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回天特攻史の一側面

川久保輝夫少佐とライアン二等兵

山田 穣

 序に替えて  回天の対輸送船戦果

 平成十年十月、小灘から筆者宛に「伊号第五三潜水艦搭載回天の戦闘」と標題のついた文書(B五版四頁)(原文英文の訳文)が送付されてきた。

 何事かと思って、内容をよく見ると、それは、カナダの「バンクーバー海軍博物館」を経由したマイク・マイヤー氏の執筆中の文書であって、「回天攻撃」に関する章のなかで伊五三潜に関する部分の原稿段階での校正の要請であった。

 小灘は、全国の回天会の会長であるから、マイヤー氏からの原稿は、回天に関する限り回天の運び屋である潜水艦別に、関係各艦に渡って照会があったものと推定されるが、あれから半世紀以上たって、歴史家ならば、そろそろ現実の問題を歴史的な視野から観察する時期に入る段階であるが、戦記物としては、些か時代遅れではないか?と瞬間思ったことは事実である。

 とくに筆者はこのごろ、近現代史を勉強しているだけに、戦記物を余り評価しない考え方であるが、否、そうでは無い。回天はー回天に限らないが―特攻という過去の戦争の絶対的事実は、戦後の二十年位は、戦記物という扱い方も致し方ないとしても、今や半世紀を経た今日、それを歴史的に考察されるべき重大な問題なのだと、瞬間、考え直した。マイヤーさんと言う人は、筆者と同じような気持ちで、この問題を取材しているのであろうか、とつくづく思った。どのようなルートで、小灘のところに、この原稿が到着したかは省略する。

 この原稿についは、多少の誤りもあったが、それは小生としても、未来に残る歴史への一端を担う光栄を浴したわけで、一生懸命校正には努力し、校正の終わった原稿を、小灘のところへ送り返した。しかし、それだけでは、このように筆を取る必要もない。小生が驚いたのは、伊五三潜が回天特別攻撃隊金剛隊として、クラスの久住宏を隊長に、バラオ・コッソル水道の泊地攻撃を行った昭和二十年一月十二日の話であるが、環礁の入口突入は、先ず不可能に近いと思っていたことが、根本的に訂正しなければならなくなったことである。

 この時の久住の無念については、筆者も何回か書いたし、クラスの諸兄も十分ご承知と思うのだが、ほんとうに残念なことであった。久住の事故に加えて、その後、伊三六潜で玉砕された予備学生出身の久家少尉は、伊五三潜の初陣のときは、下掲のような事故によって発進出来なかったので、四基のうち残念ながら、二基いか発進できなかった。

最も簡にして要を得ているのは、回天攻撃直後の昭和二十年一月十二日の伊五三潜水艦長より第六艦隊司令長官あての報告電である。

「発伊号第五十三潜水艦長、宛第六艦隊司令長官。

 十二日〇三五三、三号艇、四号艇発進、

 〇五二〇爆発音二聴取す。一号艇発進時、 気筒爆発、浮上ののち大爆発を起こし、  約五分後沈没す。

 二号艇艇内に悪ガス発生、搭乗員失神発進を取り止む。

 不慮の事故を生起し、攻撃力半減誠に申し訳なし。

特に一号艇久住中尉の尽忠を察すれば断腸の思あり」

 豊増清八艦長(五九期)自身の起案による報告電であり、艦はバラオ本島の南端廻りに避退して帰路を設定したので、この電報は、バラオ島の南端を回ったあたりで発信されたと思う。

 回天作戦については、自他共に最大の戦果をあげたと考えられている伊四七潜の故折田善次艦長が、故佐藤和正著、光人社刊「艦長たちの太平洋戦争」一六三頁において語っているように、名潜水艦長の一人と言われる折田さん、「昭和十八年九月二十日内令第千九百六十三号大東亜戦争中艦船部隊、航空機及海軍軍人軍属表彰規程 俗に『轟沈メタル』と言う。」 この轟沈メタルを一人で二個持っていた折田さんにして、回天作戦の戦果確認は「実と情」との兼ね合いで、非常に難しいことを告白し、伊四七潜として、ウルシー攻撃の時は、「もう一隻空母を撃沈していると確信している。」と語って居られる。

 伊五三潜では右の回天二基の戦果を「爆発音二聴取」としているが、発進時間から爆発音聴取まで、この報告通りとして、約一時間二十分たっていることから、自爆音の聴取かも知れない、との疑念も無いわけではなかったが、惰において「自爆でした」とは絶対発言できないまま、平成十年まで、いうなれば戦果確認の不可能なままで時がたった。

 とくに、戦後、米国海軍の記録とのつき合わせで、日本側の潜水艦の沈没撃沈の照合が出来ると同時に、逆に、米国海軍籍の艦船については、日本では戦果確認の不可能なものも、米国の発表で戦果の確認出来た事実が沢山判明した。しかし、相手が米国海軍籍にない徴用の輸送船(例えばLST等)等については米国海軍の発表が行われていない、と、誰言うともなく、そのようなことが言われて、輸送船を回天が撃沈したようなときは、確認のあげようがない、と諦めていた。

 ところが、小灘のところから送られてきた校正用原稿をみて、以上の定説的な話は全く真実を欠く話であることが明瞭になった。一九四五年(昭和二十年)一月二十二日 A一六/三 通番○〇二〇九号による「中部太平洋艦隊司令部発、マリアナ海域哨戒護衛艦隊及び西カロリン海域哨戒護衛司令部宛の通達」により、輸送船(LST)に関する戦闘報告の提出を義務付けていることが分かった。

 その結束、一九四五年十一月二十日付け、報告通番○〇三/四五号「揚陸艇LST−二二五戦闘報告」が報告され、その記録文が、米国海軍歴史資料センター作戦資料部(ワシントンDC)に保管されていることが分かった。

 以上の事実は、正式には回天会から発表されるべき重大事であるが、その前に拙文で先に記述したことは非礼であることは予めお断りしておく。したがって、この報告書の具体的内容については、ここでの公表は遠慮しておこう。 ただ、私が前述した戦果未確認の問題は、この文章によって驚くべきことを発見したのである。それを語る前に、コッソル水道について若干説明をしておく必要がある。

 昭和六十三年、バラオ島が独立してから、高速艇が配置されるようになったことを確認して、バラオの回天攻撃に対する慰霊祭を企画し、伊五三潜を中心として、先に攻撃に参加し撃沈された伊三七潜のご遺族の希望者を含めて、慰霊旅行団を編成して、バラオ・コッソル水道に現地慰霊祭を行ったことがあった。その際、コッソル水道という場所を初めて白昼にみたのであるが、よくもこのような場所に回天攻撃を計画、発動したものだ、と心底からの憤激を覚えた。 何故か? ウルシー環礁にしてもコッソル水道にしても、珊瑚礁の環礁によって内部が艦隊の泊地になっており、環礁の中に入るのには、特定の入り口以外にない。したがって、その入り口のみ防潜網を張っておけば、中に居る艦隊は安全である。要するに、制空権さえ抑えておれば、安全な艦隊の泊地として使用できる。軍令部は、回天特攻をもって、この泊地を攻撃する特攻作戦を考えた。

 現地に行ってみて驚いたのは、ウルシー環礁は、回りの環礁は陸地として水面より高く島になっており、椰子の木が生えている。入口の場所は、防潜網の有る無しは別として、環礁の島の間が入口、出口であるから回天の特眼鏡によっても視認可能である。 ところが、コッソル環礁は、回りの環礁は太平洋の水面より下、約五十センチから一メートルに在って、水面上からは、どこに環礁があるのか全く分からない。勿論、椰子の木一本生えていない。要するに、コッソルの場合は、入口は海図上では分かっても、視認することは出来ないのである。このような場所が回天による攻撃対象になるのか。クラス会誌の心安さから敢えていえば、軍令部の大馬鹿共と言いたい。

 伊五三潜の場合は、海図上の環礁入口から東へ五マイルの地点から南へ十マイルの地点において回天を発進した。発進位置は、菱谷航海長としては最大最高の注意をもって決定したが、最終的には、バラオの地形からクスベアリングでは位置が確定できず、数時間まえの天測位置からの推定位置とを合わせて艦位を決定し、回天を発進したのである。

 回天は、潜水艦から発進後、北に向かって所定の速度で所定の時間を走行して、直角に左に向かえば、そこは環礁の入口である、と航法を指示され、その通り走行しても、最後の特眼鏡による視認が不可能なので、果して環礁の入口ヘ突入できたかどうか、われわれ現地慰霊団の面々は、その当時に思いを馳せ、あの時聞いた爆発音は、どうしても入口が分からず、環礁にのしあげて自爆した可能性もあるのではないか、その時の自爆音ではないか、と非常に暗い気持ちになった。

 発進後、約一時間二十分経過しての爆発音といい、現地を白日の炎天下のもとで目の当たりにした地形といい、ロにこそ出さないまでも、あの二基の回天は環礁の入口が分からずに、あるいは自爆したのではなかったか?!と言う思いを抱いたまま一九九八年に至ったのであるが、小灘から送ってきた前掲の文書の内容をみて、アッと驚いたのである。

 以下に記述することは、この原稿執筆者が発表すべきことで、校正を依頼された者が、自分の勝手で、人の原稿を発表することは信義、徳義に反する。少なくともこの事実は、著者の著作権に属する類のものではない、とは思うのであるが、そっくり転記することは遠慮すべきであると思うので、簡単に結論だけ述べるに止まり、詳細は、著者の発表に譲ることにする。

 その簡単な結論だけを此処に書き留めると、二基の回天のうち、少なくとも一基以上はどうして、どのようなことでコッソルの入口を突破したかは、著者にも分からないことであるし、玉砕した回天の搭乗員のみしか分からないことであるが、突入に成功し、すんでのところで、米国の軍艦000000号かあるいはLSTかに命中激突する直前に、敵に発見され、集中攻撃の敵弾によって回天の火薬が爆発した。何と、あるLSTの横五十ヤードの距離だったそうで、その爆発の威力によって、そのLSTの乗員は吹っ飛ばされ、ハッチカバーを粉砕した、とLSTの戦闘報告に書いてあるそうである。

 見るべき戦果には該当しないかもしれない。しかし、回天の最大の戦果なるものは、米国の心胆を寒からしめた精神的な脅威であって、伊東少尉、有森上曹の二基の回天が環礁に阻まれて単に自爆したのと、敵前五十ヤードまで接近して、ぶつかる直前に米軍の集中弾によって爆発したのとの効果の比較は比すべきもない。

 お断りしたように、これ以上詳細に敵艦名を付しての詳細は記述を省略する。ただこれだけのことの確認でも、当時の関係者の立場では、大きなニュースである。豊増艦長ご存命ならば、早速報告するところである。誰よりも喜んだのは、菱谷航海長であったろう。彼の苦心惨憺の結果の艦位は、正に奇跡的とも言って差し支えないほど正確であった。あの場合、回天が環礁入口突入が奇跡的にできたのは、発進位置が極めて正確であったことに帰する。しかし、菱谷さんも昨年他界され、この話を伝えようがない。 また、当時の乗組戦友達も、来年のこの本の出版までには欠ける人も何人かあろう。そんな訳で、著者には無断であるが、クラス会ニュースという媒体に免じて発表させて貰った次第なのである。したがって、この部分は転載無用である。

 同時に、われわれの基本的認識の中には、米国海軍籍にない艦船、即ち、輸送船などのとは事実に反することが確認できたことも、大変有効なことである。われわれにとっては、新事実の発掘に相当することであるので、先走って書かせて貰ったことを重ねて謝すものである。

 

 川久保輝夫のこと

平成十年に起きた回天に関する新たな問題。

改めて断るが、小灘の所管事項でもあり、折角書き出したが、書くべき時期の問題もあり、尻切れトンボになった。書きながら、ふと回天搭乗員として、前述の折田艦長の指揮する伊四七潜でホーランディアで玉砕した、川久保輝夫の事が頸に浮かんだ。

 こんな時、過去のクラス会報で、川久保のことに関して書かれていることは? と言うときに、先般伊藤正教が作成してくれた「なにわ会ニュース索引表」は、極めて役に立つ。正直言って、伊藤が、このようなものを作っているということは、私も潜水艦関係の校正に預かったので承知はしていた。それは、今様、コンピューターを使っての仕分け技術ではあるが、全資料をうちこむだけで大変である。チヨットやそこらの気まぐれではできることではない。今回、その資料を使わせて貰ったことにより、伊藤正敬のやったことの大きさを改めて承知し、重ねて御礼を申し上げる。

 伊藤の分類によると、川久保について過去に書いているのは、田中(宏)、森本、小島、足立(英)、折田の五名であるが、″折田″と書いてあるのは、実は押本であって、前述の佐藤和正著「艦長たちの太平洋戦争」から、伊四七潜艦長折田善次中佐(五九期)証言を、押本編集長が転述したものである。

 川久保とは、筆者は、兵学校時代同部に所属したことはないので、お互いに話合ったことはない。しかし、回天特別攻撃隊金剛隊において、彼は伊四七潜に配乗の搭乗員四名の隊長として、私の艦には、久住宏が配乗になり、殆ど、同時期に大津島に入港し、回天を搭載して出撃した関係にあり、又、時の伊四七潜の先任将校は、六九期の大堀正大尉であり、金剛隊のあと、伊五三潜の先任であった同期の川本昇大尉と大堀大尉は入れ替わったので、伊四七潜と伊五三潜は、深い関係にあった。

 余談ではあるが、回天の搭乗員は、戦死すると二階級特進となり、殊勲甲の金鵄勲章をいただけるが、一般の将兵には、戦争が終わるまでこのような扱いはない。そこで、士気高揚のためということで、前述の轟沈メタルの制度ができたのであるが、このメタルの受領資格は、次のようなことになっていた。

 艦別に感状を頂くと、感状一回について、艦長は轟沈メタル一個、先任将校は感状二回で一個、士官室将校は、三回で一個ということで、折田艦長のみ菊水隊と金剛隊の二回とも感状を頂いたのでメタル二個の所有者であり、十五潜水隊において、他の艦の艦長は同じ五九期の豊増さん、橋本さんは、私の記憶では一個ずつ金剛隊で頂いたと思う。大堀さんは先任将校として折田さんと菊水隊、金剛隊を2回行動したので、メタル1個を所有していた。これは、艦長配置以外の人としては、他に例がなかったのではないか。この辺のところは私の記憶によって書いたので、あるいは間違いがあるかもしれない。

 閑話休題。川久保輝夫は、鹿児島出身で、兄弟四名皆兵学校を出て、戦死している。大東亜戦争で、沢山の戦死者がでたが、このような例は非常に珍しいのではないか。かって文芸春秋が、昭和四十年四月号で、このことを取り上げたので、全国的に有名な話となった。それは、「″国のために″戦死した四人の兄」という題で、末弟の川久保秀夫さんが書いたものである。

 念のために戦死した川久保兄弟を列記すると、

@ 尚忠(五九期)昭和十三年五月十六日戦死。水上機母艦神成分隊長、アモイ島偵察中戦死。二十八歳。

A 三郎(六七期)昭和十九年七月十二日戦死。呂二七潜水艦先任将校、トラック島北東沖で戦死。二十七歳。

B 志朗(六九期)昭和十九年四月三十日戦死。戦闘三〇一分隊長、戦闘機搭乗員としてトラック島から敵機動部隊攻撃中戦死。 二十四歳。

C 輝夫(七二期)昭和二十年一月十二日戦死。回天特別攻撃隊金剛隊として伊四七潜からホーランディア泊地攻撃に出撃戦死。 二十三歳。

 豊増艦長も言っておられたが、回天戦における戦果の報告は、「実と情」とにおいて、なかなか難しい。伊四七潜の折田艦長も同意見であった。われわれ士官室の者も、言わなくとも同意見であった。戦果を視認できた場合は別であるが、回天の場合は、そのようなチャンスは殆どない。私の一年間の経験でも艦種は別にして、戦果を視認できたケースは一度しかない。

 伊四七潜から発進した川久保中尉初め合計四基の回天についても、情の上では、相当の戦果を上げたと言いたいところであるが、折田さんも、戦後米国の方にも問いただしたといっておられるが、その結果については、「丸」九五年十月号「人間魚雷回天ホーランデイア突入秘話」渡辺大功(福島テレビ)著に記述されている。勿論市販の戦記専門の雑誌であるが、私は、小灘回天会会長よりコピーを貰った。

 それによると、折田さんは、昭和五三年、米国の友人スコッケン氏から予て照会していた、昭和二十年一月十二日のホーランディアで起きた事件についての報告の手紙を受け取った。

 「(中略)当時そこに駐屯していた陸軍部隊の当日の日記には異常なる事件の記録は全く記述されていません。次に私は、海軍作戦文書課及び海軍歴史館の調査にとりかかり、そこで私はあなたが捜していると思われるものを発見しました。それはあなたが望んでいる答えではないように思います。(中略)」

 「回天のひとつは成功したとは言えるが、起爆装置の不良で大きな損害を与えるには至りませんでした。二つ目の爆発は起こったようですが、港の外で座礁したか、もしくは早まって爆発してしまったに違いありません。このように、一月十二日の攻撃は全く損害を与えるに至らなかったことが記録されています。このことは、大きな戦争のなかでは、全く些細な殆ど記録されない出来事であったのです。

  この手紙に添付されていたSS・ボンタ・ロス号船長の戦闘日誌がある。

 「船がHECPから一・九マイル一三四度の地点で投錨していたとき、魚雷によって水面下一三フィートを攻撃された。魚雷は船の中央部の前方を攻撃した。この攻撃により船には九インチのへこみができたが、魚雷は爆発しなかった。深さは定かでない。魚雷は表面を攻撃し船体の側面を回ったのち、舶の前方三〇〇フィートで爆発した」

 「第二の爆発は、一等航海士NW・モアーとパーサーのエドワード・ポラスキーによって目撃され、最初の爆発のほんの数秒後ソエジア岬の方角で確認された」

 最も残酷な言い方をすれば、無念やるかたないことながら、伊四七潜から出撃の回天四基は、記録に止める戦果を実現することができなかったのである。と言って、折田さんは亡くなるまで、折角の情報ではあったが、米国の知人の報告を信じておられなかった。

 確かに、回天の精神的効果と物理的効果とを比べて、物理的効果は決して大きくはなかったと思う。ただし、精神的効果と物理的効果とを比較して、何れが大きいかは簡単には比較できない。これをもって直ちに特攻の正杏、得失を軽々には論じえないと、私は半世紀まえの往時を静かに想起するのみである。

 

 回天の登場

 当時の六艦隊水雷参謀鳥巣建之助中佐(五八期)は、回天の主務参謀であったが、作戦上の細部についてのみであって、回天については、軍令部と聯合艦隊の直卒のような立場であった、と思う。しかし、海軍中央の問題については、後述するとして、鳥巣さんが、平成十年十一月七日に限定出版された「回天の追憶と祈り」によると、鳥巣さんが、初めて黒木大尉と仁科中尉の訪問をうけたのは、昭和十九年七月の中旬のある日で、もちろんそれは初対面であった。その時、鳥巣さんは〇六兵器のことは全く知らなかった。

 翌日、P基地を訪ねた鳥巣さんは、二人の発案者から〇六の図面により説明を聞き、大変感激を覚えた。七月下旬、二基のプロトタイプが完成し、音戸の瀬戸の東方、情島の北にある大入沖魚雷射場で航走試験が行われ、一号艇黒木、二号艇仁科の順で航走し成功を収めた。これが、〇六の最初に走った状況である。

 その日の午後、海軍省軍務局吉松田守中佐、軍令部藤森康雄中佐、潜水艦部及び艦政本部等の中央関係者、六艦隊参謀、工廠関係者、黒木、仁科両人などが参集した。会議では〇六の耐深強度の問題が軍令郡から出されたが、結論は、設計仕様の八十メートルで止むを得ないことに決定され散会した。

 軍務局の吉松田守中佐は、帰京後、直ちに山本課長に報告、山本大佐は、激化する戦局にかんがみ決断のときと判断し、海軍大臣、軍務局長に詳細に報告、正式兵器採用の決裁を仰いだ。したがって、完全なボトムアップの決裁であったことが分かる。確かに、黒木、仁科両名の血書による嘆願書がインセンティプとなって、斯かる兵器の出現を期待していた海軍中央の環境に受け入れられ、試作が命じられたものと理解するが、その段階での試作指令は誰から出たのか、と言うことについては、鳥巣さんの新本では触れていない。

 斯くて、昭和十九年八月一日、海軍大臣の決裁が下り、〇六金物の略式名は、正式には黒木・仁科案のように「回天」と命名されたのである。

 この正式決定に先立ち、昭和十九年七月二十二日、軍令部員であられた高松宮は、海軍省からの経過報告ならびに藤森部員の報告によって、〇六の実態の視察にP基地に赴かれたことは、高松宮日記第七巻五一九ページに記述されている。ただ、P基地において〇六金物三号艇の無人冷走の試走をご覧になったときの説明者が宮様自身の筆で山本大尉となってるが、鳥巣さんの解説では、軍務局一課長山本善雄大佐の誤記であろうと解説されている。関係者には山本大尉という人は存在しないと。

 昭和十九年七月二十一日、「大海指第四三一号」が発令になった。所謂、捷号作戦であるが、その別紙に「二。奇襲作戦とあり、(1)努めて奇襲作戦を行い、特に好機敵艦隊をその前進根拠地に奇襲するに努む。(2)潜水艦、飛行機、特攻奇襲兵器などを以てする各種奇襲戦の実施に努む。(3)局地奇襲兵力は之を重点的に集中配備し、敵艦隊または敵侵攻兵力の海上撃滅に努む。」と作戦命令の内容が記述されている。

 これを見ると、回天が正式に兵器として海軍大臣の決裁が下りる前の七月二十一日の作戦命令であるから、軍令部として、如何に切羽詰まった状態であったか、が看取される、と鳥巣さんは書いている。私も全く同感である。

 それからは、第一線の戦闘部隊である、第六艦隊の方に回天特攻が移り、菊水隊、金剛隊ーーーとなって行くのであるが、最後の十ヶ月間は、潜水艦とはいっても本来の潜水艦の任務よりも、回天の運び屋としての立場での活躍となった。

 因みに、鳥巣さんは、平成十年で九十歳になられるが、全国回天会には慰霊祭を皆勤されている。出来ないことである。

 

 回天の試作・開発は誰の命令か

 少なくとも回天は、飛行機の特攻のように簡単に言って人間の問題だけでは解決しない。如何に九三魚雷の改造といっても、基本的設計から入り、技術的にも大変である。先に鳥巣さんの「回天の追憶と祈り」には、この点については触れていない、と書いたが昭和五十一年三月五日発行の回天刊行会編纂の「回天」(編集委員代表鳥巣建之助)によると、私の設問にたいする回答が用意されている。その「第一部創始編」から若干を紹介してみたい。

 回天誕生の経緯」海軍省軍務局員吉松田守中佐(五五期)

 漸く退勢のはっきりしてきたころ(注。昭和十八年頃か?) 「今こそ身を捨てて一人一艦ずつ体当たりで撃沈する以外に戦局挽回の道がない」と提唱した四人の青年士官がいた。竹間忠三大尉および近江観中尉(現・山地) の二人の間には全く連絡はなかったが、ほぼ同じ時期に「人間魚雷」構想を軍令部と聯合艦隊司令部に提出した。

一方、P基地で甲標的艇長の教育を受けていた黒木博司中尉と仁科少尉も、ほぼ同時期に「人間魚雷」の構想をまとめて、その実現を申請するため、海軍省軍務局に出頭した。二人は、呉工廠魚雷実験郡の助力もあったが、昭和十八年の晩秋に、九三魚雷を利用する人間魚雷の構想を完成し、昭和十八年十二月二十八日、黒木、仁科の両名は、この人間魚雷の構想を軍務局で担当の私(吉松中佐)あてに、その採用を申請のため来省した。

 この事実は、昭和十九年七月十日発足の特攻戦隊水雷参謀板倉光馬少佐(六一期)の証言とも符合している。板倉さんによると、二人は、一月四日まで軍令・軍務の担当者を説いて回ったばかりでなく、ときの海軍大臣嶋田繁太郎大将にまで強訴している。

 こうした二人の不退転の気迫に押された当局は、ついに″考慮する″の約束をしたのであった(板倉証言)。

 文章を簡略にするため、以下、要点のみ筆者の筆で記述する。この申し入れを受けた吉末中佐は、その一言一句に深く感銘したという。その場で、第一課長山本善雄大佐に両名の意向を取り継いだ。山本大佐も両名の情熱に敬意を表し、その研究を称賛した。しかし″必死必殺″の人間魚雷の採用は、天皇陛下の大御心を拝するとき軽々には処理できないと説き、時期到来をまてと懇切に説得された。

 前段の板倉少佐の証言では、″考慮する″と言う当局の回答を得たことになっているが後段の吉松中佐の証言では、″時期到来まで待て″とある。この程度の差は、時がたっての後の証言であるから止むを得ない。

 昭和十九年二月クエゼリン環礁が敵の手に落ち、その奪還あるいは破壊のため、作戦部は特四号内火艇の採用を考えた。後藤脩は、この要員であった。しかし、実戦の状況には適せず、担当の六艦隊司令部(担当は鳥巣参謀)でも極めて不評で、結局は作戦は中止となったが、その折りも(板倉証言では、紀元節の当日)黒木、仁科の両氏は、人間魚雷による狭水道通過法や、停泊艦襲撃法を持って、軍務局に吉松中佐を訪れ人間魚雷の採用を意見具申に来た。

 この具体的な意見具申に敬意をもって注目した吉松中佐は、軍令部に連絡すると同時に山本課長に詳細報告し、人間魚雷の試作だけでも実施するように上申した。山本課長は、言下に人間魚雷三基の試作と諸性能の検討を指示した。吉松中佐は言う。「忘れもしない昭和十九年二月二十六日のことであった。この日こそ、回天誕生の日となった。試作については、脱出装置を考慮することを条件として、呉工廠魚雷実験部長に委嘱した」

 これに対して、板倉証言では、「黒木・仁科の上申につぐ上申もさることながら、「あ号作戦の惨敗、サイパンの陥落が転機となり、従来の方針を一擲して、全軍特攻に踏み切らざるを得なくなった。回天も脱出装置のないまま兵器として採用せざるを得なくなったのである」と、吉松証言と多少の違いがある。これも止むをえないところであろう。

 「『〇六兵器』かくして成る」

呉海軍工廠水雷部設計主任鈴川薄海軍技術少佐

 『〇六兵器』が機密兵器として、呉海軍工廠水雷部に開発の命令が下されたのは、春とはいえ、まだ軍港の風が身に沁みる昭和十九年三月初めであったと思う。(中略)

 開発命令と同時に、呉海軍工廠水雷部では、当時設計主任であった酸素魚雷の権威・渡辺清水技術大佐が開発責任者となり、その下に係官として鈴川溥海軍技術大尉、担当技手として魚雷設計に多年の経験を持った楠厚技手、有坂技手が任命され、緊急開発グループが発足した。(以下略)

 「回天出現のかげのエピソード」

呉海軍工廠水雷部検査官内藤力中佐(五七期)

 ミッドウェイ海戦は、戦局の重大なターニング・ポイントであった。当時私は、重巡洋艦「最上」の水雷長として戦闘に参加、敵艦爆の猛攻を受け五発の直撃と多数の至近弾により私は右目を失明した。私は呉に送還され五ケ月間の病院生活後、呉海軍工廠の水雷部検査官として勤務した。(中略)

 戦局漸く不利に傾こうとする十七年の半ば、聯合艦隊司令長官山本五十六大将は、米海軍の逆襲に備えて、大特攻作戦の展開を企図していたという話がある。これは朝熊利英技術中将の直話であるが、同中将は甲標的及び九三魚雷を設計し、その開発にも成功した日本海軍有数の水雷技術者であり、これに協力した大八木静雄技術少将とともに、斯界の双璧とも称すべき人物であったが、山本長官とも親交があり、トランプの好敵手であったという。

  山本長官の大規模特攻作戦構想

 ミッドウェイから帰還した山本長官からある日、当時呉工廠水雷部長在任の朝熊氏に対して招きがあった。早速訪ねて行くと、「一千隻の特殊潜航艇を半年内でつくることはできないか」という。朝熊氏は、「海軍が全力を挙げて支援して下さるなら、半年は無理だが、一年半以内には一千隻を完成してお目にかけます」と答えた。(中略)

 内藤中佐の手記を、以下、不本意ながら抄訳すると、このような内容になる。

 山本長官と朝熊中将との多少の打ち合わせの後、早速、水雷郡で建造に着手した、と記述されているが、建造命令は、聯合艦隊司令部としては筋違いと思われるので、山本長官の意向をうけて、海軍省軍務局及び艦政本部などに正規のルートで連絡があり、呉工廠が建造命令を受けたものと推察するが、この辺のところは、筆者の推定である。

 建造資材は、空母の補充用として建造されつつあった17500トンのうち三隻の建造を中止し、その資材が特潜一千隻に振り向けられた。このようなことが出来るのは、正規のルートでの稟議を通った案件であったと理解する。

 筆者内藤中佐は、「以上の話でもわかるように、山本長官はすでにこのとき、特攻戦を決意していた」と書いている。続いて、「長官の意図していたところは、敵地必ず中央突破で、サイパン、テニヤンに来襲してくるで

あろう。したがって、一千隻のうち五百隻はこの海域一帯に配し、フィリッピンに二百隻、沖縄三百隻を配置するという構想である」と。

 内藤中佐は、続ける。「山本長官の企図に基づき、特攻甲標的と名付けられたこの特潜の建造は開始されたのであるが、私(内藤)が、冒頭においてミッドウェイ海戦との関連を強調したのは、このような背景によるものであり、もし同海戦の敗北が

なければ、長官の大特攻作戦の展開の企図はなかったかもしれない。その限りでは、特攻兵器−回天の出現もおのずから別の道を辿っていたかもしれない」

 山本長官の時代は、回天は登場せず、甲標的一千隻の時代であったが、事実その線で製造計画は実行されていた。しかし、聯合艦隊司令長官のミッドウェイ敗戦後の戦略構想のなかに大特攻の精神は芽生えていたことは、以上の内藤中佐の記述から明確である。

 山本長官戦死後、甲標的の大量生産は、海軍大臣嶋田繁太郎大将の命により中止の止むなきにいたったのである。余談であるが、完生された艇はソロモン初頭方面の輸送任務にむけられたと言う。

 嶋田大将の中止命令は、「東郷元帥の遺訓として−―決死隊を出すのはよいが、必死隊を出すのはいけないーーを踏まえたものであった」と言うところであった。この考え方の延長で、後日、回天の脱出装置について、大激論が展開されたのであるが、設計変更による完成期日の遅れと性能低下を恐れた黒木、仁科の両名の極めて強い意向に、中央部は押し切られた恰好であった。

 内藤中佐の記憶では、昭和十九年一月二十日、艦政本部第二部坂本技術大佐が軍令部に呼ばれ、参謀黒島亀人大佐から回天魚雷の製造に関し次の指示をうけた。

 「ようやく陛下のご裁可を得たので、このようなものを至急設計製造にかかってもらいたい。これには、必ず脱出装置をつけ、乗員は必ず帰還することができます、ということでお許しがでたのだから・・・・・」

 かくて回天の登場の幕はついに切って落とされたのである。艦本に戻った坂本氏は、耳塚康人技術中佐と協議して原案を作り上げ、翌二月、艦本魚雷担当竹大孝志中佐は、その案をもって呉工廠水雷部へ急行した。水雷部では、部長以下幹部があいより、早速設計が開始され、昭和十九年七月になって漸く試作の三基の回天が完成をみた。(以下略)

 以上の証言を詳細にみると、特攻回天史の上から極めて有意義であるが、軍令部吉松中佐の証言と内藤中佐の証言には、設計開始の期日において若干の相違があるが、記憶による記述であるので、その相違は致し方ないが、吉松中佐は、実質的な開発の意思決定は、軍務局山本善雄課長とし、内藤証言では、黒島亀人参謀と言い、違いがあるが、どちらも領ける話である。

 しかし、飛行機の特攻と異なり、回天の場合は、いずれの証言とも、黒木、仁科の両発案者の存在とその燃えるような熱意が預かって力となっている。特に、吉松証言では、黒木、仁科の両氏の存在を非常に高く評価し、二人の熱意が、軍務局を動かした、と証言しているが、内藤証言では、黒木、仁科両氏の名前は、開発決定に到る段階では出てこないが、試運転の段階からは看取される。特に内藤中佐は、第一号基の最初の搭乗試運転では仁科中尉とともに同乗の上、参加されている。何れにしろ、証言の違いは、証言者の職務配置上の問題であろう。詳細は原本を参照されたい.

 注。以上の記述に「板倉証言」とあるのは、「回天」誌中「回天の志遂げずば止まじ」

 第二特攻戦隊水雷参謀板倉光馬少佐の手記を参照にしたものである。 

 おって、回天の搭乗員についてのみ書いてきたが、板倉少佐の本誌中「闘魂ひとすじ回天整備」があるが、大津島の整備長浜口米市大尉は、魚雷の権威であり、水雷学校普通科練習生、高等科練習生をいずれも首席で卒業、極めて優秀な整備の神様であった。殺気だった整備工場では、不可能を可能とし、手掛けた回天は述べ1500本、彼は整備の手落ちで搭乗員を死なせた時は即座に割腹する決意であった、と言う。また、その後に転勤してきた高島靖太郎少佐も大変な逸材で搭乗員からも、慈父のように慕われていた。

 こうした整備陣の限度を越えた努力が、回天の影に存在していたことを忘れてはならない。詳細は、「回天」本誌を参照されたい

回天搭乗員の配置はどのようにして決定されたか 

 一九九七年七月十日、光人社発行、「関大尉を知っていますか」J・デルポート著、服部省吾訳の書物がある。副題を「青い目の女性が見た日本人と神風特攻」という。関行男大尉は、神風特別攻撃隊敷島隊の隊長として、神風特攻の一番機で、昭和十九年十月二十五日見事に空母セントローに直撃沈没せしめた勇士であることは周知のことである。

 この本によると、関大尉(七〇期)は、艦爆搭乗員でありながら、比島の第二〇一海軍航空隊戦闘第三〇一飛行隊の分隊長として着任した。艦爆乗りが何故戦闘機乗りに発令されたか、という素朴な疑問はあったそうだが、到着後数日して副長に呼び出され、副長室に入ると、そこに玉井副長と、猪口力平大佐がおられ、そこで、初めて大西中将の発案により、二五番爆弾を零戦で抱いて、特攻をかける話が有り、その体当たりの隊長に選定したい、と言い、関大尉に返事を求めたそうである。 

 以来、わがクラスの飛行機乗りは、殆ど特攻で戦死したが、関大尉は特攻の最初であったこともあろうが、猪口大佐から直々の話もあり、大西中将からの特攻出発の儀式もあったそうであるが、彼は、当時すでに若妻がいた。しかも、母親一人の一人っ子であった。当時、帝国海軍では、人事の上で家庭の事情は全く考えなかったのか? 後述する米国の実例との比較において、大きな格差があることが分かる。軍隊における最大の人権無視と思うが、当時はそのようなことは全く考えなかった。時代の移ろいの結果である。

  回天の搭乗員の人事はどのようにして行われたか。

 回天の搭乗員は、水雷科下士官、甲種飛行予科練習生、予備学生出身の少、中尉並びに海軍機関学校、兵学校出身者の中、大尉から構成されていた。

 最初に、予備学生出身の士官がどのようにして回天搭乗員に選ばれたか、について述べよう。

一九九七年十一月光文社発行、武田五郎著「回天特攻学徒隊員の記録」から引用する。即ち、これは「予備学生」出身者の回天搭乗員についてである。武田五郎氏は、早稲田大学学生から昭和十八年十二月学徒出陣で入団、その後第四期兵科予備学生をへて、航海学校から大津島の回天隊に入隊、出撃の機会に恵まれず戦後を迎えた。戦後は、大洋漁業に入社、専務取締役になった人である。筆者も個人的に知っている間柄である。

 昭和十九年十月十八日、海軍航海学校学生隊に「総員集合」がかかり、学生隊長田口正一大佐が壇上にあがり、「戦局の重大性に鑑み、特殊兵器の搭乗員を募集したい」旨の説明があった。そして、最後に、「このことは他人と相談してはならない。希望する者は分隊長へ申し出るように」と言い渡された。

 田口大佐は特攻という表現を使われなかったし、危険な業務なのだろう、という程度で余り深刻に考えずに、それでも相当の緊迫感をもって、武田氏は、「志願いたします」と分隊長に申告した。淡々と書いているが、相当考えての結果であったろう。

 同じとき、海軍対潜学校の予備学生にも同じような呼びかけがあった、と武田氏は、対潜学校の神津直次氏から聞いている、と本書には書いてある。神津氏は東大から学徒動員で海軍に入り、武田氏と術科学校は違うものの回天の光基地に搭乗員として入隊した。私も承知している方で、回天に関する本を出版している。回天については非常に熱心に事実を記録し、自費出版などをしている。

 対潜学校では、要員応募者が多すぎて、再度考えてから「熱望」「希望」「希望せず」と紙にかいて箱に入れるように指示され、各種の角度から選考されて決定したと言われている。したがって、家庭環境、本人の性格、適性などは、母数が大きかっただけに、武田氏の航海学校よりは、人事決定上の配慮がより多かったと言えるのではないか。

 この資料も、武田氏の著書からの引用であるが、古い戦時中の人事関係の資料がある。昭和十九年八月三十日起案。同年八月三十一日発布。「海人三機密三号の六二号」 「海軍予備学生の選抜並びに教育等に関する件申進」という件名があり、「〇六兵器搭乗員及び甲標的艇長適任者各五十名を選抜のこと」となっている。そして募集選抜に当たっては「兵器の性能用法については伏せたままで志願者の了解を求めること」とあり、人選の条件の中に「水泳の出来る者」とあった。

 人選の条件として、「水泳の出来る者」とぁるのは、武田氏は、今日にいたっても不可解とされているが、この段階では、特に中央赤レンガでは「特攻兵器における脱出装置」は絶対的な兵器採用条件になっていたので、脱出のための水泳という机上の論理があったものと、筆者は思う。

 同時に、私は思う。予備学生は、根っからの志願の人もいたのであろうが、四期の予備学生は、学徒動員令によって徴兵猶予がなくなり、昭和十九年十二月に水兵として徴兵され、その後に予備学生に任命された者が大半であり、言わば徴兵である。一般の徴兵よりは優遇されたとは思うが、軍の学校に本人の希望と志願によって入校した生徒出身者とは基本的に違うので、特攻という背景説明が全くなしで希望者を募るというのは、当時の人事としても邪道である。そのことが、彼等の一部ではあるが、戦後、海軍嫌いにした原因となっていると思われてならない。

 回天特攻の各隊の先任者は、搭乗員の隊長として、概ね、兵学校七〇期、七一期、七二期、七三期が主としてその任に当たったが、殉職を含む戦死の数は、七〇期(機五一を含む。以下同じ)三名、七一期二名、七二期(機五三)十五名、七三期(機五四)九名、予備学生(生徒を含む)二六名、水雷科下士官九名、飛行科下士官四〇名、合計一〇六名に及ぶ。(回天会資料より)。

 前掲で、予備学生出身者の回天搭乗員の募集についての概要を記述したが、不満足なやり方ではあっても、最低限の特殊な募集方法を取っているだけまだましな方で、われわれクラスおよびコレスにおいては、全く特例的な人事方法はとられていない。これは、当時の考え方からすれば、寧ろ、当然であった、と私は思う。

 回天会から貰った士官搭乗員の名簿によると、昭和十九年九月一日に、大津島に回天隊が正式に開設され「第一特別基地隊大津島分連隊」として名乗りをあげたが、時の指揮官は、猛将板倉光馬少佐(六一期)である。

 その当時、七〇期、七一期及びそのコレスの搭乗員は、甲標的艇長あるいは特四内火艇艇長から同じ第一特別基地隊内での配置転換であった。それに、潜水学校第十一期普通科学生(昭和十九年八月十五日卒業)が加わり、先輩クラスは六名であった。同時に、第十一期の七二期久住宏と、名簿上は第十一期の潜校学生となっている河合不死男(実際は第十一期ではない)が加わり、搭乗員人事が急であったことが看取される。確かに、昭和十九年七月初旬ぎりぎりで試作三基が完成し、八月一日海軍省から正式に兵器採用の決定が発表され、兵器名は回天と決定した。未だ脱出装置において決定しない問題はあったが、九月一日の回天隊設立、あとは搭乗員、整備員の充足が急務であった。

われわれ潜校十一期は、八月十五日に卒業し、即日、大竹をあとにしたのであるが、久住は潜校卒業のとき、どこに新配置の辞令を貰ったのか不明である。潜水学校付属の潜水艦にでも辞令を貰い、翌月早々、九月一日付けで大津島に転勤になったのかもしれないと思っているが、その辺の情報を承知している人は、筆者までご通知を頂きたい。

 面白いと言っては失礼だけれども、人の運命は分からない。渡辺収一の場合である。彼は、北上乗組であったが、潜水学校学生の辞令電を、北上が受信漏れをしたため十一期の学生には間に合わなかった。南方から潜水学校に到着したのは、十一期が卒業した後の、八月二十日のころで、出頭と同時に、八月三十日までの休暇を貰い帰省、当日帰校したところ、九月一日付けで第一特別基地隊への転属の辞令に接し、九月三日、倉橋島へ着任。当時、回天搭乗員要員として、大勢の予科練出身の一飛曹に対する魚雷の教官配置についた。十一月ごろ大入島の魚雷発射実験場に隊内転属となり、回天の完成の度毎のテストパイロットの役をやりながら、回天四型についての試作研究員の立場にいたが、四型のギブアップに伴い、二十年三月に原隊復帰となった。時に、一特基の司令部は、倉橋島から光に移転していたために光に着任帰隊した。こ

こで、回天の搭乗員配置となったが、出撃の機会を得ず、終戦を同地で迎えたのである。辞令電報のミスが、彼の生死を替えたか?

 潜水学校普通科学生第十二期として発令を受けていた者のうち、川久保輝夫、石川誠三、吉本健太郎、福島誠二、土井秀夫、柿崎実、小灘利春の七名は、後掲の次第によって、回天に急遽転属になった。そして、小灘を除いて、みな回天の搭乗員として初期の目的を達したが、皆、潜水艦から出撃した者たちであつた。小灘は、八丈島の第二回天隊の隊長として出撃したが、敵の来襲がなく、同島で終戦を向かえる運命の違いとなった。

 さて、士官級の第二次緊急配置として、以上の七名は、九月四日、明日から潜水学校第十二期普通科学生の教程が開始されるという日に、突然、田辺主任教官から呼び出しをうけ九月五日付けで、第一特別基地隊への転属が伝達された。そのとき、いま生存している小灘に聞くと、田辺教官を初め七名全員が第一特別基地隊の存在もまたその内容も知らなかったと言う。通称のP基地と言えば分かったであろう。

七名は、適当な見当で、最初、呉の潜水艦基地隊に行き、そこから、倉橋島のP基地まで内火艇で送ってもらった。有名な甲標的の基地である。そこで、クラスの後藤脩にばったり会った七名は、後藤から、「貴様達は人間魚雷だ」と言われ、初めて、新たな配置の実態が分かり、大津島に設立されたばかりの第一特別基地隊大津島分遣隊に到着した。

 この時、小灘は、終生忘れえない大感激を覚えた、と今にして断言している。七名は一室に寄り合い、緊迫した戦局を起死回生する回天の搭乗員に選ばれた感激を、嘘偽りなく語り合ったと回想している。しかし、このような人事のやり方は、人事局として、もちろん、予備学生の人達に対しては採らぬであろうが、もし採ったとしたらば、戦争中はともかく、戦後においては、大変な非難の的となったであろう。

 この七名は、前述のように小灘を除いて全員が玉砕した。またごく僅か終戦を迎えることが出来た者も、回天の搭乗員であったことを名誉に思いこそすれ、不満に思っている者は誰もいない。

 ここで目につくのは、川久保輝夫である。前述のとおり、川久保家のように、兄弟四名が揃って戦死という家庭のことを、人事局では全く把握していなかったのであろうか?

 このように言うことは、確かに、平和なこの時代の発言であって、戦争中は、そのようなことをわれわれも考えたことはない。川久保のみは、ただ一人、自分の家庭事情を密かに誇りと思い名誉と思っていたことであろうが、筆者も含めて、われわれクラスの者は、川久保家の実情を戦争が終わって、一段落するまでは全く知らなかった。

 当然のことながら、伊四七潜の折田艦長はご存じであったと思うが、生と死の諸刃の剣の上で戦争をやっていた当時としては、ご遺族からみればどのようなお考えであったか。

 少なくとも、兵学校卒業のとき、その直前において希望するコースを調査したように、また、神風の関大尉のような人事上の思いやりとまでは行かなくとも、特攻に関する限り何らかの特別配慮があっても・・・・とは、今だから言えることであるかもしれない。

もともと、まともな統帥では勝負にならないので、特攻という竹槍精神主義的な方法を実行に移したので、特攻作戦に依存しなければならない、と統帥部が考えたときが、戦争の引き時であった。したがって、最早、その段階では、家庭事情など顧みる余裕は全くなかったと言うのが実情であった、と残念ながら思うのである。鳴呼!

 

ライアン二等兵

原画の題名は「セイビング プライベート ライアン」という。平成十年十二月十一日で、東京ではロングランが終わったが、新聞その他での映画評は非常に高かった。そこへ白根行男から電話があり、「非常にいい映画だ。俺は非常に感激した」と。

 テレビで見るのとは大違い。映画館での映画は、音響効果は抜群であり、それ自体が凄い技術だと思うが、ノ〜マンディ上陸作戦の壮絶さは、筆舌に尽くしがたい。ザ ロンゲストデイと言う映画のノルマンディの上陸作戦も凄いと思ったが、プライベートライアンの上陸作戦は、それの何倍も物凄い映画である。

 戦術論から言えば、多少なりと戦争、戦闘の経験のあるものは、この映画どおりの実戦であったとすれば、ノ〜マンディの上陸作戦は、目的は達したが大失敗であったと思う。

 サイパン、テニアン、硫黄島、更には、タラワ・マキンのように、徹底的に事前に叩いてから上陸に移るべきで、このような大虐殺現場のような実情は、映写効果の拡大のためのものであろう。それだけに、この映画の起承転結の″起″の部分は大成功であったと思う。余談だが、この上陸作戦の失敗を戦訓として、太平洋戦の島嶼上陸作戦においては、米国は、上陸以前に徹底的に日本軍を叩いたのであろう。

 流石は、ステイープン・スピルバーグ監督の名作の聞こえ高い傑作であると思う。この一九四四年六月六日の大虐殺的敵前上陸で生き残った米第二レンジャー大隊C中隊に、マーシャル将軍から直々の命令が下った。「一個分隊で戦線を突破し、第一〇一空挺師団所属のジェームス・ライアン二等兵を捜せ」と。

映画は、中隊長ミラー大尉(トム・ハンクス)以下七名の精鋭が、敵中を突破し、最後にはライアン二等兵を捜すまでの戦闘極限状態における人間愛、ヒューマニズム、闘争心などの心理を追いながら、なかなか見応えがある。

 ミラー大尉の受けた命令は、ライアンを探し出し、無事に後方陣地まで連れて帰れ、というのであるが、ライアンを発見して連れて帰ろうとすると、ライアンが承知しない。戦友をおいて、自分だけどうして帰れるか、と。非人問的な戦場における、一人の人間としての最低のモラルと専厳。

 それは、英雄でもない、愛国者でもない、唯、一人の人間としての心の叫びであり、ヒューマニズムの極致である。そこから、またドイツ軍との戦闘が始まりミラー大尉は戦死するが、ライアン救出の命令は達成される。なぜ、戦闘中の部隊から、一人の二等兵を救出しなければならないのか。それも、そのため、中隊長と一人の兵士が戦死する。この論理の矛盾は、見る人だれでもが思うであろう。

 第一〇一空挺師団所属のライアン二等兵は、故郷アイオワに母一人を残し三人の兄とともに出陣した。兄二人はノルマンディの海岸で、他の一人はニューギニアで戦死した。そのことを偶然の機会に承知したマーシャル将軍は、ノルマンディ作戦部隊に指示して、四人目の弟の救出作戦を命令したのである。

 「大の虫、小の虫」の譬えのように、戦争においては、大きな目的を達成するためには小さなことは犠牲にすることは止むを得ない。これも又当然であるが、一人の二等兵を救出するために、なぜ、マーシャル将軍は救出作戦の命令を出したのか。

 映画そのものについては、映画評論家川本三郎氏の「戦場の兵士の尊厳」と題する評論の結びの言葉をもって締めくくろう。

 「これは英雄の物語ではないし、愛国心の昂揚の映画でもない。感傷的な反戦映画でもない。二十世紀のすべての戦争で死んでいった者に捧げられた鎮魂歌である」と。

 もう一つ、スピルバーグの言葉を加えよう。

 「一九四三年、五人のサリバン兄弟が日本軍の攻撃により、全員が同じ船で海に沈められた。このことをきっかけに、陸軍省は、兄弟が同じ部隊に所属してはならない。兄弟の内一人は前線に出さないという法律を通過させた。その次の年、一九四四年、四人の兄弟のうち三人までが、七十二時間の問に戦死するという出来事が起こった。一人は日本軍を相手に、あとの二人はヨーロッパの戦線で・・・・」

「そこで、二等兵である四人目の兄弟を捜し出し祖国へ帰すために一部隊が送り込まれた。これがこの作品のストーリーの核となったのです」と。

 

 むすび

 クラス会誌への投稿としては、些か長すぎた。

 最初は、前章に書いた「ライアン二等兵」を中心にして、アメリカという国の近代史における歴史的史観である「モンロー主義」を基盤とする、個人主義とか、人権主義を題材にして論じてみようと考えたのである。

 ともかく、白根行男が感激したと同じように、それ以上に、筆者も「プライベートライアン」を見て感激を覚えたのであるが、ノルマンディ大虐殺とも言われる天下分け目の大作戦のなかで、如何に法律とはいえ、唯一人の二等兵の救出に、米軍の最高位にある将軍が命令をだす、という異常さ− これは日本人的な感覚なのか?―には、どうしても理解ができない点があり、単に、アメリカ好みの人権主義とかヒューマニズムでは解し切れない。というより、私自身の思想的、哲学的な理解力が追いつかないことを、まざまざと感じるのみであった。

 それにしても、国は違うが同じ軍隊において、日本軍なかでも自分が全生涯を掛けた帝国海軍と米国陸軍と、陸海の違いはあれ、比較してみようとは誰でも同じ発想であろう。

 そのような思いで、考えていると、筆者のように戦争中、回天の運び屋であった者からすれば、回天、そして、四人の兄弟を戦死させた川久保家、川久保輝夫のことが一番に思い出される。

 川久保家と同じように、四人の兄弟が戦争に行ったライアン家の四人の兄弟は、徴兵であろうか、あるいは、大戦中のことであるから、志願かもしれない。三人は、戦死したが

特別の計らいで、四番日の男の子は激戦のドイツ戦線から救出され、母親のところに帰された。

 しかも、ノルマンデイの大激戦、というより大虐殺という表現の方が正しいであろう、あの映画の生々しい場面と激烈な音響効果に酔った観衆は、米国の余裕と偉大さに対して敬意を払ったことであろう。私もその一人でもある。

 その偉大なアメリカでも、この映画の中で、降伏してホールドアップしているドイツ兵に向かって実弾をぶち込む。ベトナムでもそうだった。戦争というものは、人間を異常にさせる。また異常な精神状態でなければ、戦争はできない。

 異常。それは気違い状態である。そんなときの出来事を云々しても、所詮、正気な人間としての無意味さのみが残る。

 米国の悪いことを論うよりも、ライアン二等兵を激戦中に救出した米国の良心を素直に讃えよう。それは、残念ながら日本海軍にはなかった。というより、その余裕、何もかもの余裕が全くないまま、それが敗戦へとつながったのである。 

 しかし、回天に限らないが、あの特攻精神が日本の戦後を救ったと私は思っている。

 日本人の良識からしても、出来れば川久保輝夫を特攻に指名しないことまでは、人事局の配慮として賛成できるが、肝心の川久保が、それでは納得するかどうかについては分からない。恐らく、そのような配慮が分かったときは、川久保は所轄長に対して食いついたのではないか。われわれが受けた教育とか、価値観とかは、どだい今日のそれとは根本的に違うのだ。また、それで幸福だと考えていた時代であった。今でもそう思う。

 最後に、ライアン二等兵には「良かったな」と言いたい。川久保少佐には、何と言ったらよいのか?唯、ご冥福を祈り、ご遺族のご多幸を祈るのみである。

(以上平成101215日記) 

(追 記)

 原稿提出以後、原稿の正誤について、小灘回天会会長に校正を依頼したところ、年末多忙のところを、早速訂正をしてくれたので、以下、それに従っての訂正及び加筆をするものである。本文そのものを訂正することがベストであるが、逆に、このような形での訂正の方が判りやすいと考え、訂正、追加箇所をまとめた次第である。

(1) 回天の対輸送船戦果

 この章の一番最後の部分に、「われわれの基本的認識の中には、米国海軍籍にない艦船即ち、輸送船などの場合には、全く被害の発表がない、ということは事実に反することが

確認できたことも、大変有効なことである」と書いたが、このことは、回天の運び星の潜水艦乗りの立場からすると、共通の認識であるが、小灘の所見により、回天会としては、米国海軍の実情についてより正確に説明があった。

 それによると、米艦船の戦闘報告、航海日誌については、すでに膨大な資料が提出されているが、その量が膨大過ぎて、なかなか手がつけられないというのが実態である。米国海軍歴史資料センター(以下センターと言う)は、先年、その保存資料を開放したものの日本側から文書で所要資料の送付を陳情しても、一年以上になるが回答がない。そこで、回天会としては、防衛庁の特定の個人から、米国センターの知人に対して特別に個人的に依頼して必要な資料を取り寄せるという方法をとっている。

 米海軍の軍艦等については、今日、大きな事件については、調査済であるが、総てについては、調査が完了したという段階にはない。まして、莫大な数の輸送船、LSTなどについては、回天が攻撃した船名などを特定しないと、原データーが索引されない。日本側としては、それが判れば問題がないが、判らないから困っている訳で、大部分の調査は実際問題としてお手上げ状態である、と。

 このような実情で、回天会としては、米国資料の開放を機会に、戦果の具体的に判明していないケースについて、何とか結果を掴みたいと努力をしているが、儘ならない現状を知らせてくれた。

 なお、元朝日新聞電波報道部記者で熱心な海軍研究者である上原光晴氏は、現在、回天戦記について執筆中であるが、「米国商船隊に対する回天の具体的戦果を調査するには、とても個人の調査では無理です。約半年はセンターに通いつめる必要があります」と言っている。

(2) 回天の登場
 この章に、高松宮の日記7巻519に、宮様が、昭和十九年七月二十二日P基地をご視察になり、回天の無人冷走の試走実験をご覧になった折りの日記に、山本大尉という人物が説明者として出てくるが、鳥巣さんは、回天関係には山本大尉という人はいないので、軍務局の山本大佐(課長)ではないか、と解説されているが、高松宮の日記に、宮ご自身の筆によって登場する人物であるので、鳥巣さんのご意見のみでなく、その他の意見も併記する必要があると思う

 @ 元呉工廠水雷郡の〇〇〇〇氏に対して回天会からの本件の照会をしたところ、同氏は平成九年七月十二日付けの書状により、次のように回答している。

 呉工廠水雷部には、同氏以外に三人の関係者にも照会したが、山本大尉という人は記憶にない。当時設計担当の鈴川溥(造兵昭十五卒)、艤装実験担当の福田幾昌(造兵昭十二卒)人いずれも故人)と連絡を密にしていた呉水雷部部員兼魚雷実験部部員山崎正八郎大尉ではないか、という所見がある。この人は職責上ご説明役として適任である。

 A クラスの渡辺収一の見解によると、彼は、昭和十九年九月一日付けで一特基付けの発令で回天搭乗員であるが、渡辺も山本氏には心当たりがない。回天のご説明役としては当時の工廠水雷部の山崎正八郎大尉が適任者であった。宮の日記中の人物は山崎大尉の間違いではないか、と思う、と。

 B クラス特潜搭乗員三笠清治の意見によれば、前掲の鳥巣さんの解説意見と同様に、山本大尉は大佐の間違いであり、高松宮に対する説明役として適任者と思う。

 C 山崎正八郎氏。海軍兵学校第六五期。

  潜水艦勤務後、東京大学造兵科入学卒業後、海軍工廠魚雷実験部勤務、兵科将校の立場で回天の試作、開発に関与した。回天の尾端より海水が入り、機関発動時に気筒爆発を起こすのを防止する、木栓のビンツケ油を塗布して尾栓に打ち込む対策を施し、解決した。工廠魚雷部では以後ビンツケ大尉として親しまれていた。戦後、京都、山崎精機製作所社長。平成八年没。 

(3) 回天搭乗員の配置はどめようにして決定されたか

この章については、回天隊内の問題であり、部外者の筆者の言うべきことではないが、戦後の回天会において、正否あるいは適正か不適正かは筆者としてその委曲を詳らかにするところではないが、俗にいう″ほんちゃん”と″そうでない人″との間にある種の確執がぁることは事実であり、筆者のような部外者にも、よくわかるのである。

したがって、私は、この章の「回天の搭乗員の人事はどのようにして行われたか」について、搭乗員の記述の順序を、敢えて通常の逆に組み換えた。即ち、水雷科下士官、甲種飛行予科練習生、予備学生出身の少、中尉並びに海軍機関学校、兵学校出身者の中、大尉から構成されていた、と。

 ただし、明確な間違いがある。回天の搭乗員は、「兵学校、機関学校出身者の中、大尉から構成されていた」の文面は間違いで、「兵学校、機関学校出身者は、少尉候補生、少、中、大尉から構成されていた」と訂正すべきである。但し、七四期の少尉候補生は、搭乗員としての実戦参加に至る以前に終戦となった。

 「昭和十九年九月一日に、大津島に回天隊が正式に開設され「第一特別基地隊大津島分遣隊」として名乗りをあげた。時の指揮官は、猛将板倉光馬少佐(六一期)である」の次に

「その当時、七〇期、七一期及びコレスの搭乗員は・・・・河合不死夫(実際は第十一期ではない)が加わり、搭乗員人事が急であったことが看取される」とあるのは、その委曲については、筆者は部外者であり、小灘の解説に譲る。

@ 黒木大尉、仁科中尉の二人は、回天の創始者であり甲標的を管轄していた「一特基」から例外的に大津島に配転になった。

A 七〇期の上別府大尉、樋口大尉は、昭和十九年八月十五日付けで、「第六艦隊付兼呉工廠付」から「一特基付」に発令されたが、両名とも回天搭乗員として直接大津島分遣隊に入隊しており、一特基は、「一特基付」を認めず、特潜会名簿からも排除されている、と。筆者は、この辺の委曲については承知しない。

B 七一期の帖佐中尉、加賀谷中尉は、十一期潜校学生を卒業と同時に、八月十五日付けで一特基付として回天搭乗員の発令があった。(階級は発令時、以下同じ)

C 七二期久住少尉はBと同じ。しかし、辞令は、「一特基付」として発令されたとしても、筆者および他の十一期潜校卒業生では帖佐、加賀谷両中尉と久住少尉は、当時人間魚雷あるいは〇六金物なる特殊兵器の存在を知っていたかどうか、大変疑問とするところで、筆者は全く承知していなかった。戦局認識の緊迫感の差か?

D 七二期の河合不死男少尉は、回天会として各方面に照会したが、榛名乗組以後、八月十五日までの期間が全く不詳である。

 (回天会名簿では、十一期学生となっている。)

 E 機五三期の福田、村上、都所、豊住、川崎各少尉は、八月十五日潜校十一期卒業であるが、全員戦死しているので確認の方法がないが、回天会の調査では、全員九月二十五日に一特基へ発令されているが、川崎のみは、伊四五潜に発令され、その後、八月二十五日に一特基に発令されている、と。

  機五三期の生存者の某氏の意見によると、十一期潜校学生から、五人まとまって回天に行ったのは、黒木さんとの個人的関係によってではないか、と言う見方をしている。 

(4) 潜水学枚普通科学生の教官であった、田辺彌八中佐(五六期)の戦後の話として「回天の搭乗員を熱望するという申し入れを、教官室に強引に申し入れにくる学生が多くて、その扱いに困った」と言うことを言われたことを、名村は直接、田辺さんから聞いた記憶があると言う。

 田辺さんは、十期以降、何回かの普通科学生の教官をしておられるので、この発言が何時の時代のものかによって、解釈が違ってくるが、十二期の学生から七名が一特基へ転出したときの辞令は、田辺さんが申し渡しをされているので、既に、回天をご承知のうえでのことであったのか、その辺も確かめようがない。

 以上で、訂正、加筆については擱筆する。くどいようであるが、最後に付言する。今後は、回天特攻に限らず、従来比較的に安易に考えられていた戦記物記事は、歴史の範疇に入ってくる。歴史は、哲学としての史観によって、見方、考え方が異なるのは当然としても、基本的には史実の正確さが最も重要なことであるので、この点について、十分留意した積もりである。(十二月二十二日)

(なにわ会ニュース80号13頁 平成1年3月から掲載)

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