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平成22年4月19日 校正すみ

特四と高雄蛟竜隊

後藤 

「6艦隊司令部付兼呉工廠付」.シンガポールの「つくし」で少尉任官祝いをやってもらって間もない昭和19年3月末頃、転任の辞令を受け取った。これより先、同年1月末、アンダマン海はペナン沖で乗組の軽巡北上が敵潜の魚雷を被って大破、ジンガポールに辿り着いてドック入りしたまま動かなくなり、誰かに転任がくるだろうと思っていたら、一番手が小生となった。

ところが、この発令の意味が判らない。士官室の先輩達も頭をひねっていたが、一人が「特殊潜航艇ではないか」という。そういえば、卒業の時、艦攻か特潜、というような志望を出した記憶がある。それにしても、シンガポールからおいそれとすぐ内地へ帰る便がなく、ぐずぐずしていると「至急赴任せよ」と催促の電命で、ダグラス機の座席を優先割り当てしてもらい、乗組仲間の亀井 寿、中垣義幸、三宅収一、機関の阿部 達、主計の堀池省吾に別れを告げ、内地へ飛んだ。ところが、このダグラスがなんの都合か台北で動かなぐなり、一週間待たされて、ようやく内地に着いた。

しかし、行き先が判らないので、兎も角呉鎮守府を訪れてみると「なんだか、工廠のあの辺から出ている便がその関係のようだ」という話で、まだ心もとないが、捜している内に それらしい大発が見付かった。

音戸瀬戸を抜けて倉橋島の内湾に入ると、初めて見る目には異様な豆潜水艦が浮かんでいる。やっぱりそうかと、上陸してみると

「君は向かいの情島の方だ」という事で、また便を待たされることになった。すると、一人の中尉が「ちょっと俺の部屋に来ないか」というので、付いて行くと、図面を広げ、「これは魚雷を改造して、人間を乗せるように設計したものだが、どう思う」という話。出し抜けの話なので、黙って聞いている中に、情島への便が出るというので別れたが、その人の名は黒木博司、その設計図が回天の始まりだった訳である。

 

◇幻のZ作戦〃

既に日も落ちて、情島に近づくと、今度はセレター軍港で見たことがある魚雷艇のような形のものが、夕闇の中にズラリ浜辺に並んで見えて来た。これが本命か、と島の土を踏んだ途端、「着任が遅いので、置いて行こうかと思っていた。いま訓練に出かけるところだ。すぐ乗れ」というので、軍服のまま飛び乗る。目の前で見ると、両舷甲板に一本ずつ魚雷を抱いているところは確かに魚雷艇だが、舷側にキャタピラが付いているところは戦車のようでもある。号令一下、キャタピラが回り出すと、この奇怪なるモノは砂地をけって海に突っ込んでいく。完全に砂地を離れて海に浮かぶと、今度はクラッチを切り換え、エンジンをスクリューにつないで動き出した。成程、と思い、続いて訓練振りを見学していたが、いつまでたっても増速しないので、「何ノット出るのか」と質問すると、返事はなんと「4ノット、これが最大速力だ」

これが水陸両用戦車「特四」なるものであった。しかも水陸両用だけでなく、念入りな事にエンジンは水密、つまり、「あ号作戦」では、ガダルカナル以来の後退を一気にはね返して、局面の転換を図るため、わが方が先手をとって敵の集結中の船団に奇襲をかけ、敵の混乱に乗じて、全力を挙げて之を叩く。

奇襲戦法としては、甲標的のようなものでは最早、敵の水道の警戒が厳重で無理であるから、この特四を潜水艦で運んで、夜間浮上発進させ、警戒の手薄なリーフを乗り越えて泊地に忍び込み、襲撃するという寸法である。 ついでに言うと、魚雷がまた変わっていて、普通の魚雷は発射時に目標に向かう斜進が掛かるようになっているが、この魚雷には「第2斜進」というものが付け加わっていて、一定距離を走ったあと、自動的に舵を取って旋回を始める。泊地には船団が密集しているから、最初狙った目標を外しても、廻っている内にどれかに当るだろうという考えだ。

もう一つ、ついでには、水上機のフロートにジョンソンモーターをつけたものを艇尾に積み込み、襲撃終了後は艇を沈めて、このフロートで脱出しろ、という。

確かに、考え方としては面白い。しかし、それにしては「最大速力4ノット」とはどういうことか。しかも、陸上に移って、直径4050センチの石の固まりにぶっつかると、ガクッとキャタピラが外れる。飛び降りて、ジャッキで艇を持ち上げ、金テコで外れたキャタピラをこじ入れるのに少々の時間では済まない。

潜水艦にも近づける限度があり、そこからトコトコ4ノットで進み、石がごろごろしているリーフでキャタピラを外したり、こじ入れたりしている内に夜が明けるだろう。見付かってしまえば、機銃1発でおしまいだ。

まだある。こんな低性能の癖して、騒音だけは嫌に大きい。隠密性が絶対条件だというので、訓練も夜間行動に限っていたが、対岸の大浦崎の甲標的の連中はこの音を聞いて「今夜も賑やかだナ、あれでは隠密も糞もないナ」と笑っていた。あれやこれやで、折角のアイデアながら、1隻でも発射点に取りつけたらお慰みと、我々は考えた。 

士官は伊地知季久中尉を先任として樋口 孝、上別府宣紀各中尉の70期3人、遠藤 壬、落山義幹、乙部英商、花田賢司、古本 浩、百瀬 博各中尉の71期6人、それに後藤 脩少尉の72期1人計10人で、おのおの2隻ずつを指揮することになっていたが、「行けと言われるからには、行ってベストを尽くす。然し、気休めのフロートなぞは魚雷操作の邪魔になるだけだからいらない。それよりも、こんな粗末なものしか作れないで、有為の人材を殺すようでは、帝国海軍の行く末が思いやられる」という思いは一様のようであった。

艦政本部の某少将が様子を聞きにやってきて、艇長10人と呉工廠の中の講堂で会見し、話が進んでいく内に、この少将は青写真だけは見たことがあるが、実物は一度も見たことがないという事が判り、「無責任だ」と詰められると、怒って「出ていけ」というので、艇長一同総退場したという場面もあった。

その間も、出撃準備は既定計画通り着々と進み、母艦となる潜水艦も柱島泊地に集結、攻撃目標はクェゼリン・メジェロなど、攻撃日は5月27日海軍記念日とする、その名も勇ましい「Z作戦」をいよいよ発動ということで、特四隊は水盃をすませ、柱島に向かった。その段階になって、連合艦隊水雷参謀と6艦隊参謀長とが実地を見たいというので、小生が艇を指揮して岩場に上がり、ちょっと歩いてみせると、忽ちガタッと見事にキャタビが外れた。参謀一行は之を見て黙って帰っていったがその直後「作戦中止」。

 

後からの話では、この作戦を巡って潜水艦側は「無理して軍神〃を創るだけのために、潜水艦自体が潰される」と反対し軍令部との間で最後まで揉めたとの事であるが、いずれにせよ、かくしてZ旗〃は遂に翻る事なく、今から見るといささか漫画的でさえあるが、当時としては後味の余りよくない結末となった。

 

特四隊解散後、伊地知大尉は陸戦隊用の水陸両用戦車に乗りマニラで戦死、樋口大尉は回天に黒木大尉と同乗して殉職、上別府大尉は第一次回天特別攻撃隊で戦死、71期の百瀬中尉を除く5人と小生とが、甲標的艇長講習(第10期)をやり直すことになった。

 

 冷や汗もの

再び大浦崎に行ってみると、今度は三笠清治、笹川 勉が来ていて、再びクラスと過ごせる楽しい日が暫く続くことになり、3期予備学生も50人と纏まって来ており、部隊は見違えるほど賑やかになっていた。10期艇長講習は講習員6人と小人数でもあり、濃密講習で比較的短期に仕上がり、直ちに今度は11期艇長の同乗指導官や4期予備学生の指導官をやらされているうちにマニラ進出を命ぜられ、20年正月早々内地を出発、途中、命令変更で高雄に行き、そのまま高雄で終戦を迎える事になるわけだが、その間の思い出に残るものは色々ある。

色々ある中で、へべった思い出のようなものもあるが、特集の性格からして、ここでは先ず甲標的艇長本来の職務上の失敗談のようなものを披露することとする。

 

その1

特四のお粗末ぶりを見てきた目には甲標的は実によくできているように見えた。足こそ短いが、潜水艦をそのままコンパクトにし、わずか2、3人の乗員で操れるようにしたその精巧さには、まず感心した。

とはいうものの、やはりそこには、なにがしかの無理はあるもので、まかり間違うと、それが大事を引き起こすことになる。

安芸灘で訓練中、水中全速航走(20ノット近い)ののち、減速して露頂しようとしたが、減速出来なくなったことがある。全没してから既にかなりの距離を走っているから、放っておけば、さして広くない海面で、忽ち岩礁か島に激突してしまう。全速では特眼鏡(潜望鏡)を上げることもできなければ、浮上することもできない。(水上航走は10ノットぐらいが限度で、それ以上になると艇首から水中に突っ込んでしまう)全速を出すと、モーターのスイッチバーが焼き付いて離れなくなることが稀にあるという話を思い出して、艇付に舵と深度を命じておいて、後部電池室の通路をはい抜けて行ってみると、やっぱりそうで、棒を挟み込んで、力一杯こじたらやっとスィッチが切れた。

 

その2 

ハワイ特別攻撃隊で酒巻少尉が捕虜の憂き目に会ったそもそもの原因はコンパス故障を無理して発進した為だといわれるが、潜って歩くものにコンパスがなければ盲同然。そのためコンパスは相当改善されたが、それでも故障絶無というわけではいかなかった。

高雄に進出してからは、艇の電池の寿命も考慮して、ほとんど出動訓練はしなかったが、それでも一度は、水路誌の海潮流が実際とどう違うか、を調べることを主な目的として、24時間航走をしたことがある。高雄沖から南下して台湾南端ガラン鼻を望んで帰ってきたが、間もなく高雄沖へさしかかるため位置を入れようとしてみると、コンパスがとんでもない方向へ回っている。艇付も疲労していて故障に気付かず、朦朧として、ただ針を追っていただけなので、どこをどう走ってきたかも見当が付かなくなった。

これで掃海水路へどうやって入るかだが、他に手段はないので、山の格好を目分量で測りながら、冷や汗をかいて入港した。狭い掃海水路を正確に通って来たにしては偶然すぎるので機雷が余りまともにはいっていなかったのかもしれない。

 

その3 

右の2つは機械事故だが、これは衝突事故。艇長講習も仕上げの段階に入って、柱島に停泊している艦隊を相手に薄暮訓練をした時のことである。  昼、大浦崎基地を出発する頃から空模様はよくなく、柱島の外側の発進地点から所定時刻に発進した頃には、視界はかなり悪くなりつつあった。相手は輪形陣をとっており、その中にいる空母などが、それぞれの攻撃目標として予め与えられていた。後藤艇は方向を定め、駆逐艦の警戒陣を突破して進むが、特眼鏡を上げて観測すると、他の目標艦は見えるのに、わが目標空母らしいものはまだ視界に入ってこない。コースに自信がなくなって、少しウロウロして、また露頂して見ると、何たることか、ほんの4050mのところに僚艇の特潜鏡が波を切っている。慌てて離脱したが、再び露頂しても視界は刻一刻悪くなっているのだから、今迄見えなかったものが、今さら見える筈もない。風雨は益々激しく、たちまち視界ゼロになり演習中止。これまで後についていた監視艇が今度は前になり、それにつこうとするのだが、浮上してもこの波ではハッチを開かれず特眼鏡を通して見るに、倍率15では監視艇の灯光さえ定かでなぐ、倍率6では艇の動揺で視野に容易に入らない。 漸く見当がついて、機械をかけ、舵をとったと思ったら、ドスンとぶっつけた。忽ち、上から.探照灯を浴びせられ、その光の中で、カッターが降ろされ、救助に来てくれて、監視艇の乗員ともども、一宿の恩義にあずかることになった。これが重巡那智だが、その時ガンルームにいたクラスの諸兄は誰々だっただろうか?

他の僚艇と監視艇は島陰に避難して一晩難儀したが、こっちはぶっつけたお陰で、大艦に収容され、手厚いもてなしを受けたわけ。あとから聞くと、小生の目標の空母はその日の昼、予定が変って、俄かに呉港へ回航して、いなくなっていたのだそうな。

 

◇戦機を逸す

マニラ出撃予定は1912月の下旬も半ばを過ぎていた頃だったように思う。3期予備学生艇長の平井興治中尉とともに乗艇86号、89号の整備は予定日までに完了したが、輸送艦の方が遅れて、呉港を出港したのが年も明けて1月6日、この1週間余の遅れが決定的となった。

14号輸送艦は敵潜水艦を避けて長江沖へつっかけ、そこからシナ大陸岸沿いに南下して、マニラ西方かちマニラへ直進するコースで、アモイまで行き着いたところ、敵のリンガエン上陸の報を聞いた。遅かった。こうなっては、輸送艦のマニラ到着は不可能としても、会敵の機を見て、洋上で甲標的を発進させれば一戦は交えられるというわけで、既定のコースを進むことに予備少佐の輸送艦艦長との合意に達したところ、軍令部から「マニラ行きを取りやめ高雄へ行け」との電命である。

命令とあればそれまでで、アモイを出て、馬公に一晩仮泊、高雄の左営要港に入港したのは1月12日午後と記憶する。平井中尉と共に高雄警備府に伺候すると.「明朝から敵機動部隊の空襲がある」とのことで、それまでに少なくとも予備魚雷だけは陸揚げしておくこととし、陸上側の手配を依頼して急ぎ輸送艦へ引き返したが、その時司令部で紅茶をご馳走になった平井中尉が「砂糖がたっぷりはいっていて、美味かった」と如何にも満足げだったのが忘れられない。

その晩はほとんど徹夜で予備魚雷を揚げ終わり、朝になると、空襲警報とともに輸送艦は出港、沖合で甲標的を滑り落としてもらった。甲標的は水深40米ぐらいの海底で沈座し、昼寝して、夕方になって要港に帰ってみると、在泊艦船は1隻残らず、沈没又は火災を起こしていたが、輸送艦は寿山という山一つ隔てた高雄の商港の方へ回っていて、ひとまず無事であることが判った。また要港内にたまたま、甲標的をすっかり隠しておけるような場所も見付かった。そこで、翌朝は小生が再び警備府へ連絡に、平井中尉が整備員など5人を率いて商港にいる輸送艦へ基地資材の積み降ろしに、それぞれ手分けして出かけたが、その最中に再び空襲に見舞われ、平井中尉以下は輸送艦と運命をともにして戦死した。

当時、高雄には、これもミンダナオ進出の途中、行きはぐれていた甲標的1隻(艇長・柳生虎彦兵曹長)がいたので、これを、平井中尉以下の補充に送られてきた。同じ3期予備学生艇長の佐藤 健中尉以下とともに指揮下に入れて、ここに「高雄蛟竜隊」を編成したが、基地資材を陸揚げ出来ないまま失ったことは痛手だった。甲標的用の器材には特殊なものが多いため、高雄の工作部あたりにあって、そのまますぐ使えるような物は殆んどないのである。それに、そもそも受け入れ用意のないところにいきなり乗り込んで来たのだから、当分の間は兵舎ひとつないという始末だった。この点、震洋隊長として竹内 泉と栗原 博がいて、何かの便宜を得たことは有難かった。

マニラには行けなかったものの、比島の次は台湾という訳で、不自由な中にも、戦備だけは急いでいたが、やがて敵は沖縄へ向かい、台湾は間に取り残されそうな形勢がはっきりしてきた。そこで、高雄警備府へ「基隆で整備して行けば、沖縄まで350マイル、片道攻撃はできる。待ちぼうけているよりは役に立つと思うので、行かせて貰いたい」と具申したが、「台湾にもいつ攻めて来るか判らん。他にろくに海上兵力はないのだから」と却下され、結局、最後の戦機もわが隊には回って来ない事になった。

8月15日から幾日か過ぎ、中国軍に一切の兵器を引き渡さなければならなくなった時、予備魚雷はともかくとして、内地出撃の時からお守り札を張って装填してきた発射管の中の魚雷だけは、いくらなんでも引き渡すのが可愛そうだった。高雄の沖へ出て行った。搭乗もこれが最後だ。魚雷を発射した、一発、また一発、魚雷の走り行く彼方の台湾海峡の夏の日に煌めく波を何時までも見守っていた。

(なにわ会ニュース1938頁から 昭和45年2月掲載)

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