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平成22年4月24日 校正すみ

昭和50年9月寄稿

終戦の想い出

久米川英世(ロ62潜航海長・大竹)

機械長(機曹長)が今晩自宅へ遊びに来ませんかというので、上陸した。大竹町の何とか住宅だったか、家へ尋ねて、話し込んでいたら、艦から呼びに来て「甲戦備」が発令されたという。さあ、一杯どころではない。葦駄天の如く(?)馳せ帰って出撃準備にかかった。8月13日のことである。

  当時私は呂62潜乗組として、航海長で先任将校をしていた。同艦は4月12日付練習兼警備潜水艦と定められ、第33潜水隊(呉潜水戦隊)に編入されており、大竹の沖に居て、潜水学校の学生練習生の実習に当っていた。

  僚艦の呂63潜には木庭啓次が居た。呂64潜には古川次男が居たが、4月13日、潜航訓練中、厳島西側の可部島沖で、B29がバラまいておいた機雷に触れ、司令安久大佐以下総員戦死してしまっていた。

 艦長は、6月8日に佐藤清輝少佐が第十艦隊司令部付に補せられ御退艦、6月15日に新艦長今西三郎大尉が着任されたと思ったら、3日後の18日には伊367潜艦長に補せられ退艦。その後、伊155潜艦長が呂62潜艦長兼務という発令があったが、一人で二艦に乗られるわけにはゆかず、伊155潜の方にずっと居られたままという状態であった。

とに角、20日頃四国沖に出撃散開の予定だったかと思うが、急遽、弾薬・燃料・糧食等を積込むと共に、平常は陸上に預けてある魚雷を受取り、その調整をせねばならない。その頃は敵機の来襲が屡々あり、特に潜水艦は艦載機の銃撃がこわい。浮上停泊して魚雷を調整している時艦載機の来襲でもあったら、急速潜航も難しく、殊にツリムがとれていないので危険である。それで、昼間は海底に沈座し夜間は浮上して魚雷の調整に当った。水雷長以下の懸命の努力で作業は思ったより進み、最後の一本の調整が完了したのが、8月15日午前11時過ぎであった。もう昼近いし、ついでに昼食してから浮上しょうと。昼飯をとらせ、浮上ったら12時を大分回っていた。

手旗で、陸上へ「ワレ戦備完了」と送らせたら、信号長が「どうも様子が変です」という。戦争は終っていたのだ! 12時に重大放送があると一応は聞いていたが、どうせしっかりやれということぐらいだろうと思っていた次第。終戦が既に分っていた・・・なんて言う偉い方々の話を戦後見聞きして、何ともやり切れぬ気持であった。

それから当分は、ここまで準備してこのまま引き下がれるか、行ける所まで行く、という航海長クラスの若手と、自重派の艦長クラスの方々と、喧々諤々であった。波号に乗り組んでいた岩本 修が「俺はこれから出る」と思いつめた顔で艦にやって来た。その真剣な眼差しが今も忘れられない。

厚木から(?)の飛行機は徹底抗戦のビラを撒いて行くし、緊迫した空気であったが、結局は艦長方の自重説に従う形となった。  8月21日呉に回航、26日第一次解員を行い、28日に軍艦旗降下式あり、艦に別れを告げた。

8月15日の終戦が、もう半月、いやあるいは5日でも遅れていたら、多分、私は生きて居らなかったろうと思う。人の運命の不思議を思う。

散ったクラスメートを偲んで、残りの方が少なくなった人生を、せめて国のため、社会のために、何か少しでも有意義なことをしたいと

久米川英世(ロ62潜航海長・大竹)

(なにわ会ニュース33号9頁 昭和50年10月掲載)

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