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平成22年4月22日 校正すみ

巡洋艦「能代」と駆逐艦「宵月」 のこと

斎藤 義衛

巡洋艦 能代 駆逐艦 宵月

我々111名は水上艦艇(そのうちより潜水艦そして回天へ)、パイロット、航空整備、兵器整備と別れ別れとなり、それぞれの戦闘で57名という戦死者を出したのであるが、水上艦艇組でも「あ号作戦」「捷一号作戦」を中心にして多くの期友を失った。

水上艦艇で最後まで戦ったのは31名、そして18名が散華した。一覧にすると次ぎの通り。


終戦時生存者(☆ は戦後死)

阿部   北上・酒匂・15突
飯盛秀雄  千歳・葛城・12陸輸
上野三郎  瑞鶴・山城・春月・大淀・19突
上原一郎  利根・花月・横機校・奈良空
宇都宮安男 妙高・10方面艦隊・イ501
小田 博之 大井・土浦突・横突
古前英雄  愛宕・高雄・凉月
斎藤義衛  能代・宵月・大浦突
詫間一郎  鬼怒・長門・18突
野崎貞雄  榛名・17突
村上義長  木曾・日向・横突
村山   武蔵・宵月・工機校・大楠機校・小豆島突
吉本信夫  長門・天城・2特・10特・101突


戦没者

★井ノ山威太郎 熊野

★伊藤利治   鳥海

★石井勝信   球磨

★石間正次郎  瑞鶴

★大垣浩一郎  雲竜

★蕪木正信   多摩・伊勢・横突

★佐野    瑞鶴

★坂梨    足柄

★重森光明   愛宕

★勝賀野純義  長良

★高脇圭三   大和

★佃 次郎   信濃

★土屋賢一   羽黒

★服部健三   筑摩

★藤井弘元   那智

★三田    翔鶴

★森下正美   金剛

★吉岡慶治   鈴谷

比島沖海戦により多くの主要艦艇を失った後、生存の13名は建造中の月型駆逐艦に配属されたり、蛟竜・海竜関係の陸上勤務で終戦を迎えた。

私は終始水上艦艇で戦ったが、何時になっても忘れ得ぬのは「能代」と「宵月」での艦隊勤務である。そして戦後50年にしてこの2艦を描いてみた。

「能代」は海軍最後の建造軽巡で、阿賀野型2番艦として建造され、昭和18年6月竣工、直ちに第2艦隊第2水雷戦隊旗艦として南方海域へ。小生が着任したのはトラックにてクェゼリン作戦より帰投したばかりの殺気充満の能代であった。その後能代はカビエン揚陸作戦、渾作戦、あ号作戦、捷一号作戦と転戦し比島沖海戦の翌26日ミンドロ島南方にて沈没した。阿賀野型軽巡は阿賀野・能代・矢矧・酒匂の4艦であるが、我がクラスでは阿部達君が酒旬に乗り組んでいた。そして酒旬は戦後復員輸送に従事した後、長門と共にビキニ環礁での原爆実験に供された。

阿賀野  19年2月 トラック北方にて敵潜の雷撃により沈没。

矢矧   20年4月 大和と共に沖縄特攻沈没。

「宵月」

宵月は秋月型駆逐艦として昭和20年1月に浦賀船渠にて竣工した。昭和17年に竣工した秋月に続く10番目の世界に誇る防空駆逐艦であった。我がクラスで月型駆逐艦に乗り組んだのは小生の他は古前 (涼月) 上野 (春月) 上原 (花月) の4名である。

(村山君は19年の12月に武蔵沈没後、宵月艤装員に発令されたが1ケ月足らずで工機学校に転じたので含まず)

 駆逐艦は潜水艦と同様、消耗度激しく、我等4名の命運は終戦により救われたと言ってよい。昭和20年1月末宵月が竣工するまで艤装員として浦賀で陸上勤務、横須賀在住の整備の連中とフィッシュに夜な夜な精勤したものである。19年の1229日か30日だったと思うが艦長と空襲絶え間なき東海道線・山陽線を長時間かけて佐世保に停泊中の竣工間も無い春月を見学に出張。元旦の朝早く佐世保に着き、その夜は上野君等との宴会の記憶がある。宵月は戦後復員輸送に尽くした後、昭和22年中国海軍に引き渡され「汾陽」と命名された。

(機関記念誌311頁)

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