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平成22年4月18日 校正すみ

 屈辱の空輸 最後の飛行


林  藤太

林 藤太 雷  電

 昭和二十年八月、敗戦後の混乱の中にあって、断腸の思いで終戦処理に当たっていた我が第三三二海軍航空隊に、十月二日、日本海軍の代表的戦闘機の空輸命令がきた。空輸機の整備、操縦すべて当隊で実施されたしとのこと。

 この隊は、厚木基地の三〇二空及び大村基地の三五二空と兄弟航空隊で、ゼロ戦、雷電および月光夜間戦闘機を主力とし、昭和十九年十二月に阪神地区防空のため岩国より鳴尾基地に転進してきた。

「ご苦労だが雷電は貴様が責任持ってやってくれ」八木司令からの指示を受け、すでに復員していた関係者に打電、召集する。空輸命令を受けてから一週間たったが、一旦バラバラになった隊員達はなかなか集まれない。為す術もなく唯やきもきしているうちに、「至急来レ」の電報を受け、十二日十七時大阪駅を発ち、単身久里浜の横須賀鎮守府司令部(横鎮)へ向かった。

それから十日間は、鳴尾本隊との連絡、米ATO(Air Technical intelligence Office)との連絡、空輸要員の召集促進、集まった空輸員の食糧・衣料・日用品の受け入れ、飛行服、落下傘等飛行用具の確保等に明け暮れた。

 二十二日となって厚木の雷電は整備不能と判明、急遽製造元の三菱重工鈴鹿工場の雷電を空輸することとなり、二十四日鈴鹿に移動し白子町の西野旅館に陣取った。一息入れ飛行場に入ろうとして隊門前まで行くと、いきなりMPに実弾の威嚇射撃を食らった。頭上スレスレに自動小銃弾が飛び抜けたような気がして度胆を抜かれた。と同時に情けなくて口惜しくて歯を食いしばった。片言の英語でやっと了解を得、早速雨曝(ざら)しの雷電の整備に取りかかる。生産されて直ぐ敗戦となり、まだ一度も羽ばたいた事のない哀れな雷電達。部品も不足、工具も不十分ながら、整備員達は最後の御奉公と精出してくれる。雷電にも最後の花道を飛ばしてやりたい。一緒に油と埃(ほこり)にまみれた。

 十月二十六日、どうにか五機整備完了、だがGHQの許可無しには試運転も試飛行もできない。整備完了を打電し待つこと三日、二十九日地上試運転を行い、手直しをして更に米軍誘導機の到着を待つ。敗北感に胸が締めつけられる。

 十一月二日の正午近く、米海軍の雷撃機TBFアベンジャー一機着陸。乗員の指示で二時までに出発できるよう準備せよとのこと。

「冗談じゃない、雷電は極めて操縦の難しい戦闘機で、まだ試飛行も済んでいない、いきなり飛び上がったら自殺行為だ」と何度言ってもわかってもらえない。NOを連発したらカンカンになって帰ってしまった。早速強引に試飛行を行ったが、三時頃になって二機完了しただけ。クタクタになって宿にもどる。

 その夜、今度の空輸で集まってもらった操縦、整備の部下達と別れの杯を酌み交わす。噂(うわさ)によれば、空輸機と共に米空母に乗せられ米本国に連れていかれ、そのまま捕虜となるという。思わず口ずさむ「戦友別杯の歌「替え歌」・・・。

 

『滔々(とうとう)たるかな天地 悠々たるかな古今 遥か空と水の連なる彼方 

黙々として雲は行き 雲はゆけるも 言うなかれ君よ別れを・・・

酔うては窈窕(ようちょう)美人の膝枕 一夜明くれば昨夜の未練は更にない

叩く電鍵にも 落とす爆弾にも 握る操縦桿(かん)にも 昨夜の未練は更にない 

嗚呼 おいらは空征()く旅烏・・・」

 翌十一月三日の明治節(今は文化の日)朝七時試運転開始、十分ほどして昨日のTBF到着、九時二十分離陸、部下の一機とともに上昇、東に向かう。高度二五〇〇、計器速一六〇ノット、誘導機の左後方について一路横須賀へ飛ぶ。

 思えば昭和十九年六月、練習航空隊を終え岩国戦闘機隊にて世界の名機と謳(うた)われたゼロ戦に搭乗、人機一体の魅力を充分満喫したが、悲しいかな、栄光のゼロ戦も遂には特攻の美名のもと、姥(うば)捨てと消えていった。栄光と悲劇の戦闘機だった。

 その年の十二月、雷電隊を率いて岩国より鳩尾へ進出、阪神地区の防空に当たる。翌二十年六月海軍大尉に進級直後、マリアナ基地を飛び立ったB29、五二一機が数梯団に分かれて大挙阪神上空へ来襲、折よく一二〇〇米高度差で待機していた私の雷電は、一番機に直上方攻撃、敵機のエンジン二基が片翼もろとも吹っ飛び撃墜。勢いに乗じて下方から無理な態勢で攻撃、敵機に白い煙を吐かせたが、自機は燃料タンクに被弾、火だるまとなり辛うじてパラシュートで脱出、六甲山の裏山に着地、九死に一生を得た。

 更に、敗戦翌日の八月十六日深夜、敵大上陸部隊が四国沖洋上に接近しつつありとの情報が入り、「我が隊は明朝可動全機をもって特攻をかける」との命令が下る。直後に「林大尉は部下一機を率いて明朝未明、索敵攻撃に出撃せよ」。愛機雷電に打ち乗って離陸。室戸岬から足摺岬、さらにその洋上を隈(くま)なく探せど、小舟一隻見えない。やむなく帰路についたが淡路島の手前でエンジン不調停止、由良湾内に不時着水、十二米の海底から無我夢中で脱出に成功。

 そんな雷電と生死を共にしてきた思いが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。その愛機雷電の翼にも胴体にもあの真紅の日の丸はもうない。うす汚く星のマークに塗り替えられている。機銃も脱され無線装置も降ろされ、裸同然の変わり果てた愛機雷電。共に変わり果てた我が身、情けなかった、口惜しかった、惨めだった。知らず知らずに涙が頬(ほお)を伝わり、冷たく乾いていく。声を限りに同期の桜を歌う。

「・・・あれほど誓ったその日も待たず なぜに散ったか 死んだのか・・」

 いっそこのまま操縦桿(かん)を突っ込めば遠州灘に自爆を……唇を噛()み締めながら、ふと左を向くと真っ白に雪をかむった富士が、涙に曇る眼にとびこんできた。途端になぜか中国の詩人杜甫の詩と共に自分の気持ちが頭に浮かんできて謡(うた)った。

 

「国破れて山河あり・・・霊峰陽に映えて秋気深し 今われ屈辱に耐えかね自爆せんか
 なんの顔
(かんばせ)あって國の戦友に見(まみ)えんや」

 

 思えば昭和十五年十一月三日、海軍兵学校の合格電報を受けてから丸々五年の海軍生活に今こうして終止符を打とうとしている。感無量!思いに耽っている内に早や眼下に横須賀基地、着陸と同時に米兵が駆け寄る。簡単な説明を終えて機を降り、愛機に最後の別れに挙手の礼を捧げる。直ぐジープに乗せられ久里浜駅へ。「オーケイサヨナラ」呆気にとられながら過ぎ去るジープを見つめていた。屈辱の我が最後の飛行!時に二十一歳六カ月。

(編集部)

 この記事は、平成十七年二月十九日、群馬県七十七期会で林 藤太が話したことを七十七期小野勝康氏がまとめて、七十七期会報「江田島」八十一号に掲載されたもので、七十七期会と小野氏のご了解を得て転載したものである。小野氏は「戦いを終えた後も様々なご苦労をされた貴重な体験談に胸を打たれた。」と感想を記されている。

(なにわ会二ュース93号53頁 平成17年9月から掲載)

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