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平成22年4月22日 校正すみ

東京湾水先案内

野村 治男

 パイロットはお客様扱い

昭和20年8月27日朝、伊豆大島の135度、20浬附近で、駆逐艦初桜から米駆逐艦へ向った。初桜では左近允、国本両君が見送ってくれた。(前50号の国本鎮雄君終戦と降伏仮調印参照

胸の片隅には、如何な処遇を受けるものか一抹の不安がわだかまっていた。だが、一歩米艦に乗った途端、我々を取り巻いたのは報道関係者で、握手を求め乍ら先ず発した質問は、「日本国民はアメリカに対してどんな感情を持っているか?」というのと、「もしアメリカが第3国と戦争を始めたら、日本は何方につくか?」と言うものであった。

更に士官室に案内されて休んでいると、その艦の若い士官が入れ代り立ち替りやって来て、同じ様な質問を繰返した。中にはハッキリその第3国なるものの国名を言う者も居た。

私は8月20日の朝、かねて発令されていた横鎮に到着した。係は家で待機していて貰いたいが、鹿児島では遠すぎる・・・。佐鎮付に変更して貰うから、2、3日待ってくれと言った。

暇つぶしに、横須賀海龍隊に大谷友之が居るとのことで訪ねて行った。彼は数センチのヒゲに埋れた顔で、今朝まで進駐して来る連合軍艦船に攻撃を掛ける計画で訓練を続けて来たが、日本が少しでも早く立ち直るには、今我々がオトナシクする(猫を被る)ことが第一だとの結論に達したので訓練を取り止めることにした、と語った。

いつの日にか再びというその日が我々の時代に来るものだろうか・・・・と淋しい気持になったのだが、この米艦での問答で、案外日本の復興は早いのでは、との感を強くした。

この駆逐艦から、大本営の参謀など、国本君が言うところの軍使なる人はミズリーに移された。彼等は「敗者の代理人」としての処遇であったと聞く。だが我々水先案内人は、アメリカ艦船では、お客様扱い(乗組員が言うには)で、階級が下の中少尉は、通路で逢うと道を譲って先に敬礼をした。

私はストックハムという駆逐艦に移り、更に巡洋艦サンジエゴに移った。その夜は相模湾に全艦隊仮泊した。・・・夕食後聞くともなしにスピーカーから流れる放送を聞いていると・・・我々は万里の波涛を越えて、遂に日本にやってきた。今、我々が停泊している処は相模湾と云うところである。向うに見える灯は日本の街の灯である・・・。

厳重な灯火管制で暑苦しいので、甲板に出て、涼みながらその街の灯を見てみたいと、連れの石橋大尉(高等商船出身)と申し出ると、陸側の甲板に出ないことを条件に許可された。艦の乗員は警戒配置についている様であった。陸と反対側の甲板からでも、結構街の灯は望まれた。淡い黄色いまばらな灯ではあったが、既に灯火管制が解かれて10数日経っているにも拘わらず、何か初めて見た思いがして胸が熱くなった。

翌8月28日、いよいよ夫々各艦に分れて東京湾へ導かねばならない。1人でということになると、やはり言葉がうまく通ずるかと心配になる。英語は甚だ不得意な私である。それで2学年よりドイツ語班に逃れた。だが1ヶ年で英語以外は廃止となり、英語に戻った。(あぶ)蜂取らずで、いよいよ不得意の上塗りになった次第。

 

  パイロットの3条件

話は前に戻るが、8月20日の横鎮での佐鎮付変更がそろそろ決っている頃と、22日出頭した処、連合軍東京湾附近水先案内係を命ぜられてしまった。誰でも良い筈が無いと思ったので訊ねたところ、

@ 東京湾周辺の防備の状況に詳しく、

A 航海術にたけ、

B 英語堪能な者、という条件で13名選べということだ。

それなら全部不合格だと断った。私は東京湾(横須賀)へ19年2月武蔵で1回入港したことがあるだけ。それも候補生で甲板士官。前任の駆逐艦柳では、水雷長で、当直には立ったものの凡そ航海術を弁えたと言えたものではない。英語に至っては前述の通り。

だが参謀は、今どたばたしていて今更他を探す猶予がない。とに角13人揃える必要があるから何も言わずに行ってくれ、と兵隊の靴下よろしく員数を合せさえすればいいという態度。

それじゃ、機雷堰に突込んで轟沈させても知りませんよと捨台詞を残して、宿舎の久里浜の横須賀防備隊へ向った。横防には、殆どのパイロットが集っていた。少佐が一人、他は大尉で、全部といってよい程高等商船出の士官であった。外国航路乗組みの経験者ばかりで、然も大部分が横防所属の艦艇の長であった。参謀が言うところの3条件には満点の人達の様だった。

貰った海図に、赤で克明に敷設機雷の位置を記入し、8月25日の午後、「四阪」で館山湾まで進出し、翌26日早朝、大島附近に向った。海は大部時化て居た。だが途中で、連合軍の到着が24時間遅れるとの連絡を受け、横須賀へ引返した。そして初桜に乗り替えて、再び出港した。

国本の手記では8月20日から、この任務の準備を初桜がしていたのに、どうして我々は25日に四阪で出掛けたのか? と今疑問を抱いている次第だが、当初、軍使なるオエラ方は初桜、我々パイロットは四阪と乗艦区分が分れていたのが、後で初桜一艦に纏められたものだろうか。我々は四阪の都合で艦が代ったとのみ簡単に考えていたのだが。

だが私にとっては、この四阪での浦賀水道の可航水路往復は、実地訓練という意味で、大変為になった。サンジエゴの内火艇は、こちらの心配におかまい無く突っ走って行く。こうなっては、くよくよ思い煩っても仕様がない。かつて、ジロロ諸島のバチアンという島へ、可燃物処分に出掛けた時、その島の住民と全く言葉が通じなかった時、万国共通語(手まね)で何とか用を足した。うまく喋れない時はそれで行くか、と(はら)を決めて、送り付けられた駆逐艦のラッタルを登った。

ところが、舷門に出迎えた中尉は、流暢な日本語で話し掛けて来た。風貌から、日系二世ではないようだ。聞けば1年半程前から、日本語学校で勉強をしたとのこと。ホッとすると共に、英語教育について優れた見識を持っておられた井上校長に対し、一番不肖の生徒だと恥入った次第。

艦は4隻の輸送船を誘導して横須賀へ向った。海は穏やかで、視界も良く、可航水路の要所、要所に入れた浮標も遠くから認められ、航海は至って楽であった。だが、いよいよ水路が近づくと、総員配置に就き実弾を装填した。陸からの不意打ちに備えたものだろう。

然し、艦長以下艦橋に居る乗員の面持ちには、それを真剣に(おそ)れている風は無かった。ただ一番閉口したのは、語学中尉殿が、あの山には何があるか、この入江の奥は? その建物は何か? とせっせと質問を浴びせて来たことだ。これは例の3条件の1番目ではあるが、こちらは全く判らない。判らない、知らないと答える訳にもゆかない。困ったと思ったが、メモをとる風でも無いので、ままよと適当に答えておいた。後で文句を言って来なかったのを見ると、役目柄一応訊いただけで報告もしなかったのだろう。

水路を抜け終ると、彼の質問は土産品のことに移って行った。何はまだあるか、何処で売っているか・・・・と。横須賀に入港後、巡洋艦サンジエゴに移り、夕刻4日振りに久里浜の宿舎に帰った。

 

 ウェスト・バージニア乗組

29日早朝、久里浜に帰任していたパイロット全員は(10名位だったと思う)横須賀から500屯ぐらいの特務艦で、相模湾へ送られた。そして全員カラハンという駆逐艦に乗せられた。前日に比べ少し風が強くなり、うねりが大きくなっていた。

艦は城ケ島沖と野島崎沖の間を遊弋し始めた。艦船が近づくと連絡を取り、パイロットが必要との返事があると、1人ずつ洋上で送り込んだ。どうやらカラハンの任務は、東京湾口の哨戒を兼ねて、パイロット供給にあったようだ。

この艦での待遇は最高で、黒人兵の従兵が付き、食事は士官室で乗組士官と一緒であった。ただ海が益々荒れてくるのには閉口した。翌々日の8月31日午後、ようやく私の番が来た。

海図缶と双眼鏡を抱え、浪のシプキを浴びながら送り込まれたのは、米戦艦ウエスト バージニアであった。駆逐艦に比べると流石に艦の揺れは少ない。雨は弱まっていたが、両半島は雲霧にすっぽり蔽われ、海面は一面の白浪。駆逐艦の士官室でダベって、ロクに外を見ていなかったので、咄嗟にどの辺か見当がつかない。館山の西方だろうというぐらいのアヤフヤな状態。その上この戦艦には、「語学将校」が乗っていなかった。

海図台の上には、私が缶に入れて持って来た海図を拡げるまでも無く、既に赤で機雷堰の位置をピッシリと書き込んだ海図が拡げられていた。通報が届いて、艦の方で書込んだものである。そしてその可航水路に向けて、予定航路が引かれていた。航海士(かどうか判らないが、艦橋に大佐、中佐、少佐、各一名居たので、老大佐は艦長、中佐は航海長、残った少佐が航海士と勝手に決めた)に現在位置を訊くと、その計画線上に印をつけた。

略々見当をつけた場所ではあったが、前日あたりから天測も出来ない悪天候の中を航行して来たにしては、予定航路上ドンピシャとは。自分で位置を入れようにも、目標はすべて霧の中。先日は遠くから良く視認出来た例のブイ、白浪にかくれて中々発見出来ない。

大型艦用の可航水路は三浦半島添いにあるので、湾の中央を北上すれば完全に機雷原へ突込む。ボヤケているとはいえ、何だか三浦半島側から離れ過ぎている様な気がする。先方は、航海術の達人が乗って来たと安心しておられただろうが、此方は、一刻も早く正確な位置を出さねば、大変な事になると気ばかり焦り、背中は冷汗の滝。

幸に、雨が上ると、急激に霧が薄くなり出し、左前方に灯台が見え、同時に、白浪に頭をヒョコヒョコと振っているブイを発見出来た。左20度を越す方向である。やはり大分右にそれていることになる。それを知らせ、針路の修正をさせねばならぬ。言葉で説明出来れば簡単な事だが、上ってしまって益々失語症にかかった様だ。

もう一つ何か目標が!私は右へ左へ艦橋を忙しく歩き廻った。見えている灯台を測距させることなど思いもしなかった。ものを言わねばならないので。と、天の助けか、右前方の雲が薄れて、山の頂が見えて来た。その特徴のある形は、紛れも無く鋸山だ。私は羅針儀によじ登って方位を取り海図台に走った。3人の士官も海図台へ寄って来て海図を覗き込み、私の行動を理解したようだった。艦長は左へ30度変針し「オーライ?」と微笑みかけた。

空も海も大分明るくなって、可航水路航行の目標やブイはハッキリ見とめられて来たが、ただ一つ厄介な事は浮遊機雷が水路をプカブカ流れて来る事であった。右は機雷原、左は岸近くの幅800米のしかもジグザグの水路内では、これを避けるのに戦艦は一苦労である。彼等は我々の3分の1しか目が利かないので、相当近付いてからしか見えない様だった。

水路を抜けると、後は気楽な航海である。この戦艦は羽田沖に停泊することになっていた。艦橋勤務の水兵は、交代の度にコーヒーを持って来てくれた。泊地が近づくと、前甲板には、ワイヤを繰り出す作業員がセッセとワイヤを担いで汗を流し始めた。

ところが艦橋横の甲板では車座の一団がトランプに興じている。かつて、武蔵の甲板士官で、入港用意ともなれば兵員を追い立てて、手空きも甲板に整列させていたのを思い合せ、何か奇異なものを見る思いであった。

羽田沖から横須賀へ送ってくれた内火艇では、頭から波を被り、コートは借りて着てはいたが冷え切ってしまった。追浜沖をすぎ艇の動揺がおさまると、艇長は機関のカバーを開け、排気筒の上に暖めてあった水筒のコーヒーをコップについで差出した。体が暖まり生き返った心地がした。此の艦の乗員は、実によくコーヒーを出してくれたものだ。

横須賀港内ではあちこち廻った挙句、戦艦長門に上げられた。同艦には回航要員の米将兵と、申し継ぎの旧乗員合せて数十名が居た。どうして長門に上げたのか判らない。長門に一泊し、翌日は港務部に移されて又一泊。9月2日の朝、ジープに米士官2名と同乗、漸く隊門の外に出して貰った。

隊門を守っていた海兵隊員は、若干狂暴で、銃を構えたり、殺すぞと怒鳴ったりした。沖縄から来た隊だとのことだった。多分この為に、彼方此方廻して漸く出してくれたものらしい。

 

4、掃海協力

この頃を境に、浦賀水道の水先案内業務が無くなり、米軍の行う各地の調査の協力と、横防の掃海の加勢に移行して行った。私は、勝山附近の特潜基地の調査と処分を行った米巡ウイルクス・バーリーに2日ずつ2回出向いたり、八丈島附近の調査に行く米軽巡ヒラゴーに出向いたりした。

この軽巡には、日本語堪能な中尉が居たので、海図や水路誌などの資料を渡して、私は一度も行った事が無いので、これ等に書いてある事以上には知らない。

「出来たら同行を取り止め休暇を貰って鹿児島に帰って来たいのだが」と申し出ると、あっさり許してくれた。そしてこのオルシー中尉が、鹿児島までどれ位かかるかと訊いたので、2昼夜と答えると、これは分らなかったらしく初めて訊き返して来た。

掃海の協力は、掃海艇に乗るのでは無く、掃海隊を燃料補給の為、米艦に連れて行ったり、遠方で掃海作業をしている隊との連絡などであった。

大阪湾の掃海に従事している隊との連絡の為出張した時には、神戸に着いた時には既に出港した後で、(由良に寄港している筈だと聞いたので)すぐ後を追ってようやく由良防備隊で連絡がついた。

しかし時間があまり無かったので、隊は海路御前崎へ廻り、私は陸路で行き地頭方で待ち、遠州灘の掃海につきゆっくり打合すことにして、すぐ又引返し満員列車を乗り継いで打合せの場所に待ったが、遂に姿を現わさなかった。海が大分荒れてきたので、途中で避難したと思い、最終便で引返し、翌未明に帰隊したことがあった。

満員電車で立ちずくめ、食糧も煙草も切れた苦労の多い出張だが、その苦労よりも、軍服に階級章をつけた男に対する国民の冷たい目や、これ聞えよがしの悪態の方が遥かに辛かった。

掃海隊には厳正な軍紀が必要であった。私は終戦になって2ケ月余もしてから、横防の砲術長兼衛兵司令に任ぜられたりした。

むしろ米海軍の人の方が励ましてくれさえした。・・・小名浜附近まで米巡シカゴに同乗調査を手伝ったパイロット仲間の伊藤大尉に、同艦の副長が言った言葉・・・

「私は日本を、100米競走で抜きつ抜かれつして、一足早く我々がゴールに飛び込んだ。ふり返る時、実に好敵手であったと考えている。今日本は4等国に落ちたが、日本人は矢張り1等国民だ。アジアを指導して行くのは、やはり日本だと確信する。どうか自ら4等国民になり下らない様頼む」と。その他色々な事があったが、長くなるので今回はこれ迄。

(なにわ会ニュース51号9頁 昭和59年9月掲載)

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