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平成22年4月19日 校正すみ

回天に沈められた米艦の戦友会

小灘 利春

 回天特別攻撃隊多聞隊の伊号第五三潜水艦は終戦間近かの昭和二十年七月二十四日、沖縄東方洋上で勝山淳中尉(73期、没後少佐)搭乗の回天を発進させ、米軍輸送船団を指揮していた護衛駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈した。伊五三潜航海長の山田穣兄は爆発音を聞き、黒煙をあげる同艦を潜望鏡で見たそうである。

 

アンダーヒルは艦長以下一一二名が戦死、救助された乗員一一六名は戦友会を結成し、慰霊祭をアナポリス米国海軍兵学校の教会で毎年,同艦戦没の日に合わせて開催している。米海軍は二百年の歴史を持つが、この学校の構内で慰霊祭の執行を許されているのはアンダーヒルの戦友会だけであるという。

数隻で協同攻撃を仕掛ける人間魚雷群と戦って、斃れながらも船団を護り抜いた一護衛駆逐艦に米国海軍は破格の栄誉を与えているのである。事実はこの時発進した回天はたつた一基であるのに、その反復突入に米軍船団は幻惑され、恐怖を覚えたのであろう。このような幻の回天との戦闘が数多く伝えられている。

 

 このとき戦死した乗組機関兵曹長の子息ヘンリー・ロード氏は戦友会の一員で、戦闘状況を調べるうち、親の仇であるはずの日本人、日本という国に好感を抱き、来日して茨城県那珂郡にある勝山少佐の実家を訪ね墓参した。平成十二年九月のその日、少佐の弟妹ほか親族が集まり、同期の回天搭乗員や山田穣兄が加わって「昭和二十年七月二十四日を偲ぶ会」が開催された。双方の意思疎通が急速に進展したのは、近年普及したメール通信に負うところが大きいが、この戦闘の経過、意義の探究を通じて「軍人の義務として国のため最善を尽くして戦う者は敵味方を問わず尊敬する」との共感が育まれためと思われる。

 

 回天特別攻撃隊の第一陣菊水隊が昭十九年十一月二十日、西カロリン諸島の米軍前進基地ウルシー泊地を攻撃、米海軍の最新、最大の艦隊随伴給油艦「ミシシネワ」に命中した。同艦は爆発し長時間燃え続けた後に沈み、全乗員二九八中五〇名が戦死、九二名負傷。燃えさかる火焔と重油が一面に広がる海から無事に救助されたのは一五六名であった。生存者たちによる戦友会が現在も盛んな活動を続け、年々全米各地を巡回して戦友会を開催している。同戦友会の運動により米国海軍の潜水チームがウルシー環礁内を調査して同艦終焉の地点と状態を確認、それによりミクロネシア連邦政庁は海中に在る同艦の周辺を「聖なる墓域」に指定し、一般人に潜水、立ち入りを法令で禁止した。今春、同艦内に残る積荷、燃料油の抜き取り作業を米海軍の大型救助艦が開始したが、そのあと沈没艦体の精密な調査を進める計画がある。

 本年の戦友会は米国北東ロードアイランド州プロビデンス市に七月二十三日集合、歴史ある軍港ニューポートや各種軍艦の見学など多彩な行事の五日間であつた。追悼式は記念艦の戦艦マサチユーセッッの後甲板で執行された。乗員の子息マイク・メヤー氏はこの戦友会の幹事であるが、父と同様に大の親日家になり、第二次大戦の戦史についてミシシネワを軸に記述を進めてきた。回天作戦全般についても日米の関係者と緊密な連絡をとって詳しく網査し、新しい資料を数多く発掘した。小生宛ての質問状だけでもかなりの量になる。信頼度の高い戦史書として米海軍研究所から近日、刊行される予定である。

 

 回天特別攻撃隊多聞隊の伊号第五八潜水艦は米重巡「インデイアナポリス」を昭和二十年七月三十日未明、魚雷攻撃で撃沈した。同米艦は二発の原爆を米本土から最大速力でテアニン島のB29基地に運搬する重大任務を終えたあと、レイテ湾に回航中であつた。乗員一一九六名、そのうち生還できた者は僅かに三一六名。魚雷が命中したとき真先に電信室を破壊されて救難電報が発信できず、また単独航行であつたために、遭難者は救助されるまで四日半もの間、太平洋上を漂流した。戦没者の半数は溺死であり、米海軍にとつては戦中、最後にして最大の悲劇となった。同艦の記念碑が米国中部インデイアナ州の州都インデイアナポリス市にあり、その碑の前で同艦の戦友会が追悼式を行っている。

 

 回天に乗艇待機していた搭乗員は「敵艦が沈まないなら出してくれ」と再三、艦長に催促した。しかし魚雷が三発命中したのを潜望鏡で視認している艦長は獲物を確実に仕留めたと判断し、回天を発進させなかつた。したがつて、回天は同艦の悲運に直接は関与せず、連絡し合うに至らないが、前記二艦の戦友会との暖かい心の交流は大切にしたい。

(なにわ会ニュース89号72頁 平成15年9月から掲載)

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