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平成22年4月24日 校正すみ

最も長い一日

国本 静雄(初桜砲術長・横須賀)

今日、またあの長い、長い一日がやってきた。昭和二十年八月十五日は、東日本水上、水中特攻隊旗艦駆逐艦『初桜』の先任将校(砲術長)をつとめていた私にとって最も長い一日であった。

午前零時『出渠用意』にはじまって『午前十時横浜出港』、そして『横須賀へ回航、弾薬搭載のうえ出撃の予定』と、次々に狭い艦内を伝令が走る。速力増大のためドックにはいって、艦底のかき落としをしていたのでドックを満水にして出渠できるまでには、随分時間がかかる。

この間に、艦とドックをすっぽりおおっていた網と偽装をはずし、陸上に据え付けて艦を守っていた対空機銃二十門も収容し、兵器、計器類の点検を行った。

出撃命令を受けたのは前夜九時ごろ。折から横浜市はB29の大空襲を受けている最中であった。自転車伝令が横須賀鎮守府極秘命令をもってかけつけた。暗号電報によらなかったのは、入渠中のわが艦との送受信が困難であったためだろうか…。

『駆逐艦初桜は、東日本水上・水中特攻隊を先導して、伊豆大島南方の米大艦隊に突入し、これを撃滅せよ!』。伝令からじかにこの命令書を受け取り、一読した私は、急ぎ艦長に伝えなければならないのに、震えが激しく、しばらくの間、動くことが出来なかったことを恥ずかしくはっきりと覚えている。

正午前に横須賀へ入港し、錨を入れ、艦長は作戦打ち合わせに鎮守府へ出向いた。われわれの戦力は、艦艇としては初桜のほか哨戒艇、駆潜艇あわせて約十隻、潜水艦数隻、五人乗り・二人乗り特潜十隻、頭の部分が炸薬になっている一人乗り体当たりモーターボート(震洋)百隻。海軍航空隊は横須賀・厚木・土浦などに即時出撃可能な百機程度の戦闘機のみであろう。

敵は、現に房総半島南方百`たらずの海上に結集しているものだけでも、戦艦十、巡洋艦十その他あわせて百隻以上の大艦隊である。さらに後続艦隊、別動艦隊があるのでは彼我戦力の差あまりにも大き過ぎる。

また敵は軍港と航空基地を、一週間前に広島、長崎を攻撃した特殊爆弾(原爆のことを当時はこう呼んでいた)でたたいてくるだろう。

われわれは目前の敵艦隊に突入して体当たり、一艦でも多く損傷を加えて撃退できればそれでよい。

その後、海軍はどう戦うのだろう。日本はどうなるのか。

  艦内では魚雷弾薬の搭載作業で、必死の重大任務につこうと興奮の極である。

このためわれわれは、正午の天皇陛下の重大ラジオ放送は、国土防衛に国民の総決起を求めるものであろう・・・と聞く間もなかった。

ところが今、搭載作業で艦外との接触が始まったところ「無条件降伏受諾」だと知らされた。

降伏とは一体どういうことか。乗員の動揺不安は次第に大きくなり、艦長の帰りを待った。厚木航空隊の戦闘機は、 『無条件降伏は天皇のご意見によるものではなく、側近の陰謀による。航空隊は最後の一機まで抗戦する』とビラをまく。

 午後三時すぎ艦長が帰艦し、全乗員を甲板に集め緊張しきった面持ちで『全員の命はオレが預かる。いやな者は退艦しろ』まことに明瞭簡単。

先任将校の私と通信長伊藤中尉が艦長室へ呼ばれた。『鎮守府では突入作戦は中止だというんだ。無条件降伏など、とんでもない。戦うんだ。初桜だけでも突っ込もう!』と息まく。

  海軍兵学校六期先輩の艦長青木少佐にとつては、もっともなことなのだ。船乗りになってから約十年、大東亜戦争四年の間に、同期の半数以上が戦死しているし、多くの部下を失っている。散り花を咲かせ、国家に殉ずるには今をおいてない。

  『終戦の軍使を乗せて敵の艦隊に行けというが、断わってきた・・・』。

長い沈黙のあと、意見を聞きたいという。私は『日本の軍隊は、天皇の軍隊であってあくまで天皇の命に従うべきでしょう。遠くは西郷隆盛、近くに二・二六や五・一五の例のように、のちのち国賊よばわりされては、われわれの殉国も無意味です。天皇の命令ならば降伏もまたやむをえないでしょう。自重して下さい』と説得につとめた。

通信長も私の意見に賛成してくれたが、深夜に至っても、艦長を納得させることはできなかった。こうして八月十五日の夜は、どこまでもふけていったのである・・・。

ちなみに翌十六日は水雷長(71期)、航海長(左近允)も着任乗艦して夕刻横須貿を出港。十七日昼、米国ミズリー艦隊と洋上で会合し、軍使を送る。夜は米艦隊とともに鎌倉沖に仮泊。十八日は米艦隊を横浜沖へ先導、そして十九日夜、初桜の乗員二百五十人全員が無事に退艦した。

(なにわ会ニュース33号9頁 昭和50年10月掲載)

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