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平成22年4月21日 校正すみ

戦艦大和艦長有賀大佐を偲ぶ

浅村 

有賀艦長 戦艦 大和 浅村晃司

「男たちの大和」=YAMATO=を鑑賞して、海軍時代の事が思い出され、感涙しました。渡哲也さんの(ふん)する有賀艦長の出番が余りありませんでしたが、私は大変懐かしく思いました。

私は昭和181115日少尉候補生としてパラオに停泊中の重巡洋艦「鳥海」に乗組みました。その時の艦長が有賀大佐で、実に豪放な方でありました。ハワイ沖海戦やミッドゥェー沖を経験された勇士であります。

「鳥海」では対空戦闘に備えて早朝訓練がありました。毎朝艦長は率先して艦橋で色んな場面を想定して、爆撃や雷撃をかわす為の操艦号令演習を真剣にやって居られました。最高年齢の艦長の絶叫に乗組員一同大いに励まされました。

私は高角砲の分隊士として勤務して居りましたが、昭和19年3月1日トラック島の警備隊附を命ぜられ転勤することになりました。トラック島は2月17日に米機動部隊の猛攻撃を受け艦船、航空機、施設に大損害を被りました。そのトラック島に行くというので、艦長室に呼ばれ艦長から励ましと送別の盃を頂きました。今思えばこれが艦長との今生の別れでした。

 その後、「鳥海」は昭和191025日レイテ沖海戦で沈没しました。

有賀大佐は1125日、大和艦長に任命されました。そして昭和20年4月7日沖縄特攻で100機以上の敵機と交戦し、艦長は沈着に目まぐるしく「大和」を転舵させて魚雷を交(かわ)しました。

然し、第3波に150機の攻撃を受け、遂に航行不能となり生存者を総員退艦させて、自らは舵に体を括りつけ「大和」と共に沈んでいかれました。

正に海軍軍人の(かがみ)であります。心からご冥福を祈ります

伊藤司令長官にはお目にかかった事がありませんが、人格者であったと伺っています。伊藤長官は「大和」の最後に有賀艦長に一人でも多く生存者を退艦させる様に言われ、長官室に下りて行かれ自決されました。

奇しくも、伊藤長官(海兵39期)の一人息子の(あきら)君は私と同期生(海兵72期)でした。戦闘機パイロットで長官が昭和20年4月7日「大和」に殉ぜられた日から3週間後の4月28日・特攻機で沖縄に向い、戦死しました。

長官の妻ちとせさんは、長官の戦死の報には毅然(きぜん)として涙を見せなかったが、叡君の戦死を知った時は人目も憚らず泣き崩れられたというです。

軍人の妻として気丈であった、ちとせさんも、母として子の死の悲しみを抑えることは出来なかったのだと思います。

「一億に母あれど 我が母にまさる母あらめやも」

の名句を思い出します。

 

(編集部)

これは浅村君が「男たちの大和」を鑑賞して、その感想を地元新聞「神岡ニュース」に寄せられたものである。

 (なにわ会ニュース96号67頁 平成19年3月掲載)

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