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海の勇者の終焉

ペナン沖に消えた羽黒

石丸 法明(元羽黒左高角砲・一等海曹)

1 ブルネイよりリンガへ

大野羽黒副長

 昭和191028日午後950分、巡洋艦羽黒は僚艦と共に漆黒のブウネイ湾の奥深くに錨を降ろした。22日の早朝、第1遊撃隊の一艦として、レイテ湾を目指してこの湾を出てから、丁度一週間ぶりであった。

 24日から3日間に25回に及ぶ熾烈な対空戦闘、25日には、利根とともに8000米にまで米機動部隊を追い詰めたのだった。多くの犠牲を出しながら、やっと帰り着いたというのが実感であった。

 橋本信太郎五艦隊司令官以下乗員一同は、久し振りに戦闘服を脱ぎすて、下着を新しいものにとり替え、まるで死んだ者のように身動きひとつせず、深い眠りに落ちたのであった。

翌日、朝食をすますと、総員集合がかかった。副長の訓示、いや慰労の言葉であった。

 羽黒は敵空母1、巡洋艦1を撃沈、同じく1隻を撃破した。これは全艦一致協力のたまものである。

 なお、本艦の危機を救った、二番砲砲塔長熊野兵曹長と、火薬庫員刈谷 清上水の功績は顕著である。いつ出撃の命令があるかも知れない。受けた傷を癒し、弾薬を補給して万一に備えるように、といった要旨であった。

 副長大野 格大佐は、二十年五月のべナン沖海戦で負傷し、羅針儀に体を縛らせて艦と運命をともにするのであるが、部下より絶対的信頼を寄せられていた。私たち下士官兵は、その風貌に接して心なごみ、弁舌に酔い、温い人間性にふれた。

 副長は前後三回、兵学校の航海料の教官をつとめた。最後は、後日着任する太田航海長の前任の、航海課長でもあった。羽黒にも元良 勇通信長をはじめ、数多くの教え子がいた。軍人であるとともに勝れた教育者でもあった。

 同じ熊本出身の砲術長浅井秋生中佐は、大野副長の人格形成に、大きな影響をおよぼしたものは、出身中学校熊本済済黌 井芹経平校長の薫陶に負う所が大きいと思っていた。人間教育重視の校風の中から生まれたのだと見ていた。

 内地に帰ることなく、熱帯下で単調な軍艦生活を送りながら、僚艦がつぎつぎと戦列を離れていった。こうした中で士気の衰えることもなく、長く羽黒が生き抜いたのは、この副長の影の力に負うところが大きかった。艦長は艦内のことはいっさい副長に委せていた。

 この日、身の回りの整理にあてられたが、主砲分隊や二分隊員はそれどころではなかった。高角砲は一門宛二、三発しか残っておらず、機銃も残弾が少なくて、急遽、補充する必要があった。そこで作業隊員となって、高雄、妙高、金剛などへ弾薬をとりに行った。

杉浦、黛艦長の再会

 29日午前9時、羽黒は油槽船萬栄丸に横付けしている利根より、重油の補給を受けることとなった。

 横づけ作業が終了すると、杉浦嘉十艦長は艦檎の左舷に出た。利根の艦橋は目と鼻の先にあって、大きい声を出せは話のできる距離である。艦長は不思議に思った。ドアを開いて今にも出てくると思った黛治夫艦長は、なかなか姿を見せなかった。

 同期生の中でも砲術の黛、水雷の杉浦といわれて、二人はよきライバルであった。四日前には米機動部隊を、至近の距離に追いつめたのだった。

 何か急用でもできたのだろう。引き返そうとしたそのとき、両脇から抱きかかえられるようにして、黛艦長が右足をひきずりながら姿を現わした。足に巻いた包帯が痛々しかった。

 黛艦長は弾丸を受けて、負傷をしたしぐさをした。すると杉浦艦長は、労わるように何度も何度も大きくうなずくのだった。そうして二人は顔を見合わせて、にっこり笑った。笑顔の中には「ご苦労であった」という気持と、大任を果たした満足感と誇りが、こめられているようだった。

 二人はこの度の作戦のことや、米空母の追撃戦のことなど、話したい事柄が一杯あった。いつかゆっくりと話せるときがあるだろう。そう思った。しかしこの後、二人は別れ別れとなり、相見えることはなかった。

 妙高が魚雷を受け片舷の力で29日、羽黒より一日連れてやっと帰ってきた。戦闘の妨げとなる羽黒の戦傷者を、妙高に移すこととなったが、利根経由ですることとなり、日没後、ふたたび利根に横づけされた。負傷者が七十名ほどいたが、このうち約半数の者が入院を必要としていた。

 東大内科出身の宮崎義信軍医大尉は、軍医長の戦死した二十五日以降、負傷者の手当てに多忙をきわめていた。ほとんどの者が機銃弾で負傷しており、手術や傷の手当てをしなくてはならなかった。それに急な退艦の決定で、診断書も書かねはならなかった。

 爆発した二番砲塔内にいた42名のうち、この時点では、まだ4名の者が生存していた。包帯で体全体を巻かれて、目だけを出しているといった状態だった。このうちの一人、鬼丸勝海兵曹は、担架の上からかつての自分の配置だった二番砲堵が、夜目にもどうにか見られた。垂れ下がった砲身を見ると、一瞬胸中に強く迫ってくるものがあった。

 負傷者は利根の水雷甲板に寝かされた。私は、両足に重傷を負った安東 靖兵曹につき添って行ったが、軍医からの注意を彼に伝えて別れたのだった。

 合戦中の破損・紛失物の付け出し調査があった。重松兵曹が「いままでになくした物があれは、支給される」との入れ知恵をしてくれた。「しめた」と思った。私は予備の靴をなくして因っていた。心を痛めていたのだった。

 私の付け出しをみた徳生測距長が「これはどうしたのか」と問うた。私は正直に答えた。

「弾丸に当たって海におちこんだのだろう」

 測距長はこういったきり、何もいわなかった。ありがたかった。

 私の戦闘配僅の四メートル半測距儀は、機銃弾が2発命中して、測距が不能になっていた。タマはちょうど、私の胸の前の測距儀の金具にあたって右にそれ、筒と回転部分の間にはまっていた。測距長がこれを取り出して、また元どおりにした。一時は金剛の測距儀をもらう話もあった。だが、その必要もなく、後日のB24の来襲に間に合ったのだった。

 砲術長をはじめとして。主砲関係の者は砲戦記録の整理に追われていた。一回の戦闘でこれほど多くの弾丸を発射した例は、果たしてあるだろうか。砲術長は機銃弾の受けた数なども調べさせていた。

 庶務主任の福田幸弘主計中尉も、忙しそうだった。庶務主任は、艦橋で戦闘記録をとる責任者であった。これには一定の様式はなかったが、艦ごとに独自に作っていた。記録の程度もまちまちで、人によって大きな差があった。福田主任が引き継いだときは、サイパン海戦(マリアナ沖海戦)の記録など簡単なものしか残っていなかった。

さまよえる連合艦隊

 11月3日午前10時5分より明治節の遙拝式がとり行なわれた。76号羽黒新聞が艦内に配布された。6日には敵空母15隻が、比島東方海上に出現したとの情報があり、再度の出撃準備を完了する。7日、B24一機が偵察に飛来し、急ぎ遺骨を病院船氷川丸に移すこととなった。

 戦死者は、二番砲塔員の3名をのぞく全員、軍医長をはじめ医務科及び上甲板の機銃、高角砲員、見張員など計55名であった。遺骨は士官室に安置されていたが、戦友の胸にだかれてランチに移されて本艦を離れた。舷門では艦長、副長など関係者が見送ったが、出撃命令がいまにも出そうな状況下で、あわただしいなかでの淋しい退艦であった。

 軍医長を先頭に、遺骨の列は続いた。勘場、樺山、日高、野中兵曹の四分隊、伊藤、柳田、佐伯、上間兵曹の師現兵、Y上水に、補充兵の橋瀬上水などで、私はカッター甲板で合掌して見送った。東北出身の栂野軍医長は東大外科の出身で、手術の名手といわれた。この人のもとで鍛えられた内科の宮崎大尉が、大任を果たしたのだった。

 8日午前3時、早々に西方海上に、残存艦隊は退避した。しかし9日、バラバック水道入口でB24一機に接触されて反転し、再度、午後6時、ハラバック水道入口を通過して、敵潜水艦の攻撃を避けるためスル海に入った。

 10日午前1時、反転して西方に向かう。6時、再び.ハラバック水道を通過して、新南洋群島を迂回して南下する。この日は天候が悪くて敵機がこず、平穏な一日であった。

 11日午前10時5分、ブルネイに帰投した。

 レイテ沖海戦のショックのいまだ覚めやらぬとき、目的のはっきりしない今回の行動は、艦隊乗員の意気を増々消沈さすばかりであった。まさに「さまよえる連合艦隊」といってよかった。艦内では第一遊撃部隊の中で、損傷の軽かった羽黒と榛名の2艦が、南方に再び派遣されて、内地には帰れないとの噂が広まった。

 一抹の淋しさが艦内に漂った。みな長い戦に疲れていた。いま一度、母国のやさしく美しい山河にいだかれたいと、誰しもが願っていた。艦隊と陸上基地との連絡役をすることになった羽黒は、唯一艦だけ離れて錨を降ろした。これが後日、B24の大編隊の爆撃を受ける原因となった。

大和の三式弾

 1113日、私は物資受けとりの作業隊員として、入港中の空母隼鷹に行った。そこで同じ師範現役兵で金剛から来ている、同郷の門屋 昶にばったり出会った。奇遇だった。

「もうすぐ内地に帰れる」といって彼は嬉しそうだった。

 海兵団を出るときに希望調書を出したが、「自分はひとり息子だから戦艦に乗りたい」といっているのを聞いていた。彼はスポーツの万能選手であったが、短距離を得意としていた。愛媛師範と京城師範が中学校ラグビーの優勝を争ったとき、雇われ選手になったりした。

 時間があるので二人で飛行甲板に上がってみた。人影はなかった。中央部に何か置いてある。みると飴色の明るい色をした、とてつもない大きな2個の砲弾で、これが忘れたよぅに置いてあった。大和の三式弾であった。36センチ砲弾を見馴れている彼には、すぐ分ったらしい。

 二つの弾帯はとても大きく、美しく輝いていた。この分厚い真鍮が閹粂にくい込んで、とてつもなく遠くへ飛んで行くのだろうと思った。私は両手をひろげて抱いてみた。とても届きそうにない。1トンはゆうに超えるだろう

「エイ」門屋は声もろとも砲弾の先の方で逆立ちしたと思うと、そのまま進み、基部の所で一回転して立った。

「大和の砲弾の上を、逆立ちして歩いた者は俺よりほかに「おるまい」

 こういって彼はにっこり笑った。

 三日後、金剛はブルネイを出発して内地へ帰ることになった。当時、暗号解読も兼務していた私は、金剛の沈没(1121日、台湾沖で米潜水艦の雷撃を受けて沈没)を知って、門屋の無事を祈った。水泳も得意だったが、ついに彼は帰らぬ人となった。

 なお、師範学校の卒業者には、大正14年から五カ月現役がはじまった。昭和15年度卒業生から、師範学校徴集兵制度が適用され、一期生となった。師徴とも呼はれた。一定期間服務を短縮される特典が与えられていた。

 海軍では内規で、一定期間、地上勤務をすることとなっていたり、進級が一般の兵より速くなっていた。1年3カ月で下士官になった。このことが羨望の的となって、年長の下士官兵より、いじめられることがあった。こんなことで、せっかくのこの制度も.一部ではあったが.当時海軍に対する不信感をいだく者がいた。私たち3期生は、佐世保海兵団に350人入隊し、144名が戦死した。

羽黒の危機

 111611時すぎ、熱帯の太陽が容赦なく降り注ぐ中、羽黒の艦橋から見ると、東の方は原生林に覆われた峰々がつらなり、それらの峰のふもとから、西方に大きくのびたゆるやかな斜面が、このブルネイ湾をとりカこんでいる。いましも、その山脈の南東の一角から現われたのは、B24 40機とP3815機だった。「配置につけ」のブザーが鳴って、私たち三人は左高角砲の測距塔にとびこんだ。

 第二哨戒配備の艦橋の当直将校は、主砲の分隊長花田大尉だった。「錨揚げ」「全力即時待填」と的確な指示を与えていた。シプヤン海での戦闘と同じように、大和の電探が発見したのだった。

B24だ、たくさんいる」測距長の徳生兵曹が叫んだのと同時だった。「ダーン」と静かな原始林の静かさを破って、砲声が轟いたと思うと、40機の編隊の鼻さきで、白い煙のようなものがひろがるのが一瞬見られた。すると、編隊の先頭の3機から、真っ白い飛行雲のようなガソリンの尾を引きはじめた。それが青空にくっきりと見える。もう千メートルを超えているだろう。4、5秒たったころ、先頭の2機が白っぽい炎に包まれた。続いてもう一機も同じように爆発した。

「万歳」 「やった」どっと歓声がわいた。この気持は、他の艦も含めて見ている一万の将兵が、みな同じ思いをしているだろうと思った。なにせレイテ沖海戦では、三日間にわたって痛めつけられたのだから。

 しかし、レイテ沖海戦でわが方の受けた損害と比較すると、あまりにも微々たるものに思われてならなかった.ブルネイ湾上に咲いた、あだ花のようにしか思えなかった。

 もぎ取られた翼片が、ひらりひらりと陽光を反射させながら、ゆっくりと大きく舞い落ちていくのが望見された。ああ、あの飛行機の中にもアノリカ兵が.いたのだ。サマール島沖で泳いでいた米兵の顔がふと浮かんできた。

 見守る将兵の中で、ひとり感慨深げに見ている人があった。三式弾の創案者黛利根艦長その人であった。傷ついた右足をかばうように艦橋の窓によりかかって眺めていた。これがもう少し早く開発されていたら、ミッドウェー海戦の結果も違ったものになっていたかもしれない。また、シブヤン海での対空戦闘で、主砲を活用するような輪形陣にしておけば、武蔵の沈没も或いは防げたカも知れない。
―――そんな事を私は考えていた。

  「対空戦闘」という、あの忌まわしい憎悪とも嫌悪とも言い表しようのないブザーの音を十何日ぶりに(乗員は耳にしたのだった。反射的に吾に帰った。羽黒は僅かに進み始めたばかりである。錨はまだ水面下にある。錨をひきずりながらの出港である。かつて例のない大編隊がやってくる。羽黒はまさに危機に立たされようとしていた。

 この日、やって来たB24は陸軍機である。先頭の指揮官機の墜落に辟易したためか、輪形陣を組みながらつぎつぎと撃ってくる三式弾に恐れをなしたのか、編隊は大きく北に回り込んだ。そして、今度は2隊に分かれて、ただ1艦いる羽黒と陸上基地に向かって進んできた。

 P38の縦隊は、速いスピードで、下の方を旋回しながら警戒にあたっている。零戦が三機、上方から三号爆弾を投下し、それがB24の編隊の下でハット開いた。編隊は四千メートルの高度を保って、ゆうゆうと直進してくる。艦長は戦闘帽を目ぶかくかぶり、指揮所中央にどっかと立って、眼鏡で敵編隊を見ている。

「通信長、連絡頼む」

  航海長の声に、通信長は体半分を防空指揮所に出して、艦長の命令に耳を傾ける。

「見張長、爆弾投下を知らせ」

 艦長は竹口精二見張長に指示する。

 左高角砲の関係者は緊張した。こんな大編隊が正面からやって来たのは初めてだった。九一高射器は、測距儀が十メートル余り雑れた所にあって、きわめて性能の悪いしろものであることを、レイテ沖海戦で私は知っていた。しかし、今度は違う。目標があまりにもはっきりしている。

 もう測れていなければならないはずだし、それに日盛りが動いているのに「よし」の声がカからない。やっと声がかかり、針を合わせて発信した。距離九千。どうやら別れてきたらしい。それでも平素の訓練のときと異なり、動きが大きい。

 あっという間に終わってしまった。日ごろ、下駄ハキ機(水上機)に吹き流しを引いたもので訓練していたのとでは、スピードが非常に異なり、測距長もとまどったことがあとで分った。

 見上げると、重層の雁行隊形で大空を圧してやってくる。そり返った太い胴と、取ってつけたような2枚の垂直尾翼が陽光」に輝いて眩しい。

 左高角砲指揮官の高橋 修分隊士は、この大きい目標を前にして緊張した。初弾が編隊の前で炸裂した。次のも同じだった。命中弾はなかった。右の宗像武彦指揮官の方にも命中弾はなかった。

通信長はこの重大な時に、杉浦嘉十艦長がどんな対応なするか、しかと見届けたいと思った。転舵が早すぎても、遅すぎてもいけない。きわめて限られた範囲内の決断が要求される。高さやスピードによっても異なる研ぎすまされた鋭い勘と、実戦で体ごと覚えた体験がものをいうのだ。

 艦長はB24の大編隊の猛威を、六尺の体ひとつで受け止めるといった身構えを示して立っていた。そうして、一瞬の時をうかがっているように思えた。稟乎として、「取舵一杯」の一声が響き、通信長を通じて航海長に伝えられた。航海長の「取舵一杯」と、見張長の「爆弾投下」とが、まったく同じに聞こえた。

 私は海面を見た。羽黒はしはらく十ノットぐらいで走り出し、艦が左舷に傾いた。放物線を描いて芥子粒ぐらいに見えていた無数の黒い点が、みるみる大きくなる。まっすぐ自分の方に引き寄せられてくるように思えて、背筋に冷たいものが走る。と、横の煙突のペンキをはぎとるような強い爆風が、右舷から.パッとやってきた。

 通信長が見ると、爆弾の束は羽黒がやっと90度の転舵を完了しだしたときに、どっと右舷一帯に落下し出した。一面に茶褐色の爆煙が噴き上がり、黒い大小無数の弾片が空に舞う。黒光りのする爆弾がつぎからつぎへと降ってくる。橙色の閃光が目を射る。陸用の着発信管を装備しているらしい。

 ゴーッという爆音にまじって、船体に破片のあたるチャリンチャリンという濁った音が空間を埋める。前方の窓越しに、砲塔の上を無数の破片が波しぶきから抜け出て、左に越えていくのが見られる。やがて茶褐色の爆煙がすっと海面から薄れてゆき、爆音も遠ざかっていった。各戦闘配置では、立ち上がるとお互いに顔を見合わせて、安堵の胸をなでおろした。

 爆弾のもっとも近いものは、船体わき十メートルの所に落ちていた。幸いに命中弾は一発もなかった。まさに理想的な回避運動だった。ブルネイの陸上基地にいた作業隊員は、羽黒が煤煙に包まれて見えなくなり、ハッとさせられたが、また、もとどおりの姿を現わして安堵していた。

 一方、湾口寄りにいた大和以下各艦の艦橋では、羽黒に向かう大編隊に注目していた。群れをはぐれた小羊に向かう猛(きん)の群れのように思えたのだ。羽黒まさに生贄(いけにえ)になろうとしている。しかし、林立する水ぶすまに浮かび出た羽黒の艦影には、変わりはなかった。見守る各艦の艦橋には、ほっとした空気が流れた。黛艦長は「杉浦、でかした」と心の中でつぶやいた。黛艦長が羽黒を見たのはこれが最後となった.利根は数時間後、星空のもと内地への航海に就いたからである。

 私はすぐ右舷に行ってみた。無数の弾痕がいたる所に刻まれ、甲板上には指ほどの大きさからケーキ皿ほどもある弾片が散乱していた。不思議なことに甲板上ではひとりの負傷者も出ないのに、艦橋と見張所の上部では、一人の戦死者と数人の負傷者が出たのだった。

新南洋群島

 17日午前1時30分、真夜中に対空戦闘のブザーが鳴った。艦内は騒然となる。当直将校は水雷長東少佐であった。羽黒と大淀のちょうど中間に、3発の爆弾を落としたのだった。敵機は雲の中で、まったく姿を見せなかった。

「アメリカの大型機は、パノラマ電探をつけているらしい。海上でも陸上でも、昼間と同じように見えるらしい」

 こんな噂が、下士官兵の間で広まった。科学技術の差をまざまざと見せつける、この夜の出来事であった。

 昨日のこともあり、南方部隊は午前4時、ブルネイを出港してリンガに向かうことになった。足柄に座上して総指揮をとる、五艦隊の司令長官志摩中将は、四航戦の待っている千里堆に向かうことになった。

 経験の多い羽黒を先頭に、足柄、大淀、榛名と続いた。18日午前1157分、新南洋群亀(ポルネオの北方)の長島錨地に入港した。ここで先着の四航戦伊勢、日向と合同して、南下を開始した。

この戦前フランスと領土争いをして、日木が一方的に領土権を主張して併合した新南洋群島とは、一体どんな所なのか、通信長や私たちには興味があった。

 縦六百浬、横四百浬の広大な海面に、多数の暗礁が散在して、たいそう危険な所である。いちばん大きな長島には、気象観測所があって、3、4棟の家が建っているが、ここも2、3メートルの低くて平らな小さな島であった。

 海は深い所はやたらに深いのだが、その中に海面が白く変色している程度の暗礁が無数にあって、気味が悪い。地図には未測量として白紙になっており、危険と書いてある。一カ月前、米潜水艦が暗礁に乗りあげ、わが軍に捕獲されている。今、われわれは秘密に測量された地図をもとに、ここを横断しているのである。

 その終わりのところに小さな島があった。木ひとつなく板のように平らで、一面青草に覆われていて、美しい緑が印象的だった。航海長山路中佐の苦労もやっと終わったのだった。 こうして一路、リンガへと南下した。

リンガ有情

 平穏な航海であった。見馴れたリンガ島が見えてくる。久し振りに見るながめであった。1122日午後2時45分、第一鋪地に錨を降ろす。

 去る1018日、大和、武蔵を先朗に、海を圧する大艦隊でここを出ていったのだった。それが巡洋艦三隻と、これを護衛するわずかの駆逐艦のみになってしまった。羽黒乗員にとっては隔世の感があり、感無量の思いであった。

 しはらくして榛名、伊勢、日向が入ってきた。榛名は途中で暗礁に艦底が接触し、多量の水が浸水したのだった。このため後日(1128日)、内地に帰ることになった。従って、第一遊撃部隊で残るのは羽黒ただ一艦となる。

「リンガ」とは土人語で女性の特徴を示すものをさすのだそうであるが、スマトラの池田に近く、そのうえ、泊地が広大なため、艦隊の恰好の演習場となってきた。
 (リンガという語は「しるし」を意味する。男根を指す。〈リンガ〉はまさに男根で、生殖のシンボルである。 管理者)

 ひと月前の出撃のときのことを思い出した。出撃1時間前ということで、私は何とはなしに後甲板に足を運んだ。もうここに二度と帰ってくることはあるまい。そう思うとなんだか淋しい気持になった。愛着といったほどのことはなかったが、青春の一刻をすごしたあかしを、何か残したいと思ったのだった。

 焼却炉のわきに缶詰のあき缶が置いてあった。私はそれを取ると、そっと海面に落とした。白っぽい缶は旋回しながら沈んでいったが、やがて見えなくなった。こうして心置きなく出撃して行ける心持になった。

 いざさらは、リンガの海よ島影よ

   缶詰の缶 沈め別れん

 訓練に明け暮れをして馴染みきし

   リンガの海の忘れがたきも

 惹がなく仕へ奉りて一歳余

   家の誉れぞ嬉しくぞある   

 身はたとえ南溟深く水漬くとも

  海原翔ばむ父母のもと

 出港のときに詠んだものである。

23日午前9時5分に遙拝式があった。式後に日栄丸を横づけさせて重油の補給を行なった。

 補給を終わって驚いた。なんと艦が右に8度傾いているのである。潜水夫を入れて調べてふると、バルジに破口が無数にあり、浸水していることがわかった。ブルネイで爆撃を受けたとき、水面下に大きい被害があったのだった。

 それが、いままでは重油の調節で、水平を保っていたのだった。

 この日、ミンドロ島砲撃の命を受けたが、こんなことで羽黒は除外された。足柄、大淀、駆逐艦が出撃して行った。

2 妙高の苦闘

 妙高魚雷を受ける

 比島沖海戦(シプヤン海)で損傷して、いったんブルネイに掃投したあと、1911月3日、セレター軍港に入港した妙高は、五万トン浮ドックに入渠して、空襲警報下に損傷個所の修理を急いだ.そして、片舷機械で20ノットの速力が出るまでになった。一度港外に出て試運転をした後、戦略物資である水銀、ボーキサイト、生ゴムなどを所せましと積み込んだ。そのうえ、便乗者数百人を来せて1222日、駆逐艦「潮」に護衛されながら内地に向かった。

 マレー半島に沿って北上し、23日にはサイゴンに近いサンジャック沖にさしかかっていた。

 艦長石原聿大佐は、潜水艦の攻撃さえかわせれば、片舷でも乗員の待望している内地にたどりつけるものと考え、細かい計画を立てて実行していた。特に薄暮、夜明けの見張りを厳重にするよう指示していた。スパイの跳梁しているシンガポールを出た以上、潜水艦に狙われることは必至だった。

一日日は無事に過ぎ、二日日の夜を迎えていた。夕食を早目にすませ、午後7時より薄暮訓練が実施されていた。第一警戒配備の厳重な警戒のもとにあった。

 この日は、薄靄がかかり、視界はあまりよくなかった。交代して間もなく、妙高乗員から見張りの神様といわれていた見張長堀内恒雄中尉が、「今夜は危ないからしっかり見張れ」の言葉をのこして防空指揮所に上がって行った。艦橋の二番見張りで、左舷最前部の20センチ眼鏡についていた山崎善人兵曹は、暗夜にだいぶ目が馴れてきていた。

 水平線上を凝視しながら左右に回していると、一定の水平線がもり上がった感じの影を見つけた。「左三十度 −万二千、潜水艦らしきもの、方位不明」と報告した。

 艦長も航海長もいた。佐藤文雄航海長は、「2番見張り、その潜水艦らしきものに注意せよ」と指示した。この日の機関科の当直は、水口義一掌機長であったが、そのとき、艦は14ノットで走っていた。機関科にも連絡が入ってきた。「敵味方不明の同行の潜水艦一万」、このあとも報告が入り、距離がちぢまっていくのが分った。そこで、万一のことをおもんばかって、缶圧を上げるよう指示した。再度報告がある。

「四十度先の潜水艦らしきもの、しだいに近づく、八千」、

 高橋幸雄航海長と艦長が何か話している。タイ国の軍艦が近くの海を航海中との入電があったらしい。航海長が、「見張長、左四十度同行の潜水艦に注意せよ」と防空指揮所にも指示した.当直将校が、

「各科訓練止め、各分隊夜食受けとれ」の放送を流†。

 四分隊の木田恒夫兵曹は、配置から降りようとすると、防空指揮所からの「左四十度浮上潜水艦」の声を聞いて、あわてて一番探照燈にもどった。

 間もなく、「配置に着け」の放送を聞いた。探照燈を潜水艦に向ける。はっきりと視認できたのである。

「先の潜水艦らしきもの間違いなし、左45度五千」

 ここでやっと、「配置につけ」の声が出た。山崎兵曹は安心した。

 艦長の「左砲戦用意」 ややあって防空指揮所より堀内見張長のどなるような声が聞こえた。

「敵潜水艦潜水はじめ」 続いて、「魚雷発射」と絶叫する。見張長が発射水泡を認めたのだろう、いまだに砲撃、転舵の命が出ない.水中聴音機室より、「左魚雷音探知」の報告を受けて、やっと艦艮の「撃て」の命令がでる。航海長の「全速取舵一杯」の声が響く。

 高角砲の連続発射音がとどろいた。艦底の掌機長は驚いた。予告もなしに突然、目の前に全速の指示が出たのである。緊急事態発生と判新して、機関も裂けよとばかりに全力回転をした。

 しかし、すでに遅かった。二本の魚雷は左舷を通過して、一本が後部に命中したのだった.このとき、木田兵曹は、火柱が後檣よりはるかに高く吹き上げ、腹の底にまで響く無気味な大振動と轟音を感じた。宵闇にパアッと上がった大花火のような美しいばかりの閃光に、一瞬見とれていた。

 平素は仕事熱心で、細かいところまで目がとどき、妙高乗員から「エリートコースのおらが艦長」と自慢されていた石原艦長は、シプヤン海に続いての、この大事な場面での不手際により、−部の乗員より「陸軍大佐」のありがたくない称号を奉られるはめになった。しかし、後日、少将に栄進し、航海学校長として退艦していった。

妙高を救った電探

 去る昭和1811月、第五戦隊の羽黒と妙高は、二一型電探を装備して、ブーゲンビル沖海戦に参加した。しかし、首脳部の期待に反して、この電探はあまり役に立たなかった。とはいえ、この二一型は良く対空哨戒用として用いられてきた。 かわって二二型水上射撃用の電探が、19年6月のマリアナ沖海戦後に装備されることとなった。設備場所については問題カあり、両艦の関係者の間で議論がなされた。ラッパ状のアンテナは、炒高では主砲射撃指揮所の両舷に設置された。なお、機械室は艦橋下の後部両舷に新設されたのだった。工事が完成したのはリンガで訓練が始まった8月上旬であった。

 ちょうど、そのころ、久里浜の海軍通信学校内に新設された電測学校の、第三期卒業生である松木七之肋上水ら4名の者が乗艦してきた。浜砂虎司、甲斐 茂、三堤八郎兵曹らはいままでの者と一緒になって、新型の訓練を始めたのだった。

 この二二型は、水上戦闘用だけあって、性能はよかった。対象物によっては、三万メートル位まで測れた。切り替え装置でメートル単位まで測れたが、方位だけは正碓さに欠けていた。遊びが大きく、歯車にガタがあり、ガクンと針が飛んだりした。大きいラッパ状のアンテナに問題があった。高速を出すと風をふくみ、ガタガタゆれるのだった。これらの欠陥はあったが、測距には自信が持てるようになってきた。

 これまでの訓練では、いつも見張りの七分隊に先を越されていた。「昼アンドン」と陰口をいわれたりした。肩身のせまい思いから脱け出せる日が近いと、電探員は信じて訓線に励んでいた。

 レイテ沖海戦では、その機会がなかった。サンジャック沖の戦いが、最初で最後の機会となった。

「電探、 左浮上潜水艦を測れ」

 艦長からの命令がきた。一瞬、はりつめた空気が流れた。真価の問われるときがやってきたのだ。

「左42度 五千八百」

 浜砂左測距長の震えるような声が流れる。発信手の松本七之助上水が、日盛りに針を合わせてポタンを押す。トップや発令所に自動的に送るしかけになっている。

 松本発信手が肩越しにブラウン管をのぞくと、感度2である。測距値は伝令の成冨巽一水をつうじて艦橋にも送られている。刻々と近づき、感度も上がって3である。完全とはいえないまでも、感度は高いといえるであろう。

 午後8時35分、ついに主砲、高角砲が発砲する。高角砲は三連射したようだ。浜砂測距長が、「やったぜ」とコプシを上げると、続いて万歳の声があがった。

 この日、高角砲測距も主砲測距も、天候が悪くて測れなかった。もちろん、探照燈は照射していない。電探測距で発砲したのが潜望鏡に命中して、米潜水艦バーカルは潜水ができず、やっとの思いで遁走したのだった。もしこの命中弾がなかったら、妙高の運命はどぅなっていたか分らなかった。

 帝国海軍で、電探の測距だけで敵艦艇に損害を与えたのは、おそらく、このときだけではないだろうか。妙高は電探で救われたのだった。

 生と死

 爆発のあと、すぐかけつけた赤羽八分隊長や応急員は、五番砲塔のやや後方からの後部は、全部爆風で吹き飛んでしまったものと思っていた。朝になって後部が残っていることがわかったのだった。惰性で走っていたが、やがて止まり、にえたぎる重油からの煙で一層わからないものにしていたのだった。

 夜が明けてみると、様子がよくわかった。後甲板は、魚雷を受けた左舷を底辺に三角形状に吹き飛んでなかった。頂点はちょうど右舷に達していた。最後部の甲板は、右舷の二の推進軸とキール、およびキールから右側の外板とによってわずかに支えられていたのだった。残った甲板はスルメの胴によく似た形をしていた。この甲板の下にガタガタになった部屋がいくつか残っていた。この中に八人の生存者がいたのだった。

 ただちに防水、防火、救助活動がはじまった。応急班の八分隊の岸田昌寿班長は、後部応急班の新垣兵曹以下の者が、詰所の工作料工場がなくなったので、全滅したものと思っていた。

 上甲板にあがって後部の様子を見ようとして足を運んだ。甲板がめくれてそり返った鉄板の下に、どうも人の声がする。しかも自分の分隊員の声である。不思議に思った。棒でこつこつ叩いたあとで

「岸田じゃが、元気か」

「全員元気じゃ、頼む、出してくれ」

一方はふさがって出られず、もう一方は海であった。救出したあとで事情を聞くと、こうであった。

 訓練後、夕涼みをしようということで後甲板に腰をおろした。戦闘配置の号令は聞こえずじまいだった。突然、目の前の鉄板がもり上がり、覆いかぶさってきた。とっさに甲板に伏せた。幸い通風筒の下にいたので、全員無事だった。通風筒があの重い鋼鉄板を支えてくれたのだった。少し放れた所にいれは命がなかった。配置についていても命がなかった。目に見えない運命の神の悪戯に、ただ驚き恐れるばかりだった。

 しかし、これらの人たちばかりではなかった。闇夜の後部に取りのこされた人々もいた。七分隊の操舵員、九分隊の応急員、水雷科員などであった。

 最後部あたりは倉庫になっていたが、後部中央下甲板には操舵機械室、またの名を「応急操舵室」があった。普段は動カで舵が動いている艦も、故障の場合は人力で操舵をすることになるが、ここがその部屋であった。ここは爆発現場にきわめて近く、4人のうち2人が気絶してしまったのだった。操舵長の河野克水兵曹もその一人だった。

 どっと海水が浸水してきた。冷たい水と、戦友の手当てで蘇生したのだった。浸水がはげしく、滝のように落下する。胸までつかった。この部屋の出入口は1メートルのコーミング(防水装置)になっていた。四つの取手がついていて、中甲板の応急員が上から閉めるようになっていた。

 爆風で三つの取手が飛び、最後の一つが半分くらいひっかかっていた。頭が半分ぐらい出られるだけである。上には開いてくれる人がいない。海水はどんどん上がってくる。早く開カないことには溺死してしまう。片手で取手を探すのだが、あわてていてなかなか見つからない。やっと探りあてて、飛び出した。もう2、3分もすれは、溺死者を出す危ないところだった。

 外に出てみると、驚いたことに一面が火の海である。五戦隊は、重油積載量が少ないということで、下甲板の十五号機関科兵員室を、戦時中、重油タンクに改造したのだった。この部屋のタンクも爆発してなくなってしまったのだから、中は火の海になるのが当然であった。

 中甲板から暗い前部を見ると、ポヅカリと大きな空洞ができて、下の海面ではポタポクとところどころに赤い炎を出して煮えたぎっている。まるで地獄の大きな釜のようだ。鬼気迫る思いだった。上は黒雲がたれ込めている。赤い鬼火で五番砲塔がかすかに見える。

 ああ助かったのだ。しかし、まだ暗闇のなか、運命の神に保障されてはいない。3人をつれて急ぎ上甲板に出ることにした。後部排水ポソプ室の島崎 博兵曹は、爆風で部屋の扉が壊されて、海水がどっとおしよせてきた。泳いで脱出したのだった。他に爆雷員の2人の、計8人が上甲板に出た。

 燃える重油の帯は、左舷より流れ出して後部からさらに右舷前部にまで回ろうとしている。中村武夫掌水雷長が大声で連絡した。後部の生存者は右舷に飛び込み、泳いで帰るから水雷甲板に縄梯子を降ろすように頼んだのである。

 上甲板の鉄板は、重油の燃えるほてりで熱くなっていた。8名の者は、つぎつぎと飛び込んで、燃えたぎる重油の下をかいくぐりながらも、わずかの灯りを頼りに梯子にたどりついたのだった。こうして、最後部に取り残された者は、無事救出されたのだった。

 爆発と同時に海に投げ出された者が4人ほどいたが、波多江久雄少尉指揮のカッター員により救助された。犠牲者は12名だった。掌工場長関右衛門中尉指揮のもとに消火活動もすぐ行なわれた。艦内のポンプは全部集められるとともに、艦の消火施設も動員して海水を放出した。三十本にあまる放水は壮観だった。しかし、重油火災には何の役にもたたなかった。明け方、八分隊長らが見回ったときには、さしもの火もすっかり下火になっているかに見えた。

 しかし、よく見ると、砲塔の下の重油タンクの破れ目から、ちらちらと火炎が認められた。木栓を打ち込んだり、湿った布で覆って消せないものかと話し合ったが、結局、暗闇で危険ということで放置することにした。この手ぬきが、このあと二日間も燃えつづける原因となった。

 砲塔の下には、一段と大きい重油タンクがあった。この重油タンクの上部が破れていて、火が移っていたのだった。タンクには、裂け目から海水がどんどん浸水していた。海水が入ると、重油はしだいに上に押し上げられる。火のついた重油が、流れ出ることになった。

 こうして二日三晩、妙高後部は火の海となった。火の海は前部にまでひろがっていった。その最先端は舷門近くにまで達した。舷梯に近づいたものには放水した。こうして応急員は休むひまもなかった。昼間は飛行機が来て警戒してくれたが、夜間は心配だった。小型の船が来てくれるようになった。

 嵐との闘い

 さしもの猛威をふるった重油の火災も、低気圧の接近による波浪の力で消えたのか、あるいは燃える重油が燃えつくしきったためか、下火になっていった。二日三晩の苦闘だった。

 火災が下火になると、今度は風の猛威に立ち向かわなくてはならなくなった。

 まず残っていた後甲板が波にさらわれた。26日にはますます風が強くなった。左舷に残っていた鉄板が、大きい音とともに根元からもぎ取られてしまった。大波が来るたびに、水面に少し見えていた左舷の二つの推進軸が、ポキンと折れて、青い海に沈んでいった。直径何センチあるのだろうか。波の力の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。

 機関料士官や内務料士官も、じつと見つめて心配そうにしている。右舷二本の推進軸はドックに入ったとき、大切に20ミリ近いワイヤーロ−プで縛られ、先端は五番砲塔基部に、しつかりと巻きつけられた。艦が波に乗り、つぎに後部が沈むときにロ−プに力が加わる。ロ−プと砲塔の摩擦で白い煙が上がる。火花もときおり走る。「後部の隔壁が危ない」の知らせがきた。一瞬、赤羽八分隊長の顔がさっと変わる。

 「内務料全員、中甲板」

 いっせいに応急員が駆け出す。推進軸などにかまっていられなかったのである。応急員が去った後、まもなく機関料士官の見守るうちに、パチパチと火花が散ったかと思うと鈍い音がした。ロープが切れてしまったのだった。残った推進軸は艦から離れていった。これと一緒に、キールも中ほどから折れてしまったのだ。

 八分隊長がかけつけると、山本亀三郎掌内務長指揮のもとに必死に防水作業をつづけていた。隔壁や残っていた甲板はつぎつぎと波にさらわれて、五番砲塔すぐ下の兵員室からあとは、きれいさっぱりなくなっていた。

 妙高はまさしく軍艦″達磨″になっていたのである。しかも、この4、5ミリの隔壁にいま危機が迫っていた。後部の支えを一切なくして、波浪が直接体当たりしてきだしたからだ。もし、これが破られると、後部弾薬庫がダメになるはかりか、文字どおり艦の浮沈にカカわることになる。風はいよいよ猛威を発揮しだした。内務長が駆けつけたときには、1メートル間隔に一列の補強ができていた。

「補強急げ」

 八分隊長も必死だった。まず三寸角の柱をくさび天井に届くように立てる。下に(くさび)を打ち込んで固定する。長さ70センチ、横40センチ、厚さ1センチの板を壁にあてがう。これと柱の間にささえ棒を入れるのである。ふたたび「補強急げ」の命がくだる。

 ドドッと荒れ狂う波が来ると、鉄板がびゅんとしわる。それにつれて柱がそる。鉄板のつなぎ目から、まるで大型噴霧器から霧が出るようにしぶきが流れ吹き出る。高波がおし寄せるたびに兵員室は不気味な鳴動を立てる。妙高にとって最大の危機であった。

 「いまの壁を死守せよ」

 古賀副長より、八分隊長あての書きつけが渡される。叱咤する声が一投と大きくなる。

幾段にも支えの列ができる。もう中へは入れぬぐらいびっしり柱が立った。また、書きつけが渡される。「レールで熔接する。それまで守れ」の命令である。

 内務料員は、火災発生いらい寝ていない。とくに八分隊長、掌内務長、掌工場長などの内務料特務士官は、不眠不休の日が4日も続いていた。こういった危急の場合の特務士官の活躍は目覚ましかった。それを支える下士官もよく活躍した。

 レールが持ち込まれたころ、妙高の危機は一応去った。しかし、まだ曳航が残っていた。港にたどりつくまでは危険が去ったとはいえないのだ。油断はできなかった。

 要請によりかけつけた、三百トンぐらいの船が妙高のまわりをとりかこんでいる。30隻はあろうか。まるで木の葉のようにゆれている。潜水艦には大丈夫だろう。妙高乗組員は感謝した。

 27日、二千トンぐらいの商船に曳航してもらうことになった。だが、少しも進まないうちにロープが切れてしまった。妙高乗員は、また不安になってきた。

 羽黒の救援

 十二月二十七日、羽黒に救助の要請があった。橋本司令官や参謀たちは、「妙高被雷す」の入電があったとき、すでに救援に行くことを考えていたようであった。この噂がひろがると、下士官兵や士官の中にも不平をいう者があらわれた。下士官兵の方は、目先にあらわれた過去のいきさつで物をいっていた。こんなことがあった。

 昭和1811月初め、プーゲンビル島沖海戦をすませ、ラバウルからトラックに帰る途中のことだった。羽黒は、四戦隊の鳥海からひきつぎ、傷ついた日章丸を曳航するよう命ぜられたのだった。

 敵潜水艦のいる危険海面を、三日かかって帰ってきた。妙高が初風と衝突したあと、羽黒が敵弾の洗礼を一身に浴びて奮戦したあとだけに、かなり不平が出ていた。「いままでがいままでだけに」というのである。しかし、今度は事情が少しちがっていた。本家に火がついたのだった。

 士官の方は、下士官兵のいっていることと少し根拠が異なっていた。「サイゴン近くの海からシンガポールまでは、敵潜水艦のもっとも多い所だ。そんな危険な海面をのろのろと曳航していては、妙高も羽黒もともに沈められてしまう。こんな.馬鹿な作戦があるか」というものであった。

「セレターのタグポートで曳いて帰ればよい」などという者もいた。その声を代表するのが砲術長だった。

「先任参謀、羽黒が曳航に行くっていうのはゼスチュアでしょう。本気でそんなことはしないでしょうね」

 首席参謀は、苦虫を噛みつぶしたようなしぶい顔をして、返事もせずに向こうへ行ってしまった。しかし、乗員の不満は、副長の説得ですぐ解決した。

以下2頁 欠

 見晴らし台

 1129日午前7時、羽黒はリンガを発ってセレターに入港した。夕方、総員見送りのうちに元信号員長 田本康准士官以下40余名の者が退艦していった。

 12月2日、ジョホールバルへの上陸が許可された。去る7月28日の上陸許可以来、実に4カ月ぶりである。踏みしめる大地はずっしりと重い。はげしかったレイテ沖海戦を生き抜いてきただけに、感慨ひとしおである。

 舟着き場から50メートルぐらい行った所が、マライ縦貫道である。左に行くと陸橋がある。私たちは山下軍団の通った方向と逆の方向に歩いて行った。左側はジョホールバルの街並みが広がっている。6、7百メートルほど行ったあたりで道が右に曲がり、登り坂となる。そこから小道を右に入ると軍隊の集会所があり、しる粉を売っている。そして、この集会所の裏のだらだら坂を右手に登って行くと、見晴らし台に着く。

 いったい、いつごろ建てられたものだろうか。英国がこのシンガポールを支配するようになってから間もなく、この要害の地に建てたのではあるまいか。椰子の林に囲まれた蔦葛の這う、苔むした建物の二階を仕切って、慰安のための部屋にしていた。中国系、朝鮮系、日本人などいろいろの国の女性がいた。トラックや.パラオ、内地の軍港と、艦船の出入りする所には必ず慰安所があった。ここジョホールパルの見晴らし台ほど、長く海軍軍人の出入りした所は稀なのではないだろうか。

 帰りに王宮によってみた。何度来てもよい所だと思った。左の建物は宝物館になっていて、見た者もいるらしい。王宮の向う側に回教寺院があり、瀟洒(しょうしゃ)な建物だった。

 1912月5日、羽黒は五万トン浮きドックに入渠してパルジを修理し、16日に出渠した.岸壁に横づけして、二番砲塔の砲身撤去などが行なわれた。なお、このドックに続いて翌年1月22日より30日まで、第三軽質油庫浸水が発見されて再度入渠することになった。

 セレター軍港に横づけ中、食器は陸上の洗い場で洗った。ジャワから徴収してきた工員が多数待ち受けていて、残飯を取りに寄って来る。各人空き缶を持っている。羽黒の若い兵隊は、彼らに水をぶっかけたり、食缶をふりまわしてうるさそうに追っ払っている。わざと残飯を? に捨てたりする。

 彼ら工員は「大東亜共栄圏建設のため」という名目のもとに、ここに連れてこられたのであろう。安い賃金とインフレのため、食事もろくに出来ないでいる。日本軍人のこうした行為を、彼らは一体どう見ていただろうか。

 第五戦隊

 第5戦隊の名で知られた妙高、羽黒のコンビは、佐世保鎮守府に属して大戦勃発いらい、ずっと行動を共にしてきた。

 昭和191023日、パラワン水道で潜水艦の攻撃を受け、四戦隊では唯一艦だけ健在だった鳥海は、即日五戦隊の指揮下に入った.高雄も後日、四戦隊の解隊にともなって五戦隊に編入された。翌24日旗艦妙高が魚雷を受けて戦列を離れ、司令部が羽黒に移った。さらに翠25日、鳥海がサマール島沖に没した。

 1121日、七戦隊は解隊されて、利根、熊野も五戦隊に属することとなった。健在だった利根は、この日内地に向かった。

 昭和20年1月1日、艦隊の編成替えが行なわれ、羽黒は就役以来の連合艦隊第2艦隊から離れて、南西方面艦隊に属することとなった。この日、二艦隊長官から、「積年の功労を多とし、武運の長久を祈る」との簡単な電文がきている。内地にあった利根は五戦隊を離れ、代わって大淀が五戦隊に入った。

 孤立しそうな南方にいることに不安を持っていたときだけに、連合艦隊から外されたことにたいして、乗員の間から不満の声が上がった。「われわれは一体誰のために戦うのか」とか、「われわれは置いてきぼりにされるのではないだろうか」といったものであった。

1月20日、戦闘力を失っていた妙高、高雄は、第1南遣艦隊に所属することになった。

 さらに2月5日、羽黒はそれまで属していた大河内伝七司令長官の南西方面艦隊より離れて、福留 繁司令長官の第十方面艦隊に属することになった。

 なお、この日をもって、足柄が第五戦隊に加入することとなった、巡洋艦三隻になっていた五戦隊も、2月10日、大淀が北号作戦に参加したため二隻となった。そして、5月15日、羽黒の沈没により長い伝統のあった五戦隊は、6月20日をもって解散することになるが、これはもう少し後のことである。

 五戦隊は四戦隊、七戦隊などとともに長い間、巡洋艦戦隊の一員として活躍してきた。戦争末期には四戦隊、七戦隊もあわせて文字通り巡洋艦戦隊の中核的存在となっていた。

そして、羽黒の沈没とともに、連合艦隊巡洋艦戦隊の長い歴史も幕を閉じることとなるのである。

 神風、シンガポールへ

 一等駆逐艦の神風がシンガポール行き船団を護衛して内地を出たのは、昭和20年126日だった。僚艦の野風を失って単艦で2月22日、セレター軍港に着いた。

 北号輸送作戦のため、それまで南方にいた駆逐艦は一隻もいなくなり、神風一隻を残すのみとなった。そんなわけで、神風には、休むひまもない輸送の任務が持ち構えていた。

 神風にとって幸いなことは、いそがしい合間をぬうように、五戦隊の羽黒、足柄と艦隊訓練が実施できたことであった。同艦は開戦時より19年末までは、寒い北洋で来る日も来る日も苦労をしながら輸送の任務に明け暮れていた。菊のご紋章を艦首にいただいた一等巡洋艦と訓練ができるなんて、夢にも思えぬことだった。しかも、帝国海軍にその人ありと知られた、水雷の橋本司令官のもととあれば、なおさらであった。

 入港の翌日、十方面艦隊長官福留中将の巡視を受けた。最近とみに増強を伝えられる英国を中心とした東洋連合艦隊に対する配慮からだった。春日神風艦長は、長官の配慮に感謝した。あわよくば一戦を交えたい。この神風乗員の願いは、案外早くやってくるのだった。

 羽黒の触雷

3月20日午後5時、もう1時間もすれば、セレター軍港に入港できるというころであった。2月はじめに日向、伊勢と相ついで触雷したこともあって、十根港務部に航海の安全についての確認をしての人港であった。

 突然、羽黒は船体に大きな衝撃を受けたかと思うと、大きく持ち上げられた。私は中甲板の宮崎軍医大尉の私室で、大尉の身の上話を聞き終わったところであった。二人は椅子もろとも空中に持ち上げられたかと思うと、今度は床にたたきつけられた。

西の空が批把色に輝き、人影が長く伸びた後甲板では、医務科の水兵が輪投げに打ち興じていた。阿部兵曹の手から、今にも輪が離れようとしていたときだった。彼は前のめりになり、前歯を3本折ってしまった。

 士官室では、早目に食事をとっている者がいたが、食器が飛んでしまって白布だけが残っていた。

爆発地点は左舷カタパハルトの下であった。茶渇空の水柱がおさまったときには、飛行甲板には5センチほどの泥が積もっていた。何事もなかったかのように艦は進み、16号岸壁に横付けされた。先日のB29の爆撃で、世界一を誇った5万トンの浮ドックは、特務艦知床を抱えたまま沈み、いつもの場所に見られなかった。

21日、浅井砲術長と山路航海長が退艦することになり、その夜、士官室で送別の宴が持たれた。長年の労をねぎらったあと、「必勝の信念を持とう」と艦長が述べ「立派な後輩を育てて欲しい。縁があればまた会おう」と副長が言った。

 二人揃って海兵の教官に任命されていた。砲術長は研究熱心で、プーゲンビル島沖海戦ではじめての照明弾下の夜戦を実施した。レイテ沖海戦では、九割以上の20センチ砲弾を撃ち、帝国海軍で射弾数では最高の記録保持者となった。航海長は豪胆緻密で操艦の術を心得、羽黒のたびたびの重なる危機を突破したのだった。2人は、兵科将兵見送りのうちに退艦していった。

 浅井砲術長の後任には呉警参謀佐藤 朴中佐、航海長には大野副長の後をついだ海兵の航海課長だった大田一道中佐が着任した。海兵航海課長は三代にわたり羽黒と深いつながりがあった。

キング・ジョージ五世ドックも、門扉が破壊されており、羽黒は商港ケッペルの三菱ドックに入渠することになった。以後セレターに入ることはなかった。

商港は広々とした海であったが、潮流も早く、いたる所に浅瀬があって、浮標で示された航路を注意深く進んだ。左の大きいセントーサ島の間に、要塞のあるプラカンマテという島がある。マレー語でブラカンは「後から」、マテは「死ね」の意で、英国がここに要塞を築いたとき、多数のマレー人、印度人、中国人の苦力を使い、完成後は殺してしまったので、この名が残っている。

入港、接岸中は特に厳重な警戒態勢下にあった。高角砲指揮官は持ち場を離れないよう注意を受けていた。昼間の外出などは、もちろん無かった。

 ジャカルタヘ

49日、羽黒は神風の護衛を受けながらジャカルタに向かった。目的はシンガポール防衛のための兵員輸送とジャワにたいする軍事的圧力をかけるためとされた。

それにたいするデモンストレーションともいわれた。11日午後6時ジャカルタに着いた。陸軍部隊の乗艦は暗くなってから実施された。約700名であった。

夜間は将校のみ上陸を許された。元艮通信長は大坪二分隊長ら若手の士官を誘って、武官府の自動車で市内を一巡してみた。人々がジャバ、ジャバといって礼賛するはずだと思った。シンガポールと比較すると、治安がよい上、物価がきわめて安いのに驚いた。シンガポールの数分の一である。生産地と消費地のちがいであろうか。

毎月支給されるタバコ、赤いラベルの興亜も新生も、ここが生産地だったこと思い出した。ジャカルタにも露天の屋台が列をなしていた。なんか内地の夜店によく似ていて懐かしく感じるのだった。シンガポールのように整然とはしておらず、ビルも少なかったが、温かみの感じられる街であった。

 離島から移動してきた陸軍部隊は情報に飢えていた。何も知らなかった。私達は率直に話した。しかし.「連合艦隊は何時出撃するのか」の問いには困った。

私は暗号の仕事をしながら、大本営の発表と事実のあいだにギャップのあることも知っていた.「連合艦隊」のイメージはまだ陸兵たちの心の中に根をはっているのだと思うと、胸が痛んだ。

12日午前6時、ジャカルタを出港した。帰途二度ほど潜水艦に狙われたが、14日無事ケッペルに帰ってきた。16日足柄が神風を伴って同じ目的のために出発し、22日無事帰って来た。

4 羽黒の最期

物資の積み込み

4月28日、陸上の幹部砲台要員として特別な訓練を受けるため上野、久米、池家、中川兵曹ら4名の者が、十根に出発していった。そして5月2日、十方面艦隊司令艮官より、アンダマンへの物資の輸送の命が下ったのだった。

 例によって羽黒では、副長から作業の概要についての説明がなされた。

「アンダマン諸島では三千人の将兵が、飢えに苦しみ、七百人の患者が薬もなく死を待っている.羽黒と神風はこれらの人々に食糧と薬品を届ける。少しでも物資を多く積むために、魚雷や発射管も降ろす。そして、空襲に備えながら総カをあげて積み込み作業を行なう。羽黒にとって最後の航海となろう。全艦一致協力、作戦を成功させようではないか」

「最後の航海となろう」とは、帰って来れば妙高や高雄のように、着底して浮き砲台となるという意味であった.羽黒乗員もそのことを知っていたのだった。

5月3日、ケッベル岸壁に横づけして、発射管と魚雷および20センチ砲弾をおろすこととなった。発射管の撤去は一〇一工廠の技術者と、羽黒の水雷科五分隊員の協力のもとに行なわれた。魚雷はトラックに載せられて、セレター軍港の弾薬庫におさめられた。

分解搬出に協力した五分隊員は、複雑な心境だった。半年前のレイテ沖海戦では、右舷の8門の発射管から敵空母に向かって、魚雷を放ったのであった。スパナやハンマーを持って動きまわる者の顔にも、心なしか元気がなかった。

とくに水雷の学校に行き、これを専門に今日までやってきた古参の下士官にとっては、無性にさびしい思いであった。

「羽黒にはまだ水雷が必要なのではないだろうか」

 未練とも思える声が聞かれた。明日からのことを思うと、陸に上がったカッパのような心境であったろう.

 五分隊長の久須美英治中尉は、チモールの陸戦の一隊長から12月末、長年の念願がかなってこの羽黒にやってきたばかりだった。先輩の東一任大尉が参謀に昇格したからだった。一カ月ばかり前の足柄との訓練で魚雷を発射したりして、ようやく水雷のことが判ってきた矢先だった。機銃の補充員になっていた約半数の隊員を残して、最後に淋しく退艦していった。

 羽黒の主砲砲弾は、レイテ沖での戦闘で十バーセソトに減っていたのに、各艦より補充して規定の量に達していた。これも積載量を増やすために、半数が降ろされ、トラックで弾薬庫に運ばれた。

 5日、神風は、サイゴンへの輸送任務を終え、ケッペルに早朝帰ってきた。艦長が司令部に呼はれて留守のところに、一〇一工廠から機関大尉が来て、発射管を降ろす話をした。

伊藤水雷長は吃驚した。「発射管は駆逐艦の命、大臣の印のすわったもののない限り降ろさん」といきまいたのだった。この時点では神風乗員は、アンダマンへの輸送作戦をまったく知らなかった。8日セレター軍港に横づけし、その日のうちにクレンで魚雷と発射管を降ろした。

羽黒への輸送物資の積み込みは、7、8、9日の3日間行なわれた。情報の漏れることを恐れて、岸壁では行なわれなかった。沖までハシケに運んできたのだった。クレン船が動員された。重量物のドラム缶は前後の甲板に足の踏み場もないほどに、ところ狭しと積まれた。大砲の動くのに防害にならないように、立てて並べられた。グループごとにワイヤーやロ−プで固縛され、いざというときには、切って落とせるようになっていた。ドラム缶の総数は千二百本にも達した。

 主食の米と麦は、雨が降ってもかまわないように、発射管室、上甲板の居住区や通路などに置かれた。一袋30キロだったが、一万八千五百俵積んだ。ハシケのため能率があがらなくて、3日間、しかも深夜遅くまで作業が続いた。味噌、醤油、野菜、キニーネの医薬品や小銃弾の箱も積まれた。陸軍の要請で大きな青竹の二百本も積まれた。

後部左舷機銃射手の西平守晴兵曹らは、対空見張り当番の間合いや夜間の作業も手伝った。配置から見ると、後甲板はドラム缶で埋まり、飛行甲板も資材などで一杯だった。

内務料では、これらの物資を滑り板で降ろせるように準備して、要所、要所に配り、ロ−プで固定した。これで準備は完了した。

5月10日、出港の直前に肉攻、斬り込み、対戦車戦の訓練を受けていた4名が帰ってきた。これを知った艦長は、

「アンダマン作戦を終えたら、君たちが中心となって乗員の訓練にあたる重大な使命を帯びた身、連れていくことはならぬ」こういって彼らは、退艦させられたのだった。

 運命の燈浮標

 5日10日、羽黒と神風は、物資を満載してケッベルを出港した。このとき、神風の春日 均艦長は、2、3日前よりぶり返したデング熱にうなされて、艦長室で寝たきりだった。軍医が心配そうにときおり、のぞきに来ていた。操艦は、先任の伊藤治義水雷長と航海長に委せていた。

出発前、最後の作戦打ち合わせをするとともに、挨拶も兼ねて、羽黒に伺候する予定にしていたが、こんな状態で、とうとう実現せずじまいであった。

当時、橋本司令官や杉浦鹿長といえば、水雷出の大先輩であり、何か雲の上の人のように思えてならなかった。

 実戦型で交際下手の春日艦長は、病気を口実にして、内心では「これでよいのだ」と言いきかせているふしがあった。ひとつの救いがあった。羽黒と訓練を重ねて、気心がわかったように思えたことだった。一日も早く回復して艦橋に立ちたい。何とかなるだろう。本来、楽観的な彼は、ひたすら回復の日を待ち望んでいた。操艦に関しては卓越した技能の持主で、ゆるがぬ自信を持っていた。

5月11日午前6時、ここまでは安全だとされる機雷堰を出ることとなった。

「あれが一尋礁の機雷堰の出入り口を示す燈浮標ですよ」

 2カ月前に着任したばかりの羽黒航海長が、通信長に語りかけてきた。

「出港前、艦長よりも指導を受けました」

  海兵で同じ教官であった顔馴染の通信長によく語りかけてきた。黒っぽい浮標の尖端が赤く塗られていた。もちろん、夜は燈火がついたりはしない。秘密の存在なのである。航海良のなにげなく言ったこの一つの小さな燈浮標の存在が、羽黒の運命を左右することになるとは、通信長にも、当の航海長にも思いも及ばぬことであった。

「きっと今度の航海は成功しますよ」

 航海長は自信ありげな口ぶりだった。

 艦は一尋礁の機雷堰を出た。すると、三基の磁気探知機が前路を警戒しながら旋回した。待機していた2隻の駆潜艇が、間隔をおいて羽黒の前方千メートルを警戒しながら進んでいる。いままで羽黒はこんなに厳重な警戒をしてもらったことはなかった。備えは万全だと思えた。

「配置につけ」

 突然、艦内にラッパの音が響いた。2隻の駆潜艇と羽黒の中間に潜望鏡が出たのが発見されたのだ。見張指揮所で当直の高橋 修分隊士が、潜望鏡発見と同時に、「対潜弾用意」の命令を下した。艦橋当直の角藤大尉は、あわてて反対に舵を切ってしまった。艦は大きく左に傾き、百八十度旋回をはじめた。どうしたわけか魚雷を射ってこない。発射された高角砲弾の水柱が上がると、敵潜はあわてて潜望鏡を引っ込めた。この対潜弾は、帝国海軍で高角砲による対潜兵器としてはじめて開発され、伊勢、日向が内地から持ってきて羽黒に届けられたものであった。

仰角を一杯にして撃ち上げ、砲弾は垂直に落下するようになっていた。弾頭の先端部分を直角に切りとり、円柱に近い形になっていた。一定の深さまで潜ると、爆発する仕組みで、帝国海軍で開発された新兵器のうち、最初で最後の使用となったのではないだろう。

この日、輸送作戦に備えてアンダマンから飛んだ哨戒機が、敵の機動部隊を沖合四百浬に発見した。羽黒らは早朝に出発したが、この知らせを受けると、また引き返すことになった。一尋礁の入口近くにさしかかったさい、見張員長の駒沢益春上曹は、雷跡を至近の距離に発見した。

「右魚雷、面舵」

 とっさにこの言葉が出た。日ごろの訓練の成果だった。連絡を受けると、太田航海長は間一髪、

「面舵一杯」と操舵室に伝えた。

 艦長も同じことを命令した。二人の言葉がまったく重なって聞こえた。艦は大きく右に傾いた。五本の雷跡がみるみる扇形にひろがって近づいてくる。羽黒に一番近い魚雷は、舷側すれすれに反航して行った。私たちは多くの雷跡を見てきたが、こんなに近いものははじめてだった。頭部のべンキの塗料の一部が、剥げているのがはっきり見えた。

士官室では、見張員長の報告の話でもちきりだった。

「これより多くても少なくてもいけない」

「面舵一杯といえは、艦長の権限を犯すことになる」

「本人はそこまで意識していっただろうか」

等々である。面舵という言葉は、砲術学校測的班の報告用語中にはどこにもない。駒沢上曹の頭のなかに瞬間的にひらめいた言葉だった。この場合、真に重みのある言葉だった。十分の一秒が艦の運命を左右する危急の時の瞬発発想だったのである。

錨を降ろすと、すぐ見張員長は、艦長室に呼ばれた。

「今日の見張員長は殊勲甲だ。ビールでもウイスキーでも飲め」

と言ってそれらを前に置かれた。ビールを所望すると、艦長みずから栓を抜いて飲ませてくれた。

  この見張員長は、艦が沈没後、また艦長と会話を交すこととなる。見張員長の功績も5日後、艦橋首脳部の全滅によって、忘れ去られる運命にあった。もし、艦が無事であれば、また、二階級特進の話が出たことだったろう。

 わかれ路

敵機動部隊は去ったのではないだろうかということで、14日、再び行動をおこすことになった。当時、マラッカ海峡は、世界的に名を馳せたテニスの佐藤選手が、謎の自殺をとげた所で世に知られていた。茶色の濁水が方々に渦を巻いて流れている。

「こんな所で泳ぐのは好きませんねえ、ドブン、チャブンは真っ平ですよ」

 戦闘配置が艦橋詰めの主計長が、返事のない通信長に同じことをくり返すのだった。

 羽黒などより少し遅れて、第一黒潮九がカーニコバルに陸軍部隊の引き揚げに行ったが、14、5日ごろに引き揚げてくるはずになっていた。

  午前6時、再び行動を起こし、一尋礁は無事に通過した。この頃、神風艦長のデング熱は、やっと峠を越していた。久し振りに艦橋に立つと、時折、足もとがふらつくことがあったが、気力でアバーしていた。健康はどうにか取りもどしたが、肝心の敵情については、神風ではまったく分っていなかった。全然なかったといってよかった。健康のことより情報不足の方が少し気になった。

18ノットで北上する。午後11時、ペナン沖を通過する。之字運動開始。15日の午前1130分、21ノットで航行中、B24一機に接触を受けだした。敵機は二万メートルの距雑をおいて執拗についてくる。高角砲はとどカないので、主砲の三式弾を撃った。ところが、発光を見るとすぐ変針するので、命中しない。やむを得ず反転して、ベナンに向かう疑似針路をとった。午後一時に、敵機は去った。両艦は再び、アンダマンのポートプレアへの針路をとった。

1時30分、十方面艦隊司令長官発、

「敵大巡1、駆逐艦2、サバン島(スマトラの北10浬)南を南東に向け航行中、速力16ノット」

が入電した。間もなく午後3時、水平線上にポツリと艦影が見えてきた。先にカーニコバル島に行った第一黒潮丸と四七駆潜艇である。両艦は無事使命を果たして、450名の陸兵を乗せて帰って来たのだった。だんだん近づいてくる。その時だった。

「敵艦上機3機、黒潮九上空」

 見張員が叫んだ。

「敵艦上機発見、警戒を厳にせよ」

の艦内放送があり、司令部や艦長も上がってきた。双眼鏡で見ると、3機がかわるがわる黒潮九に銃撃を加えている。小型機がいるなら、すぐ近くに空母がいるはずである。艦橋は俄然、緊張につつまれた。橋本司令官、中尾先任参謀、杉浦艦長の三人が相談しているらしい。いますぐ引き返せは、一尋礁内の安全な所に逃げ込むことは容易だ。しかし、目の前の黒潮丸は危ない.護衛が必要である。岐路に立たされることとなった。

 ガダルカナル島より撤収されたときの2水戦の司令官として総指揮をとり、作戦を成功に導いた実績のある橋本司令官の決断に、杉浦艦長、中尾先任参謀も大きくうなずいた様子だった。やはり後者の道を選んだのである。

 かくて、黒潮九を間接護術しながら、ベナンに向かって退くこととなった。黒潮九は12ノットしか速力が出ない。速力が急に落ちると、何かおちつかない気持になった。一機が撃墜されて、見守る羽黒艦上に歓声があがった。残った2機もそこそこに退散した。もう飛行機はやってこなかった。そこで、黒潮九の安全が確カなものになったことを見届けて、反転することとなった。北緯7度20分、東経9940分の地点であった。もとの18ノットに増速された。午後2時30分、味方飛行機より、

「敵艦隊は反転す」

の入電があった。艦内には、もうこれならば、という安堵の空気が流れた。

 第二のわかれ路

午後5時、この楽観的な空気を吹き飛はすような至急電が飛びこんできた。スマトラの北端サバン及び付近の見張所からのものだった。掌通信長の横尾福次郎少尉が、青い顔をして電報紙を持って入ってきた。当直に立っていた参謀の東一任大尉は、司令官、艦長に報告した。電文を見て俄然、艦橋は緊張した。ケッペル出港以来、輸送部隊にとって最大の危機が迫ってきていたのである。

「敵巡洋艦及び駆逐艦、多数見ゆ」

「敵空母および戦艦を含む艦艇多数、マラッカ海峡に向け南下中」

これは大変なことになった、と通信長は思うのだった。首脳部が集まった。まずペナンに退避することが考えられたが、空母部隊に襲撃されることが考えられ、この案は取らないこととした。つぎに一尋礁に向かって全力で南下すれは、夜半には達することができる。敵の攻撃からまぬがれる一番の方策だろうということに決した。ただし、航海の責任者である航海長の意見を開くことになった。みんなの目は航海長に注がれた。

「しはらく時間が欲しい」

 といって、海図室に行っていたが、ついて行った副長とともに帰ってきた。航海長の決断が迫られていたのだった。要旨はこうだった。

 「私は航海長として実際に艦を動かすようになってまだ日が浅く、未熟者です。暗夜に一尋礁のブイを見つけ出すだけの自信はありません。どうカ夜明けに、一尋礁のブイにつくようにさせていただきたい」

懇願するような眼差しであった。すかさず副長が助け舟を出した。

「どんなベテランの航海長でも、夜間では至難の業と思われます。もし機雷にふれたり、待ち伏せしている潜水艦にでも狙われたりしたら、本当に申し訳もできないことになります。航海長の願いを聞いてやって下さい」

副長は、いくら航海長が後輩だからといって、この期に及んで私情で物を言っているのではないと、通信長は思った。一方、山路前航海長がいてくれたらなあとも思った。重い沈黙の時が流れた。

「潜水艦がいるだろう。航海長のいうとおりにしよう」

司令官の断が下された。

当時、軍艦で水偵を持っていたのは、羽黒と足柄二艦のみとなっていた。杉浦艦長は、2機の水偵に敵情偵察を命じたが、出発間際に.ペナンに直行するよう変更された。あたりが暗くなりかけており、搭乗負がペナンの地形を知らず、安全を考慮したためだった。もしこの2機を失くしていたら、生存者の救出に重大な支障が生ずるところだった.

航海士内田信義少尉と、掌航海長村木芳記少尉が、計画案を作って持ってきた。それによると、一尋礁に午前五時半に到着するように、零時まで24ノット、それ以降は21ノットとなっていた.案は了承された.

入電とともに28ノットに増適されていたが、24ノットに減速された。当直将校は、ダブルで立つことになり、その割り当ては、先任の通信長に委された。艦内には、簡単に敵情が知らされ、第一警戒配備とすること、今夜、快敵も予想されるので、非番の者は戦闘配置の近くで休息するようにとつけ加えられた。

緊張した一日をすごしたうえ、味方機の空襲圏内深く、敵艦艇が来ることはあるまいといった安易な考えからカ、夕食後は深い眠りにおちいる将兵が多かった.

「航海長、会敵するとなれは、2時前後がもっとも可能性がありますね」と通信長が言うと、航海長もうなずいた。

 

 英国駆逐隊

一方、神風には、羽黒からは何ひとつ情報が入ってこなかった.一尋礁に明け方着く予定など知る由もなかった。28ノットの速度が、24ノット、21ノットと減速信号がつぎつぎにくると、春日艦長以下乗員は、状況が好転しているのだろうと判断した。第2配備のまま、艦長は十一時半ごろ、艦橋後部の艦長控室で仮眠をとることにした。

一方、羽黒では10時から零時までの当直将校は、砲術長と航海長だった。零時から2時までは、会敵のおそれありとして、通信長と大坪大尉が立つことにしていた。ところが、当番が機銃の待機所でならんで眠っていた二人を超こしたところ、通借長は朝から調子の悪かった胃病が再発した。

「大事にして下さい。一人で大丈夫ですよ」

大坪大尉は、一人で当直に立つこととなった。

午前2時5分、電探が、ます敵味方不明の影を見づけたが、距離2万メートルだった。電測士林田秀雄、小野英亮少尉は、すぐ艦橋に報告した。当直の大坪大尉は、敵味方不明の艦影に注意するよう見張に指示した。交替して間もないころであった。このときは、味方の舟くらいに考えていた。敵が前方からやって来ることはまずないとの先人観にとらわれていた。誠実で几帳面な分隊長にとって、まさに魔の数分間であった。

見張員より

「右10度、敵味方不明の艦、八千」

心配になった分隊長は、万一のことを考えて、艦長や司令官には報告した。

「前方の影は、敵の駆逐艦らしい。距離約七千」

の報告が飛びこんできた。あわてた.まさかと思うことが、現実となったのである。

「配置につけ」

「戦闘用意」

副長が「ドラム缶投棄」の命を下した。

高角砲測拒の中川、徳生兵曹、主砲の古賀、株山、嘉納、勘場兵曹らは、配置につけのブザーが鳴ると、測距筒に飛び込んだ。主砲照明弾下の艦影をとらえようと必死だった。

甲板士官で、八分隊士の長谷川保雄少尉は、床についてしはらくしてブザーが鳴ったが、耳に入らなかった.少し遅れて八分隊長のもとに駆けつけた。叱責を受けた後、配置を変えられていることを知り、後甲板のドラム缶投棄に走って行った。

主砲の周囲に並べられたドラム缶の上を、海軍ナイフを片手にした八分隊長が、猿のように飛びまわり、ロープの切断をしていた。手空きの機銃員や主計科員もドラム缶を二人一組で海に投楽していた。ひときわ大きい園田年明大尉の督励の声が、ひびき渡った。

通信長は「配置につけ」の号令で飛び起きたが、敵潜水艦くらいに思っていた。艦橋にあがる途中に、「敵水上艦艇」といった見張員の声を聞くと、しまったと思った。「この大事なときに、無理してでも立てばよかった」と自責の念にかられた。

艦橋に着くと、二分隊長が、航海長と交代して、鉄梯子を登っているところだった。双眼鏡で見ると、4、5隻見える。駆逐艦らしい。一本煙突の見なれない艦影である。レパ

ス、ブリソス・オプ・ウエールズの仇をとらんものとの、英国駆逐隊の執念と果敢さにやられたと思った。六千メートルもない。航海長が増速を命じている。

「機関全力待機を命じているカ」と聞いても、維も返事をしない。機関科伝令に、「機関全力待機となせ」と、伝令させた。副長が「ドラム缶投棄急げ」を、つづいて下命した。

トップの射撃指揮所では、「照明弾射撃よし」の報告がこないので、急がせていた。佐籐砲術長は眼鏡で覗いていたが、一番左の駆逐艦に目標を指示した。

やっと発令所より「撃ち方用意よし」の伝令がきた。

「撃ち方初め」の号令を待つばかりであった。田中初雄二曹は、−体、いくらから撃ち出すのだろうカ、と初陣砲術長の横にあるメータ表示計を時折、横目で見ていた。

一方、神風では、当直の藤田達也航海長が羽黒の行動がおカしいのに気づいて、艦長に報告した。艦長は、羽黒からの信号に注意するように指示した。六百メートルで追尾していたのに、もう千メートルに近い。増速しても追いつカない。二十一ノットとした。「羽黒から何かいってきていま。」と報告があるが、妨害電波のせいカ聞き取れないらしい。

  艦尾信号燈は、後続艦に連絡するためのもので、指向性があった。速度表示のほか、撃ち方はじめなどもあったが、戦闘に関するものはいっさい来なかった。

異常なまでに増速している。面舵、取舵と時折、変針する。自艦のことが精一杯で、神風のことは忘却されていたらしい。スコールもやって来て、判斬に迷う。何かある、何かあると心の底でつぶやいているのであるが、病みあがりのうえ、寝入りはなのためカ、艦長はこの時点でも、敵の存在について、いっさい、考えが及ばなかったのである。また、高市清行電測士などが苦労して精度を上げていた電探は配置につけていなかった。

羽黒艦橋では、航海長が、1戦速、2戦速と矢継ぎ早に指示していた。このとき、敵発見、左砲戦、撃ち方はじめとは型通りにはいなかったのだった。ガソリンの一杯詰まったドラム缶に、もし砲弾でも命中すれは、大変なことになる。カといって、投棄に手間とり、敵カ接近して魚雷の先制攻撃でもしかけてくれは、取り返しのつかないことになる。投棄現場からの報告や、見張員の報告を受けながら、決晰の時が切迫していたのだった。所せましと積まれたドラム缶の投棄完了の声の聞けないまま、「照明弾射て」の苦渋に満ちた、非情なまでの号令がいま、発せられようとしていた。

 通信長は、艦長を見た。米機動部隊を八千メートルにまで追いのめたときも、冷静そのものだった。笑顔さえ見せることがあった。薄明かりのなかに見える艦長の顔は、まるで京都のお寺で見た不動明王のようであった。前甲板からの報告や、見張員の報告に耳を澄ませ、敵艦をにらみつける艦長の目は、鈍く輝いていた。苦悩に満ちた顔にも思えた。やがて、決斬の一声が禿せられ、幕は切って落とされた。

 照明弾下に照らし出された左30度、3400メートルの駆逐艦に、ダーンと主砲、左高角砲の第一斉射が発射された。近弾だった。大小の水柱が上がっている。

橋本司令官が、「おい艦長、ベナンに向けろ」

3斉射が発せられた。主砲も高角砲も命中である。敵艦も発砲し始めたらしく、閃光が見える。

 「敵一番艦、撃沈!」

見張員が叫ぶ。

 「敵艦撃沈。二番艦に向けます」

 砲術長の、威勢のいい報告である。敵艦撃沈の範を聞いて、艦内はどっと沸いた。

防空指揮所の左の見張員が、

 「左雷跡、雷跡!」

 と叫ぶ。銀色の夜光虫の雷跡を残しながらおそってくる4本の魚雷。3本は艦尾にかわるが、1本が二番砲塔横に命中した。マストの高さより高く水柱が上がる。赤い火柱も混じって見える。ズッーン、グラグヲ、艦は大きなショックを受ける。

艦橋前面に、白熱の火災の火柱がブーッと渦巻いて立ったが、なかなか消えようとしない。通信長が副長に、

「ドラム缶に火カついたらしいですね」

「うん」

副長もうなずく。

  艦橋のすぐ下左右に、三連装の機銃座がある。愛宕から転勤してきた機銃長の今村兵曹や、補充兵の若木上水などがいた。

  跳ね上がるような衝撃の後、火炎がどっと吹き寄せてきた.とっさに機銃覆の下にみんなが潜り込んだ。もし、そのまま立っていたら火傷を負うところだった。ガソリンの炎は、右舷の方向に長く流れていった。右高射機にいた藤村兵曹たちの前を通って、赤い炎の帯が2番煙突の方向に流れていく。この第一撃で、羽黒の全機能が麻痺してしまった。

 神風離脱

一方、神風が羽黒の航跡に入った直後、発砲閃光を認めた。艦長は、パッとして目を覚ました。

「敵だ!」

「配置につけ!」

 羽黒は続いて3、40度取舵をとったと思ったら、巨大な水柱と火炎が立ち昇った。羽黒に火災が発生したらしい。神風の周囲にも砲弾が落下し始めた。このとき、右舷に魚雷を発見して右に転舵する。神風は速力を増し、一方羽黒の速力は急に低下したので、神風は羽黒の右横に出て行った。距離は百メートル。羽黒は全艦が炎に包まれている。主砲、高角砲は沈黙しているが、炎の中を中部、後部お機銃から盛んに発砲し、火箭が頭上を越えて敵艦の方向に飛んでいく。阿修羅の如きとはまさしくこのような姿を指すのだろう。

  機銃の把手を握る関根甲子雄一曹をはじめ、主砲員も、羽黒乗員の悲壮なまでの闘いぶリを見て、胸に強く迫るものがあった。豆のはじけるような機銃発射音にまじって、何か叫んでいるような感じがした。

 艦長は羽黒のことにのみ、心を奪われていた。羽黒の火災で敵方より見ると、自艦がシルエツトとなり、ハッキリと浮かび出ていることなど念頭になかった。突然、目の前に現わられた、信じがたい異変に気をとられて、ただ羽黒のことにのみ集中していた.炎で艦橋の内分もはっきりと見えたが、人影は見えなかった。一方、羽黒甲板上では、「神風だ。撃つな」の雄叫びがしていた。ちょうどそのとき、艦橋では橋本司令官が、

「貴艦は戦場を離脱し、ペナンに向かえ」の指示を出していた。しかし、全電源鋭停止で、伝える術がなかったのだった。

 神風が羽黒の艦首と並んだころ、艦首波は15ノットくらいで、まっすぐに進んでいるように思えた。火災に包まれる羽黒から離れると、暗闇の中に敵がよく見えた。

  駆逐艦3隻が、右前方近くを同航行していた。2番機銃員の中山盛平兵曹らも、「撃て」の号令を今か今かと待っていた。主砲員も火だるまとなってなお獅子奮迅の働きする羽黒の姿を目の前にして、いたたまれない気持ちになった。関根兵曹は備え付けの救急箱を前部開き、白い三角布を取りだして全員の右腕に巻かせた。それが強風にあおられ、はためいていた。艦橋の上の指揮所にいる吉川乙吉砲術長の

「艦長、撃たせて下さい」

の声が聞こえた。歯ぎしりするような2度目の声が頭の上から伝わってくる。

すでに各砲と機銃には実弾が装填されて、砲身は同航の敵艦にぴったりと狙いを定めている。砲術長の声は悲壮ささえも帯びてくる。関根兵曹は新兵時代、耳にタコのできるほど聞カされた言葉を思い出した。「国家宵百年、兵を養うは、一日の戦闘にあり。」

この引き金に手がかかり、銃口からいまにも火を吐くときがやってくる。そう信じていた。全身に血がたぎる思いだった。

 砲術長以下乗員の悲痛なまでの想いとは裏腹に、春日艦長は別の事を考えていた。

「照射は、絶対にならん」めったに見られない厳しい顔だった。

 艦長は、カつて上海睦戦隊の小隊長をしたことがあった。夜間の射撃をしているのを見ると、狙いもしないで闇に向かって撃っている。まるで気休めのために撃っているようなものだと思った。撃つためには照射が必要だ。が、そうなると、こちらも集中砲火を受けることになる.もうひとつ、艦長は夜間の主砲には信頼をおいていなかった。眼鏡が悪くて砲側照準では当たりっこないことを、誰よりもよく知っていたのである。

「ならぬ」

 鑑良の強い言葉に根負けしたのか、砲術長も沈黙した。一瞬、橋本呵令官、杉浦艦長、大野副長、大川、佐藤の顔が頭をかすめた。

「両舷全速」

「煙幕張れ」

 二本の煙突からは、もくもくと黒煙を吹き上げ、敵鑑から姿を遮蔽した。スコールがやって来た。

「スコールに突っ込め」

 スコールを出たときには、神風は戦場よりかなり離れていた。一路、ペナンに向う。

 艦長は二つの事で、心を痛めていた。一つは「配置につけ」の遅れで、乗員に死傷者が出たこと。いま一つは、僚艦を見殺し、一発の砲弾をも撃たずに戦場を離脱したことであった。もし、橋本司令官の指示が伝わっていたら、後者に関しては、心をわずらわすことが無かったであろう。

 勇者の終焉

 住友与一電気長は、内務科の当直将校として、艦橋に立っていた。艦橋前部にざわめきが起きたと思うと、戦闘ラッパが鳴りひびいた。前部発電気室に急ぎながら、「ミドル・ウーッチ(零時から4時)に事が起きる」の諺と、自分の専門の魚雷を降ろして、口惜しそうにしていた艦長を思い浮かべていた。

 予備指揮所の定位置についた。三百キロワット2基のターブ発電機は、うなりを上げてただちに運転開始。

「前部発電機、戦闘配置よし」

指揮所への報告をする。午前2時15分、2つの発電機の電流計が大きくふれた。主砲が旋回しているのである。2時18分、ここにも主砲発砲の振動が、ズシンと伝わる。変針したらしく艦が傾くとともに電流計も大ぶれになり、発砲の振動が伝わってくる。2時20分、グアンという大音響とともに、天井の通風筒より滝のように海水が落ちてきた。タービンの下からは、水がもくもくと湧いてくる。前部砲塔群は沈黙したのか、電流計のふれはない。水カさがみるみる上がるのを見て、逆転中止を決意。「前部発電機、見込みなし」の報告をさせ、脱出をはかる。

 中甲板に行くと、一酸化炭素が充満しており、やっとの思いで艦橋の副長に報告した。この前部発電機室の壊滅で、あらゆる電源が停止したのであった。艦橋も機能を失ったのだった。

一番高角鞄の信管手の補充兵村上菊義上水は、火炎の固まりが、どっと前甲板より押しよせてくるのを見ると、とっさに楯の中に身を隠した。すると、前甲板から炎の下をかいくぐるように、体じゅうの衣服を燃やし、火の粉を撒き散らしながら走って来て、ハタンと倒れた一人の兵がいた。

一人また一人と、つぎからつぎへ同じような恰好で、やって来ては転び、のたうっている。この世の地獄絵を見る思いだった。ドラム缶投棄をしていた兵たちだった。どうにも仕方がないので、歯ぎしりをしながら見ていた。

 通信長は、魚雷の爆発でガソリンが燃えたが、前部砲塔は無事だろうと考えていた。顔が焼けつくように痛い。手で顔を覆って、しゃがみ込んだ。火はいっこうに消えない。手が熱い。意を決して立ち上がった。どうしたことか、このとき、火はすうっと消えていった。思わず窓ぎわに走り寄って、前甲板を見渡した。

 まず、赤い炎の尾をひきながら、転がっていく5、6個のドラム缶が目に映った。前甲板を見渡して、はっと息をのんだ。

「副長、前部砲塔群の火薬庫に注水して下さい」

「もう、やった」

「お父さんが、長崎造船所長の時代に作った艦に、息子が乗るなんて」と、家族や知人の者からよくいわれ、人一倍愛着を感じていた羽黒も、もうこれでいよいよ最後か、万事休す、と思った。

一番砲塔は天蓋が吹き飛んで、夜目にも真っ黒な口を開け、ところどころに赤い炎の舌を出している。二番砲塔の天蓋も見当たらない。三番砲堵の天蓋はそのままだが、砲口、照準口、指揮塔からいまなお、盛んに白熱の炎が吹き出している。

 艦首のめりに左舷に煩いていく。艦はもう15度以上に傾いている。

「煙幕展張!」

 艦長命令で煙幕をはったが、無風で黒煙はまっすぐ上に立ち昇っている。

 レイテ沖での二番砲塔員につづいて、角藤忠義大尉以下全一分隊員全滅、発令所員、前部応急員全滅、士官室の宮崎軍医大尉以下、前部医療班全滅だった。幸いに近くの内務長五木田丑松注排水指挿官は、無事だった。

 敵は3千メートル近くに近寄り、赤青の味カ識別燈をつけて、さかんに主砲を撃ってくるが、なかなか命中しない。赤い砲弾が、頭上を越えて、味方の艦の近くで水柱をあげているので、あわてている。時雨からきた是永、太田兵曹は、スリガオ海峡で舵故障のため円運動をしながら、同じ所を回り、扶桑、山城が火だるまとなって沈んだときのことを思い出していた。事実、羽黒はこれと同じ運動をしていたのだった。

 舵の故障も人力に切り換えてなおり、また後部発電機の故障もなおって、主砲、高角砲とも射撃を再開できた矢先のことだった。

 午前2時35分ごろ、同じ左舷、四番高角砲よりやや後部の前部機関室に、2発目の魚雷が命中したのだった。私たちの配置よりあまり離れていなかった。大きな衝撃だった。堺谷友次郎中佐以下、機関料首脳部が全滅してしまった。万事休すだった。

艦はさらに大きく左に傾いた。35度近く傾いたうえ、速度も急に落ちてきた。入江 茂、内山三郎砲員長の所では、足元まで海水が浸入してきた。手動砲側照準で射撃していたのに、砲口は水平以下となり、左舷の射撃はぴたりと止まってしまった。私たちは測距の仕事もなくなってしまった。

  副長は、戦闘カ維持を考えたのか、内務長に右缶室注水を命じていた。内務長は、右舷缶室注水を決怠し、缶員に上甲板退避を命じた。住友電気長は、中部ディーゼルエンジンのところで応援していたが、あまりにも傾斜が大きく、クランク室のオイルがまわらず、エンジンが焼けつくのではないかと心配していた。缶に注水したこともあって、後部発電気室の出力が落ちたためだろう。電燈の明りが、だんだんと暗くなり、やっとついているといった状況だった。

 高橋二分隊士は、分隊長の指示により、砲側で指揮をとることとなり、宮村今日吉砲員長の三番高角砲に降りて行った。この砲は、最初より最後まで撃ちつづけた砲であった。

 羽黒が停止したころから、敵の砲弾はつぎつぎと命中しだした。とくに艦橋付近が狙われた。左に大きく傾いているため、一番高角砲付近に砲弾が落下しだした。

一番高角砲員は、三名ばかりに減っていた。どうしたわけか、羽黒の主砲が撃ち出したのに、艦が大きく傾いているため、弾はとんでもない方向に飛んでいく。航海長が、内田信義航海士に、「磁気羅針儀を持ってこい」と大きい声で叫んでいる。あまりにも傾斜が大きいので、備えつけのものは役に立たぬらしい。通信長は、暗号員に暗号書の焼却を命じた。このときは応答があったが、完了の報告は聞けなかった。

 副長の、御真影捧持の命が下って、測的長でもある四分隊士小島丈夫中尉と庶務主任吉良文一少尉の二人が、わざわざ通信長の前に報告にきた。御真影は、下部電信室に奉納してあるためらしい。両人は、通信長に何かいつてもらいたい、何かを期待するといった顔つきに見えた。しかし、心を鬼にして「行ってこい」の言葉が飛び出した。確認なしに、水に浸っているだろうとどうしていえよう。

「ハッ」

 二人は、緊張した面持ちで階段を降りて行った。電信室からは、被雷してから何の連絡もないので、行ってみることにした。やっとたどりついて扉をたたいたが、応答がない。クリップをはずす一方で、なかで元通りしめていく。自身でもどうも死に場所と覚悟しているらしい。やむを得ず帰ろうとすると、小島中尉らが帰って来た。下部電信室は水に浸り、なかに入ることはできないという。

 砲弾の炸裂する光の中を帰ってみると、艦橋にはひとりの人影も見当たらない。四十ミリポンポン機銃が、艦橘の鉄板にあたって.パチ.パチと火花を出して炸裂している。

 通信長は、急いで一番手前の海図台の下にもぐり込んだ。あたりには誰もいなかった。そのときだった。あたりが.パッと明るくなったと思うと、チャインドンという音を聞いたような気がしたが、深い眠りにひきずり込まれていくように、意識を失ってしまったのだった。

 どれほど時間が経過したのだろうカ。話し声にふと気がつくと、副長の声らしい。ぽんやりした意識の中で、かすかに話し声が聞こえてくる。どうも信号兵に何かいっているらしい。また、意識がうすれていく。

 後日、信号兵に聞いたところによると、副長は砲弾の炸裂で左手をもぎ取られる重傷を負った。近くの信号兵に自身の体を羅針儀に縛らせ、「日本人としで最後まで立派におのれが本分を尽くせ」と伝えさせた後、万歳を三唱して息絶えたという。

 両足を投げ出し、膝に手をおいているのだが、手の上にポクリポクリと垂れるものがある。血であった。頭をやられているらしく、恐る恐る手をやって見るのだが、なんともない。顔や腕をなでてみたが、なんともないようだ。通信長は急に元気が出てきた。立つと右屑がやたらに重い。何かくっついている。手に取ってみると、肉の塊だった。左手を後ろに回すと、服にへばりついている物がある。取って見ると、ぐにゃぐにゃした冷たい長い物だ。よくみると腸だった。

 目を開くと、空には照明弾が輝き、曳痕弾が飛び交い、いまなお激戦がつづいている。誰カが艦橋に駆け込んでくるや、大声でどなった。

「司令官、艦長、航海長、参謀戦死。絵負退去。・・・・おや、副長が羅針儀に体を縛っていなさる」

「村木掌航海長、電信室に総員退去をかけてくれ」

 頭がぼやっとしてしまっていて、拳航海長の総員退去を叱りもせずに、退去命令を出したのだった。

 立ち上がろうとするのだが、血糊で足を滑らして、なかなか立ち上がれない。やっと立ったと思うと、ズシーソと三度日の魚雷の命中に、またも尻もちをついてしまった。

一番高角砲のやや後部にあたったのだった。この魚雷によって、皮肉にも万身創痍の羽黒の傾きがカなり持ち直し、後部高角砲や機銃の射撃がやり易くなったのだった。しかし、羽黒の前部はますます沈み、かった甲板は波が大きく洗うまでになっていた。ひと突きすれば艦は沈みそうな状況にあった。

「通信長、大丈夫ですか」

 偶然にも難をのがれた水雷参謀が、タバコをくわえながら悠然と入ってきた。レイテ沖海戦後、羽黒水雷長より参謀になった人だった。戦死されたと思われた艦長が、いまの振動で気がついたのか、「天皇陛下万歳!」と叫んだ。居あわせた倍号員ら数名の者が、一緒になり三唱した。副長につづいて、羽黒艦橋で高らカにひびいた二度日の三唱だった。

 照明弾の明りに見すかすと、艦長は自分の羅針儀につかまって、立っているよううだ。

「艦長、どうされました」 

水雷参謀がいった。

「負傷をしてなあ」

 二人で近づこうとするのだが、死体、鉄板、木片、肉片などが山のように重なり、とても行けそうにない。右の信号台をまわって近づこうとして、後ろを見た通信長はハッとした。機銃も高角砲もさかんに撃っている。まだ、戦闘ができるではないカ。幹部が葬れたいま、自分が指揮をとらないで誰がとる。

 水雷参謀と別れて防空指揮所に登った。別れぎわにふと見ると、参謀はロ−プを体に巻きつけている。奄美出身の参謀は口数こそ少なかったが、情の厚い人であった。副長に心服していた。一番高角砲は破壊され、残るは三番高角砲と、あたりの機銃だけである。左舷の高角砲員もここに集まってきていた。砲塔の動カが止まったいま、人力で動カしているのである。楯のまわりには大勢の人間が集まっている。

一段高い機銃の通路で、高橋分隊士が指揮をとっている。この高角砲とともに、森盛之助、谷口 明、岡部積治兵曹らの機銃が、続木指揮官のもとで活躍していた。

 最後まで活躍していた三番高角砲の近くに4発日の魚雷が命中した。時に午前3時33分であった。水しぶきがおさまると、どっと海水が盛り上がってくるような感じがした。いままで一度も聞いたことのない海鳴りとも山鳴りとも、いや両者の混じったような不思議な音が響き、羽黒は艦尾を高々と上げて沈んだ。このときになっても、まだ砲身からは弾丸が出ていた。

一番砲手が、ベルトをはずすひまがなく、白い海水の渦の中に吸い込まれていくのを、分隊士は見た。

 砲術長は、2発目の魚雷があたり、艦が止まってしはらくした後、全員に前甲板に集合、適時退艦を命じた。田中初男兵曹ら8名の者はこれに従ったが、射手の緒方中尉ら4名は、ここを死に傷所と考え、そのまま残っていた。彼らが羽黒最後の退艦者となった。

 佐藤砲術長は、艦橋に行くといって降りて行った。測的所に着いたときに弾丸が命中して、小島測的長らとともに全員戦死した。防空指挿所の見張員は、整然として任務についていた。通信長は後輩で、大の仲良しの二分隊長と力を合わせて、最後までたたかおうとした。しかし、艦の運命は刻々と迫っていた。もう海水は手を出せは届くところまできていた。4発目の魚雷の振動を感じて間もなく、指揮所の鉄板を越えて、波がどっと流れ込んできた。三度目の波で一同は海水のなかに投げ出された。二度目の渦からやっとの思いで抜け出した通信長は、木片につかまってほっとした。板につかまって流れて来た者がいる。照明弾の明りで見ると艦長だった。

「艦長、元良です」

「おう、通信長。浮いてしまったよ」

「お怪我はどうです」

「みんなから親切にしてもらって嬉しいよ」

「お怪我はどうです」

 そのときだった。目の前にサーチライトがともされ、英軍のカッターが下ろされ、救助をしだした。じつと息をひそめる。やがてそれも去って行った。必死で「艦長、艦長!」と叫ぶが、返答がない。通信長以外にも、艦長は駒沢、田久保、田宮兵曹など、何人かと言葉を交わしていた。

「カッターが浮いております。おつれします」

 「がんはって下さい」

 の言葉にも、

「自分は負傷している。どうかそっと一人にして欲しい」

 の同じ返答だった。

「艦長、艦長−」

 通信長は、必死で叫んだ。近くの者もこれに和して暗闇に向かって叫んだ。艦長の耳に達しているはずなのに、返答はなかった。みんな副長亡きいま、艦長だけは生きていて欲しいと思った。戦友や部下との約束を果たすために、自分の道を選はれたのではあるまいか。いまは、しはし、奥様や子供さんたちと別れの平和な刻をすごされておられるのではあるまいか。そう思うと「一方ではそっと静かにしてあげたいとも思うのだった。

 海に投げ出された乗員は、4発の魚雷によって流れ出た重油の中に浮いているどいってよかった。カッターが偶然にも浮いていたので、それを目当てにまとまったことも、分散を防ぐ結果となった。たがいに軍歌を歌って励まし合った。

 昼すぎ、ペナンに放った2機の水偵がやって来て、通信筒や食糧を落とした。岩崎一兵衛飛行士以下4名の者が乗っていた。「海の勇者は必ず迎えに来る。がんばれ」と、したためてあった。

  神風はペナンに急行し、負傷者をおろすと油を積み、全速力で引き返してきだ。このとき、2機の水偵が水先案内の役を果たした。日はだいぶ傾きかけていた。

 春日艦長は、自分のとった処置が正しかった.と思う方に次第に傾いていた。一人でも多くの乗員を助けたいと思うのだった。同級生の太田、佐藤も生きていて欲しいと思った。神風乗員が艦長に絶対的倍頼を寄せるようになるのは、このときの作戦からであった。

 橋本司令官以下乗員1055名のうち、救助されたのは304名だった。751名の尊い犠牲を出したのだった。もっとも多くの犠牲者を出したのは主砲分隊で、200人中、生存者は2人だけだった。4分隊も一人の生存者だった。士官の戦死者がことに多かった。分隊長以上16名のうち兵科では、元良通信長一人を残すのみであった。

 この作戦後、羽黒は浮き砲台になる予定だった。通信長はスラバヤ、バタビヤ、ミッドウェー、ソロモン、プーゲンビル、サイパン、レイテと羽黒は海の勇者とともにあったと思った。単なる鉄の塊でなく、羽黒はしだいに魂を持つようになったと。

 セレター軍港奥深く着底して、死に体のようになって、朽ち果てることをいさぎよしとしなかったように思われた。生ある者のように、魂ある者のように、青く澄んだ印度洋の海原に躍り出てきたとしか思えなかった。

 親子二代にわたり、その誰生から最期まで自分は目に見えない深いきずなで深く結はれて来たことを、単なる偶然と片づけてしまいたくなかった。勇者の道を歩んだ羽黒の生き証人として、しなくてはならないことがまだまだあるように思われた。

 この日の夕焼けは美しかった。プーゲンピル島沖海戦以来の、私と羽黒の緑はこれで終わったのだ、と元良通信長は思った。生とは死とは、戦争とは人間とは、この大きなテーマを二つの眼で見つづけてきたつもりであった。そして、この日の美しい夕焼け空を原点として、生きつづけたいと思った。

この資料は石丸法明さんから左近允尚敏君に送られたものの転載である。)

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