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平成22年4月20日 校正すみ

わが敵は湊川沖に在り

豊廣 稔

沖縄の東海岸に布陣した震洋隊。その唯一の戦果を含め数次に及ぶ出撃の状況を陳述する。


はじめに

外国にも震洋艇に近い小型兵器による攻撃の実例はあったという。それを「ミゼット・アタック」と言った。

沖縄金武湾沖において、昭和二十年四月三日深更(正確には四月四日)、震洋艇により敵艦を轟沈させた鈴木音松上飛曹の実兄哲雄氏は、「帝国海軍でいちばん小さな船で敵艦を沈めたのは、おらあのところの音松だけだなあ……」と胸を張る。しかし、本当は淋しいのだ。あの元気者の音松がいまごろ生きていてくれたらなア、と思う心は深まるばかりである。鈴木音松とペアを組んでいた先任搭乗員の市川正吉上飛曹の遺族とて、同じ思いであろう。

終戦間際に開発された幾つかの特攻兵器のうちの一つ、震洋艇(当初C兵器と呼ばれた、平易に言えば爆装モーターボート)は、極秘兵器であり、連合艦隊なきあとの決戦兵器の一つとして期待された。しかし、所詮は伝統のない兵器であり、それを運用するのも新設部隊であった。いまの言葉でいえば、ノウハウの積み重ねがない兵器であったといえようか。

最前線で戦った若い指揮官は、欠陥の多いこの新兵器を使いこなし、戦果を挙げることに腐心するが、戦運利あらず、戦果の方もいまひとつパッとしなかった。

終戦時、百十三個隊の震洋隊が本州、九州、南西諸島、台湾、比島、支那沿岸の主要な戦略地点に配備されていたが、実際に特攻出撃をしたのはコレヒドールの一隊と沖縄の二隊だけであった。

コレヒドールも沖縄も玉砕地で、コ島の場合は敵の落下傘部隊により、沖縄の場合は敵地上軍により絶対優勢の兵力をもって基地が攻撃され、潰え去った。

基地がいつまで存続できるか、ということは、震洋隊の場合、二つの大きな戦術術的メドであった。海上戦闘のあとは陸上戦闘となり、基地隊員といえども陸上戦闘を戦い抜き、場所によっては玉砕の運命にあった。

沖縄の場合は、終戦というエポックがあり、しかも配備地点が国頭地区であったせいもあり、隊員の約半数が生き残った。

沖縄到着

昭和二十年一月十二日、第二十二震洋隊は、震洋艇五十隻、兵員百八十名、兵器、部隊資材を豊栄(とよさか)丸(三千五百トン)に積載して、佐世保軍港を出港した。

船団を組むために五島沖で一晩仮泊したのち、最初の寄港地である鹿児島港に向かった。なぜ鹿児島港に寄港したのかは、ちょっと思い出せない。潜水艦を避けるためだったのか、あるいは船団の都合によるものだったのか、とにかく三〜四日、鹿児島港に在泊した。

その間、隊員の上陸も何回か許されている。その鹿児島港を出港したのは、一月十九日のことである。船団は豊栄丸、日輪丸(一千二十トン)ともう一隻の船(船名不明)だったが、途中、故障で脱落したのか、名瀬に避泊したときは、豊栄丸と日輪丸の二隻だけであった。

護衛艦は駆潜艇らしい小さなものが三隻とにもかくにも、船団は潜水艦にも見つからず、幸運の女神に見護られながら、奄美大島付近まで南下した。このとき艦上機、沖縄本島が敵艦上磯により空襲を受けているという情報に接した。 

そこで急遽、船団は名瀬港に避泊して難をのがれた。もし、船団の進行があと一日早かったら、沖縄に着いており、完全に敵艦上機の餌食になっていたであろう。そのことを思って、幸運に胸をなでおろした次第である。

当時の海上輸送が、運、不運に左右される要素が多分にあったことを思い知らされる。名瀬に避泊しているとき、敵、味方不明の戦闘機らしい小型機が二機、遠く島陰をかすめて北上したが、発見されずにすんだ。

船艙には五十個(一個二百五十キロ)の頭部と百発のロサ弾(十二センチロケット)、ほかに十三ミリ機銃弾等、多数を積んでおり、その上にシートをかぶせて隊員は寝ていたから、爆弾一発で轟沈という物騒な船であった。

記録によれば、それは昭和二十年一月二十一、二十二日の両日、沖縄は敵艦上機の空襲を受けている。佐世保に待機中の震洋隊の間に、

「豊廣中尉は沖縄空襲で吹っ飛んだ」

という噂が立ったらしいが、タイミングからいっても、そう思われて当たり前ということであった。

一日おいて名瀬港を出港し、二十三日の朝、敵機が去り、生々しい被害をさらしている沖縄に到着、間もなく那覇港に入港したのである。

那覇港に第一歩を印したときの印象としてまず目についたのが、陸軍の例のカーキ色をしたトラックであった。擬装用か建設用かわからないが、枯れた(かや)のような草をいっぱい積んで、せわしげに走りまわっていた。

それが奇異に映るとともに、なにか戦局逼迫(ひっぱく)の気配を感じた。内地を出撃するとき、白砂青汀の南の島のロマンみたいなものを心に描いてきただけに、ちょっと落差を感じ、自分の心象の修正を迫られた思いだった。

豊栄丸はまず陸送可能の車両(乗用車一台、トラック大小各一台)および車両に積載可能の人員、資材を陸揚げした。

翌朝、豊栄丸は那覇を出港し、沖縄の南端をまわり、目指す東岸の金武湾に向かった。私は乗用車で基地設営予定の金武村に向かうことにして、豊栄丸を下船した。そして、とりあえず沖縄方面根拠地隊(以下沖方根という)司令官・大田実少将に着任の挨拶をすべく、司令部に向かった。

沖方根司令部は、那覇の小禄(おろく)の丘の上にあった。司令部の丘から海岸寄りに降りたところに、海軍の小禄飛行場があり、(いわお)部隊(南西空)の管轄になっていた。

司令部は低い丘の上部を削(けず)りとった造成地に建っていた。まだ新しいが、質素な一階建てバラックであった。玄関を入ると右側が士官食堂、左に入ると幕僚執務室となっており、幕僚室を通り抜けて向こう側に司令官公室があった。副直将校に案内されて、私ははじめてみる大田実少将のところに向かった。司令官公室といっても、それは粗末なバラックの一室にすぎなかった。ドアを押して中に入り、入口に立ち、デスクで執務中の司令官に一礼して前に進み出た。入口からみると、右手壁ぎわに司令官の大きな執務机が置かれ、私が来たことがわかると、わざわざ椅子から立ち上がって私を迎えられた。


 私は司令官の前から二、三歩離れたところに立つと、もう一度、四十五度の礼をしっかり行なって申告をはじめた。
「第二十二震洋隊長・豊廣中尉、部下百八十名を引率、震洋艇五十隻ならびに部隊基地資材一式を伴い、ただいま着任致しました」
 第三種軍装に身をかためた丸顔、小肥り、中背の大田司令官の顔が徐々にほころぶのが感じとられた。
「うん、ご苦労だった。待っていたぞ・・・。
実は、私もつい三日前(一月二十日)に着任したばかりだ」
それから独り言のように、
「これで安心だ」
とも言われた。司令官の直率の部隊として、震洋隊に大きな期待を寄せておられることが、ひしひしと伝わってきてうれしかった。

これが戦後、「仁愛の提督」と敬仰され、また戦時中は、支那事変における上海陸戦隊指揮官、ミッドウェー海戦における攻略部隊の陸戦隊司令官として有名で、一方、「陸戦の神様」あるいは「海軍歩兵中佐」などの称号を奉られた大田実少将の実像とのはじめての出合いであった。

僚隊・第四十二震洋隊

さて、ここで僚隊である第四十二震洋隊のことについても、少し触れておこう。同隊は、第二十二震洋隊より約一カ月遅れて沖縄に到着した。それは敵を迎え撃つわずか二十二日前であった。
 第四十二震洋隊は、二十年三月の時点で南西諸島方面への海上輸送が困難をきわめたなかを、二陣にわかれて沖縄進出を計ったのである。
 第四海上護衛隊司令部戦時日誌等の公式記録によれば、第一陣の「長白(ちょうはく)山(さん)九」は輸送船七隻、護衛艦八隻の「サイ〇一船団」で、二月二十三日午前四時、佐世保港外の富江を出港した。
そして、どこにも寄港せず、ずいぶんと早く目的地の那覇に到着した。これが二月二十六日の午前七時十五分のことである。
翌二十七日、長白山丸だけが沖縄に残り、他の六隻は、うち五隻が石垣島へ、他の一隻が宮古島へ向けて出港した。長白山九はその後、金武湾に回航し、二十八日の夕刻から金武基地に震洋艇十七隻ならびに兵器、基地資材一式を陸揚げした。そして、三月一日の明け方、出港した。
 長白山丸はふたたび那覇に帰港して、つぎの任務につこうとした。しかし運悪く、三月一日の沖縄地区敵艦上機の空襲にめぐり合わせ、爆弾六個を受けて那覇港外に沈没した。長白山丸は、第四十二震洋隊長・井本中尉をはじめとして、第四艇隊長国場少尉、ならびに搭乗員(乙飛二十期)、基地隊員合計八十五名の人員と、震洋艇十七隻およびそれに伴う兵器一式、基地資材などを沖縄に送り届けたのである。

 つぎは第二陣の「慶山九」だが、長白山丸が沖縄に到着したのを見届けるようにして、三月一日に佐世保軍港を出港した。船団名は「カナ八〇三」で、輸送船三隻、護衛艦数隻であった。船団は三日に鹿児島港に寄港、八日に同港を出港した。これが運命の航海となったのである。十日の午前四時二分、まず「三喜丸」が潜水艦の攻撃を受けて轟沈した。つぎに午前七時、「道(どう)観(かん)丸」が被雷し、十二分後に沈没、最後に「慶山九」がその五分後の七時五分に、名瀬の北西二百二十キロの地点で四番船艙に被雷し、瞬時にして轟沈した。執拗な敵潜水艦の攻撃の前に、虎の子のわが輸送船がつぎからつぎに、あえなく撃沈されてしまった。慶山九には震洋艇三十隻、人員九十五名を積載していたと記録にはある。
生存者の証言によれば、「いまのうちに食事をせよ」と基地隊の補充兵を船艙におろした直後のことで、これらの補充兵は、ほとんどが船と運命をともにした。甲板上にいて生き残った者はその後、川棚突撃隊に再編入され、新編第四十二震洋隊となって待機中に終戦を迎えた。

金武基地

 第二十二震洋隊豊廣部隊の基地は、沖縄本島の東海岸にある二つの大きな湾のうち、北側の金武湾の湾内にのぞむ金武村の海岸にあった。金武湾の南には与(よ)勝(かつ)半島を境にして中城湾という、むかし、わが連合艦隊が入泊したほどの、いちばん大きな湾があった。また、与勝半島の先端から薮地(やぶち)、浜(はま)比嘉(ひが)、平安座(へんざ)宮城(みやぎ)、伊計(いけい)の各島がつらなり、金武湾口を扼(やく)している恰好になっていた。

 金武基地の方からこれらの島々を見ると、島と島の間が狭いので、ちょうど一本の半島のようにつらなって見えていた。距離もだいぶあったので、春の日など、けむるような薄紫色を呈していた。


したがって、出撃する震洋艇が湾外に出るときは、探査したこともない島と島の問の狭水道を抜けるより、伊計島と金武岬との間の広く開けた、いわゆる金武湾口を通って湾外へ出る航路をとったのである。

金武湾は、あまり幅の広くない白砂の海岸線にとり巻かれ、砂地と陸地の間に、沖縄特有のアダンの木が緑濃く生い茂り、波打際には大小さまざまな、黒々とした石灰質の岩が点在していた。潮の干満により見えかくれする暗礁もあった。平和なときには、じつに美しかるべき海岸であった。

われわれが基地に到着したとき、あまりにお粗末な基地設営に唖然となった。立派な格納壕でもできているかと思ってきたが、基地とは名ばかりであった。わずかに海岸線に直角に誘導路がつくられており、その行きづまりに「鰻(うなぎ)の寝床」みたいな細長い萱(かや)ふきの小屋がつくってあるばかりだった。
必要のない魚雷艇置場だけが、海中に伸びたレール敷設とともに、一応立派そうな設備の恰好を呈していた。
 当初、震洋隊ができはじめのころ、眼高の低い、遠目のきかない震洋艇を、一隻の魚雷艇に敵前まで誘導させる戦法が考え出されたようである。魚雷艇置場はその名残なのであろうが、当初の戦法は結局、いろいろと具合の悪い点もあり、沙汰やみとなってしまった。


 技術中尉以下十名ばかりの海軍設営隊(山根部隊)が、金武村に駐留していて、地元の勤労奉仕隊(主として若い婦女子)を使って、われわれの基地づくりをしていてくれた。
誘導路の地盤は柔らかく、艇の運搬車の車輪が、下手をするとめり込むおそれがあった。これでは爆弾はおろか、機銃掃射だけでひとたまりもなく燃えてしまう。
しかし、手をこまねいて基地の不備に不服を言っている場合ではなかった。とにかく、一メートルでも早く艇を格納する横穴壕をつくるのが先決であった。このことは大田司令官に真っ先に指摘されて、部隊をあげて取り組んだことであった。
このころ、西海岸の運天港にあった第二十七魚雷艇隊(白石部隊)や第二蛟竜隊(鶴田部隊)は、すでに昭和十九年七月ごろには沖縄進出を終え、同じく山根部隊の手により、立派な基地の設営を終了していた。

 そこで一日、それを見学に行き、また、一日小禄の飛行場から飛行機(九七式陸攻)に乗せてもらって、上空から基地の擬装化について研究させられたりした。こうして、准士官以上も含めて数班に分かれ、交替制をとって昼夜兼行の壕掘りにとりかかったのは、金武基地到着後、四、五日してからである。 
金武基地は低い山ひだのような丘が数条海岸まで追っており、丘と丘との谷になったところに、前記の萱(かや)ぶきの小屋がつくられていた。いちばん厚みのある東側の丘に、まず四本の壕を掘りはじめた。設営隊員も混じって技術的な指導を受けながら、隊員にとっては馴れない土方作業がはじまったのである。

 通信や主計、医務などの本部業務をのぞいて、全隊員を壕の数の班に分け、班のなかをさらに数チームに分けて、昼夜作業のローティションを組んだ。そして、いっせいに壕掘りに着手したのである。
 横穴を掘れる丘陵は、いちばん東の谷(これを一の谷と呼んでいた)と次の二の谷ぐらいで、ほかは壕を掘れるような厚い山ひだではなかった。つまり、壕の上が爆弾に堪え得る土壌の厚みを持つのは、一の谷だけと思われた。
 壕の土壌はかたい赤土で、ときに岩盤があり、設営隊の本職の軍属たちが設計しながら、壕奥でハッパをつかい、杭を立て、天井に松板を並べながら掘り進んだ。壕で出した土はリヤカーで外に運び出し、壕前に捨てたので、壕前にボタ山のような長い厚い山ができていった。
これは壕の入口の掩体的な役割を果たすようになった反面、新しい土なので、上空からは一目瞭然であった。そこで、これを擬装(ぎそう)するために、山から適当を高さの松の木を根元から切り倒して来て、ポタ山に植えた、このためには、大量の松の木が必要であった。もっとも、根っこのない松の木なので、長時日のうちには自然に色が変わるので、取り替えねばならなかった。いまから考えると、たいへんな作業をしたものだと思う。

痛恨の三月十四日

 痛恨の三月十四日が訪れた。隊員たちは明けても暮れても昼夜兼行の単調な壕掘りに終始していた。内地出撃まで練度を上げてきた震洋艇のハンドルさばきの冴えも、陣形運動の勘も打ちつづく土方作業のために、どこかに忘れ去られたようであった。

 ちょうど二の谷の格納壕がだいぶ掘り進められ、そのうちの二本が完成した。あと二本は未完成だった。仮に完成壕が八隻を格納収容できるぐらいに掘り進んでいたとすると、一本を六、七十メートルぐらい掘っていたわけである。掘りはじめてから約一カ月がたっていた。
まず疎林や畠の中に擬装しておかれている艇を、一度海上に泛(えん)水(すい)して一の谷の方に回航し、あらためて一の谷の海岸から陸上にひっぱり上げる必要があった。

 ちょうどよい機会だから、この間に洋上訓練を行なうことを企図したのである。ここで第二十二震洋艇隊が、空にたいする警戒心がまったくといってよいほど欠いていたことが問題である。

 記録によれば、三月十四日といえば、敵の沖縄攻略部隊がウルシーを出港した日なのである。
このころになると、毎日のごとくB24が那覇や北、中飛行場に偵察にきていたのだが、ただの一度も金武の空には姿を現わさなかった。
 また、部隊全員が「モグラ」となり穴掘りに熱中していたので、空に注意が向いていなかったともいえる。また、まったくといってよいほど、米偵察機の情報が欠けていたことがいちばんの問題である。訓練を行なったことは、まったく私の責任であるわけだが、井本隊長があとで私に述懐したことばに、          
 「豊廣部隊が訓練するのであれば、なぜわれわれにも連絡して協同訓練をしてくれなかったのか、と恨みに思ったが、協同訓練でなくてよかった」というのがある。

 金武基地より十二キロ離れた場所に繋(けい)留してあった大発艇を動かして来て、この大発を目標にして十二隻の艇隊をもってする襲撃訓練を行なうことにした。頃合いは早朝訓練のつもりで準備したが、十時ごろになっていたと思う。
 襲撃訓練を行なうことによって、搭乗員の士気の高揚と艇の保存整備の実状を確かめようと計ったのである。搭乗員の半数(二十五名の奇数艇隊員)を艇隊の方に、一艇に二人ずつ乗せ、あとの半数(二十五名の偶数艇隊員を大発の方に分乗させて、訓練を開始した。

 ほとんど二カ月ぶりに乗る震洋艇の高スピードのエンジン音は、心地よかった。握りしめるハンドルにも思わず力が入り、顔にぶつかる波しぶきが、とてもさわやかだった。
土方からいちやく、震洋艇乗り本来の姿に返り、若い搭乗員たちの血潮をわかした。大発は海岸に近い定位置につき遊弋していた。震洋艇は海岸線に直角に沖に向かって航行した。

 最初、十二隻からなる一個艇隊が、四隻ずつの三縦陣を組んで海岸より約二千メートル沖に出たあと、反転して大発に向かって接敵陣形を整えながら、近づきつつあった。
艇隊の指揮を私がとり、大発の指揮を先任将校の藤本中尉がとっていた。そしてある時期に、艇隊と大発の人員が交替することを予定していた。

 ちょうど、そのときである。金武湾を扼(やく)して並ぶ平安座島、宮城島、伊計島の方を、稜線より低く島陰をかすめるような低空で、艇隊と同行北上する一機の大型機を発見した。
私はすぐ双眼鏡でじっと機影を追った。艇隊からの直距離二千メートル、エンジンを絞(しぼ)っているのか、ほとんど爆音をたてない。あとで考えると、艇隊の後方から猫がねずみをねらうように忍び寄っていたのである。

 われわれが真横から見上げるその大型機は、川西の九七大艇に見えた。しかし、九七大艇が沖縄の空を飛ぶというのは珍しい。(まさか米機では)という懸念がちらっと心をかすめた。しかし、金武の空を一度も見舞ったことのない米機が、しかもこんなに低空で飛んでいるはずがないという心が、それを強く打ち消した。

 しかし、気になる飛行機であった。そこで、そのうさん臭い飛行機をいっときも早くやり過ごそうと思った。私は、艇隊の高速航行のウェーキを消して、できるだけ静かにしようと、艇隊に一時停止を命じた。飛行機はそのまま進んで北上するかに見えた。そのうち機体をグラッと左に傾けて、旋回をはじめた。

 (はてな〜)それまで九七大艇九分、米機一分ぐらいの比率で私の心を占めていた疑念が、音をたてて崩れはじめた。つぎの瞬間、飛行機は、グラッとさらに傾斜を深めた。そのときである、例の特徴のあるコンソリデーテッドB24の二つの方向舵が、不気味にわれわれの目に飛び込んできた。
「コンソリだッ!」思わず私は声をあげた。
(やられる。本番の出撃前に搭乗員を死なせてはいけない)
一秒の何分の一かで私はそう思った。さらに、
(散開するか、いや、エンジンを切っているから、間に合わない)
つぎの瞬間、コンソリデーテッドは高度をガーツと下げて、艇隊に向けて真一文字に突っ込んできた。距離五百メートル、前部の射手の右腕が機銃の引き金にかかり、爆撃手の指がキーに触れるのが見えるようだった。
「間に合わないッ」
私は立ち上がり、後ろを向いて大振りのゼスチャーをしつつ大声をあげた。
「艇を捨てて飛び込め、そして艇を離れろ」
もはや行動で示すほかないと、私自身が即刻、飛び込んで見せた。搭乗員たちもつられるようにして飛び込んだ。
 艇を離れるべく、懸命に抜手を切って泳いだ。しかし、飛行服を着て、飛行靴をはいたままだから、なかなか進まない。それにライフジャケットもつけているので、体がプカツと海面に浮いてくる。

 つぎの瞬間、無人の震洋艇隊目がけて、機銃掃射の水柱がこちらに向かって高々と走ってくるのが見える。艇隊目がけて爆弾を一発落としたらしい。大きな水柱がすぐ近くで上がったので、すかさず立泳ぎをやめて、平泳ぎにかえた。にぷい衝撃波が腹のあたりに伝わってきた。コンソリデーテッドはしばらく与勝半島の方に飛行していたが、反転し、ふたたび二連射目を浴びせてきた。

 こんどの連射でひょっとすると十三ミリの機銃弾が私の背中を撃ち抜き、海が真っ赤に染まるかも知れない。そうすれば、自分の運命もこれで一巻の終わりか、と観念したが、機銃掃射の水煙は、私が浮いている場所から二十メートルほど離れたところを激しく通りすぎて行った。

機銃弾のあげる水柱はかなり高く、等間隔で走り抜けるようにしてすぎた。こういう場合、人間は本能的に水中にもぐって身をかくそうとする。水にもぐったぐらいでどうなるものでもあるまいが、皮肉にもライフジャケットがもぐるのを拒絶し、そのつど、ポカツと浮き上がってしまった。この二回目の機銃掃射が通りすぎて行ったとき、思わず「助かった」と思った。こんどばかりは絶体絶命と観念していたからである。

コンソリデーテッドのあとを追うようにして見ていると、大発がいると思われる海岸の方向で、大きな水柱が上がるのが見えた。海上にわずかに頭だけが浮いた状態の目の高さからは、繰りひろげられている地獄図絵ともいえる敵機乱舞の状況は、よくわからなかった。

数十分とも数時間とも思われる、白昼夢のような一方的な戦闘がやっと終わり、私たちは基地から救助に来た震洋艇に救助された。私が救助艇で海岸に着いたとき、大発の方にいて戦死した二人の搭乗員の遺体を、トラックが荷台に積んで、村の小学校に運ぼうとしているところであった。

村の小学校に急造の救護所をつくり、井阪軍医大尉が重傷者の手当てにあたっていた。彼は一週間ほど前、震洋隊二隊の共通の軍医長として赴任してきたばかりであった。

大発は図体が大きいので、まともに機銃掃射をくらい、爆弾を二発見舞われ、最後は爆弾の直撃を受けて沈没したのだった。
大発の方で指揮をとっていた藤本中尉(予兵三期)も、壮烈な戦死をとげた。
この空襲で先任将校以下十五名の搭乗員が戦死、それに四名の大発乗員、あわせて十九名の戦死者を出した。搭乗員の戦死者の大部分は、大発に乗っていた偶数艇隊の搭乗員である。
艇隊の方からは、たまたま海に飛び込まず、艇上に残っていた辻二飛曹と石田二飛曹の二名が、爆弾の破片で重傷を負った。
この二人は重傷にもめげず、乗艇を駆って基地海岸まで帰り、そこで出血多量でばったり倒れた。
二人は救護所にかつぎ込まれたが、そのうちの一人、辻兵曹が、「隊長は無事か」と苦しい息の下から、周囲の隊員たちに私の安否を気づかってくれた由。二日のちに辻兵曹が息を引きとったとの知らせを聞いたときは、私は急いで救護所にかけつけ、まだぬくもりのある辻兵曹の胸に耳を押し当てた。
「辻兵曹の心臓よ、もう、一度動いてくれ」と叫びたいぐらいだった。

大発に乗っていた者は、コンソリデーテッドが突っ込んでくると、せまい機関室昇降口に殺到した。運悪く、その上を機銃掃射が走りすぎて行った。そこで即死した者が多かった。
また、大発より海に飛び込んだ者は、爆弾の至近弾を受けて大部分が水中爆傷を受けた。大発に残るも死、海上に逃れるも死、まったく地獄絵であった。

私が急ぎ救護所に行ったとき、すでに戦死した者は白布がかけられていたが、半数は重症者でまだ息があった。しかし、意識のない重症者が多く、小野寺二飛曹は、
「八紘一宇、八紘一宇」
の四文字、すなわち当時、軍国少年として育ち、教えられたスローガンを口ずさみながら息絶えていったという。重症者は戦友に見とられながら、つぎつぎに戦死していった。

本当の出撃を待たずして、一方的に丸腰のまま撃ち殺されてしまった彼らの無念を考えるとき、私は事の重大さになかば呆然とならざるを得なかった。大発の乗員四名は、大発と運命をともにしたらしく、遺体さえ上がらなかった。

藤本中尉は最後まで大発に踏みとどまって、指揮していたが、大発沈没のとき、海に投げ出されたらしく、しばらくは遺体が上がらなかった。
一週間もすぎたころ、金武湾のいちばん奥の方にある石川部落の役場から連絡があり、中尉の遺体引き取りにトラックを出した。しかし、遺体は持ち帰らず、そのまま石川に埋葬してさしあげたとの報告であった。藤本中尉は好きなネービーブルーの雨衣を来たままであった由。

沖縄戦はじまる

昭和二十年三月二十三日、米機動部隊艦上機の空襲により、事実上の沖縄戦の幕は切って落とされたのである。
二十四日も空襲はつづいた。いずれも主としてグラマンによる機銃掃射とロケット弾投下であった。その空襲は執拗をきわめた。物量にものをいわせて徹底的にやるのである。大きな建物や船舶はもちろん、しまいには人っ子一人を見つけても銃撃を加えてきた。

上陸を企図しない単なる空襲の接合、従来のケースからは、たいてい二日間で機動部隊は引きあげて行った。だから私は、今回も三日目である三月二十五日は平穏無事な朝を迎えることを願っていた。
しかし、案に相違して、三日日の朝、まだ夜が完全に明けきっておらず、空は薄ねずみ色を呈しているというのに、轟々たる爆音が聞こえて来るではないか。

私はベッドから跳び起きて部屋の窓を開けた。ちょうどそのとき、兵舎の屋根をかすめて三機編隊の戦闘機が、あかあかと翼端灯を照らしながら通りすぎて行った。私は思わず、「味方機だ!」と叫んでしまった。

三機編隊は零戦の編隊の組み方で、グラマンは四機編隊だったからである。てっきり味方の零戦隊が敵を蹴散らしてくれたのだと思った。しかし、その喜びは次の瞬間には、あっけなくけし飛んでいた。
「タダダダタダグッ……」と、けたたましい機銃掃射の発射音が聞こえてきたからだ。
「おやっ」
私は自分の耳を疑った。しかし、事態はすぐに明白になった。飛行機が反転して再度、兵舎の上を通りすぎたとき、先ほどの編隊は三機編隊の斜め後方にもう一機くっついた四機編隊となっていた。まざれもなくグラマンだったのだ。
すると、先ほどの三機編隊はグラマンとしては変則的なもので、零戦に見せかけて私たちをヌカ喜びさせるための敵さんの悪戯でもなかったろうに・・・。私はこの瞬間、「いよいよ来たな」と直感した。つまり沖縄に上陸を企図する敵機動部隊であり、後方に攻略部隊を従えていることを、九分九厘覚悟せざるを得なかったのである。

私はすぐ司令部に無線で、「上陸の企図を持った敵機動部隊ではないのか」と問い合わせた。「どうもそうらしいから、諸準備を撃えておくように」という意味の返事がきた。

昼間は空襲がはげしく、とても外に出られない。ちょうど兵舎にしていた金武公会堂の裏庭つづきに、日秀洞という有名な鍾乳洞の片方の入口があり、昼間はその鍾乳洞に入って空襲を避けた。

夜は兵舎に帰って、眠るようにしていた。鍾乳洞の奥の方には村民がいっぱい避難しており、われわれは入口近くを占拠していた。というのは、通信機を持っていたから、あまり奥に入ると、発受信ができなかったからである。私は即刻、「震洋艇に頭部を装着、エンジンその他、完全に整備しておくように」と寺本基地隊長(兵曹長)と松眞整備隊長(機曹長)に命じた。

幸い、震洋隊基地はまだ発見されていないらしい。ねらわれたのは小学校や製糖工場、それに金武村からちょっと東の方に行ったところにある陸軍の大発艇用桟橋などの、主として大きな建物や建造物であった。金武村の民家もつぎつぎに炎上していった。
金武村にもご多分にもれず、まったく奥行のわからないような巨大な鍾乳洞が数個あり、空襲を避けるための防空壕には事欠かなかった。前記の日秀洞は有名だが、そのほかにも海岸に近いところに天井の高い巨大なホールのような鍾乳洞があり、しかも床面も割と平板なので、その鍾乳洞を兵器、食糧、その他の部隊基地資材の格納壕に当初から使用していた。空襲がはじまってからは、大部分の隊員の防空壕にも充当された。

日一日と空襲は激化していった。小学校もついに炎上、校長先生が敷地内の官舎で、機銃掃射を受けて亡くなり、村民の犠牲者の第一号となった。学校が焼けたとき、わが部隊から消火作業の応援に出た。
さて、全般戦況であるが、三月二十四日になると、早くも敵が姿を現わしはじめた。
「南方水平線上ニ敵艦影数隻見ユ、〇七〇〇」
という見張所発信の電報が入ってきた。
また、
「戦艦六隻ヲ含ム敵有力部隊ガ小禄ノ百二十度、二十キロカラ沖縄南端ニ艦砲射撃ヲ開始セリ、〇八四五」
というのもあった。
三月二十五日午前八時、ついに第三十二軍司令官牛島満中将により「甲号戦備」が下令され、準戦時体制より即時戦時体制へ移行することになった。
「巡洋艦ラシキモノ三隻卜駆逐艦ラシキモノ数隻見ユ。後方ニ輸送船団ヲ従へテイル模様。一五三〇」
と、敵情は刻一刻と具体的になっていった。
いよいよ輸送船団が電報上に姿を現わしはじめた。情報量の乏しかったわが金武基地も、二十五日をもって敵上陸企図の確証をつかみ、急速に出撃準備へ傾斜していった。昼はともかく、夜は徹夜で頭部装着を急いだ。

毎日毎日、中頭(なかがみ)、島尻方面(中・南部)から国頭方面への老人、婦女子の避難がぞくぞくとつづいた。国頭地区への入口、石川から金武湾沿いに金武村へ出て、金武村からさらに東海岸沿いの道路を着のみ着のまま、子供の手を引き、家財を風呂敷に包み、頭の上にのせて、ゾロゾロと通過して行った。
それは空襲を避けながらの難渋な避難行であった。金武村の粗末な木賃宿は、これらの避難民の待ち合わせ場所になっていたようである。

三月二十六日には、ついに敵が慶良問列島に上陸を開始し、沖縄本島上陸の足がかりをつけたのである。

ここで「頭部装着」などという耳なれない言葉が出てきたので、それの概要について述べておく。
機雷長の日野兵曹(一曹)は、基地隊員を指揮して「頭部」を四輪駆動の小型トラックに載せて一の谷へ運んだ。それまでは、海岸沿いの大鍾乳洞に部隊基地資材とともに格納されていた。
「頭部」は松材の木枠で頑丈に包装されており、重いので、取り扱いが大変だった。大鍾乳洞より人力で運び出す。人力で入れたのだから、出すこともできる。
外に出すと、四輪駆動に積み込み、一の谷まで運ぶ。一の谷では、円材でやぐらを組み、チェーンブロックで「頭部」を吊り上げて、一艇一艇の震洋艇に装着していく。
装着した艇は、一・五トン以上の重量となって、ふたたび格納壕のなかに運び込まれる。基地は、未完成であり、地面はそのままの状態で、舗装されているわけでもないので、大変な作業であった。
二の谷、三の谷とは、例の萱ふきの小屋であり、そこまで木枠に入った頭部を、こんどは多分人力で運んだのであろう。機雷長の日野兵曹が現在、病身のため詳しく当時のことを聞き出すことが不可能であるが、回復を待ってしっかり聞き取りしておこうと考えている。

「頭部」とは、すでにおわかりのように、
震洋艇の舳先(へさき)に入れる爆薬のことで、次頁に示すような鉄の容器に入れられていた。
震洋艇が敵艦に体当たりしたとき、舳先が凹むか、こわれた瞬間に、鉄の容器の後ろの部分にとりつけられた二個の電気信管が作動して、二百五十キロの爆薬が起爆するようになっていた。二百五十キロとは、鉄の容器を除外した純然たる爆薬量である。
「鉄の容器は厚さ三ミリほどの鋼板を溶接して成型したもので、重量十〜十五キロぐらいあった。上から見ると扇形、横から見ると台形、一・五メートル立方ぐらいの大きさでやや平たい感じのもので、扇形の片面中央に三十センチ角の窓が抜いてあった。(「一億人の昭和史」所収。「C」を作った少年たち―舟艇特攻「震洋」のかげにー 影山荘一氏、より)
ちなみに三十センチ角の窓とは、爆薬を注入した窓のことである。
二百五十キロの重量であるが、これは神風特攻機「零戦」が抱いて突入して行った爆弾と同一の重さである。ただ違う点は、特攻機が敵艦艇の上部構造物、とくに空母の飛行甲板をねらったのにたいし、震洋艇は「吃永線」をねらい得た点である。
いかにして「頭部」を装着したかであるが、艇の触先の上部にある三角型のハッチを開けると、そこに頭部をおさめる一個の空間が現われる。頭部をいったん吊り上げて、ここにおさめて固定し、付属品の装着まですべてが終わると、ハッチをふたたび閉めて、防水のパテをたんねんに塗る。ふたたび開く必要がなかったからである。

震洋艇が敵艦に衝突したとき、どういう構造で爆発するのか略述してみよう。
この図に見るとおり、頭部容器の本体の方にサメの歯のような鋭い凸超が出ている。もちろん凸起は本体と同じ鉄製で、その凸起をとりまくようにして鉄のベルトがある。鉄のベルトの方は、艇体内壁にとりつけられており、ゴムで被覆されている。容器本体の凸起と鉄ベルトの間隔が、どれくらい離されているのかちょっと数字で示すことができないが、鋭い凸起がゴムの被覆を突き破って、中の鉄のベルトに接触すると電気系路が完結して、電流が流れ、容器本休の後部に二つある電気信管が作動して、起爆する仕組みになっていた。

第一次出撃命令下る

それは三月二十七日夕刻のことである。記録によれば、この日から湊川沖に敵の陽動部隊が現れる。しかし、震洋隊はそれを知らない。
そのころには、部隊兵舎(公会堂)裏の鍾乳洞を引き払い、もっと海岸の震洋艇基地に近い、手掘りの壕(艇の格納壕ではない居住壕で、浅いのが三、四本あった)に部隊本部は移っていた。
兵員はすでに述べたごとく、海岸近くのホールのように天井の高い鍾乳洞を居住区にしていた。グラマン艦上機が連日乱舞して、機銃掃射、ロケット弾、爆弾とひっきりなしに見舞われたが、擬装がうまかったのか、幸いにまだ震洋艇基地は発見されていなかった。兵員も無事であった。
私のすぐ傍で沖方根司令部からの電報を解読していた石井兵曹(二層、暗号)が緊張した声で、
「隊長ッ、重要電報が入っています」
と叫んだ。今日か、明日かと、夕刻近くになると待っていたものが、ついにやって来たのである。
(いよいよ来たな!)
と私は緊張した。第一回目の出撃命令だったせいもあり、武者ぶるいに近いものを感じた。いまの言葉でいえば「本番」で、いままで行なってきたことは全部訓練であり、いくらでもやり直しがきいた。しかし、今回は違う。後にも先にも一回きりでやり直しがきかない行為である。しかも、その行為は自分の命を捨てることである。かねて覚悟していたことなので、特別に怖いという感じではなかったが、決して平常心ではなく、一種独特の興奮状態であったと記憶している。
石井兵曹は暗号を解読した受信用紙を緊張した面持ちで持って来て、
「出撃です」
と言いながら差し出した。まさに初めて出会う第一回目の出撃命令であった。
「第二十二震洋隊並ビニ第四十二震洋隊ハ各隊六隻ノ震洋艇ヲ出撃サセ、中城湾沖、湊川方面ノ敵艦船ヲ攻撃セヨ、但シ敵ヲ発見セザルトキハ速カニ基地二帰投セヨ」

ここで両震洋隊長は、勝手のちがう司令部よりの出撃命令に一種のとまどいを感じたはずである。震洋隊は総数四十八隻の震洋艇より編成されており、二隻の予備艇を含め、五十隻が一個部隊の定足数であった。一個部隊は四個艇隊からなっており、一個艇隊は十二隻 (四隻×三個小隊)の震洋艇からなっていた。

教範上は四十八隻が同時に出撃、雲霞のごとき敵船団に襲いかかる戦法が基本戦法であった。また、一隻の輸送船に二艇が命中せよ、と言われていた。
いわゆる艦艇ではない、たかが輸送船に二艇で命中せよとは、いやしくも人命を積載する震洋艇をあまりにも過小評価しているように思われて、なぜ一艇で輸送船ぐらいは仕留められる兵器にしないのか、と当初はくやしかった記憶がある。

ところで、第一回の出撃命令が全艇同時出撃ではなく、一個艇隊にも満たない六隻ずつとは、ちょっとびっくりした。いろいろ推測してみて、自分なりに命令を納得する努力をした覚えがある。すなわち
@ 二隊で四十五隻プラス十七隻、計六十二隻しかない海軍震洋艇をできるだけ無駄づかいしないように、しかも最大の効果を挙げるべく慎重に司令部が使用しょうとした (ちなみに、陸軍のマルレ艇は全島に七個戦隊七百隻いた)。

A 「敵ヲ発見セザルトキハ速カニ基地二帰投セヨ」
電令のなかの末尾のこの文言を見たとき、真っ先に感じたのは大田司令官の仁愛の情であった。後日、司令官が自決の直前に海軍次官あてに発せられた「・・・沖縄県民かく戦へり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」の有名な電文に一脈通ずるものを感じとったからである。
それまでに私は、何回も大田司令官の謦咳(けいがい)に接していた。それは公式の面接であったにもかかわらず、覆うことのできない提督の暖かい心をひしひしと感じさせられていた。
特攻隊員が会敵を果たさず基地に返ることの大義名文を、あらかじめ与えておこうと考えられた配慮のたまものではなかったろうかと思う。
それとは別に、未完成な基地の整備状況からして、出撃準備はたいへん時間を要する作業であった。一回の出撃で一個艇隊の泛(えん)水(すい)が精一杯であったと言ってよい。四十八隻を一度に海に浮かべるなどという芸当は、とてもできない相談であったとも思うのである。

さて、当夜の出撃指揮官であるが、この期におよんで誰が先に出撃して誰が後からなどということはまったく議論の外だと考えた。私より上級者がいたら、もちろん私が先陣をうけたまわるが、私は全部の震洋艇を使い切り、最大の効果をあげ、そのうえで残艇を率い最後に出撃を果たそうと考えた。

命令の内容からして、当夜の出撃は、わが隊は先任将校の藤本中尉が先のB24の急襲のさいに戦死していたので、第四艇隊長の岸本兵曹長が先陣を切ることになった。

搭乗員は、第二艇隊と第四艇隊員が同じくB24の急襲のさい、大発艇側にいて多数戦死して、櫛の歯が抜けたような状態であったので、仕方なく、搭乗員は第四艇隊ということではなく、だいぶ混成であったように記憶している。
現に第一艇隊より先任搭乗員の市川兵曹(二飛曹)が入っている。市川兵曹はのちほど、第三次出撃で敵艦に突っ込み特攻戦死をとげるのだが、彼は二回出撃しており、当夜は第一回目であった。

出撃準備は順調にはかどっていった。基地隊員、なかでも震洋艇の搬出、陸揚げを主要任務とする補充兵(一水)が胸まで海水に浸りながら活躍した。

艇は頭部(二百五十キロ)を装着しているので、重量がぐっと重くなっていた。わが隊が持っていた震洋艇は、すべていちばん初期の一型艇で、その要目は次頁のとおりである。
時期的には後半に配備された二人乗りの五型艇と併せて記載しておく。

第四十二震洋隊に配備されていた艇は、一型艇ではあったが、ロケットの砲座が少し改良された、いわゆる一型の改良型であった。
艇は泛水(えんすい)すると、普通のモーターボートの抽先に大関小錦よりもっと重い力士が一人乗ったような感じで、吃水練が沈み、艇首が艇尾より前のめりに沈んでしまう。
そこでバランスをとるために、艇尾の方にはバラストを積む。そうするとバランスはとれるのだが、全艇的に吃水線が沈み、軽快で知られた震洋艇も、とたんに鈍重な感じになった。
したがって、頭部を積載しない空身の艇で、しかも鏡のごとき平水で二十三ノット(時速約四十二キロ)出た速力も、実戦ではとてもそんな速力は出なかった。

出撃作業の途中、出撃艇ではない別棟の格納小屋のいちばん奥の艇を、整備員か整備中に発火させてしまった。艇を一隻燃やしてしまい、危ういところで類焼をくい止めたが、幸いまだ頚部を装着きれていない場所の艇であったので助かった。誰かが、

「頭部は入っていないぞ―」

と叫んだ声が印象的だった。もし、頭部が入っていたらと思うと、ゾーツとする。

このように震洋艇の発火事故は震洋隊全体に頻発したが、その原因と思われることにここでちょっと触れてみる。

当時の整備兵長の証言によれば、震洋艇には青い色をした航空ガソリンを使っていた。石油缶を横に切ってつくった粗末な漏斗(じょうご)で二個の燃料タンクにガソリンを入れていたが、そういう大雑把(ざっぱ)なやり方だったので、どうしてもガソリンがタンクの外に漏れてしまう。

そのガソリンが高気温のため、機関室内で気化しているところへ、絶縁の悪い配線部分のスパークが飛び、発火事故につながった。言ってみれば、まことに原始的な事故原因であるが、当時はもはや、そういうことをかまっている暇さえなかったと言ってよい。

この火災騒ぎのとき、沖方根司令部より豊田連合艦隊司令長官から贈られた「護国刀」つまり、白サヤの部分に豊田長官の署名と「護国」の揮毫(きごう)がなされた短刀を、出撃搭乗員全員に渡るように、司令部の水兵長が届けてくれた。

出撃に間に合うように決死の思いで、敵の砲爆下を届けてくれたのである。さっそく、有難く拝領して一振りずつ配ったが、菊水の地模様の(にしき)の袋におさめられた短刀であった。

出撃の搭乗員は、この日のために準備していた真新しいマフラーで襟元を覆い、ときおり白い布で固く小さく包んだものを、首からぶら下げている者がいた。

「岡田兵曹は一人か……」

と誰かが、すでに震洋艇に乗り込んで海上試運転をしていた搭乗員に声をかけた。

「ウーン、コジがいるッ」

見てみると、首に白い包みをぶら下げている。「コジ」とは先の三月十四日、B24の急襲で志なかばにして無念の戦死をとげた戦友小島兵曹のことである。その遺骨を分骨したものを、(くび)からぶらさげているのである。

一緒に出撃行に連れて行こうとする「戦友愛」であった。ほかにも同様の搭乗員がいた。

さて、基地隊の努力により、泛水作業は着々と進んでいったので、ころ合いを見計らい、私は「搭乗員整列」の号令をかけた。

場所は海岸に近い、松の疏林からもれる月光の下であった。丸太を組んだ壇上の私と、岸本艇隊長ならびに六名の出撃搭乗員の顔面を月が照らし、一種荘厳の雰囲気をかもし出していた由。生き残った基地隊長がひとしく、このときの状況を心の奥に刻み込んでいる。

これらの基地隊長の中には、若い整備、工作、通信などの志願兵も多くいて、出撃搭乗員と同じ年ごろであったせいで、感激したのだった。基地隊員は手空きの総員が集まって、結隊いらい、この日のために備えてきた思いで、第一回の出撃搭乗員を送る位置についた。

私は弱冠二十二歳の隊長ながら、司令部からの命令を左記のごとく伝えた。

「出撃命令を達する。岸本艇隊長は、市川兵曹以下六名の搭乗員を率い、震洋艇六を駆って出撃、第四十二震洋隊の六隻と協同し、中城湾沖ならびに湊川方面の敵艦船を攻撃すべし。ただし敵を発見できざるときは速やかに基地に帰投すべし」

搭乗員はたった一回、水路見学で湾外に出たことがある。しかし、艇隊長の誘導よろしきを得れば、湾外に出て攻撃海面にたどり着くぐらいは簡単である。

攻撃海面にたどり着けば、それから先は内地で行なった訓練のとおり実行すればよいのだと思った。

岸本艇隊長よりさらに細かい指示があり、訣別の水盃を交わした。

生き残った基地隊員の回想によれば、隊長の顔も、出撃隊員たちの顔も緊張していたが、その顔に月光と松の梢の影が交互にかかり、なんとも神々しいばかりの雰囲気であった、と声をそろえて回想する。

私は出撃搭乗員の一人一人と別れの握手をした。

「しっかり頼むぞ」と言うと、

「はいッ、しっかりやります」

という大声の返事がかえってきた。十七歳から十九歳ぐらいまでの搭乗員たちの瞳は、一様に澄みきっていた。搭乗員はすべて奈良空甲十三期出身者であった。

海に浮かべた艇は、基地隊員が舫索(もやいつな)を持っていたが、岸本艇隊長の「乗艇」の号令で、基地隊員が搭乗員を肩車に乗せて胸まで海にひたり、艇に移乗させた。

補充兵の春本一水も、宮下兵曹(二飛曹) を肩車に乗せて海のなかに入りながら、

「宮下兵曹は、俺の子供ぐらいの齢で、かわいかったもんなあ」と涙声だった。

エンジンの始動が終わると、肪索を離し、つぎつぎに艇は沖に出て行った。そして集合地点で隊形を整えると、第四十二震洋隊と連絡をとりながら湾口に向けて出撃していった。

時に時刻は午後十時、出撃準備にとりかかってから四時間はどの時問が経過していた。

残された隊員たちは、騒々しく出撃作業が行なわれたあとの基地の後始末をする者、艇の整備をする者、洞窟に帰って行く者、しばらく海岸にたむろして感慨にふけっている者など、さまざまであった。

私は出撃して行った艇隊の壮途を見守る気持から、居住壕に戻らず、出撃艇が出て行った後の空小屋に入り、そこで仮眠をとることにした。砂の上に帆布を敷き、ひとり横になった。そして、しばらくは感慨にひたりながら目覚めていた。出撃艇隊のことを考えていたのである。

小屋の周囲には低いアダンの茂みがあり、黒々とした影を小屋の上に投げかけていた。海から吹きあげてくる生暖かい湿気を多く含んだ潮風に、(ほお)をなぶらせているうちに、慌しかった先ほどの出撃準備の疲れが出たのか、うとうとと眠りに落ちて行ったようである。

つぎに私が深い眠りから目を覚まさせられたのは、明け方の四時近くであったろう。まだあたりは暗かった。

「部隊長、部隊長」と私を呼び起こす声が夢うつつに聞こえてくる。どうも私のそばに人が立っていて、その人が呼んでいるらしい。その黒い人影は誰か。

「市川兵曹以下六名……敵を発見できず・・・・帰って参りました」

言葉が切れ切れに聞こえてきた。私は徐々に目が覚めて、岸本艇隊長以下、第一次出撃艇隊が戻ってきたことをやっと確認できたのである。

そのときのことを故島尾敏雄氏(作家、元第十八震洋隊長)が『震洋発進』という連作短編のなかで書いているので、その文章を以下に引用させていただく。

「しかし、次の日の明け方近くなって、思わぬことには、全艇がそのまま基地に戻ってきたのである。T中尉はしばらくそれを信ずることができなかった。特攻隊は出撃したら帰って来ないと、思い込んでいた。しかし全艇は無傷で帰って来た。目指した海域に敵艦船が認められなかったからであった。会敵しなければ帰投するほかはあるまい。T中尉は新しい状況に直面したことを覚った。

命令の中城湾湊川沖という表示も曖昧(あいまい)あったようだ。湊川沖は、実際は中城湾の外の海域に当たり、その間には()(だか)島や無数の珊瑚石灰岩礁が横たわっていてかなりの距離があった。ただ突進しさえすれば到達できるものでもなく、まして容易に敵艦船に遭遇できるわけでもなかった。しかも昼間とすっかり周辺の様相が変って見える深夜の行動であった。彼等は長い、長い不安に満ちた夜の航行に疲れ果てて、最後に帰投の道を選んだのであろう。言うにいえぬうしろめたさを覚えながら。しかし夜の明けぬうちに行動の決着をつけなければ、空しく敵機の餌食となるだけであった。手動の簡易ロケット弾二発を装備するほかには、ただ体当りで突込むだけの震洋には飛行機に立ち向かえるどんな戦闘力も備わっていなかった。震洋特攻戦の持つこの未熟の状況はC兵器創出当初からの宿命だったといわなければならない。同時に出撃した第四十二震洋隊の方の出撃艇も同様に全員空しく帰投した。

(注、T中尉は豊廣中尉、C兵器とは震洋艇の別称)」

第四十二震洋隊の出撃

第一次出撃の三月二十七日における全般戦況は、八原元第三十二軍高級参謀の手記『沖縄決戦』によれば、次のとおりである。

「敵の沖縄本島上陸の企図が明白となった今日、我々のもっとも知らんと欲するのは、いずれの地点に上陸するかにある。慶良問群島の攻略後、敵艦隊の重点は漸次嘉手納沖に移動しつつある。三月二十七日軍参謀長はこの状況を見て私にどうも敵の上陸点は嘉手納沖のようだぞ』と申される。私もそう判断せざるを得ない状況となってきた。他面南部湊川沖における敵艦隊の行動も活発で軽視を許さない。三月二十七日夕方における敵情判断は次のとおりであった。即ち、(判決) 

『敵は主力をもって北、中飛行場沿岸に上陸するとともに、一部をもって湊川正面に上陸するか、もしくは陽動し、主力の上陸作戦を容易ならしめるならん』

翌日の三月二十八日に該当するところには、

()し、敵が有力なる一部をもって湊川に上陸すればこれを各個に撃滅する態勢を確立し」とか、「砲兵主力は現陣地にいて随時火力を湊川正面に集中しうるごとく待機す」あるいは、「独立混成第四四旅団、第二四師団は概ね現態勢にあって随時湊川正面戦闘の配置につきうるごとく待機する」とある。

終始、湊川正面の陽動にわが第三十二軍は牽制(けんせい)され、目に物見せんと手ぐすね引いていたようだが、敵の行動が結局、陽動にすぎないことが断定され、諸部隊が旧陣地に復帰せしめられたのは、四月五日であった由。

四月一日には幾度となく数十隻の上陸用舟艇が海岸すれすれに近接し、「敵は上陸を開始しました」

との報告を受けたことさえあったという。該方面で手ぐすねひいて待っていた陸軍部隊はもちろん、軍首脳部も再三、各個撃破の好機到来と、ぬか喜びさせられたということである。

ところが、残念なことに震洋隊は、三月二十七日の時点の第一次出撃のときはもちろん、沖縄戦の全期間を通じて、湊川沖で敵の陽動作戦が演じられたことを、誰も知らなかった。あるいは、敵情として知らされていなかったといってよい。このような戦況下において、震洋隊は出撃を命じられていたのである。

三月二十九日の夕刻、第四十二震洋隊に第二回日の出撃命令が出た。

「第四十二震洋隊長ハ全残艇ヲ率イ出撃、中城湾、湊川方面ノ敵艦船ヲ攻撃スベシ」

電令の内容で第一回目とちがう点は、「全残艇ヲ率イ」という文言と、「敵ヲ発見セザルトキハ速カニ基地二帰投スベシ」という文言が付されていないことが特徴であった。

司令部からの第四十二震洋隊あての電報は、第二十二震洋隊(中継)で第四十二震洋隊に送られてきた。それは第二十二震洋隊の受信機の感度が比較的よかったからである。そのためであろうか、私はこのときの電文をよく覚えている。

私もこれからの後、最後の出撃をするわけだが、そのときの電令もおそらく右のような文言になるものと推測した。

それはそれとして、井本隊長の出撃を見送ろうと思った。前述のとおり井本隊長も、津川沖の敵陽動作城のことは知らされていなかったはずである。「中城湾、湊川方面ノ敵艦船ヲ攻撃セヨ」が唯一の敵関連情報であった。

井本隊の震洋艇は、われわれと同じ一型艇であったが、部分的には多少改良されていた。第一に、ロサ弾(十二センチロケット)の発射台が、仰角がかかるようになっていた。第二十二震洋隊の艇は、発射台が搭乗員の両サイドの甲板に固定されていた。

井本隊の艇は新しいせいもあり、故障艇も少なく、優秀であった。第二十二震洋隊の艇はすでに一カ月余も、海風にさらされたので、多少老化がはじまっていたのか、故障艇が多かった。

井本隊のは、リヤカーも車輪が丈夫で、艇の荷重を充分支えられるものに統一されていた。井本隊は金武基地の自隊エリアから震洋艇の擬装をはずし、全十五隻をものの見事に泛水させた。最後に隊長艇が泛水されることになった。

出撃に際し、もの凄い感傷が全隊員の脳裏を走ったのは、第二回目の三月二十七日の出撃のときだけであった。

しかも言ってみれば、他隊の出撃である。私たちは整々とした第四十二震洋隊の出撃準備をじっと見守っていた(もちケん、手を貸すべきところは、いつでも手を貸せるような態勢をとりながら)。

井本隊長はなんと陸上で震洋艇の座席の後縁に腰かけて、そのままゆらゆら揺られながら搬出されてきた。飛行帽、飛行服、ライフジャケットに身をかため、腰に愛用の尺八と護国刀を手挟んでいるではないか。

「これは見事な武者ぶり!」

おそらく、搭乗席のなかには拳銃、軍刀も入れてあるに違いない。

「敵に遭遇せざるときは島尻地区に上陸、沖方根司令部に合流して陸上戦闘に参加する」

というスケジュールが、すでに井本隊長の心の中にあったものと推定する。井本隊長が尺八の名手とは寡聞(かぶん)にしてきいていなかったが、出撃と尺八とは風流な取り合わせで、死にゆく人の心の余裕を感じさせるものがあった。

 私は思わず隊長艇に駆け寄り「井本さん」と大声で呼んだ。私は准士官にたいして○○兵曹長と言わず、「○○さん」とよく呼んだ。そのクセで、井本中尉といわずに「井本さん」と呼んだのであろう。

しかし、井本隊長はすでに地上との縁を絶ち切っていたのか、搭乗席のなかに両足を垂れて後縁に腰かけ、両手で体を支えながら、両眼ははるか彼方の与勝半島の上にひろがる中城湾の上空を凝視しているようであった。

私の呼びかけは隊長の耳に届かなかったのか、それに応えることもしなかった。出撃前、井本中尉と私の二人の隊長は、じっくりと話を交わすひまもなく、ただ慌しく敵を迎え撃つことになったのである。

十五隻の震洋艇を泛水するのであるから、先に出た艇は金武湾内を遊弋していた。そのうちの一隻が突然、発火して燃えはじめた。ついに第四十二震洋隊にも発火事故が起きたのである。発火した艇は、海岸から三〜四百メートルの沖合に出ていた。最初チョロチョロと見えていた火焔は、しだいに大きくなって、ついに全艇を包んで燃えはじめた。搭乗員はどうしたろうか。多分、海に飛び込んで海岸に泳いで来るだろうと、これはあまり心配しなかった。ロサ弾がいまに発射されるぞ、どこに向かって飛んでくるかわからない状況ながら、海岸に居並んで出撃隊を見送る者たちは、意に介しない風に見えた。

そのうちに、「シューッ、シュシュシューッ」という噴射音とともに、真っ赤な火を噴きながら、ロサ弾が目にもとまらぬ早さでつづいて二発発射された。発射方向はわれわれがいる海岸に向かっている。

しかし、発射された瞬間、われわれの居る場所とは随分ずれた方向に向かっていることがわかったので、そのままの姿勢で、ロサ弾の行方を見守っていた。

ロサ弾はわれわれの右手頭上をとび越えて、基地をはずれた斜め後方百メートル付近で爆発した。これは幸運であった。

そうこうしているうちに、こんどは頭部の爆発である。ロサ弾より三〜四分後だったろうか、真っ赤な火柱が天に(ちゅう)するがごとくに噴き上がり、閃光が海岸を貫いた。

灰白色の水柱が高く上がった。爆風は海岸にいるわれわれのところまで届いた。

そのあと、しばらくして、搭乗員はやはり自力で海岸のわれわれのところまで泳いでたどりついた。男のクセに少し泣きペソをかいているような顔であった。

(やはり、本当は子供なんだなあ)

と、それを見ていて私は感じた。しかし、当の彼らにしたら、三〜四百メートルの距離を飛行服を来たまま、無我夢中で泳ぎ切って、倒れ込むようにして助け上げられたときの顔であったからだ、というであろう。

しかし、そのときの青柳二飛曹も、湯浅二飛曹(現姓近松)の手記によれば、恩納岳の陸上戦闘で壮烈な戦死をとげた由。

こうして出撃して行った第四十二震洋隊の戦果は、どうであったろうか。先の第一次出撃では、敵影を見ずに全艇帰投したので、気になるところであった。

翌日の沖方根司令部の戦況報告電によれば、「金武湾方向二火柱一本ヲ認ム。震洋隊ノ壮烈ナル戦果卜思ワレル」

と報ぜられた。この電報に異議を申したくはないが、当時、この電報を見たとき私は、これは見張所が金武湾内の昨夜の震洋艇の発火事故を誤認して報告したものだと直感した。

井本隊長の出撃も、敵の巧妙な「韜晦(とうかい)作戦」にひっかかり、中城湾、湊川沖に到達したときには、敵艦船はすでに付近にはいなかった。徹夜で索敵したが、ついに翌日の夜明けを迎え、あきらめて中城湾内の馬天港沖に帰投してきた。

ちょうど、そこをグラマンに襲われ、艇隊はちりぢりになった。搭乗員は馬天近くの陸岸に泳ぎつき、井本隊長以下七、八名はそのまま陸伝いに沖方根司令部に行き、司令部と行をともにして、後刻、全員が玉砕した。

あとの国場艇隊長以下の九名は、索敵をしているうちに井本隊長を見失ってしまい、別行動となり、これも明け方、中城湾に帰ってきたところを敵グラマンの攻撃を受けた。そこで、海に飛び込んで海岸まで泳ぎつき、陸軍の野砲で震洋艇を処分してもらい、陸伝いに屋嘉の第四十二震洋隊の基地まで帰ってきた。基地にたどりついたのが、四月一日の早朝であった。四月一日とは、敵が上陸した日である。

敵の上陸正面である嘉手納のすぐ近くを、艦砲に追われながら屋嘉の自隊基地に到着したわけである。この九名はのち国頭地区の邀撃戦に参加し、国場艇隊長以下七名までが恩納岳、その他の陸上戦闘で戦死した。(湯浅元兵曹(現姓近松氏、元四十二震洋隊搭乗員) の手記『第四十二震洋隊』ならびに公刊戦史などを参考に記述)。

独断第二次出撃

翌三十日夜、井本部隊の一隻の震洋艇が金武基地に帰投した。その搭乗員の連絡によれば、昨夜、機関故障で本隊より脱落してしまい、今日の昼間は島陰にかくれて空襲を避け、暗くなるのを待って帰って来たということであった。

その帰投の途中、中城湾沖に巡洋艦など多数の敵艦船がいるのを確認したというのだ。いま出撃すれば、会敵間違いなしです、ということであった。連絡を受けた時刻は午後八時ごろだったと思う。

この搭乗員のもたらした敵情報を、私は貴重な生情報と受け取った。時機を失せずただちに一個艇隊を独断出撃させ、この敵艦艇を攻撃しようと決心した。敵が移動しないうちに、一刻を争って出撃する必要がある。私は発電機を回して送信し、司令部の指示を待っている暇はないと判断した。

当夜の出撃準備はじつに順調にはかどり、十二隻一個艇隊が見事に泛水した。

この晩は、第三艇隊長の中川兵曹長が、

「今夜は私に行かせてください」と自ら艇隊の指揮を買って出た。出撃艇隊が出て行ったのは、午後十一時ごろだった。

さて、一夜が明けて三月三十一日の朝が近づいていた。第一次出撃艇隊が帰ってきた時刻をすぎても、今回の第二次出撃艇隊は帰って来なかった。

私はうまく会敵してくれたのかと、感無量な気持で海岸に出ていた。やがて金武湾は朝霧のなかに白々と明けそめた。それでも出撃艇隊は帰って来なかった。

そろそろ敵機がやって来る時刻が近づいていた。私は、

(もし、仮にこれから出撃艇隊が帰って来るようなことにでもなったら、大変だぞ)という危惧がチラッと頭をかすめた。その危倶がまだ頭から消えないうちに、

「出撃艇隊が帰ってきます」

という、誰かのするどい声が聞こえてきた。私は自分の気持を裏書きされたような思いで、双眼鏡を目に押し当てた。すると、出撃艇隊が息(せき)切って″という表現がぴったりの様子で、基地に帰ってくるところだった。(やはりタメだったのか)と私は肩を落とした。

もはや一個艇隊の震洋艇を陸上に引き揚げる時間的余裕はなかった。引き揚げの最中に執拗なグラマンに喰いさがられたら、揚陸中の艇はもちろん、基地がまるごと破壊される恐れがあると思った。

そこで、海岸線のどこか適当なところを見つけて艇を隠すことにした。ちょうど、基地より少し西の方のはずれたところに、入江のように窪みになったところがあった。しかも、砂浜近くまでユナギの木が生い茂り、その枝が大きくひろがって、窪みの上に蔽いかぶきっている。その入江のような窪みに、急ぎ十二隻の艇を繋留して、艇の上にかぶせられるだけのアダンの木をかぶせて擬装することにした。

(これなら隠しおおせる)

と思ったので、作業を終えたあと、隊員たちはそれぞれの居住壕に帰った。

その日の空襲はとくにはげしい空襲だった。私のいた本部居住壕の近くにも相当数の爆弾が落ちた。そのたびに壕が揺れ動いた。

そのうちに、外気がクラッとするような鋭い閃光とともに、ひときわ激しく揺れ動いた瞬間があった。私は繋留された艇が発見されないことを、ただひたすら祈った。

狂気のような一日がすぎて、また夕刻が近づいていた。私たちは空襲が終わるのを待ちかねたように外に出た。居住壕の付近にはだいぶ爆弾の穴があいていた。

だんだん空襲は基地の近くに迫って来ているようだった。急ぎ繋留した艇の様子を確かめるため、入江に降りて行ってみた。

ところが、まさかと思っていたことが現実となり、私たちは愕然とした。驚いたことに、一個艇隊の震洋艇がただ一片の破片さえも残さず、見事に消えていたのである。まったく神隠しにでもあったような感じであった。

波だけが、何事もなかったように波打際に寄せては返していた。ユナギの繁茂した窪みが山火事を起こしたらしく、だいぶ広範囲に燃えていたが、火事はすでに自然鎮火していた。

やはり十二隻の震洋艇は、不運にも敵機に発見されるところとなり、瞬時に大爆発を起こし消え失せたことを、私は確認せざるを得なかった。

昼間のひときわ激しい閃光を伴った爆発音が、それであったのだろう。これで基地がすっかり発見されてしまったようだった。

それ以後、格納壕に格納しきれずに小屋の中においであった艇が、三隻、四隻と爆砕されていった。

頭部の爆発の強烈なことの例証として述べるが、地上の震洋艇は頭部の爆発により、浅く土が掘れているだけで、リヤカー(艇運搬車)ごと影も形もなくなっているのである。私は、勝手きわまる第二次出撃行の経緯と艇の損耗について、沖方根司令部に報告した。折り返し司令部から返電がきた。頭からひどい叱責を受けることを覚悟していたが、それは、

「死を急ぐのみが特攻隊の道に非ず、万事慎重に事を決すべし」というような電文になっていたと思う。

大田司令官の心配気な顔が見えるようで、まことに申し訳なかった。

この第二次出撃の失敗が、第三次出撃に尾を曳くことになる。口幅ったいことを言うようだが、戦闘というものは、小さな一つ一つの事象の積み重ねにより、または指揮官の一つ一つの対処の仕方の是非により、最後の勝利へも、また敗北へもつながって行くものだと思う。まことに強い因果の糸に結ばれているようである。

また、第二次出撃のときが、第二十二震洋隊の戦力として最高潮のときであった。

私が考えていたように、全艇使いきってなどということは、まことに虫のよい話で、戦闘は六分の利、あるいは六分の成功をメドとして、力を結集すべきではなかったろうかと反省させられるのである。

第二次出撃・静かなる特攻

四月三日の午後、金武湾沖にはじめて敵艦が姿を現わした。たしか陸軍の大発艇の桟橋が金武岬近くにあって、そこに駐屯している陸軍からの視認情報であったと思う。昼間の織烈な空襲にも、台風の日があった。私は空襲の合間をねらい、それを自分の日で確かめるため、自転車に乗って出かけた。

金武村のはずれ、金武湾口がすぐ近くに見えるあたりまで行くと、金武湾外が望まれた。自転車を降りて、松林のなかに入り、双眼鏡で金武湾外に目を走らせた。

いた、いた。二隻の敵艦が・・・。静かに艦首を北向きにして単縦陣を組んで遊弋している。金武湾口から東方三千メートルぐらいの距離に見えた。細身の二本の煙突が中央にまっすぐ立った、前檣の小さな艦。一目で駆逐艦とわかった。ゆっくり遊弋しているので、掃海をしているように見える。掃海、すなわち上陸準備という図式が、単純に私の頭のなかに先入感として焼きついた。

硯認できる敵艦は二隻のみで、あとは伊計島の島影に遮られているのかも知れない。(しかし待てよ、もし仮に金武岬付近に上陸を企図するのであれば、艦砲射撃をするはずだが、ないところを見ると陽動かな)という疑念も私の脳裏をかすめた。私は急ぎ基地に帰り、敵情として司令部あてに、

「金武湾沖二敵躯逐艦二隻見ユ。掃海中ナルモノノ如シ。一四〇〇」

と打電しておいたが、司令部からそれに対する指示はなかった。しかし、その日の夕刻、ついに第三次出撃命令が出たのである。電令の内容は、

「第二十二震洋隊ハ一個艇隊ヲ以テ出撃、湊川沖ノ敵輸送船団ヲ攻撃スベシ。但シ敵ヲ発見セザル時ハ基地二帰投スベシ」であった。この電令内容がいままでのものと違う点は、攻撃海面が「中城湾、湊川沖」から「湊川沖」だけになっていること。攻撃目標が「敵艦船」ではなく、「敵輸送船」にしぼられていること。井本隊長が出撃したときは、「敵ヲ発見セザル時ハ基地二帰投スベシ」の最後の文言が削除されていたが、今回はまた、ついていることであった。

そこで私が考えたことは、およそ次のようなことであったと記憶している。

@ 攻撃目標が敵艦船でなく、敵輸送船となっているのに、やや気勢をそがれる。

A 中城湾沖と湊川沖は同一海面とも見てよく、単一に湊川沖となっていてもさしたる意味の差はない。

B 前後三回の出撃があったが、三回とも敵影を発見できず空しく帰投するか、井本隊長のごとく陸戦に移行している。沖方根司令部の敵情認識はいったい大丈夫なのか。昼間はいても、夜はいなくなることだってあるではないか。そこの見きわめはできているのだろうか。夜は見張所も視認できなくなるから、震洋隊自身が自分で確かめることがいちばん確実なことではないのか。・・・などと少々第二十二震洋隊隊長としては、あせり気味であった。

現在から考えるに、湊川沖の敵陽動については、沖方根司令部はもちろん、第三十二軍司令部ともよく連絡がとれており、湊川沖の敵攻略部隊の動勢はわかっていただろうが、八原元参謀の手記にあったごとく、まだ、四月三日の段階では、「単なる陽動である」とは見破っていなかった。

われわれ震洋隊が知っていることは、攻撃命令に出て来るごとく、中城湾、湊川方面にいるらしい敵艦船、あるいは輸送船団のことであった。それ以上の細かいことは全くわからなかった。

さて、さっそく、隊を挙げての出撃準備に取りかかったが、当夜の震洋艇の泛水にはたいへん手間どってしまった。前二回の出撃に、どうしても出しやすいところの艇が先に使用されたらしい。海岸線より奥まった箇所にあり、誘導路の道路が長い場所の艇が当日の使用艇となった。震洋艇は自重だけでも一・三五トンあるうえ、二百五十キロの頭部を装着すると、一・五トンを優に越える重量である。震洋艇を搭載して陸上に格納し、出撃のとき、水際まで震洋艇を引き出す大型のリヤカーには、二種類あった。車輪の矢が木製のものと、自転車の車輪のように鋼線のものである。この鋼線のものが鬼門であった。どうしたわけか、当夜の艇搬出には、鋼線のものがだいぶ混じっていた。入口の方から順々に引き出して行くので、木製のものだけを選別しているひまはなかった。この鋼線リヤカーは、震洋艇を積載してじっと停止しているとか、平坦地を移動する程度なら、爆走した震洋艇の重量に十分たえられた。

しかし、誘導路が十度とか十五度ぐらいの傾斜地となっており、しかも若干の凹凸があったので、大変な難渋をすることになった。

もともと、車輪止めをしてあったのをはずして引き出すのであるから、後ろからロープで大勢かかって引っ張って制動しても、ズルズルと艇に引きずられる格好となった。

震洋艇のすべり降りようとする力と基地隊員が綱引きのように後方に引っ張っている力が相拮抗しなから、ソロソロと震洋艇は海の方へ降りて行った。

均等の速さで降りて行くのなら、まだ調整もつこうものを、ちょっと力をゆるめると、ズズツとスピードがついてしまう。

スビードかついたときに車輪の下にわずかでも凹地があると、その凹地にドスンと車輪がはまり込んでしまって、瞬間的に過重がかかる。そのため、鋼線の矢の華奢(きゃしゃ)な車輪が、飴細工のようにゆるゆるとへしやげてくるのだった。

 擱坐したら、もうリヤカーはテコでも動かない。仕方なく三本の丸太でやぐらを組み、チェーンブロックで震洋艇を引っ張り上げ、リヤカーを木製矢のものに入れ替える作業をせねばならない。

入れ替えが終わるまで、下手すると小一時間もかかる。前がつかえているので、後ろの艇は出せない。

リヤカーの擱坐のもう一つの例は、やっと誘導路を無事通り抜けて砂浜に出てから、砂浜に敷いた厚板を車輪が踏みはずして、砂浜に車輪をめり込ます事故だった。

そうするとリヤカーはまた、テコでも動かなくなる。意地悪く、そこにあぐらをかいて、泣いても、わめいても、蹴飛ばしても動かない。仕方なくまた、やぐらを組んでチェーンブロックで引き揚げる作業を繰り返すのだった。

刻々と出撃時刻は迫る。私は他にまかしておけず、自ら作業場に立ち合って搬出作業を指揮し、基地員を叱咤(しった)した。当夜はそういう擱坐事故が三回あったと記憶している。

出撃時刻までに、わずかに六隻がやっと泛水できた。しかも一隻は泛水したものの、機関の具合が悪く、出撃できない情けない状態だった。

前述のとおり、当夜の震洋艇泛水作業はたいへん手間とった。はや、午後十時の出撃刻限をすぎようとしていた。当夜の出撃艇の指揮は私がとることにした。

しかし、私は、当夜は出撃艇の誘導にあたり、運よくば、基地に帰り得たらもう一度、最期の出撃を翌夜にでもなし、井本中尉のごとく残艇を率いて敵に突入するつもりであった。そのときこそ司令部の電令から「敵ヲ発見セザル時ハ基地ニ帰投スベシ」という文言が消えるはずだと思った。

その夜に限り、夕刻以来、われわれが出撃作業をつづけている間じゆう、艦砲射撃らしい砲声が金武湾外の方で聞こえるのである。

しかし、艦砲射撃にしては、どこをねらっているのか、さっぱり弾着の閃光が認められない。砲声だけは夜のしじまを破って割と近く「ガーン、ガーシ」と聞こえている。

あるいは、逆に日本軍の海岸砲が敵を撃っているのかとも思えたが、音だけでさっぱり正体かつかめない。昼間の金武湾沖の掃海(?)といい、夜の艦砲射撃といい、強いて結びつけようとすれば、敵は夜陰に乗じて、東海岸のわれわれの基地の近くに、上陸を(くわだ)てているのではなかろうか、という想定がなりたたないでもない。いずれにしても「敵は近くに在り」という確信のようなものが、私の心を占めつつあった。

昭和二十年四月三日の気象情況を最近気象庁資料部に問い合わせて調べて貰ったところ、沖縄金武湾における満潮は午前九時四十二分と午後十一時の二回、干潮は午前三時四十三分と午後四時二十分の二回、月齢は、四月十四日がゼロ日の新月だから、三月二十九日が十五日の満月、したがって、四月三日は「二十日の月」との由。

私は「八日ぐらいの半月」と記憶していたが「二十日の半月」が正しい。すなわち三日月より少し大きい半分の月である。

昭和二十年四月三日当夜の十時ごろは、下弦の半月が東天にかかり、雲量〇・五ぐらいの晴天であった。潮の干満はあと一時間で、満潮で、潮の流れは外洋から湾内に向いていたーと位置づけてよい。

つまり、海上で西方から東方の敵を攻撃するには、有利な月明であった。ただし、こちらも下手をすると発見されるおそれがあるから、当夜の出撃行は、できるだけ海岸線に近く接岸して行くことにした。それかといって、あまり接岸すると、暗礁に乗り上げるので危険だ。

宮本二飛曹が操縦し、私は操縦席に足をおとして艇尾に腰かけた。後続艇は黙々とついて来た。五隻の艇には二名ずつ乗っていた。

一型艇だから、本来は一名で足りた。それが多数の艇を喪失したため、搭乗艇を失った艇隊員が出てきた。そこで彼らの強い希望を入れて許可したのだった。

さて、次のような順序で短銃陣を組んで金武湾口に向かった。ウエーキ(艇尾波)が夜光虫のためか、月明のためか、あまりにも白く鮮明なのが、チョット気がかりだった。

湾口からは満潮のためか、波長の長いうねりが寄せて来た。小さな艇なので、うねりが直接、艇を通して体に伝わってきた。スルスルとうねりの頂上に上ったかと思うと、そのままスルスルとすべり降りる。

私は問もなく、(こころよ)い眠気を感じた。出撃準備のさいの疲れが出たのであろう。いま、この場でゴロリと横になれたらどんなに心地よかろうと思った。

しかし待てよ、いまわれわれは、死地に赴くところではないか。いやでもあと数刻の後には永遠の眠りにつけるはずではないか、という内なる声が聞こえてきたのを覚えている。

悠々としているようだが、決して平常心でなかったことは、そのあとに起きたことで馬脚をあらわした。すなわち、あまりにも接岸しすぎて、湾口の北側を占める金武岬の海上に点在する小島や岩礁を、上陸用舟艇群と見誤ったのである。 

瞬間的に眠っていて、目覚めたときに起こした錯覚であろう。第一に夜間は距離感がなくなる。自分の艇が動いているので、相対的に向こうの島や岩が動いているように見える。おまけに、それらのまわりには白波が砕けているので、ますます動いているように見える。すっかり、

「金武岬に敵上陸中」と、錯覚してしまったのである。そうすると、奇妙に先ほどの艦砲射撃とも符合してくる。こんなところに上陸されたのでは、もう基地もおしまいだ。明晩もう一度、最後の出撃などということはナンセンスだと思った。

よし、それならば、と決心した。私は同乗の宮本二飛曹に、「前方に輸送船と上陸用舟艇群がいるが、

見えるか」と開いた。彼は、「ハイッ、見えます」と言ったが、果たして確認したのかどうかわからなかった。

「よし、あれをやろう」と言って、後続艇に向かって赤い布で覆った懐中電灯で「突撃」の信号を送った。

「宮本兵曹、前のいちばんでっかい奴に行け」

と言った。宮本兵曹は頭部の電気信管のスイッチを「ON」に入れた。これで何かに衝突しさえすれば、たとえそれが岩礁でも、頭部が爆発する状態になる。

艇はしだいに増達し、突進した。増速するにつれて波をかぶった。そのとき感じたことだが、「震洋艇攻撃の、なんと間合いの長いことよ」

つまり突撃動作に移ってから、敵艦に衝突するまでの時間が、たいへん長いということであった。

もう撃ってくるか、もう撃ってくるかと思うが、敵は知らぬふり。ついにシビレを切らして、こちらの方からロケットを一発見舞ってやった。が、何の反応もない。おかしいと思っているうちに、やっと金武岬の岩礁だと気づいた。

なんのことはない、死出の旅へのリハーサル″をやっていたのである。指揮官艇の奇妙な動きに、後続艇はだいぶ戸惑ったことであろう。

ややあって、少し沖へ出て態勢を整え、後続艇へ懐中電灯で信号を送りながら湾口へ向かった。半月といっても、海上はやはり相当暗い。こんどは逆に沖へ出過ぎて、湾口を通過するとき、伊計島に近寄りすぎていた。伊計島の北端の珊瑚礁すれすれに艇は走る。

そのとき、後続艇を確かめたら、二隻だけしかついて来ていないことに気づいた。

「しまった」と思ったが、後の祭りだった。これは後になってわかったことだが、やはり湾口に出る前に、宮下・箕浦艇がエンジンを故障し、阿波・野田艇が助けているうちに、先導の三隻を見失ってしまったのだった。後刻、追跡したが、ついに合流できなくなったのであった。

私たちはわずか三隻となった。それは震洋艇攻撃の常識からいったら、あまりにも少ないものであった。幾分気勢をそがれたが、とにかくそのまま前進することにした。

湾口の潮流を乗り切って、充分外洋に出た。外洋の波のうねりはいままでより大きくなった。波頭こそ立たないが、震洋艇はうねりに身を託しながら、ただ健気に走りつづけた。

 湾外に出れば、先ほどの艦砲射撃をやっていた敵艦に遭遇するものと思っていたが、付近に敵の艦影はなかった。相当沖に出てから、攻撃主目標である津川沖に向かって真南に針路をとった。

そのまま数十分も南に向かって走ったかと思うころ、左正横、距離一万メートルにかすかに明滅する光を発見した。それは暗い、暗い水平線に一点、針の先で刺したような、見えるか、見えないかぐらいの、小さな光であった。

当時、視力二・〇の私の若い目が見逃すはずはなかった。

(あれ、あの光は百パーセント敵艦に間違いない。・・・敵艦以外の何物がいるはずもない。・・・見つけたぞ、敵の韜晦(とうかい)作戦の正体を!)という気持であった。

私はそこで、一個艇隊ならいざ知らず、わずか三隻しか引きつれていないので、湊川沖に突入しても大した功を奏することはできない、それならば、必ず捕捉できる目前の敵艦を攻撃し、湊川沖は明晩出直した方が効果的だと思った。

そこできっそく、左に転舵し、先ほどの発光信号に向かって直進した。約五千メートルまで近づいたと思われるとき、はっきりと艦影が肉眼でも認められるようになった。二本の細長い煙突が中央に立った、前檣の小さな艦。まざれもなく昼間と一同じ型の駆逐艦であった。

まだ昼間と同じところにいたのかと思った。付近に何隻いるのか、そこまでは見なかったが、とにかく、一隻ということはあるまいと思った。

こちらの攻撃艇は二隻だから、一隻だけが確実に捕捉できれば、それで充分と思った。私はなおも目標に近づいて行った。そのまましのび寄って、後続艇に敵艦を確認させたら、そのまま私は反転しようと思った。

もうよいころと、ころ合いを見計らい、速力をおとして私は後続艇に手真似と大声で、隊長艇に横づけするように指示した。二隻は上手に私の艇の両側にぴったりと並んだ。二隻は、市川・鈴木艇と中村・岩田艇であることを確認した。

私は二隻の艇を左右に抱きかかえるようにして、次のように指示した。

「前方の敵艦が肉眼で見えるだろう。あれが攻撃目標だ。隊長は、本日は誘導だけで一たんは基地に帰り、明晩、残艇をもってもう一度出撃する。すまないが、本日のところは貴様たちだけで行ってくれ。一足遅れるが、必ず後から行くぞ」

そう言うと、二艇の搭乗員たちは素直に、「ハイッ」とうなずいた。そして元気な言葉を最後に、エンジンをふかして増速しながら、スルスルと私の両側から前に出て行った。艇側から出る白い排気煙と艇尾に盛った白いウェーキを残して、二艇は闇のなかに姿を消して行った。

市川兵曹は先任搭乗員で、四名のなかではいちばん年(かさ)で二十歳、他の三名はいずれも十七歳か十八歳であった。市川兵曹が、いちばん最初の出撃で私を驚かしたことは、前述したとおりである。

彼はリーダーらしく意思が強く、真面目を絵で書いたような男であった。鈴木兵曹は、沖縄へ進出の直前に東海大地震で母を亡くし、母より数カ月前に父も亡くしていた。その悲しみを背負って彼は出撃していった。中村兵曹は目玉が大きく、名前の統明を音読みにして、「トーメイ」が呼び名。岩田兵曹は四名のなかではいちばん年下で、しかもなかなかのナイスボーイ。人呼んで「(がん)ちゃん」。二人とも元気のよい部隊随一の腕白者であった。私は二艇の戦果を確認すべく、少し後退してその付近を遊弋していた。十分、二十分・・・・。暗い海面にはまだ何の変化も起きなかった。不気味を静けさである。

ふと後ろを見ると、斜め後方から黒い艦影らしいものがしのび寄って来る? 近いのか、遠いのか、例によって夜間の距離感はつかみにくい。私は気づかれないように静かに速力を上げて、離脱することに努めた。もし発見されて攻撃を受けたら、仕方がない、体当たりをもって刺し違えることに(はら)を決めていたが、そのうちに黒い艦影は、いつの問にか、遠ざかって見えなくなった。

二艇を放してから三十分はたっていただろうか。本当のところ、どれほどの時間が経過したのかわからなかったが、二艇が消ぇて行った方向とおぼしきはるか沖合に(それは随分と遠くに見えた)、火吹竹(ひふきたけ)で火の粉を吹き上げたときのような火柱が上がった。

それからしばらくして、「パーン」といぅような爆発音が聞こえてきた。火柱が消えたあとに、灰白色の大きな水柱が上がっているのが、夜目にもよく見えた。

私と同乗の宮本兵曹は、「やったぞ、トーメイ、よくやったぞ!」と肩を叩き合って叫んだ。私と宮本兵曹は、突入に成功した艇が、四名のうちでいちばん元気者に見えた中村統明兵曹の艇、つまり中村・岩田艇だと決めていたのだった。

私は涙が出そうになった。いましがた私のそばを触れて行った元気な四名のうち、すでに二名が現実に幽明境を隔ててしまった。その事実をどう説明したらよいのだろうか。

敵艦は完全に火災を起こした。その火は見るまに大きくなり、ときどき、誘爆を起こしているらしく、はげしく炎を噴きあげた。赤い火焔のなかに一つの艦影がくっきりと浮かびあがった。付近にいた敵艦船から、さかんに発光信号が発せられていた。半月夜であるから、わずかに青味を帯びた暗い空に向けて、対空射撃がはじまった。無数の赤い火箭が撃ち上げられ、そして数条の探照灯がこれも空に向かって照射され、交錯しなからの攻撃者に立ち向かっている風に見えた。

敵は何者にやられたのか、とっさの判断ができなかったのではなかろうか。その狼狽(ろうばい)ぶりが手にとるように感じられた。日本の特攻機にしては爆音も聞こえず、おそらくレーダーにも反応はなかったであろう。

まさか足元から震洋艇に攻撃されたとは、想像もおよばなかったのではなかろうか。

敵は灯火管制下に光を()らしたり、油断があったりしたようだった。それとも日本軍をすっかりなめ切っていたのか。その虚をつかれて内懐に飛び込まれ、匕首(あいくち)で急所をえぐられたようなものだった。

まったく静かなる特攻攻撃であった。小さな艦であれだけの火災を起こしたら、必ず沈没すると思い、私は自艇の艇首を金武基地へと向けた。時刻は夜中の二時ごろであったと思う。火柱は一本しか上がらなかった。あとでわかったのであるが、突入した艇は、中村・岩田艇ではなく、市川・鈴木艇であったのである。

中村兵曹は後刻、陸戦で戦死したので、岩田兵曹の回想をつき合わせてみると、沖縄の場合は、目標は停泊艦ではなく、あくまでも動いている敵艦船であった。

もし、敵の方が、たとえわずかでも速力が早かったら、これを仕留めるのは至難のワザであろう。しかも、当初ねらった相手は駆逐艦である。とり逃がすことだってあろう。

最初の目標に回頭されて屑すかしをくい、あわてて別の目標に変えようとして射点、つまり攻撃・突入方向を模索しているうちに、敵の魚雷艇が方々から高速で突進してきた。これはかなわじと、リーフに逃げ込んだりしているうちに、すっかりタイミングを失してしまった。

ついに中村・岩田艇は、攻撃を断念して金武基地に帰投しようとした。明け方の五時ごろ、湾口まで帰ったところで、自隊の金武基地がさかんに燃えているのが望見された。

この状態では基地にも戻れずと思い、金武岬の付近で震洋艇を自沈させて上陸し、陸戦に移行中の自隊、つまり第二十二震洋隊基地隊を探し求めて、ほどなく合流した。

ところで、指挿官艇、つまり私の艇であるが、途中、エンジンの調子が悪くなって、立往生したので、機関室の上部覆いをはずして調整していた。その最中、横波をくらって艇が傾き、覆いを波にさらわれてしまった。以後、覆いなしで進航した。波しぶきのために数回エンジンが停止し、このままでは基地にたどり着けないのではないかと危惧(きぐ)した。しかしやっとの思いで、二時間近くを要して、金武基地にたどり着くことができた。時刻は午前四時ごろであった。

 

基地撤収、陸戦へ

私と宮本兵曹は、ついに見覚えのある金武基地の海岸に帰ってきたのである。艇を砂浜に乗りあげて海岸にとび降りたとき、その付近には誰もいなかった。私は大声で、

「誰もいないのか!」

と怒鳴った。私と宮本兵曹の声を聞きつけてやって来た二人の隊員を見て、私はびっくりした。陸戦の武装に身をかため、銃を持っているではないか。

「どうしたんだ」

と私が開くと、興奮した面持ちで、そのうちの一人が、

「このへんに怪しい奴がおります」

といいながら、魚雷艇置場として設営隊がつくってくれていた切割りの方へ走って行った。そして銃を二、三発発砲したのである。ただごとでない気配があたりにただよった。

やがて寺本基地隊長(兵曹長)がやってきて、大部分の基地隊員は陸戦に移行すべく武装させて、かねて指示された名嘉(なか)()岳に向かって先行させたということであった。

四月一日、嘉手納に上陸した米第六海兵師団は、北・中飛行場を占領すると、ただちに国頭地区に向かって、海岸つたいに戦車を先頭に進撃をはじめた。

昨夜(四月三日)、出撃準備に忙殺されていた私のところに、第四十二震洋隊の先任伍長(上曹)が、自分のところの基地隊員を率いて立ち寄ってくれた。話によれば、「本日夕刻、尖兵らしい小人数の敵が屋嘉に侵入したので、これと銃撃戦を行なった。これから山に向かうが、恩納岳の陸軍から、すぐには金武まで敵は釆ないと思うが、お先に失礼」ということであった。 このとき、私はすぐには金武まで来てほしくないと思った。

出撃準備に忙殺されているときだったから、先任伍長のせっかくの通報を自分の都合のよいように解釈してしまったらしい。記録によれば、四月四日は屋嘉の線まで米軍の進出線が描かれている。それにしても、すでに四月三日の夜は、敵の尖兵らしい一隊が屋嘉に出没している(米側の記録によれば、このときの井本隊の適切な応戦により、米側は相当な損害(死傷)を出した模様である)。

四月四日のうちに金武まで占領してしまう米側の作戦であったが、途中の橋が破壊されているので、戦車が進めない。したがって、一日遅れて四月五日になってやっと、金武の線まで米軍の進出線が伸びた。(第二十二震洋隊は四月四日未明、金武基地を爆破、撤収した)。

この進出線は、あくまでも米軍の本隊の進度を表わしているので、四月三日の深更から四月四日の明け方にかけて、敵の斥候は、じゆうぶん考えられることである。

寺本基地隊長の話によれば、どうも基地近くまで敵が釆たらしい、という判断であった。生存者の証言によると、ロケット弾が撃ち込まれたと言う者もいる。また敵兵の声、つまり英語が聞こえ、ビューツという口笛も聞こえたらしい。基地隊長は、とても四月四日の夜まで基地はもつまいと判断したという。

基地隊の転進の時機は、普通は基地隊長の判断でよいことになっている。つまり隊長は出撃艇隊の方に加わるからである。基地隊長は沖方根司令部に、敵地上軍侵攻により基地を撤収、陸戦に移行する旨打電して、通信機を破壊し、暗号書を焼却するまですべて終了しでいた。

基地隊員の一部を基地に残し、海岸の小高い丘に登らせ、故障で帰投する艇がいるかも知れないからと見張らせていた。

そこに私と宮本兵曹が帰って釆たわけである。私は自分の判断が甘かったことを後悔した。私の脳裏には、私自身が陸戦をするなどという考えは、みじんもなかったからである。私は急迫する心を抑えることが出来なかった。四月四日の夜、最後の出撃ができるつもりで帰投したのであった。隻数からいったら、あと一個艇隊は残艇がある考えであった。

それは方々に散らばっているであろうが、昨晩の経験を生かして慎重に行なえば、最小限十隻ぐらいは泛水できるだろうと思った。

敵の「韜晦(とうかい)作戦」は昨夜見破ってしまったから、もう大丈夫だ。湊川沖まで南下し、敵影を見なかったら東方に転舵、まっすぐ沖合に向かって突進する。行きつく先に目指す敵の輸送船団がいるはずである。

私の最後の出撃の青写真が、やっと決まったところであった。私は基地隊長としばらく押し問答をした。

「山に移動した基地隊員を呼び戻して、艇を出してほしい。いまからでも出撃する」

と私が言うと、基地隊長はそれをさえぎって、

「隊長、それは無理ですよ。とても出来ません。明るくなったら敵がやって来ます」

このとき、基地隊長と一緒に数名の者が私をかこんで押し問答をしていたのだが、これをそばで見ていた出原兵長(整備)と山西兵長(整備)の二人は、当時の状況を次のように証言する。

「隊長が基地に帰って来たとき、顔が真っ黒になっていた。そして、さかんにロケットをぶっ放してきたと言っていた。ロケットを撃つとき、飛行眼鏡をかけ忘れて、火焔を顔に浴びたと言っていたが、いまにもまた、出撃しそうな口吻(こうふん)であった。海岸で数人のひとにかこまれて、何やら話していたのを覚えている」

私はその後、砂浜に座り込んでしばらく頭を抱えて考えこんだ。私の頭のなかには、秘密兵器の震洋艇を敵手に渡してはならない、というもう一つのやっかいな考えが存在した。

たとえ出撃ができたとしても、輸送船の二、三隻を撃沈するのが精一杯であろう。それぐらいの戦果なら、陸戦に移ってから別な方法でだって、それに匹敵する打撃を敵に与えることはできる。そんな考えが浮かんだところで、私はついに震洋艇攻撃を断念、基地を破壊、陸戦に移行することを決心したのである。

陸戦に移ってから、陸戦の難しさを思い知るのだが、もはや、それをくわしく書くには紙数が尽きてしまった。われわれは恩納岳の第四遊撃隊の遊撃拠点である、名嘉真岳に最初たてこもった海軍の二階堂隊と一緒だった。

私が部下二名とともに恩納岳の岩波大尉のところに連絡兼挨拶に行ったときは、恩納岳がちょうど四月十二日の米軍の大規模攻撃を受けたときであった。それで陸上戦闘の様相をつぶさに観戦させてもらった。

そのとき、私は恩納岳の深い谷間に占在する萱ぶきの兵舎に、兵員があふれているように見受けた。それはどうも敵の上陸地点の嘉手納に布陣していた、飛行場守備部隊であるように思えた。つまり、その部隊が敵地上軍の進攻を防ぎつつ後退してきて、岩波大尉の指揮下に入った風に見えたのである。

そのような情況下で、小銃は五人に一(ちょう)、しかも軽機関銃一つ所持しない。海軍の小部隊であるわれわれが、恩納岳に行って何のお役に立とうかと思った。それよりも、まだ諸事緩慢と思われる北方の久志岳にいる陸軍部隊に合流して、およばずながらお役に立たせてもらおうと考えた。

名義真岳の食糧が尽きはじめた段階で二階堂隊に別れを告げ、わが隊が小グループに分かれて久居岳に移動をはじめたのが、四月の半ばすぎであった。

私は久志岳が第三遊撃隊の系列下であることを、まったく知らずに移動してしまったのである。

久志岳を護っている小隊長は、わが隊が久志岳の系列下に入るのを拒絶した。私はたいへんムダ骨を折ったような気がして、少し腹立たしく思った。

それでは、所定のとおり岩波大尉の指揮下でお役に立とうと思い、ふたたびまた来た路を戻り、恩納岳の麓である喜瀬武原部落まで辿りつき、夜営をすることにした。

そして空き民家に入ったが、このときは私の部下グループと、途中から合流した甲標的・鶴田隊の連中、合わせて十五名ほどであった。

そのうちの八名が土間で焚火をはじめた。その直後に大爆発が起きた。私は直感的に土間に仕かけてあった敵の地雷が爆発したものと思った。円陣をつくっていた八名のうち、二名が即死、他の三名が重傷を負い、のち戦死した。私以下三名が脚に破片が入り、中傷。他の七名は座敷の方にいて助かった。

事実は、私の部下の一人が、敵の手榴弾を分捕って腰にぶら下げていたのを、誤って安全ピンを抜いてしまった(注、敵の手榴弾はピンを抜けば、数秒後に爆発するようになっていた)、その結果のことであった。彼は腰部を無惨にえぐられて即死していた。

私は恩納岳に行くことをやめた。私が恩納岳に行きさえすれば、いったんはバラパラになった部下グループも三々五々、恩納岳へ集まってくると思ったが、それもかなわなくなった。

私の負傷は、手榴弾の亀甲模様のごとき一片が足の甲の部分で、しかも脚部に連結する屈伸部分に入ったので、日がたつにつれて化膿し、歩行ができなくなった。激戦地なら、歩けない者は自決と相場が決まっていたが、国頭地区はその点、まだ余裕があった。

私は、部下四名と鶴田隊の先任伍長以下五名とともに、喜瀬武原から名嘉真岳に近い山中に入った。そして、そこに民間人が避難小屋としてつくっていた(かや)ふき小屋に、傷が(いえ)るまで留まることにした。時は五月初旬のことで、間なく雨季が訪れ、小屋は脚部を濁流に洗われた。すぐ近くまで米兵の巡察隊が自動小銃を撃ちながら入ってきたが、われわれのところまでは近づこうとしなかった。

六月二日、岩波大尉の第四遊撃隊は、恩納岳での戦闘に区切りをつけて、国頭の方へ移動した。その折、味方も、そしてそれを追う敵も、私たちがいた地点のすぐそばの草を押し倒し、踏みかためながら、風のように移動して行ったのを覚えている。

そのとき、鶴田隊の元気のよい兵曹が、敵を一人たりとも殺傷しょうと銃を構えて出て行き、逆に撃たれて戦死してしまった。味方は夜陰に乗じて、また、敵は昼間に風のごとくに移動する。だから、鶴田隊の先任伍長以下は、まばらな潅木の林にかくれて、ひそかに軽機関銃を据え、引き金に指をかけて構えていた。その数メートル先を、敵の部隊が通りすぎて行った。

私は、まだすっかりなおり切らない脚をかばいながら、安仁堂の方に避難しており、難をのがれた。

私の負傷は、部下たちの献身により徐々によくなっていった。歩けるようになった時点で、付近にいたわが隊の部下グルトプをあつめて、勝手知った金武村にある、敵の急造の飛行場を襲撃することを企図した。

夜になると、展望台と称するところに主だった者が集まり、画策した。しかし、実行する寸前で、また私は米軍の執拗な山狩りに引っかかり、「右肘関節貫通銃創複雑骨折」という重傷を負った。

つまり右腕肘関節を自動小銃で撃ち抜かれ、右手がブラブラになった。

至近距離から撃たれたので、出血多量でもうタメかと思ったが、またもや、部下たちの手厚い介護を受けて生き延びた。

付近にいた部下のなかで、元気のよい者はたびたび斬り込みに参加、金武の米軍基地をおびやかした。そして岩田二飛曹などは、山を降りるときまで米が五俵、砂糖が石油カンに三杯、味噌、醤油はもとより、米軍キャンプから失敬してきた洗濯機までそろえ、一年ぐらいは籠城(ろうじょう)しても大丈夫なほどだった。こうして頑張っていれば、そのうち関東軍の精鋭が救援にやって来るだろう、と本気に考えていた由。

そういう場合の斬り込みの指揮は、誰がとったのであろうか。時期的に七月に入ってからのことと思われるので、その指揮をとったのは第三遊撃隊長の村上大尉であったらしい。

伝聞であるので、間違っていたら申し訳ないのだが、岩田兵曹の回想によれば、北の方から、風のようにやって来た一人の西部男のような将校・村上大尉が、付近にいた陸軍や海軍の兵隊を集めて、

「オイお前ら、食糧欲しいか。それだったら俺について来い」

と言って、斬込隊を編成しては、金武になぐり込みをかけた。大尉は人も知るゲリラ戦のベテランであった。聞くと、その采配ぶりは、まことに見事であった由。たとえば、

「この時点で擲弾筒(てきだんとう)を撃ち込め、そしておいて、こちら側からこう攻めよ」と、まるでその指揮は掌を指すがごとくであった由。そして斬り込みがひとまず終わると、いつの間にか付近から姿を消して、どこかへまた、風のごとく行ってしまった由。まことに胸のすくような話である。

私の近辺にいた第二十二震洋隊の生き残った隊員たちは、屋嘉収容所のパトロール隊の勧告を受けて、昭和二十年八月二十八日、ついに下山することにした。金武村中川部落の入口のところで、武装解除を受けることになったのである。

わが方の人数は三十名ぐらい。われわれは申し合わせて、武器はすべて山中に埋めて出た。米軍の大尉と数十名の米兵が、ジープとトラックを持って迎えてくれた。米軍大尉は終始にこやかで、私をジープに乗せ、わざわざ金武の飛行場のど真ん中を走って、屋嘉収容所に向かった。

金武飛行場には、色とりどりの飛行機が翼を折りたたんで静かに休んでいる風であった。

戦争はすでにこの飛行場からだいぶ以前に退去してしまっているかに見えた。あとでわかったことだが、私は米側から金武周辺の山にいる日本兵の頭目(ボス)と目されていた節がある。その私も六月十五日には大尉に進級していた。

米軍大尉はやっとこれで平静になってくれると、その任を果たした。

(なにわ会ニュースに掲載していない原稿

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