではあるがトラックを出てからは、日中は勿論薄暮黎明も潜航、専ら夜間航走でメレヨンまで突っ走った。航程約600マイル、日程七日その間づーっと曇天続きで、その中頃にたった1回だけ運よく晴れた夜、鎌のように細い三ケ月を降ろして天測をやった記憶がある。星は何を降ろしたか忘れてしまった、或いは南十字星あたりを降ろしたかも知れない。それは南の海のあの澄みきった夜空を頼りに、それこそ心眼を凝らし水平線を求めての天測であった。天測の結果は果たしてどうであったろうか。艦長が亡くなる少し前に書かれた《魚と兵隊》という自叙伝の記述では、天測をやったのはメレヨンの手前約20マイルのあたりで、しかも日中浮上航走中となっている。私の記憶では日中は専ら潜航していたと思うが、今となっては確かめようがない。

ともあれ、そろそろメレヨンが近いかなと思われる頃、ベテラン水測の先任下士が大声で叫んだ。

「艦首前方波の音・近い!」

  潜望鏡を覗いた艦長は直ちに回頭を指令、一旦沖合まで退避してからまたソロリソロリと再接近、「航海長!大丈夫か、メレヨンに間違いないか?」と言われても、こちらとしては「大丈夫! メレヨンに間違いありません」と言う他ない。意を決した艦長は再度潜望鏡をあげ暫く見ていたが、「航海も見てみろ」といわれて覗いてみると、視野一杯になんとも薄っぺらな島らしきものが拡がり、波打ち際近くに貧弱な望楼のようなものが見える。

その時である、人影らしき気配がした途端スルスルと軍艦旗が待ちかねたように勢いよく揚がった。今度は私の叫ぶ番であった。「艦長、軍艦旗ですー・」

この時の旗の色は私の眼底に鮮やかにこびりついて終生忘れられそうにない。一日千秋の思いで補給潜水艦の到来を待ち焦がれていたのであろう現地部隊の悲痛な思いと喜びが、ひしひしと胸に迫る一瞬であった。

まさにドンピシャリー!艦は主島メレヨンのどてっ腹に突き刺さるように向っていたのである。正に我輩の名航海長振りは神業に近いと云っても過言ではなかろうか!?

ところが先日のことである、戦後長いあいだ太平洋を海洋観測のために歩き回った白川大船長にこの話をしたら「それは大いに吹聴してよろしい」とのご宣託を賜った。

  というのも実は、赤道反流の下には逆行する赤道潜流というのがあって、このあたりの海流は年により季節によって変化する。しかもいまでも観測資料が不充分なのでベテラン船長でも油断の出来ない海域らしい。当時赤道潜流なんて事は全く念頚に無く、また、最近元若手潜水艦乗りの伊呂波会で先輩諸公に聞いてみても誰も知らない。

事実予定より半日以上も早い到着で、恐らく潜航時間が長かった為、この潜流に運ばれての結果ではなかろうかと思われる。ということは盲亀浮木も顔負けの運があったということである。それにしてもこれは自慢話ではなくて、本当に考えられないくらいの幸運という他ない。

余談が長くなったが、そんな訳で漂泊中の航海長は艦位の保持に大忙しであった。勿論艦位だけではなく、哨戒長として対潜対空警戒上絶えず艦首を沖合に向け見張りを厳重にせねばならなかった。ご存じのように潜水艦では水上艦艇のように艦橋に海図が置いてある訳ではない。コンパスを睨んで方位を測ったら、急速潜航よろしくラツタルを滑って艦内に飛び込まなければならない。発令所で当直していた潜航長が戦後の伊369潜会で会う度に、

「航海長、あの時は大変でしたネ。私が勘定していたらなんと艦橋との間を30回は往復しましたヨ」という話が必ず出るが、本当は位置を入れる為だけではなく、艦橋でじっとしていると、眠くて、眠くて、目が回りそうな為、苦肉の眠気覚ましの策でもあった。

そんな訳で、田中君が宮田司令のお供をして艦へ来てくれた時も、甲板上でほんの数分話し合っただけである。先に、トラックで吉江や松金らにも献上したので、田中君にはどれだけの酒保を進呈できたか記憶にないが、砲術長の山広国隆君(73期)は吸わなかったので、彼に煙草を一函進呈して呉れたそうである。

私が土産に貰ったのは一本のパイプであった。切り口が楕円形に近い扁平なチョコレート色のそのパイプは終戦後も長い間愛用していたが、しまいには歯形で口元の方が薄くなってしまった。これは島に自生していた浜紫檀という堅木製であったが、メレヨンの将兵は敵ではなくて飢餓と戦う為に、色んな細工に精を出していたそうである。それにしても一本の煙草にどれだけの値打ちがあったか、それはメレヨンに居た人でなければ分からない。たった数粒の米の為に命を落とす争いすら珍しくない島でのことである。人肉事件が起きてもおかしくないくらい極限の飢餓と物質の欠乏状況下で、副官として司令を補佐する重責を負っていた彼にとって、私物として自由に処分できる酒保物品は部下統率の為にも大いに役立った筈であるが、果たして彼にどれだけのことが出来たか思い出せない。

それを今頃悔やんでみても詮方ないが、唯一つ言えることはそんな状況下にも拘わらず、彼には物欲しげな様子が全然なかった。今にして思えば唯々感服の他ない、改めて彼のご冥福を祈るばかりである。荷揚げ作業は夜を徹して行われた。予定では艦内から大発までの積み込みは我々が、艇内の整理は現地の作業員が行う筈であったが、やって来た連中を見て我々は懐然とした。正に幽鬼であった、勿論重い米袋など運べる筈がない。当然、哨戒要員以外は総員積み替え作業に懸命だった。

一方軍医長は予定の特攻梓隊員以外に現地軍属のうち収容すべき候補者の選定に頭を悩まされた。結局体力測定を行い、なるべく若くて健康そうなのを三十名程選んで収容することにしたが、それでも皆骸骨に人間の皮を被せた程度である。帰途この連中が大難儀の種になるとは思いもよらなかった。

他方積み込みの終わった各舟艇はそれぞれの島へ帰って行くのであるが、はるか彼方の夜空に何発かの銃声が一度ならず轟くのを耳にした。

「ありや一体何の音だ?―

  甲板上のボンヤリと然し目ばかりはギラギラと血走った現地の兵隊に聞いても、お互いに顔を見合わせるだけで何も答えない。メレヨンとはそんな島であった!

 

艦長より十歳以上は年輩であった水雷長米沢大尉も大変であった。荷揚げ作業中刻々変化するツリムを調整し、不意の敵襲時にも急速潜航できるよう万全の備えをしておかねばならなかった。

幸いにも荷揚は無事終わったがぐずぐずはしておれない。現地作業員の能力は皆無に等しく、予定の時刻ははるかに越えて夜も白々と明けてしまった。敵さんの日課手入れが始まる前に一刻も早く、成るべく遠くへ離脱しなければならない。しかも艦内には員数外で足手まといの病人が四十二名、一挙に乗員は一倍半になっている。

出撃以来すでに三週間、暑さと湿気と食欲不振おまけに睡眠不足とくれば、いくら若いといっても乗組員は相当疲労している筈である。それが総計八十トン兵員一人当たり一、一トン以上の積み替え作業を、あの狭い艦内や足場の悪い甲板上で、徹夜で強行せねばならない。そして終われば休む間もなく直ちに出航、急いで危険な島周辺から離脱しなければならない。

それにしても島の惨状には心が痛んでそのまま立ち去る訳にはいかない。一旦全島の見える環礁内に移動し、別れの手旗に全軍の無事を祈って帽を振ったが、今度は早速外洋に出ての試験潜航である。

 

疲労によるミスと、またツリムの調整は余りにもイレギュラーな要素が多いので艦長は大変心配な様子であった。

果たせるかな、試験潜航を開始して間もなく、急に異常なダウンがかかり始めたかと思うと、発令所に悲痛な声が響き渡った。

「潜舵故障―」続いて

「横舵故障―」

共に下げ舵一杯−である。たちまち艦は傾斜を増していった。艦長はすかさず下命した。

「両舷停止 メインタンクブロー!」

 

然し舵故障で既にダウンのかかった状況である。メインタンクをプローするとそのままでは、水圧の関係で前部より後部の浮力が増大し傾斜はさらに増すことになる。安全深度の七五米はとっくに過ぎても深度計の針はなかなか止まらない。一旦潜航してしまえば海の中は全く静寂の世界である。ピチビチというのは塗料の剥げる音であろうか、メキメキと不気味な音は艦体が歪んでいるのか。深度を読み上げる声だけがまるで訴えるように響き渡る発令所は、全員寂として声を呑み、ただ艦長を見つめるのみである。恐怖心からそのように思えたのであろうか、大昔のことではっきりとは覚えてはいないが、艦長の記録では最大傾斜は三十度位に達したとある。三十度というとたいしたことに思えないかも知れないが、一時は正に奈落めざして真っ逆さまという感じで落ちていった。とにかく物に掴まって立っているのがやっとといった状況である。

正直な話、折角昔労してメレヨンまできて無事任務を果たしたというに、アーァこれでお陀仏かと思った。頭の中は真っ白になったような気分である。ところが艦長はと見る実に泰然としたものである。

「後群止メ」そして落ち着いた声で

「両舷 後進一杯―」を下令。

これ以上の傾斜は更に危険であると判断、後部タンクへの高圧排水を停止、浮力を犠牲にしても傾斜の復元と後進で沈下を止めようというわけである。

既に深度は百を突破していたが、後進が効き始めると行脚がググッと無くなり同時に深度計の針もようやく止まった。発令所には思わず安堵の声があがったが、それまでにどの位かかったのであろうか?ほんの1分乃至2分足らずと思うが、なんとその間の長かったことか。正直な話内心では身も心も凍るような恐ろしさで一杯だったことは確かである。

ただ私のその時の記憶では「後進一杯」がかけられてから沈下が急に止まったので、こんな時には「後進一杯」が一番だなぁという印象が今でも強烈に残っているのである。然し前出艦長の記録では 「メインタンクブロー 両舷停止 後進一杯」を同時に下令したとなっている。常識的には確かにその通りと思うが、いずれにせよ50年もの大昔の話でこれまた、確かめようもない。兎に角艦長の見事な操艦でなんとか危機を凌ぐ事ができた。

ところが今度は浮上直後に配電盤が故障、艦橋からのぞくと発令所は正に火の車、火の玉が束になってバチバチと大きな音をたてながら猛烈な勢いで渦巻いている。濛々たる煙も噴き出してきた。一難去って又一難、こりゃ一体どうなることかと思ったが、幸いこれはたいした事故にはならず助かった。

この時の事故はともに艦内湿気による電気系統の絶腰不良が原因ではなかったろうか思われるが、あらゆる部門で器材の質が極端に低下していたことは疑うべくもない。

特に潜水艦では僅かな故障や操作ミスが致命的な結果を齎すことが多い。今次大戦中には思いもかけぬ原因で消息を絶った潜水艦も多いのではないかと推測される次第である。

 

それにしてもこの時の艦長の指揮振りは誠に落ちついたものでなんとも頼もしく、我々少なくともこの私とは精神的にも実戦的な技倆でも月とスッポンの違いがあった。もっとも我々が生徒のときに同じクラスの方が教官でおられたくらいだし、中島少佐は約2年高等科学生・甲種学生のほか呂63、伊123艦長など約2年の潜水艦経験があった。しかし潜水艦乗りとして第一線に出るのは始めてと言うことであったが、この艦長でも戦前なら精々水雷長で先任将校というところである。

ところが当時はこの我々がなんと航海長でも一応は先任将校ということになっていた。帝国海軍も誠に落ちぶれていたものである。本来なら我々は砲術長といってもほんの新米の乗組、練度未熟でまだまだ一人前には扱って貰えなかった筈である。これだけでも既に敗色濃い事態であったと言えよう。こんなこと何も愚痴るのが目的ではないが、これまた戦史の現実である。

副長的な雑務については、潜水艦なんどは甲板士官に毛が生えた程度なので、たいしたことは無かったと思うが、問題は非常の際の軍令承行である。当時はめくら蛇におじずで、いざとなれば俺がやらなくちゃと大いに自惚れていたが、ほんとにそんなことになっていたらどうなったものか知れたものじゃない。

 航海長として第一線に出るのは、これまた、初めてという小生を、艦長が信用できなかったのも無理はない。況や73期の砲術長には天測などやらせない。

お陰でこちらは毎朝毎晩天測である。そりゃ航海長だから当たり前と言ってしまえばそれ迄だが、連日連夜の哨戒直である。それも5日や10日の事ではない。勿論3直配備であるが、潜水艦は水上艦艇と違って日出日没時の潜航浮上の他、水上航走中も時と所をかまわずジャーンと急速潜航がかかる。勿論総員配置につかねばならぬ。2時間当直4時間休みのパターンのなかでこれだけはおまけである。その間に飯もくわなければ糞もせにゃならぬ、天測計算は一回40分近くかかる。おまけに暇な艦長と軍医長らのブリッジのお相手までお付き合いするとなると睡眠不足は火を見るより明らかである。南に下がるに従って艦内の暑さと湿気はますます耐え難いものになってくる。防暑服のズボンをはいているのは艦長だけ、あとはみんな褌ひとつで、食事は毎度々々缶詰料理とくれば、いくら若いといっても出撃後2・3週間たてば疲労の度合いは、相当なものである。ところが災難はこれからも大変だった。メレヨンで収容した軍属が、徐々に食事を慣らしていこうという折角の艦長、軍医長の配慮にも拘らず、艦内で盗み食い、それも非常食の乾パンを鱈腹(たらふく)盗み食いしたものだからサァ大変。栄養失調の身は忽ち全員下痢症状をおこし、もともと少ない潜水艦の厠は即満員、待ち切れない連中は通路と言わず居住区と言わず辺り一面の垂れ流しである。おまけに全員現地の風土病であるアミーバー赤痢の保菌者ときたからたまらない。

元来が定員だけでも居住設備は最悪の潜水艦、洗面用の真水は各自コップ一杯、洗濯など論外の沙汰、潜航中の空気の量は限られているのに人員は一倍半、厚い臭いジメジメした艦内で今度は乗員までもがバタバタとやられだした。勿論アミーバー赤痢である。比較的衛生状態のよかった士官室でも砲術長がやられてしまった。お陰で潜航長まで艦橋での当直に立つ始末、総員の疲労の度合いは更に深刻なものとなっていった。

元気のよい者だけ選んだと言っても、既に完全な栄養失調に陥っていた便乗者たちは、2人の軍属が相次いで命を落とす羽目になった。倶利迦羅紋々の若者で、外面の強がりに比べ、自制心の弱さから、あたら祖国帰還を前にして自ら命を縮めることになってしまったのである。

もとより棺桶などはその用意のある筈はない。毛布にくるんで艦橋から水葬という次第であるが、余りの軽さに毛布の浮力で遺骸は一向に沈まない。死者に対する礼としてその周りを旋回したが、とても沈むまでは待ち切れなかった初回の失敗を教訓に、2人目は遺骸に十分バラストをつけて水葬するような始末であった。如何にひどい状態であったか、この一事だけでも十分推測が出来ようというものである。

それでも往路にくらべ復路は割合と平穏な航海が続いた。艦橋では誰が言い出すとなく、よくみんなで軍歌を歌ったものである。眠気覚ましにはもってこい、レパートリーの第一番はなんといっても「轟沈」の歌であった。潜水艦には矢張りこれがピッタリということか。お行儀のよい水上艦艇では考えられないことであったかもしれない。

歌といえば出撃して間もなく、小生が「(きん)隊の歌」というのを作詞して機関室入口の通路に張り出し、替え歌風にみんなに歌わせたという伊藤潜航長の話であるがご本人は全然覚えていない。オスタッブと蔑称された丁型潜水艦ではあるが、自らは「金」と名前ばかりは大袈裟に気取っていたのだろうか。

あの激務のなかでよくそんな暇があったものだ。我ながら感心しているが、出撃直後のまだ元気のよい時だから出来たことであって、途切れ途切れの不規則なそして不十分な睡眠しかとれない勤務が続くと疲れは忽ち溜まる一方である。

そこで元気の源はただ食事だけであるが、栄養補給は専らウナギの缶詰だった。ところがこのウナギの缶詰は余り積んでいなかったとみえて主計科員のほうから苦情が出る始末、仕方がないので今度はバターとチーズに転向した。熱いご飯にバターをどっぷりとぶっかけチーズをおかずに食べる訳であるが、バターもチーズも一斗缶で積んであったのに誰も食べようとしない。それどころか、よくそんな物を食べるもんだと呆れ顔、お陰でこれは我輩の独占物、随分と助かったものである。

それでも帰投後、横須賀海軍病院での健康診断では血沈が2時間で試験管の底まで落ちるは、夕方には毎晩微熱が出るはの有様。入港後乗員の約三分の一がアミーバー赤痢で入院したのにそちらの方だけはなんとか無事であったが、潜水艦勤務の厳しさは経験してみないと判らないものである。

つらかった勤務も今となってはただ懐かしい想いでだが、艦は一路横須賀目指してホームスピードを上げて行った。お陰で天測位置はいつも推定より大分進んでいた。機関長に言ってもニャニャするだけ、エンジンの回転数は所定より相当上がっていたに相違ない。

我々はこうしてなんとか無事任務を果たして帰投することができたが、他の4隻のことや現地で如何に補給を待ち焦がれていたかについて、ここに戦後朝日新聞社から発刊された『メレヨン島・生と死の記録』という一冊の本がある。その中から陸軍軍医中野嘉一氏の日記の一部を『  』内に原文のまま抜粋しながら触れてみよう。

『19年10月28日 早朝潜艦2隻入りたるらしい、大発旺に動き出す。 (中略) 

夕刻潜艦1隻外海に浮かぶ。大発荷物運搬にでた。約15隻、炊事裏で隊長、将校、兵隊たちみんなで眺めた。潜水艦は駆逐艦の如き形をなして表れていた』

8月15日病院船氷川丸以来はじめての補給船。この頃はまだトラックとの飛行機による連絡が可能であったようで、多少の希望も持てたようである。

この伊363潜には泉邇君が砲術長として乗り組んでいた。10月9日横須賀発トラック経由メレヨンから7名、帰途またトラックから82名計89名を収容、11月15日横須賀帰投。定負の数以上の便乗者を乗せての帰投行はさぞかし大変であったろうと推察される。この泉邇君とは奇しくも候補生時代八雲で一緒だった。一緒といっても同じ班、しかも同じ六分儀を使うベアーであった。どういう訳か二人は大変気があった「チカシ・五郎」と呼びあったが、他の人などからは区別のため大泉・小泉と呼ばれることもあった。然しなんといっても都合のよかったのは指導官付の航海士岩渕中尉から、あのでっかい海図用の三角定規で、頭をコッツンとやられる回数が半分で済んだことである。天測結果の報告は1人、海図に記入は2人分を交替でやってしまうという寸法である。悪童仲間ほど懐かしい、その彼が戦後呉より佐世保に潜水艦を回航中、宮崎の沖合で触雷戦死したのは誠に残念である。

それから約3カ月後、今度は清村克己君乗組の伊371潜が到着した。

『1月26日昨夜10時船入ったという報に歓喜して、おどり上がる。兵も喜ぶ限りなし。3時荷揚完了、出港せりと・・・・28日までに又1隻入ると』

『1月28日・夜も満月で海岸にゆく』

『1月29日・夜また海岸に潜水艦を見にゆく、9時までいたが来ず、帰る』

『1月30日 昨夜船入らず残念!・・・然し望みまだ有り、』

『2月3日・只、もう1隻の潜水艦入らないこと淋し。否、重大心配事なり・』

然し現地の人達が待ちこがれていたもう1隻の潜水艦は、この頃既に悲運の最後を遂げていたのである。この伊362潜は20年正月元旦、横須賀を出撃、21日メレヨン到着の予定であった。米軍資料によれば1月18日夕刻商船護衛中の駆逐艦フレミングが電探で目標を描捉、更に接近推何したところ、1900ヤードで潜水艦が潜没、ソーナー探知による爆雷攻撃4回で水中爆発音を聞いている。

メレヨン輸送作戦の各艇は殆ど同じような航路をとったので、時間的に見てこれは伊362潜に違いないと推測される。

トラックの北東百数十マイルの辺りと言えば、丁度我が伊369潜が往路に敵の輸送船団と遭遇、長時間潜航を強いられ悪戦苦闘した付近である。我々の場合は正に頭上で敵飛行機からの発光信号に驚いて潜航、その後暫くして敵駆逐艦らしきもののスクリユウ音を探知した。それからは一切の音源を停止必死の懸吊を続けて一昼夜、ようやく危地を脱したが、艦長から言われて潜望鏡を覗いて見ると癪に触るやら情けないやら、敵は夜というのに煌々と電気を点け、全然灯火管制もせずに船団を組んで輸送船が航行しているのである。

既に海も空も完全に敵の手に握られていたのであるが、トラックも間近なところなので我々にマサかという気の緩みがあったことは確かである。それより約5カ月も前の事なので、この伊362潜も虚を衝かれたことは十分に考えられる。恐らく夕方の浮上直後に運悪く敵と遭遇したものであろうか。

それにしても普通なら敵駆逐艦が1900ヤードに近づくまで気が付かないなどあり得ない。或いはスコールに視界を遮られていたか? 電探兵器の劣勢は覆うべくもない事実であったからそれしか考えられない。

この伊362潜には加藤敏久君が矢張り砲術長として乗り組んでいた。加藤とは3・4号の1年間、机とベッドを並べ寝食を共にした仲だけに何とも痛ましい。

一方メレヨンをたった伊371潜はトラックに寄港後内地に向かったが、その後の消息は香として絶えてしまった。米軍資料にも何も該当するものがない。恐らく何らかの事故によるものと推察される。海の忍者潜水艦の宿命と言えばそれまでだが、遺族にとってはなんともやりきれないに違いない。

『2月16日 幸、突如出現! 潜水艦入来万歳!・・・内地直航の潜水艦と思えばなつかしき限り、否糧株大量つみて吾ら喜ばす。餓死せし兵の魂よ、如何許り。汝等の哀れなることか、ただに冥福を祈る』

もうこの頃になるとトラックからの連絡もままならない。暗号はすべて解読されていたから、何か発信すると忽ち敵の偵察空襲が頻繁になる。この日入港したのは伊366潜で、彼らにとっては思いもかけぬ喜びであったろう。この時の作戦行動も我々と殆ど同じパターンである。その模様は航海長小平邦紀大尉(70期)の戦後の記録に評しいが、砲術長として角田慶輝が乗り組んでいた。彼の手記によれば田中とも多少は歓談する時間も持てたようである。

そして3月12日には会誌前号に「副官田中歳春中尉の思い出」を寄稿してくれた小森官機長の一式大艇が不時着した。既に特攻に頼らなければ如何ともし難くなっていた当時の戦況であるが、現地の陸軍の人にはどのように思われたのだろうか?

『3月15日・・・神風特攻隊員をみる。勇壮なる空の勇士たち、張りきった健康美に驚く。潜水艦も近く入り彼らを迎えにくる由。メレヨンは忘れられていない。』

この神風特攻梓隊誘導機の不時着救出については、その当時、相当不可解な電報が打たれたようであるが、多少でも現地の人々を勇気づける結果になったとすれば軍神達の余慶であろうか。ともあれ結果的には我々が彼らを救出することになった。

『5月7日・・大野軍曹飛来。舟入るを告ぐ。潜水艦来たのだ。外海岸にとんで行ってみると黒々と潜水艦浮き上がっている。大きなものだ。今日の友軍機はこの連絡だったのだ!・助け舟!・・・ついに餓死より免れた。早速ハガキを宅と東京の姉、晶司兄上に出す。・・実に喜ばしい。有難い事だ。潜水艦に向かって拝んでいる兵もある。栄養失調の患者も介抱されて舟を見に出かける。大騒ぎだった。・・こんな嬉しい事はなかった。これで4ケ月は保証された。日本危機とはいえ、これだけの余裕あり、嬉しい。宅からの便り待遠し』

『5月8日6時半頃、内海にまた潜水艦浮き上るのをみた。昨夜のものらしい。特攻隊の連中かえっただろう。機長慶大出身の由、逢わずに残念』  (筆者も慶応医学部)

 

メレヨンにはその後補給は一切行なわれていない。

然し流石に上層部もメレヨンのことは気にかかっていたと見え、終戦後連合軍と掛け合って真っ先に病院船を派遣した。そして9月下旬には残存者約1600名が別府に復員したが、担架にかつがれ、そのまま病院に直行、あるいはそのまま故郷の地を踏むことができなかった人も数多くあったらしい。

我々が運んでいった物資約80トン、それが全部米だったとしても、復員まで一人当たり一日の量はどんなに多く見積もっても精々250gに過ぎない。次の補給は何時になるか判らない状況下では更に深刻悲惨な実情が続いたに違いないことは容易に想像できる。

我々としては田中君やメレヨン関係者のご冥福を祈るばかりであるが、ただ私には前述の如く、時の文部大臣安倍能成が如何にも学者らしい客観的な表現ではあるが、事実を甚だ歪曲した遺族の投書をとりあげ真相の糾明を迫ったことが、結果的には紙の爆弾、ペンの剣となって、あたら2人の陸海軍現地指揮官の命を奪ったように思えてならないのである。

アメリカ軍もメレヨンの武装解除と送還に際し、陸軍の北村部隊の厳正なる軍紀と粛々整々たる行動に敬服し、特に輸送途中も丁重にもてなしたという連絡がGHQから陸軍省に入ったと言われている。海軍部隊の場合も軍人については同様であったろうが、軍属については前記倶利伽羅紋々の死者の例も有り、必ずしも真っ当な人間ばかりではなかったようである。宮田司令以下田中副官らの苦労の程は筆舌につくし難かったであろうことは十分偲ばれる。この辺りにも宮田司令憤死の一因があるように思われる。

しかし、もしこれが反対で、アメリカ軍がこの飢餓戦線に耐え抜いて救出されたとしたらどうであろうか。きっとこの指揮官は悲劇の英雄として国民からその栄誉と戦功を称えられたに違いない。

 

後には安倍能成も戦場に於ける指揮官の立場、将校の責任について、釈明とも弁明とも取れる発表をしているものの、果たして彼に戦場というものの現実がわかっていたのだろうか。彼にメレヨン島悲劇の責任を追及する資格があったのか? メレヨン島悲劇の真の責任者は誰か?

この疑問を呈して稿を終えたい。

(なにわ会ニュース71号19頁 平成6年9月掲載) 

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