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平成22年4月24日 校正すみ

昭和50年9月寄稿

終戦の想い出(艦艇関係)

伊藤 正敬(楓航海長、呉倉橋島)

  20年1月31日駆逐艦楓航海長として台湾から比島への輸送作戦に従事中空襲をうけて艦橋前部に直撃、修理のために呉に帰投。7月5日から倉橋島本浦において終戦を迎えた。当時の主計長はコレスの高杉君でした。

 及川 久夫(支那方面艦隊栗先任将校兼砲術長、青島)

 上海、青島間の船団護衛に従事中、沖縄から来襲したP―51の編隊ロケット攻撃で缶室に被弾、青島ドックで修理中に八月十五日を迎えた。

 今後の日本の将来を考え、感無量の一日であり、大人になって始めて号泣した一日でもあったことを憶えている。

都竹 卓郎(二二五号海防艦、航海長・先任将校、七尾湾)

  本当のところ何を考えたのか覚えている自信がない。惑乱の中で日本はどうなるのかということを一生懸命考えようとしたような気がする。自分のことではないが、司令部にいた樋口 直が恐ろしく泰然としていたことが強く記憶に残っている。

藤井 武弘(海鷹分隊長、沈没して九州に上陸したところ)

  今まで数回沈没したので、またかと思った直後の終戦で、やっぱり駄目かと思ったのが実感で、その瞬間戦死した人達が無駄にならぬよう祈りたい気持であった。

(なにわ会ニュース33号9頁 昭和50年10月掲載)

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