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平成22年4月18日 校正すみ

潜水艦戦に散った期友に捧ぐ

山田 穣

潜水艦関係慰霊祭

東郷神社の境内に、潜水艦殉国碑がある。その碑前で、潜水艦関係慰霊大祭が行なわれた。それは、昭和5510月5日、よく晴れた初秋の暑い日であった。

慰霊祭の始まる4時間も前である。まだ人影は少ない。その殉国碑の前に、額ずく一人のお年寄りがおられた。約10分位、じいと前の殉国碑を眺め、時に頭を垂れる。左の写真が、それである。(掲載略)

私は感動した。ジーンと目頭が熱くなった。

写真機を持たない私は、受付けまで飛んで行った。急ぎ名和先輩のカメラを借りて現場に飛んで返った。

もう、あのお年寄りは、あの格好ではいないかもしれない、と案じていた私の眼に、まだ、お年寄りの額ずく姿があった。

パチリ。急いでとったのが、上の写真である。

潜水艦で戦死したわが子を想うお年寄りの姿。神前に額ずくこのお年寄りは、後日、筆者にお便りをくれた。ご了解は頂かないが、その一部を転載させてもらう。

「靖国神社、殉国碑と、二人の孫に付き添われ参拝する機会を得ました。殉国碑の参拝は初めてでございます。永い間のこと、我が子に詫びの涙でお詫びをするのみでございました。」と。

このオバーチャマこそ、誰あろう、

斎藤徳道君の母堂である。

オバーチャマは、次男の豊さん(徳道君の弟)の長女と長男を杖にして、宮城県桃生郡の奥から東京に出て来た。82歳である。

さて、10月4日は靖国神社で、そして5日は東郷神社境内の潜水艦殉国碑前で、高松宮の台臨を頂き、全国規模の慰霊祭が行なわれた。

毎年、東京を中心としての慰霊祭が行なわれているが、全国規模のこのような大規模な慰霊祭は、これが最後となるであろう。

 雅商、烏巣健之助、森迫勝美、坂本金美、筑土龍男、時 忠俊、北畑  等々の先輩によって大西少将を委員長として、日本海軍潜水艦史の完成と共に、この大祭の企画実行が行なわれた。

お年寄りを全国から集めて、雨でも降ったらどうするのだと、我々は少なからず、最初は反対した。

然し、その両日は全くの日本晴。

ああよかった〃・・と思ったのは、我々テコ役、枯木族とて全く同じ思いであった。

私はこの慰霊祭で多くを語る必要がない。この一枚の写真が、下手な私の餞舌を全く不用としていると思うからである。

集まった遺族360名、生存者440名、合計700名である。

さて、もう一枚の写真は、当日来賓として出席した矢田海幕長を囲んでのものである。

特に、斎藤は、後掲の紹介のように、矢田と交替に出撃し戦死した丈に、斎藤ナミさんの心境や如何〃‥そして、今日、帝国海軍を引き継ぐ海上自衛隊のトップに栄進した矢田兄の感慨や如何に。

クラスの遺族出席者は、賀川慶近母きん、斎藤徳道母ナミ、武田晴郎母富士江、土井仁母ハマ、羽原寛母ひさ、溝上正人弟瑞男以上6名。コレス寺岡のご遺族寺岡閣下ご夫妻のお姿も痛々しく目に残った。(敬称略)

生存者は、木村貞春、桑原義二 小灘利春、後藤 脩、後藤俊夫、国生 健、渋谷信也、鈴木 脩、三笠清治、田中宏謨、名村英俊、山田  以上12名。

 

潜水艦で散ったわがクラスメート

この慰霊祭は、日本海軍潜水艦史の完成を記念してのものである事は先に言った。

その潜水艦史は、その殆んどが、烏巣、坂本の両先輩を中心としての大労作であるが、それを種本として、ここに、潜水艦で散った我クラスメートの最後の模様をご紹介しょう。

紙面の都合で、回天作戦、甲標的等の特殊潜水艦関係等は省略する。それは、それらの関係で詳しく紹介されているからである。

それにしても、この記録の纏めは多少の時間を要したが、こうした事の出来るのも、潜水艦史があるからである。そして、更に、坂本金美氏(兵61期)の労作になる「潜水艦関係者名簿」が同時に完成され、その名簿が、この慰霊祭の招集案内約8,000通の基になった事も紹介しなければならない。

最後に、当日ご出席されたご遺族も、ご出席出来なかったご遺族もどうかお身体にご留意され、ご長寿を重ねられることを。

また、この巻末の記録が、われら親愛なる72期潜水艦乗りの栄光のエゼターフとして、生き残る我々の心の中に刻まれる事を。ただ、往時茫々では、亡き人々に相済まぬことではある。(11月3日)

 

<潜水艦エビターフ>(墓銘)

    

昭和19815日第11期普通科学生卒(以下期別のみ記す。)、同日イ364潜乗組、9月14日横須賀発ウェーキ島へ輸送作戦に出撃、消息を絶つ。米国資料により、房総半島東250浬を水上航行中、米潜ジーデェピットの雷撃により撃沈されたことが判明。72期潜水艦乗りとして最初の戦死者となる。

時に、9月15日。

3431分N  14523分E

 

   

11期学生卒、同日イ54潜乗組、1015日呉発南西諸島方面に出撃、捷一号作戦の発動により比島東方海面へ配備替を指令され、その儘消息を絶つ。米国資料により、米駆グリッドレー、ヘルムによりスルアン島東70浬にてソナー探知され、爆雷攻撃7回をうけ撃沈されたことが判明。

1028

1058分N  12713分E

 

   

11期学生卒、同日イ12潜乗組、10月4日呉発米本土西海岸通商破壊作戦に出撃、1030日米船ジョンソン(7,176噸)を雷撃撃沈の架電後消息を絶つ。米国資料によれば、米沿岸警備船ロックホード、米駆アーデントにより発見され撃沈されたことが判明。

11月3日。

 

   

11期学生卒、同日イ38潜乗組、1019日呉発比島東方海面へ出撃、1024日レイテ哨区へ配備替、117日クツルー島偵察を命ぜられ途中敵情報告後消息を絶つ。米国資料により、パラオ東方海面にて、米駆ニコルスによりレーダー探知され、続いてソナー探知後爆雷攻撃により撃沈されたことが判明。

1112日。

8度0分N  138度3分E

 

    

11期学生卒、同日イ41潜乗組、1019日呉発比島東方海面へ出撃、1024日レイテ哨区へ配備替、11月3日夜、米軽巡ジュノーを撃破(空母撃沈と報告)、その後消息を絶つ。米国資料により、空母アンツイオ搭載機のレーダーにより探知され、続いて米駆ローレンステーラーのソナーにより探知、爆雷攻撃7回をうけ撃沈されたことが判明

時に1118日。

1244分N  13042分E

 

   

11期学生卒、同日イ158潜乗組、11月3日矢田次夫の交替として出撃直前のイ37潜乗組、11月8日回天特別攻撃隊菊水隊の一艦としてコツソル水道へ出撃、攻撃する事なく消息を絶つ。米国資料により、パラオ島北方30浬の地点にて、米駆コンクリン、レイノルズの2隻によってソナー探知され、爆雷攻撃により撃沈されたことが判明。

時に1119日。

8度7分N  13416分E

 

   

11期学生卒、同日イ365潜乗組、111日横須賀発、1115日トラック着。小笠原東方海面へ向い、そのご消息を絶つ。米国資料により、東京湾南方で搭乗員救助中の米潜スカッバードフィッシュにより水上航行中を発見され、雷撃により撃沈されたことが判明。

1128日。

3444分N  141度1分E

 

    

11期学生卒、同日イ46潜乗組、1019日呉発比島東方海面へ出撃、レイテ東方へ急行を命ぜられ、1026日敵情報告後1027日哨区変更の命に応答なく消息を絶つ。米国に該当情報なし。

12月2日戦死認定。

 

   

11期学生卒、同日イ155潜乗組、12月1日からイ362潜乗組、昭和20年1月1日横須賀発メレオン、トラック輸送作戦に出撃し、そのまま消息を絶つ。米国資料により水上航行中を米駆フレミングのレーダーにより探知され、距離1,900ヤードで潜航するもソナー探知され爆雷攻撃をうけ、撃沈されたことが判明。

1月18日。

12度8分N  15427分E

 

   

11期学生卒、同日イ48潜乗組、昭和20年1月8日回天特別攻撃隊金剛隊の一艦としてウルシーに出撃、消息を絶つ。米国資料により、米駆コーベシアー、コングリン、ロビイの3隻によりウルシー沖にて 0310レーダー探知され爆雷攻撃、 0902ソナー再探知爆雷攻撃、0930、撃沈されたことが判明。

時に1月23日。

9度43分N  13820分E

 

    

11期学生卒、9月4日イ370潜乗組

昭和20年2月21日回天特別攻撃隊千早隊の一艦として内海発硫黄島に出撃、消息を絶つ。米国資料により、米駆フィネガンにより硫黄島海域でレーダー探知され、続いてソナー探知、爆雷攻撃8回を受け撃沈されたことが判明。

2月26日。

2243分N  14127分E。

 

   

昭和20年2月1日第12期普通科学生卒(以下期別のみ記す。)、

同日呂43潜乗組、2月16日呉発南西諸島方面へ出撃、2月17日硫黄島方面へ哨区変更命令をうけ、2月21日米駆レンショーを雷撃により撃沈し、その後消息を絶つ。米国資料により、空母アンチオ搭載機の爆撃により撃沈されたことが判明。

2月27日。

2436分N  14148分E

 

   

11期学生卒、8月25日イ368潜乗組、昭和20年2月20日回天特別攻撃隊千早隊の一艦として内海発硫黄島へ出撃、消息を絶つ。米国資料により、硫黄島西方海面にて、空母アンチオ搭載機の爆撃にて撃沈されたことが判明。

2月27日。

2529分N  12835

(注 白木乗組の呂43潜と同日に、同じアンチオ搭載機により撃沈されているが、僅かであるが位置に相違があることが確認されている。)

 

   

11期学生卒、10月2日イ371潜乗組、1230日横須賀発トラック方面へ輸送作戦を実施、その後昭和20131日トラック発内地に向うも消息を絶つ。米側に該当記録なし。

3月12日付戦死認定。

 

長谷川   

12期学生卒、同日呂41潜乗組、3月8日佐伯発沖縄方面へ出撃、そのご消息を絶つ。米国資料により、米駆ハガードにレーダー探知され、続いてソナー探知の上爆雷攻撃を受け浮上、ハガードにより右舷に撃突され横倒しとなり船尾から沈没したことが判明。

時に3月23日、2348

2257分N  13219分E。

 

   

11期学生卒、同日イ8潜乗組、ペナンから横須賀帰投後整備の上、昭和20年3月20日佐伯発沖縄方面へ出撃、3月31日米駆と砲戦の上撃沈される。米国資料により、中城湾南東50浬にて米駆ストックトン、モリソンによりレーダー探知され、爆雷攻撃8回に及び米駆から900ヤードに浮上、航空機により照射され、砲戦により撃沈されたことが判明。1名生存。

3月31日、0412

2529分N  12835分E(伊8潜史参照。)

 

   

12期学生卒、同日イ122潜乗組、4月10 1145舞鶴発七尾湾へ回航中消息を絶つ。米国資料により、日本海へ進入中の米潜スケートにより雷撃され沈没されたことが判明。

4月10日。1145

3729分N  13725分E

 

   

12期学生卒、・同日呂64潜乗組、練習潜水艦として教務出航中、広島湾可部島の25610,000米にて触雷沈没。

4月12日。

 

  熊太郎

12期学生卒、同日呂49潜乗組、3月18日佐伯発南西諸島東方海面へ出撃、3月25日敵情報告後消息なし。米側にも該当記録なし。

415日付戦死認定。

 

   

12期学生卒、3月5日硫黄島より帰投した定塚 脩の交替としてイ44潜乗組、4月3日回天特別攻撃隊多々良隊の一艦として大津島発沖縄方面へ出撃、消息を絶つ。米国資料により、4月17 2230米駆ヘアーマン、マックコードの2隻によりレーダー探知され、約8時間爆雷攻撃を受け、全艦全弾投下、その後アンルマン、メルツ、コーレットの3艦により爆雷攻撃6回を受け撃沈されたことが判明。南大東島北々西60浬、被制圧時間実に11時間の長きに及んでいる。

時に4月18日。

2642分N  13038分E

 

   

12期学生卒、3月1日呂109潜乗組 

4月2日佐世保発沖縄南方へ出撃、消息を絶つ。

米国資料により、米駆A・バスの攻撃により撃沈されたことが判明。沖大東島南々165浬。

4月25日。

2158分N  12938分E

 

    寿

12期学生卒、3月1日呂46潜乗組、4月6日呉発、北大東島方面へ出撃、消息を絶つ。米国資料により、沖大東島南方にて、空母ツラギの艦載機の攻撃を受け撃沈されたことが判明。

4月29日。

2415分N  13116分E

 

   

11期学生卒、同日イ159潜乗組を経て、1210日イ361潜乗組、5月23日回天特別攻撃隊轟隊の一艦として光基地発沖縄へ出撃、消息を絶つ。米国資料により、沖縄東方海面にて空母アンツォ艦載機の爆撃により撃沈されたことが判明。

5月30日。

2022分N  134度9分E

 

   

12期学生卒、同日イ165潜乗組、6月15日回天特別攻撃隊轟隊の一艦として光基地発マリアナ諸島東方海面へ出撃、消息を絶つ。米国資料により、サイパン東方海面にて、基地哨戒機の攻撃を受け撃沈されたことが判明。

6月27日。

1520分N  15339分E

 

    

11期学生卒、同日イ165潜乗組、スラバヤより佐世保へ帰投後、昭和20年1月28日からイ351潜乗組、5月1日呉発シンガポール着、航空油積載して佐世保帰着、6月22日佐世保発シンガポールへ、7月11日航空油及び便乗者42名を乗せシンガポール発内地に向うもその後消息を絶つ。米国資料により、ボルネオ沖にて、米潜ブルーフィッシュにより水上航行中を発見され魚雷2本を受け撃沈されたこと判明。生存者3名。

7月14日。

4度30分N  110度0分E

 

   

12期学生卒、4月13日イ373潜乗組、8月9日佐世保発台湾へ輸送作戦、その後消息を絶つ。米国資料により、東支那海にて、米潜スパイクフィッシュによりレーダー探知され、雷撃6本をうけ2本命中沈没したことが判明。

8月13日。

29度2分N  12353分E

 

     

11期学生卒、同日イ363潜乗組、10月以降数回輸送作戦に従事、昭和20年5月28日回天特別攻撃隊轟隊の一艦として光基地発沖縄へ出撃、雷撃により輸送船撃沈を報ずるも回天使用の機会なく6月28日内海帰着した。8月8日回天特別攻撃隊多聞隊の一艦とし内海発パラオ方面へ出撃するも、ソ聯参戦により帰国を命ぜられ8月下旬呉着。戦後呉から佐世保に回航中宮崎沖10浬にて触雷沈没した。

1029 1300

(なにわ会ニュース44号14頁 昭和56年3月掲載)

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