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平成22年4月22日 校正すみ

海軍と海上自衛隊

來島 照彦

 「なにわ会ニュース」は、この100号が最後になるという。伊藤編集長の努力に応える為にも何か書かねばならない。
 海軍と海上自衛隊について書くことが、私にとって適当な名題と思われ、それもこの際何もかくさず(・・・・)飾らぬ内容とすることに決心した。
 親の跡を継ぎ、お国の為になろうと海軍兵学校を目指し、中学4年の時に練習の為にと軽い気持ちで受験したら、意外にも合格してしまった。受験勉強もせず、試験の出来も悪かった為、自分でも全く不思議であった。ところが父が心配した。

 身体が未成熟であり、体格も悪く、猛烈な訓練に耐えられないであろうということであった。それで、父のクラスメートの教頭に相談したら、1年待ってからの方が良かろうということでそのようにした。
 と言っても、一たん不志望の返答をして、再度受験するということである。
 ここまで、親の言うことを守ったことは不思議なくらいであるが、自分でも心の中にそれと同調するところがあったのだと思う。

 翌年5年の時の海兵受験では、そのことが口答試問で叱られるであろうと心配したが、事実を話したら問題なくパスした。
 入校後には、心身の準備が整っていた故か、病気もせず、むしろ楽しく勉強が出来た。
「夢に見し 兵学校に 学ぶ日の
   今こそ 我に巡りきたれり」
とお笑いの一席。

 一号生徒の時には分隊伍長の任を与えられたが、大過なく果たせたと思う。係としては、図書係のほか、弥山係を受け持ったが、卒業が早められたため、競技が無かったので、なにもしない係であった。

 卒業時の志望先調査のことを想い出す。
飛行機と潜水艦について、熱望と望と不志望の3つのどれかに記入するものであったと記憶している。飛行機は熱望であったが、潜水艦については、本心は不志望であった。然し、「不志望」はなんか女々しいと思い、中間の「望」としたが、後日その道を歩むことになった。
 
 卒業後八雲を経て空母千歳で砲術士の任を与えられた。当時、サイパンへの行動において、年齢の高い召集兵と思われるグループを輸送したと記憶しているが、あの人達は皆玉砕したのではないかと胸が痛む想いがする。「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)では、第3航空戦隊の旗艦として戦った。

 爾後航空機を殆どもたない空母として悲劇的な戦いが始まり、千歳は比島沖で沈没した。私はその直前、潜水学校入校を命ぜられ単身退艦した。千歳艦長は退艦直前に私を自室に呼び、「潜水艦の人達は、生命が短いと思ってか勉強しない。お前は十分に勉強せよ」と対で訓示された。同艦長は千歳沈没と運命を共にされたが、私は申訳ないことに生き残り、勉強もしなかった。このことは、戦争中の私の後悔として何時も想い出している。
 潜水学校卒業後、私は伊402号潜水艦艤装員予定として潜校付となり、いろいろと教官のまねごとをやったが、戦局悪化に伴い学校に横付け教材として練習潜水艦となっていたボロ潜にも出撃予定があったらしい。そこで、私にその一隻の乗組が発令され乗艦、出撃準備を実施した。しかし、間もなく取りやめとなり潜校復帰、さらに次は別の練習潜水艦乗組みを命ぜられ同様なことをしたが、再度取りやめ、学校に復帰。
 作戦も人事も末期的症状というほかない。 ほどなく伊402潜水艦通信長兼分隊長として艤装員を命ぜられ佐世保へ着任した。完成後佐世保空襲に遭い、軽微な被害にあったが艦は佐世保港内に沈座(ちんざ)して生き残った。同艦は晴嵐という雷撃兼爆撃機を3機搭載する予定であったが、戦局さらに悪化、その格納庫をシールドして油タンクに改造、大連から燃料輸送を行う方針に変更された。そして、終戦、同艦は米海軍に接収され、しばらく保管されていたが、佐世保沖に沈められたようであった。
 潜水艦乗りが降伏を受け入れず騒いでいるということが、東京に伝わり6艦隊司令長官が呼びつけられ、我々は無がい貨車に載せられ復員させられた。
 戦後の追放令も解け、昭和25年に陸上自衛隊の前身である警察予備隊への募集があり、海上自衛隊の前身である海上警備隊へは翌々27年第1回公募が行われた。
 当時私は、科研に勤務し、営業マンとしての成果も評価されており、すぐ辞職し応募するわけにはいかなかった。一尉一号俸の給与は、当時の会社員たる私の実収の三分の一であったことも、一家五人の唯一の働き手であった私に転身をためらわせたのであった。
 しかし、海への憧れは止め難く2年後れて第3回目の公募の6期幹部講習員として私の海上自衛隊人生は始まった。
 最初の勤務は、米からもらったLSSLの艇長であった。乗員数十人の小型艇でもあこがれの海上指揮官で張り切っていた。
 我々が稚内岩壁に係留していたところへ台風が直撃した。係留索がつぎつぎと切断し、神に祈る気持ちで気圧計の動きを注視した。
 台風中心接近と共に気圧がどんどんさがっていったが、急にぴたりと針が止り、風が東から西へと変り気圧も上昇し始めた。これで、助かったという当時の光景を今でもありあり想起している。
 ほどなく、災害派遣命令が出て津軽海峡に行き、沈没した洞爺丸乗客(遺体)の収容に従事したのも無我夢中であった。
 最初の配置のこの苦難を乗り越えてからは比較的順調であった。その後海上勤務としては、副長、艦長、隊司令、群司令のほか、幕僚としては訓練幕僚、作戦(先任)幕僚、幕僚長などを歴任した。
 訓練幕僚は激務であった。文字通り眠る時間も十分ではない。当時米海軍の訓練回数の受け入れのため、月月火水木金金であり、大きな事故も起きてしまった。
護衛隊群が相当の猛訓練を終え、函館に入港し、研究会など実施のうえ、いよいよ各母港に向け帰途につくことになった時のことである。非常に訓練熱心な人が居り、行きがけの駄賃のように船団出撃訓練を決行することになってしまった。
 無理があるように感じ、何とか止めてもらおうと思ったが、一小幕僚の意見など発言できない雰囲気にあり、霧をおして決行された。悪い予感は適中、護衛艦同士が衝突し犠牲者を出してしまった。
 この経緯は、「一幕僚の反省霧の津軽海峡の衝突事故」として安全関係雑誌に掲載された。
 海上指揮官としては、多くの立派な部下に支えられ、楽しく大過なく勤務した。
 海軍兵学校で「付監」として恐れられ、後に海上幕僚長となられた中村悌次閣下には艦長と隊司令の関係で寝食を共にした。スケールの大きさは言うに及ばず、私が10時間働いて十分だと思っていても、20時間働かなければ不十分であった。しかし、艦長としての私には気を使って頂いたようである。

 上司の中にはお粗末な人もいた。お説教に来るのだが何を言っているのか全く解(わか)らない。お陰で我慢強くなったかもしれない。
 陸上勤務としては、統合幕僚監部、海上幕僚監部(4回)、佐世保地方総監部、幹部学校(2回)、術科学校並びに2回に亘(わた)る海外留学がある。
 米国(カリフォルニヤ洲サンジェゴ)では1年間対潜水艦戦と教官過程を学んだ。敗戦に際して私は、これからは英語が大切だと思い、英会話の塾に通い、米国映画を見、英字新聞を読んだ。それらに加え、1年余りの外国生活で英会話が実用の域に達しており、その後の多くの勤務でお役にたったものと自負している。
 米海軍との協同訓練がしばしば行われたが、私は色々の立場でも感じた通りのことを米側に発表した。それが相手に好感と信頼感を与え、はっきり批判して呉れたのは初めてだと感謝された。当時日本側関係者の多くはただイエス、イエスと言い、ニヤニヤしていたものだった。
幹部学校へは入試を受けて入学するわけだが、指揮幕僚課程と高級課程に学ぶことが出来た。後者における課題論文では「自衛隊における統率の在り方について」が評価され、機関誌「幹校評論」に掲載された。

 ある日、海上幕僚長を退職された大先輩から、「講演に際しての参考にしている」旨の連絡をいただき、大変光栄なことと嬉しく感じた。
「シビリアンコントロール」ということで、文官(非制服)が優位にあった。知識も経験もない素人が、プロ集団を指導監督するのだから、様々問題が起こる。マンガでも見ているようなものだが、深刻だった。
 官僚は事勿れ主義だと言われるが全くその通りで新しいことにはすべて抵抗があった。人事もしかりであった。主要人事は「大河」と同じだと思った。主流に入ると少々のことでは外に出ない。外から主流に入ろうとしても入れない。
 最近報道されている防衛省改革には、作戦(部隊運用)は制服が当り、内局(背広組)と切り離す方向とあるが、やっと正しい方向に進んでいると喜んでいる。
 最も印象の深い勤務は、海幕運用班長であった。部隊運用の中間管理職であるが、全国の艦艇、航空機の実情を把握し、必要な指示を出さなければならない中心的存在であった。
 そのため、仕事始めは7時半であり、前日の着電を整理し、各部隊の実情を把握し、毎朝始業時の定例会報(オペレーション会報)に報告する当直幹部の指導のほか、事故でもあれば、夜間、休日といえども出勤し事の処理に当らなければならない。
 激務であるため、勤務期間は一年半と相場がきまっていたのであるが、直属上司が、飛行機乗りが2代続いたため、特に要望され、2年半の長き異例となり、不運を嘆いたものであった。あの配置だけはやりたくないと思っていた配置であり、倒れなかったのは若かったということであろうか。
 統幕では、第2幕僚室の米軍担当であった。当時防衛庁のトップは米軍の情報を特に欲しがり、我が耳目の先を相手司令部の中迄伸ばす必要を感じその旨提案した。
すぐに取り上げられ実施のこととなったが、定員の増加がないため、「お前が行け」という全く思いがけない仕儀と相成ってしまった。
 在日(統合軍)司令部の中に一室が与えられ歓迎してくれたが、なにしろ府中である。自宅の逗子からの通勤にどれだけかかったか記憶にないが、楽ではなかったことだけは確かであった。現在はどうなっているか分からないが、事実は正式の記録にない所にあるものである。
70
歳になって叙勲の栄に浴した。たいして自慢できることではないが、家内とともに宮中に参内、天皇陛下に御挨拶したことは、今にして思えば特別なことであったのであろう。さる人の文に、これだけが家内に対する唯一の女房孝行であったと書いてあったのを想起する。
 戦死その他亡くなられた多くのクラスメートのご冥福を心からお祈りして静かに生きている昨今である。

 (なにわ会ニュース100号46頁 平成21年3月掲載)

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