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平成22年4月22日 校正すみ

黒木さんのこと

椎野 廣

椎野 廣 黒木 博司

昭和16年、秋、一号の51期生徒が間もなく卒業、そして、それは太平洋戦争の勃発寸前の或る夜であった。当時、私は第9分隊の三号であった。我々53期は四号、三号と50期と51期の二つのクラスを一号と仰ぐ変則的な不運なクラスである。今となっては特に被害意識を持つ事もないが、2倍、念入りに鍛えてもらったと感謝すべきことかもしれない。

それは兎も角一号というものは卒業前には何となく優しくなるものであった。卒業気分というやつである。身辺、何となく気忙しくなり雑用もふえ又随分と殴った三号(四号)に多少は優しいところもあったという印象も与えなければならず、罪滅ぼしの手加減さもあったであろう。

下級生の手前デレデレと卒業気分を出してはいかんと一号同志引き締め合うものの、候補生のピカピカの肩章が来たり、抱き茗荷の軍帽をそっと被ればもう何となく一人前の青年士官に近づいた気分にもなり、又親が調達してくれた軍刀の華やかな綾錦の袋を握りしめたりすると頬の筋肉が緩むのをどうしても止められぬ風であった。

そんな雰囲気を引締めようと最後の召集を明朝かけようとしているらしいその夜であった。三号を締めるのではなく弛み気分の一号自体を締める性格の物のように見えた。とにかく一号と三号の最終、最大のセレモニーが明朝行われる気配であった。恐らく裏のスキー場を駆け上って気合を入れるものであろう。

私と同分隊、同寝室の一号黒木生徒のベッドは窓辺にあった。起床就寝時の黒木生徒のベッド横の窓の開閉は三号たる私の担当であった。寝衣の裾をはためかせて駆け寄り、半歳の間その窓を開閉したものである。従ってその夜、就寝前何時ものように寝支度をしている黒木生徒の横の窓を閉めカーテンを降ろしている時に、明朝の召集の気配を感じたのである。

黒木生徒は隣の一号生徒にはしゃぎ気味に話をしていたのである。本人は声を落としている積もりであろうが、何しろ召集の黒木か黒木の召集かといわれた人だったから私には直ぐ察知できた。
(注、召集とは一号が二号、或いは三号にクラスぐるみで集合させて、お達し即ち集団で気合を入れるもの。そして下級生たる三号はライオンに狙われているアフリカの小動物の如く不思議とその殺気を感ずるものであった。)

元来私は駆足が苦手で海軍に入ったのに、結構駆足が多いのである。遅れてはよく殴られた。10哩駆足では海軍道路にさしかかった頃ぶっ倒れてしまったこともある。正直言って嫌であった。

夜の召集では剣道場で何百発か殴られるだけであるが、朝の召集は駆足にきまっている。スキー場を数回上下したりインターバルで振りおとされて殴られる。殴られるのはそう苦痛ではないが隊伍からだんだん遅れるあの屈辱感が嫌なのである。

ともかく、明朝は召集だな。ようし、私も間もなく二号になる。新しい三号が入校してきて三号の手前、いつものように駆足で遅れるなんてみっともないことも出来ないぞ、明朝は絶対遅れないぞと決意してベッドに入った。隣の北村に「おい、明朝、召集だぞ」と耳打ちしたかどうかは忘れた。

フト、夜中の四時頃、眼が醒めた。未だ暗い。そして、あ、召集だったなと気が付いた。こういう時、黒木生徒はいつも中央階段の眞直下、大時計の下で仁王立ちして、あの一種独特の細い眼をキラキラさせて睥睨(へいげい)しているのが常であった。うつらうつらしている頭の中で黒木生徒の「遅い‥」というあの擦れ声が聞こえる。半分はオドオドし、半分はなにくそと歯を食い縛りその横を走り抜けていく三号の群像が瞼の奥を流れる。然しもうこれが最後だな、最後の召集だな、あの(かす)声も聞けなくなるな、と思っているうちに眼が冴えてきて眠れなくなった。

寝室はシーンとしていてスヤスヤと寝息が聞こえる。遠い軍港の工廠あたりからリベットを打つような音がしてくる。開戦直前の緊迫した時代だったのか昼夜の別なく作業が行われていたのだろう。そうか一号も卒業か‥あんなに我々三号を震い上がらせた黒木生徒も卒業か、あの擦れ声も、一寸外股気味の歩き方も、細い眼をますます細めて笑うと小さなユタボができるあの白哲の顔も、仁王立ちも今朝で見収めかと思っているうちに、 ーーほんとにムラムラと無意識にーー ようし、あの仁王立ちを阻止してやろう、悪戯してやろう、困らせてやろうと思った。

中央階段、大時計の下に人より早く行けないようにすればよい、遅らせればよい。どうするか。チェストの上の軍帽か作業服を隠そうか。それは平凡すぎる。面白くない。他に手段はないかと考えているうちに、もういっそのこと毛布から抜け出なくして徹底的に遅れてしまう、そんな方法はないか。海軍では毛布で寝た。娑婆とちがって独特の丸め方をした毛布の中にくるまって寝た。(みの)みたいに丸めた毛布に出入りする方法になっていた。

よし、毛布を縫いつけてやろうと(ひらめ)いた。両手を毛布の中に入れて寝ているので外から肩口を縫い込められると力が入らずもがくばかりである。之に限る。

私はそっとベッドから抜け出しチェストの中から針と糸を出し、糸を二重にして10メーター位の長さにした。身をかがめて抜足、差足、黒木生徒のベッドの下まで潜行した。幸い黒木生徒の寝息は深い。私は少し身ぶるいがした。

大講堂の側面の大きな閉塞隊の油絵を連想した。之は閉塞隊ぢやワィ。最初の針を肩口の下の布団に突き差すとプツンと大きな音がした。暗夜の静寂では小さな針の音でも結構大きかった。息を潜めて肩口から足許へ、ぐるりと回って反対側の足許から肩口まで毛布と敷布団を縫いつけてしまった。

自分のベッドへ帰った。黒木生徒が起床ラッパの前に目覚めて起きれば萬事オジャンである。成功を祈って眼を閉じた。

けたたましい起床ラッパが鳴った。当然私は黒木生徒の眞横の窓を開ける為に飛んで行った。「何んだ、こりゃ!‥」「誰だ!‥」 「こん畜生!‥」黒木生徒はもがいている。「三号生徒は洗面後、直ちに第一生徒館前に集合!‥』と召集の怒鳴り声が廊下から聞こえてくる。寝室を飛び出る時にチラッと見ると黒木生徒はやっとベッドに身体を半分起こしたままである。呆然、且、諦めの表情がみえる。成功!‥さあ、あとはどうなるか。私は痛快さと若干の不安を感じながら洗面所へ駆けていった。勿論、大時計の下には常の主の姿はなかった。

いつものへばり顔の召集の駆足も、その朝はチットモ苦痛がなかった。スキー場を何回上下したかも数えなかったし落伍もしなかった。駆足後のお達しも何を言われたか憶えていない。物の見事に成功した快挙に一人で酔っていたのである。

朝食の時どうやら9分隊の一号の話題は黒木生徒の毛布事件の犯人は誰かという詮議らしかった。当然、黒木さんは同分隊の一号の悪戯と思って追求しているようである。

他の一号は自分ではないが、誰か他の一号に違いないといった話題らしかった。私はそ知らぬ顔をしてパンを噛っていた。間もなく黒木生徒はじめ一号生徒は勇躍卒業していった。直ぐ太平洋戦争が勃発した。一号生徒はそのまま戦争へ突入していったのである。そして衆知の如く黒木少佐は徳山沖で殉職された。

読者は我々53期ばかりではあるまい。その方達の為に若干の説明も必要であろう。

黒木さんとは勿論、故黒木博司少佐のことである。いやしくも海軍に籍をおいた事のある人で黒木少佐の名を知らない人がいたらそれはモグリである。回天を発案し、海軍大臣に直訴し、遂に実行に移し、そしてそれに殉じた人である。私は何も今、回天に限らず飛行機に於いても、特攻作戦について論ずる気持はない。又黒木さんの人柄、とった行動、或いはその思想について語ろうとするものではない。それについては戦後、幾多の人が毀誉(きよ)褒貶(ほうへん) こもごも語ったであろうが今はそれも論外である。

私のクラスからも回天で散華したクラスメートは5人もおり、私自身も回天搭載の潜水艦乗りであり、語れば随分と色んなこともある。それも論外としよう。然し、論外、論外といっては何故私が黒木生徒に対して突拍子もない奇行をしたか理由が薄い。厳しい張切りボーイの一号だったからというだけなら未だ他にもいた。その為には黒木さんの一面を語らねばなるまい。

黒木さんを吉田松陰とダブらせてみたり、佐久間艇長ともダブらせてみたりする人は案外多いのではなかろうか。私は生徒時代、同分隊であったので特にその感が強い。

卒業前、黒木生徒は短剣に眞刀を仕込んだ。とかく規格づく目の生徒生活に許されることではなかったかもしれないが、太平洋戦争勃発寸前でもあり、卒業間近でもあり、リンゴの皮むきにしかならないメッキの短剣を少々刀巾が大きくサイズ外であっても腹も切れる、喉も突ける眞剣の眞剣さに学校も大日に見たのであろう。

我々はメッキの匁でも眞剣を仕込んだ人よりも軍人としての魂は持っているぞ、(てら)のないのがネーーだと思うのだが、黒木生徒は国を想れぬ夜は、止むに止まれぬ大和魂とばかりに就渡前チェストの中の仕込みの短剣を引抜いて辺の月光にかざすのであった。

黒木さんはそういう眞情と茶目気が同居しているようなところがあった。峻巌極まる眞面目さと稚気満々たる茶目気を温習室や寝室で垣間見ることがあった。前にも一寸触れたが51期の中でも特に黒木生徒は我々三号を震い上らせた一号であった。褒貶、愛憎、色々あろうが51期一号の中では鬼気・狂気とは言い過ぎだが、若干そのような雰囲気を漂わせている人もあった。

勿論それは直接鍛えられた我々三号の学校時代だけの話である。

同じ艦に乗り、同じ航空隊で生死を共にした卒業後は勿論のこと、戦後は一切そのような感情は雲散霧消している。この感情は我々以外の人々には理解し難いことであろう。

私も回天搭載の潜水艦に乗っていたので周防灘で訓練もし、大津島にも寄ったが、時期がずれていたので黒木さんにお会い出来なかった。私が潜水艦に乗る前、呉の桟橋で一度だけ一寸お会いした事があったが殆ど話をする暇がなかった。黒木さんを語れば延々、何時間かけても語り尽くせないであろう。一杯である。

戦後、復員輸送をしている時、49期のある機関長とお話をしているうち黒木さんの遺されたノートの写しを見せていただいた。勿論その機関長は、黒木は偉い、偉いというだけでなく2期後輩の黒木さんを非常に尊敬していた。その機関長は多少国粋がかっているようには見えたがそれを割引いても黒木さんに惚れ込んでいた。

そのノートの中に正学、正心という語があった。単純な言葉である。単純ではあるが、戦後あの混沌とした時代には物凄く重みのある言葉に思えた。どう学びどういう心を持つのが正しいかという規準のないような時代だったからである。吉田茂が曲学阿世と叱鳴りつけていたような時代でもあった。大袈裟な表現だが、私は黒木さんのノートを見てからずっと今日に至るまでこの言葉を常に頭においてきた。大学に行き直してからも、社会人になってからも、そして今の進捗の時代でも私の頭からこの言葉が消えることはない。

彿教の中に八正道というのがある。八正道に正学、正心という言葉はない。似た言葉はある。然し心は同じと思われる。黒木生徒は若いにも拘らず国文、漢文にも秀でた人であった。勿論、峻烈をきわめた修行の人でもあった。

ノートの言葉は八正道そのものから出たものかその連想による発想か或いは他の文献からか、私には推測できない。私は私なりに正学、正心を汲みとり実践せねばと思い規範としてきた。

以上、50年振りの打明け話。厳しい規律の中で、三号が一号を縫い込んでしまうような奇行は何であったのだろうか?

小さな潜水艦が大きな空母を轟沈する痛快さのためか。或いは梟雄明智光秀が織田信長を屠る反逆心からだったのか。ホンのチョッピリそんな気持もあったかも知れない。然し本当は最も巌しかった兄貴への最大の甘えであり慕情であったと思う。

黒木一号生徒も「何んだ、貴様だったのか」とかか大笑するであろう。

(機関記念誌230頁)

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