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平成22年4月20日 校正すみ

トラック島戦記

松元 金一


その1 机上射撃演習

19年4月30日から2日間にわたる敵機動部隊の空襲の後、松島砲台から41警本部に帰ったが、間もなく、浅野司令の命により砲術講習のため、離島を行脚することになった。
 新米少尉の私と同期の太田少尉の2人は、紙芝居にも似た机上射撃要具を携えて、砲台のある離島から離島へ、水警科員の運航する糧食定期便で渡り歩いた。

 午前は射撃理論と射法の講義、午後は机上射撃の演習という内容のもので、「初弾ヨーイ弾着〃」「高メ5次ギ」・・・「高メ修正弾ヨーィ、弾着〃」「下ゲ3イソゲ」。砲台長と射撃指揮所員の声が昼下りの暑さを忘れさすかのように賑わい、毎日続いた。

子島や南島、未島など、舟艇の船脚では、とても遠いところに感じられたものである。子島砲台には日露戟争にも参加したという老砲台長がおられ、まるで、お爺さんに講義しているような風景だった。

この島は周囲が数100Mの小さな島で、隊員が寝る時、足首にテグスをつけておくと、朝方には魚が係っていたという笑い話がでる程のところ。北水道に敷設された92式管制機雷を管制発火させる衛所も此処にあった。

南島も、当時は椰子林が鬱蒼としていて、ここで採れる椰子(かに)の蟹味噌をご飯にかけて頂いたが、誠に珍味であった。

この講習が終って暫くして、曳航標的に対する各砲台の教練射撃が行われた。某砲台では、射弾が極めて至近距離に着弾するというアクシデントがあったと聞いた記憶がある。

 

その2 対機動部隊 戦闘用意

中部太平洋の中央突破を目ざす米海軍機動部隊の、わが拠点特にマリアナ方面に対する反撃が日増しに熾烈を極め、トラック島にも間断なきB29の空襲が続いていた頃、6月13日と記憶しているが、突然総員集合があり、長身美(はつ)の副長が、号令台上から敵情を述べ、「対機動部隊、戦闘用意」が下令され、「総員迎撃部署に就け」と下令された。

情勢は「わが哨戒機の報告によれば、トラック島の南方約100浬に空母3群、船団約80隻あり」というものであった。

防暑服を第3種軍装に替え、父の形見の刀や脇差を仕込み、完全武装で司令の傍に控えた。いよいよ決戦の時が来たなと覚悟の(ほぞ)を固めつつ本部前庭の防空壕の近くで、夜を徹して配備につき待機した。蚊の妨害が五月蝿く、遂に頭から(あみ)を被って夜を過した。

やがて、東の空が白く明けてきたが、それまで何事もなく経過。そして朝方には解除になった。索敵機による偵察の結果、全く敵の姿は見えなかったというのである。敵は何処に向ったのであろうか、数日後の15日、サイパンに敵の攻略軍は侵攻を開始したのであった。

 

その3 戦備増強

内南洋方面の重点拠点もビアク島も、逐次に攻略され、6月19日からの「あ号」作戦に掲げられた「Z旗」も戦果を得ず、戦勢は誠に憂慮すべき情況となりつつあった。トラック島における戦備作業も日々に真剣さと切迫感を増しつつあるように感じた。

トロモン山の背部を掘削しての戦闘指揮所の造成は、既に進められつつあったが、これまでの戦訓に鑑み、従来の水際阻止戦闘重視の考えから複廓陣地による縦深防禦の戦術に大きく変わり、陸軍も乏しい資材に苦しみつつも築城作業や工作が急ピッチで進められた。連日の空襲の合間を縫って、どの部隊でも岩盤を掘削し、壕を掘るためのハッパの音が聞かれた。

正確には何時という記憶はないが、環礁の離島にある海軍の砲台も、逐次、春夏秋冬の各島や七曜島方面の一部に移設が開始され、砲身、砲架、弾薬、その他に分解し、夜間等を活用して敵襲を避けるようにして運搬された。

長期間の作業であったが、被害もなく20年の半ば頃には大半が完了していたようだ。警備隊本部の庁舎や隊舎も相つぐ爆撃で破壊されたので、建材を分割して近くの山の中腹に掘立小屋をつくり、逐次疎開するのやむなきに至った。各隊の防空壕守備陣地も、居住施設を含めて拡大されていった。陸軍の各部隊でも、主要要撃地点での火綱を構成するための陣地の選定や、トーチカ等の築城に懸命だった。

ある時、工兵大隊長(?)の有馬中佐と同行する機会があって、若干の陸軍の守備陣地を見て廻ったことがある。その時、中佐が言われるのには、「この辺に、この方向に、海軍の艦砲を設置出来ると、この正面の火網の構成は誠に申し分ないんだが・・・」と。

私は、「いや、海軍の大砲は中口径砲で、陸軍の野、山砲と違い、環礁外の、また、環礁内に進入してくる遠距離の艦艇を撃つもので、近接戦闘用には造られていない。それでは、宝の持ち腐れになる」と反論したものである。

島嶼防禦ということになると、対洋上艦艇攻撃を主眼とする海軍と、水際から陸上での阻止戦闘を主眼とする陸軍とは、当然、思想も方式も装備も異なるので、一元的にトラック島の守備を完成するについて、色々意見の食い違いがあったことは想像に難くない。

それにしてもトラック進出時、現地を目前にして、大多数の隊員と武器装備を海没した麦倉師団としては、戦備実施に当って、苦衷(くちゅう)と残念なことが多かったことであろう。

竹中大尉の率いる陸警隊も、連日、訓練や演習に汗まみれになっていた。真夏のある日の正午前頃のこと、敵の空襲があり、低空で爆音を止めて侵入してきた為、シャーシャーツという空気を震わす異常な気配に、慌てて屋外に退避したのであった。チャーレー方面で演習中であった竹中隊は、丁度その時、突撃発起の姿勢にあったので、「突撃」の下令で立上るのと爆弾の落下と同時になり、2米程の至近弾に位置した者は無傷であったが、少し離れた所にいた伝令その他の隊員が吹き飛ばされ戦死者もあったという。

 

その4 自衛中隊編成と陸戦訓練

サイパン、テニアンは失陥し、内地からの補給も途絶えがちで、たまに入港する潜水艦も重要物資資材が主体であって、トラック島は孤立の感を深くしつつあった。昼間のB29の編隊空襲は、我々が「日課手入」とか、「定期便」とか呼んでいたように、絶え間なく続き、加うるに数機編隊による小型機の夜間襲撃もあり、就寝中、警報に叩き起こされる日もしばしばであった。

9月の半ばを過ぎた頃と思う。41警でも自衛中隊が編成された。敵がもし上陸し、地上戦闘に移行した場合は、守備作戦は陸軍が主導して、海軍部隊を統制する事となって、警備隊としてもこれに備え、本部を始め海軍の重要施設地区は、自らの兵力も派遣して守備を分担すべく分散、駐屯した。私は、2コ小隊から成る本部自衛中隊長を命ぜられ、浅村隊は4病付近に、太田隊はチャーレーから902空方面に位置した。

中隊員には補充兵が多く、機銃の射撃号令をすら忘れている者もあり、初歩からの戦闘動作の訓練の連続であった。訓練要領を細かく図解入りで作成し、本部庁舎前の広場に遮蔽物や障害物、仮設敵など、ミニ戦場の仮設物をつくり、チンケースをカンカン叩く機銃の擬音の合間を縫って、射撃位置を替え、機敏に前進し、或いは隠密に匍匐(ほふく)前進する動作を繰り返し訓練したものである。

 

また、本当に敵に上陸され、橋頭()を築かれたら、挺身斬込みによる奇襲攻撃も想定されたので、昼寝て、夕方起きあがり、夜間山中を歩く訓練、剣や装備品、靴に至るまで(つな)や紐で巻き、音を出さぬよう忍び足で前や横へ歩く工夫、更には声を使わず、手話で伝令する練習、周辺視による見張法など、忍者もどきの訓練を色々やったものである。

訓練の仕上げの意味で、落下傘部隊で有名な山辺少佐の率いる、佐鎮101特陸の陸戦隊の協力を得て、警備隊本部地区に対する防禦演習を実施した。重点配備とし、警戒おさおさ怠りなかった積もりであったが、流石歴戦のベテラン部隊、脆くも隠密奇襲されてしまった。

19年も押し詰まった頃と思う。上陸阻止の特殊兵器も工作部などで色々試作されていたようだ。私が実験を見学したのは、相当量保有している航空機用爆弾を何とか活用出来ないかという考え方の噴進砲、有刺鉄線の鉄条網を輪がねて壕内から投射し、着地と同時に鉄条網が横に展開されるというもので、尚これは同時に壕内から重油を噴射して、水際を火の海にしてから使うという考え方だったようだ。

話は替わるが、従来、米軍機の爆撃法は大編隊による絨毯(じゅうたん)爆撃が多く、航空基地に対しては時限爆弾が使われた。そのため、滑走路はしばしば痘痕のように陥没した。一つ特異なものとして、はっきり瞼の中にあるのは、爆弾が高度数百米の所で炸烈、対人殺傷用と思われる弾片が円堆状に地上に広く叩き付けられる情景であった。当時私は、これは「空雷」(仮称)とでもいうべき新型爆弾の試用をしているのではないかと思った。

 

その5 洞窟の艦砲

20年3月、41警から分離され、新編された47警の14糎砲台に、砲台長・分隊長として着任した。

この砲台は、子島に据えてあった水上砲を分解、ゲンコツ山の北面に移設したものである。砲身、砲架、架台等は一応取付けてあったが、指揮所設備や弾火薬庫、砲員の待機所、居住施設などは、なお工事続行中であった。

砲台守備の為の機銃陣地も建設中で、隊員は昼間の空襲に対処、生きるための農耕に汗しつつ、夜は乾めんぽうを噛りながらの岩盤掘りの突貫作業を連日続けていた。

洞窟の大きさは45口径の砲身が、最大仰角のとき岩山の絶壁開孔部の上線にすれすれになるように据えられ、高さ10米、幅11米、奥行16米程のもの2つを主体とし、中央に2米程の通路を奥深く掘進し、側面には弾薬庫、待機所等を設けた。完成すれば通路は山の反対側に抜け、陸軍の小野大隊の陣地に通ずる筈であった。

据付工事を終り、試射を兼ねて教練射撃が行われた。標的は子島方向の環礁内を航行する曳航標的である。砲台の位置が高く、眼高差があるので、射表値の修正に苦心したが、12,000m位の射距離で初弾遠、修正弾近、第3弾以下夾射となり、教範どおりの成績で、砲の基礎工事も異常なかった。

ただ、この砲は正規の艦砲と違って、自動噴気装置がないので、ドーンと一発、発射する毎に尾栓を開いて、かねて手製の大きな団扇でパタパタと臓中のガスを扇ぎ出すという幼稚な芸をしなければならなかった。発射速度が遅くなると共に洞窟内に砲煙やガスが逐次充満して鼻や喉が痛くなった。

実戦時に連続射撃であれば、洞窟に籠っての射撃は色々支障を生じたのではなかろうか。この日は陸軍の将校も多数見学に見えていた。洞窟の所在を隠蔽するために、開口部に金属をかぶせ、(つた)(かずら)を這わせて迷彩を施した。

ある時、三木大尉の操縦する「彩雲」に搭乗させてもらい、上空から砲台付近を観察したが、やはり洞窟部分は黒々と区別されてよく分り、これで一斉射撃したら迷彩は吹き飛び、その所在を曝露して、忽ち敵の艦砲に狙われるだろうなと思った。

各島の洞窟砲台も次々に試射が実施され、冬島甲砲台(砲台長太田大尉)の試射も見学に行ったが、その射撃の終った日に、そこで終戦の情報を聞いた。

春島14糎砲台も、皆が筆絶に尽くしがたい苦労をして造成した要塞であったが、1発も敵を撃つことなく、残弾2,000発を残して終戦となった。その日、悲憤痛恨、天を仰いで涙した。

 

その6 トラック農耕隊

19年4月に着任した頃は、麦飯にパンの実の入った食事も食べられ、祝日には、ぼた餅の出る日もあったが、戦局の推移と共に食糧事情は日々に厳しくなり、米の飯など縁遠いものとなった各部隊も、戦備の傍ら砲台付近に農耕地を開墾していった。特に、沖縄百号と農林二号の薩摩芋は主食として、大々的に栽培された。

 

私が春島に転任してからの思い出として、(まぶた)に浮かぶのは、陸海軍を問わず、どこの部隊も自給自足の為の農耕に懸命で、まるで、トラック島の全軍が農耕隊に変身したかの感があった。

隊長としては、如何にして栄養失調患者を出さないようにするか、作付け段別をいかに有効に割りつけて収穫を上げるとか、また、1日の摂取必要なカロリーとして3,000カロリー(?)をとるためには、芋ならば1日2.7キロ食べる必要があるといわれていたが、とても1日3回では食べきれず、椰子(やし)油であげたり、きんとんにしたり、ふかしたり、とにかく7回位に分けてでも、栄養をとってもらうことであった。

海軍部隊は、施設の付近しか耕作の余地はなく、また暇も少なかったが、陸軍は散兵壕や対戦車壕を造成しながら耕地を拡大出来るので、広大な農耕地を持つ部隊や、隠し畑まで持つ所も出てきた。不満が表面化したので、陸海軍合同で測量調査が行われた模様で、その結果、農耕地は、条件の如何を問わず陣地を中心として、1人あて114坪という取決めになった。

パンの木や椰子の木についても割り当ての数が示達された。春島基地が空襲される度ごとにパンの実や椰子の実が吹き飛ぶので、残りを数えて悔しがったものである。

私の砲台は岩場の石ころの多い敷地だったので、芋の出来は悪く、最初は1坪から3.6キロしか獲れず、がっかりしたものである。南瓜は馬鹿によくとれたが、南洋の野菜はどれも大味である。春島にもヨトウ虫が繁殖し、一夜にして収穫が駄目になった時もあった。

トカゲを黒こげにいぶして粉にし、毎朝0.5グラムずつ食べれば栄養失調にならないというご宣託で、丁寧に紙包みにして毎食に配ったものである。夜、天井を這う「ヤモリ」も小枝で叩きおとして夜食の焼肉となった。

海軍に入って、戦地で農耕作業をしようなどとは、嘗て夢にも思わぬことだった・・・。約1年7カ月、米のご飯を殆ど食べずに過し、最後に保有していた戦闘糧食は3カ月分であった。

 

その7 北水道掃海

終戦となり、武器、弾薬を指定箇所に集積したり、物件を焼却したりする等、あれこれ作業に追われ始めた頃、警備隊本部に呼ばれて、北水道方面の機雷堰の掃海を命ぜられた。

尾崎隊の隊員も含めて、2コ小隊程度の掃海隊を編成し、北島に進出した。大発が全部で10隻程度だったと思う。対艇式で「小掃海具」を曳航し、敷設線を見つけて掃海具で拘束切断し、銃撃処分、又は爆破(かぎ)によって爆破処分した。

トラックの海は透きとおるように綺麗だ。敷設された機雷も長年月の間に、敷設深度が色々に変っていて、浅いのは機雷缶の上に立つと(へそ)が見える位のものもあり、また10米以上も沈下していたものもあったが、手にとるように、その坊主頭がよく見えるので、掃海は比較的容易であった。

機雷缶に爆破鈎を仕掛け、発火電線で数珠(じゅず)繋ぎにし、敷設線の機雷を一斉に発火器で通電すると、ドドーンと海面が盛りあがって、水柱の飛沫が飛び、やがて、火薬の色の波紋が漂う。その中に夥しい数の魚が浮き上る。それっというわけで急いで掬い上げる。

早速に陸に揚げて、塩漬けにするわけだが、塩取り作業がとても間に合わない。色々考えた挙句、即席の囲炉裏を掘り、榔子の葉の屋根をかぶせ、チョロチョロと燃える火の上に鉄棒を並べて、燻製(くんせい)を作ることにした。これを砲台に送ったのであるが、長く魚にも飢えていたので有難い食料となった。

「あなた掃海、わしぁ機雷ワイヤワイヤで苦労する」と、坊主頭を探して走り廻る毎日が続いた。

何日かったかはっきり覚えていないが、処分した機雷数は392個と司令部に報告した記憶がある。掃海作業も終りに近づいた頃、数隻の米軍の掃海艇が北水道から進入して掃海を始めた。艇尾から何やら掃海索らしいものを流し、その端末と思われるところにフロート(浮標)がついて走っており、フロートにはひらひらと標旗がはためいていた。わが方の小掃海具とは比較にならぬ程、掃海力が速く、スマートに掃海面を航過していた。

日本の単艦式掃海具のパラペーンを使っているのかなと思っていたが、後日、海上自衛隊に入隊してから分かったのであるが、それはオッタータイプ、つまり、水中凧の原理で、掃海索を定深度に尾張する方式のものだったのである。

 

その8 第二次大空襲

昭和19年4月30日の朝は、海も空も青一色に澄みわたった天気でした。前夜は天長節、特製の「おはぎ」やご馳走、祝酒の味がまだ舌に沁みているような夜明け、突如「空襲警報」が発令された。

当時、私は41警司令付であったが、日下隊長の指揮された松島砲台に派遣されていた。戦闘指揮所から遥か南方方向を見れば、水平線はウンカの如き艦載機の編隊で黒々としており、爆音を轟かせつつ北上してきた。当日の艦隊司令部からの情報は、空母3群、延べ1,000機ということであった。編隊は大きく旋回して解列し、各島の目標に向って分散しつつ飛来した。

松島砲台へは、春島方向から竹島飛行場を結ぶ直上コースをとって襲撃してきた。午前7時頃から午後7時頃まで、間断のない対地攻撃と対空射撃の応酬が繰り返された。松島砲台へは4機編隊14波が飛来した。上下の波状運動をなしつつ一列の縦陣となって次々と襲い掛かって来た。

当時、松島砲台装備の高射器は二式高射器であって、等高度直線運動を前提とする線速度式高射器であったと記憶する。敵はおそらく事前に調査していたのであろうか、敵機は機銃で掃射しつつ60キロ、又は80キロ爆弾を投下しては飛び去り、その度に濛々たる土煙があがった。

私のいた指揮所は、屋根と側方3面はトタン葺きで、床はコンクリートが張ってあり、地下に戦時治療室があった。爆弾は四隅に落ちるが不思議に中央を外れた。

12.7糎高角砲の1門は射手席に近い装填装置を射抜かれて故障し、その他の砲もその後故障し、以後は機銃と飛行機との一騎打が続いた。

突っ込んでくる敵機に、わが機銃が先制射撃を加えると機は左、右いずれかに「バンク」してコースを外し逃避した。その時、操縦席からこちらを覗いていた若者らしい色白のパイロットの顔が、今でも強く印象に残っている。  敵機が先制攻撃して来た時のわが方の射撃精度は余りよくなかった。正に生死を賭けた射手と操縦士の一騎打の姿がそこに見られた。

 

私の傍には2人の電話伝令が受話器を持って頑張っていたが、敵の連続攻撃が激しくなり、どの島を見ても戦たけなわとなったので、指示して後方のドラム缶(石をつめて防壁としたもの)の陰に退避させた。

戦闘終了後、所内の弾根を調べたら、身体を交わす隙間のない程の数で「よくまァ当らなかったものだ」、「人間、弾丸に当った時が寿命だナ 寿命だナ」と述懐したものです。

私自身左足が「熱い」と感じた時があったが、それは弾丸が石でもはねて靴にあたったのであろうか。その2人の伝令も1人は防暑服上下の脇下、もう1人は立てた襟と襟を突き抜けるように弾丸が焦が(こが)していた。敵機が去り「戦闘要具収め」が下令された、一瞬視界が黄色くなったのをはっきり覚えてい。私にとっては弾丸雨飛の洗礼を受けた初陣であった

当日の戦果は、敵機の損害85機、わが方の人員の損害58名と発表。しかし撃墜されたらしい敵機の火煙は数砲台、数陣地から見えるので戦果は過大視され易いものだなと実感した。戦闘終了直後、浅野新平司令がサイドカーで陣地にかけ上って来られ、「生きていたか」と言われたその時の温顔は、今でも忘れることが出来ない。

翌5月1日も前日と同じく、早朝から約700機(司令部情報)が来襲、前日同様の戦闘が夕刻まで繰り返されたが、敵の攻撃目標も重点を飛行場、砲台等から少し変えたようで、水際の施設や船艇も狙われたように思う。

やや黄昏に近き頃だったか、「警戒警報解除」により「戦闘用意用具収め」を終り、砲台を一巡して隊舎に向う時のことである。

既に天候は下り坂で雲が低く垂れこめつつあった。だらだら坂を下って曲り角に向う10米程手前で、ふと何か、両耳がふわふわと圧迫されるように感じ「おかしい?」と思い後を振り返ったら、グラマンかヘルダイバーか、はっきり覚えていないが、一機がプロペラを止めて、うす黒い雲間から、正に私の方へ真直ぐに襲いかかろうとしていたのである。

途端にまっしぐらに走り続けて、一気に曲り角の土堤下に転がり込み、椰子の木の根っこで支えられた。と同時に、13粍機銃の鈍い音がバリバリと唸り、弾丸が30糎位の直上を掠めて行き、椰子の木に数発弾痕が残った。

戦場におけるインスピレーションとでもいおうか、これが私の命を救ってくれたのである。

 

その9 誤りの空襲警報で助かる

昭和20年の6月頃だったであろうか。その頃から米軍機は時限爆弾を使い始め、大して飛行機もいない飛行場を攻撃してきた。

当時、私はゲンコツ山(後に金剛山と陸軍は命名)の洞窟内に装備された14糎2門の砲台長として勤務していたが、毎日のようにこの基地は攻撃目標とされていて、空襲には慣れっこになっていた。

その日も第1回目の空襲警報発令後、例の通り、B-29の編隊が絨毯爆撃法で基地に対し投下したと思われた。シャシャという音は聞いたが、づしん、づしんという鈍い音のみで、炸裂音は聞こえず、おかしいなと思ううちに警報解除になったので、隊員は急いで夕食の仕度にかかった。私は先任下士に命じて隊舎内外を調査させたが、報告は「異常なし」であった。

それから間もなく食事を食べかけた頃、再び「空襲警報」が発令されたのである。食事を惜しむかのような隊員を督励して急ぎ砲台内に退避させた。最後の隊員が洞窟内に入り終ったかなと思った瞬間であった。あちこちでドスンドスンとやりだして隊舎の屋根が吹き飛び、そして飼っていた野鶏なども死んでいた。私の室の裏にあった大樹の根にもポッカリ穴があいていた。この警報は敵襲ではなく間もなく解除になった。  

(編者注、本稿は昭和5810月、松元が編集長で出版された

「トラック島海軍戦記」から転載したものである)

(なにわ会ニュース69号 平成5年9月掲載)

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